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2014年8月14日 (木)

非暴力という思想

 非暴力というものは何か。それは「ーーーでない」ということを意味するが、「ーーである」ということを表現しない。その意味でそれは不十分な言葉である。しかし、言葉は不十分であることによって豊かな内容をあらわすことができる。「非暴力」という言葉は、その事情をもっともよく示す言葉であろうと思う。それは子どもの言葉が豊かであるのと同じことである。子どもの言葉の豊かさを知るということが成熟の最低の条件である。我々の世代のなかには、かって非暴力という思想を一つの思想として認めないという考え方があった。それは成熟していないことの表現であったと思う。

 あるいはまた、それはカタカナの言葉、外国語が不十分であることによって豊かな内容をあらわすことがあるのと同じことである。外国語による概念や感覚の表現を嫌う人々、それを不十分であるという人々は、この事情を知らないのである。「アヒンサ」という言葉がある。これは非暴力というガンジーの思想をもっともよく象徴するといわれるヒンドゥー教などのインド宗教思想の言葉である。仏教でいえば「不殺生戒」である。この言葉によって我々はガンジーを想起し、インドを想起し、それによって「不」あるいは「非」という接頭辞を理解する。言語はその不十分性、何かを表現しきれていないという表示によって、さまざまな記憶と感情を含むことができる。

 非暴力というのはそのなかでももっとも重要な言葉の一つであると思う。それはすでに非暴力ということに歴史があるからである。二〇世紀の反植民地運動の中に位置づけられ、「非暴力・不服従」という言葉として歴史的な運動を表示しうる言葉となっている。「非」という接頭辞が豊かでありうるのは、そこに歴史があるからである。

 しかし、非暴力というものの積極的な内容は何か。それを探ることは現代においてもっとも重要な思想的営為の一つであると思う。思想というものを協同して深めていく上でのキーとなる問題であろうと思う。

 端的にいえば非暴力は怒りの姿である。非暴力が怒りであるというのは矛盾であるように思えるが、怒りのない非暴力という思想はありえない。「非」において認識されるのは、怒りなのである。怒りはあるが暴力ではないという認識である。それは怒りを怒りとして見つめる意識であって、怒りの内面性ということではないだろうか。

 怒りを避けるべきものであるかのようにいうのが今日の通念である。私は、この通念を、この世で実際に組織している人々がいるのではないかと疑う。怒る権利というものがあるとしたら、彼らは、それを人々の目にふれないところにおこうとしているのではないか。人々の目にふれるべきでないのは、怒りではなく憎しみである。怒りと憎しみは本質的に異なっている。憎しみは個的なものであるが、怒りはより深いものである。我々は「思想・信条の自由」をもつといわれるが、怒りは思想に属するとともに固有に信条に属する。


 三木清の「怒りについて」の断章は怒りについて語って余すことがない。三木は怒りの超越性をいい、瞑想性を語ってやまない。神の怒りを語り、「切に義人を思う。義人とは何か、――怒ることを知れるものである」と語った三木が牢獄で身体を掻きむしりながら死んだことを思うと、気持ちが暗くなる。怒りには時があったのであろうと思う。

 夜、目が覚めて考えていて、しかし、結局のところ、怒りとは何か。非暴力ということの内容をなす怒りとは何なのか。現代において、それは「神の怒り」ではありえな。それは人類史そのもののなかからでてくるものでなくてはならない。それは歴史の怒りとでもいうべきものであるほかないのだと思う。
 歴史学が豊かになったのは疑いをいれない。しかし、歴史学というものは何を伝える学問であるのか。歴史学は自己の豊かさに自足しているわけにはいかない。歴史学というものは歴史の怒りを伝える学問であるはずであったのではないか。

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