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2014年8月 4日 (月)

『中世の国土高権と天皇・武家』という本をだすことになり、

『中世の国土高権と天皇・武家』という本をだすことになり、はじめにとおわりにを書いた。
以下ははじめにである。
今日、編集者の人に会うのだが、何といわれるか、楽しみである。


はじめにーー本書の書名について

 本書は、平安時代と鎌倉時代最初期の天皇・院と武家が、この列島の支配の根源においていた国家的権能、国土高権がどのようなものであったかを論じたものである。土地制度、山野河海領有、「地本・下地」などの土地範疇論から法史論、さらには政治史にいたるまで対象はさまざまであるが、すべて「国土高権」ということをテーマとしている。

 前提にあるのは網野善彦・戸田芳実などの学説であるが、ともかく、国土高権の対象として、未開であったり、村落の間での争いがあったりする境界領域が重大な位置をもっており、その検討は当時の社会の歴史を考える上で必須の手続きである。平安時代の王朝国家にせよ、鎌倉時代の武臣国家にせよ、それが国家である以上、このような意味での国土を領有する権能は本質的な位置をもっていたのである。その帰趨が国家史・政治史を大きく左右したことはいうまでもない。

 本書の基本は、ここ二〇年ほどの間に書きためた論文であるが、第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」、第五章「義経・頼朝問題と国土高権」は、そのような視野から、源頼朝の「日本国惣地頭」としての国制身分の理解に関わって新たに執筆したものである。

 これらはいわゆる通説とは大きく異なるもので、その成否は読者にお読みいただき評価していただくほかない問題であるが、さらに『中世の国土高権と天皇・武家』という本書の題名も常識とは違う理解にもとづいており、これについては冒頭で説明することが必要であろうと思う。

 つまり、普通、「中世」といえば「鎌倉時代=武士の時代」の開始以降を意味する。しかし、私は井上章一『日本に古代はあったのか』(角川選書、二〇〇八年)と同様、「日本には古代はなかった」と考えており、逆にいうと、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するというほかないと考えている。そもそも日本は東西軸でいえばユーラシアの東端に位置し、また南北軸でいえばインドネシアからフィリピネシア、ジャパネシアとつらなる太平洋西縁の群島世界に属する列島である。この国の歴史がそこから離れて時代区分できるというのは幻想に過ぎない。

 そして、現在の段階で、こういう観点から日本史の時代区分を考えるとすれば、依拠すべき先行学説としては、内藤湖南、そしてそれを引き継いだ宮崎市定・谷川道雄などの世界史の時代区分を前提とするほかないということになる。たとえば、宮崎市定によれば、中世とは、世界史的には、ほぼ紀元二・三世紀から一二・一三世紀までの約一〇〇〇年の期間をいう。宮崎は、中世の開始をほぼ二〇〇〇年ほど続いた古代の都市帝国文明が、ユーラシア規模におけるフン族、そしてゲルマン民族の大移動の中で大きく動揺し、東の漢帝国、西のローマ帝国がほぼ時を同じくして崩壊にむかう時代に求める。この時代は、ユーラシア大陸の中央部に広がったヘレニズム文明の中で、いわゆる中近東地域が世界の富と文明の中心としての地位を確保し、たとえば乗馬や製紙の技術のような基本的な技術が国際的な連関をもって発展した時代であり、また仏教・キリスト教そしてイスラム教などの世界宗教という形をとって世界的な文明連鎖が成立した時代である。

 これを適用すれば、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するといってよいことになる。邪馬台国が「中世」であるといえば大学入試では失格であろうが、邪馬台国から古代が始まり、列島の歴史は世界史とは関係なく、「古代―中世―近世―近代」と進むなどという感じ方こそ歴史知識としてまったく無意味である。

 平安時代から鎌倉最初期までを対象とした本書を『中世の国土高権と天皇・武家』としたのは、こういう事情による。しかし、問題は、そうだとすると、本書の題名は、より正確には『日本中世後期の国土高権と天皇・武家』とすべきことになる。平安時代約四〇〇年は宮崎のいう世界史上の「中世」の時代の後半にあたるからである。しかし、中世後期というと世間でも、また日本の歴史学界でもだいたい室町時代のことをいうのが一般である。平安時代を中世というだけでも誤解を呼び、理解をえられないであろう現状の中で、そのような題名を選ぶのはいたずらに混乱を呼ぶと考えた。

 それに対して平安時代を「中世」と呼ぶことには、それなりの理由があるのである。つまり第二次世界大戦後の「中世史」の研究者の中には、平安時代を鎌倉期以降の歴史と連続的にとらえようという強力な潮流が存在した。そして平安時代の社会経済史は、石母田正の提起を受け、稲垣泰彦、永原慶二、黒田俊雄、戸田芳実、河音能平、大山喬平など、本来、「中世史」の分野を専攻とし、社会構造論的な方法を主軸とする研究者によって推進されてきたのである。その中で研究をしてきた私にとっては平安時代史は「中世」なのである。

 ただ問題は、そうだとすると鎌倉時代は基本的には「近世」になるということで、さすがの私も、それを明言するのには勇気がいったが、それでよいと考えるにいたった。そこで、最近、『岩波講座 日本歴史』の月報で、クリフォード・ギアーツを参考に「インヴォリューション=近世化」という考え方をとって、一二・三世紀以降は日本も「近世」化に突入したと論じたのである。一一八〇年代以降、いわゆる時代区分論についての議論が退潮していくなかで、こういう問題はどうでもいいというのが歴史学界の傾向になりつつあるのも実情であるが、ともかく、私は、逆に最近、「平安時代=中世」という確信をふかめている。

 以上が本書の書名についての説明であるが、なお、念のために申し上げておけば、「古代―中世―近世―近代」などという時代区分は所詮、一種の符丁にすぎない。こういうことをいうとすべてをひっくり返すようであるが、実際に、世界と日本の歴史が関連・融合したものとして、どのような段階とフェーズを歩んだかは、より具体的な歴史理論を再構築して考えるほかない問題であることは明らかである。その意味では本書の題名は経過的なものにすぎないことを御断りしておきたい。内容までも経過的なものであるということはこまるが、ともかく、以上のような御説明は冒頭にしておくことが必要であろうと考えた。

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