「在地領主」という言葉はそろそろ使用しない方がよい。
在地領主という言葉は石母田さんが『中世的世界の形成』で全面的に使い出した言葉であるが、『中世的世界の形成』をよく読めばわかるように、石母田は「在地領主」という用語に何らかの意味で「古代的・過渡的な」様相を含意させている。
石母田の実遠論で特徴的なのは、清廉――実遠の関係をはじめて論証し、多面的な実証をしたにもかかわらず、石母田が実遠のなかに「古代豪族」の様子を読みとろうとしたことである。もちろん実遠に「族長」を読みとろうとした訳ではないが、その側面が残ったとはしている。実遠を少しさかのぼれば「族長的土地所有」を発見できるというのが、石母田の生涯の考え方であって、ここに石母田首長制論の発生根拠がある。
私はその事情をもっともよく知っていた「古代史研究者」は青木和夫氏であったと思う。青木の『古代豪族』は、石母田の首長制論と実遠論を統合したイメージを描いている。青木氏は石母田さんに私淑していたが、私は石母田さんにもっとも近い研究者であると思う。青木さんの『石母田正著作集』への解説は感動的である。
石母田が正しかったのは、9世紀から11世紀までのを私営田領主とくくったことで、これは正しかった。大局的なところでは、石母田はしばしば正しい。しかし、石母田は私営田領主に「古代的様相」を認めた。これは間違いであったと思う。
戸田芳実は実遠について石母田の実証に学んで、実遠に「都市貴族的な領主」という相貌を認めた。戸田の理解は都市貴族的な領主が「当国の猛者」として領主制の根拠を固めるのに失敗した。後を継ぐべき「猛者」的な男児がいなかったという単純なものである。私は、『中世的世界の形成』を読んで、その後に戸田の理解を読んだ時には納得できなかったが、徐々にそういうものだと戸田に賛成するようになった。
石母田の実証が、あの段階で群を抜いたものであったことはいうまでもなく、戸田は、それに依拠して、その先をザッハリッヒに考える条件があった。そして実遠のイメージはどうみても戸田の理解が正しいのである。
ただ問題は、戸田は領主制の段階論を明瞭にしなかったことである。石母田批判を最後までは完遂しなかった。
以上、端的にいえば、在地領主という言葉は領主制の変化と段階規定が不明な段階で使用された用語であり、石母田の規定にもさまざまな問題があるということである。それ故に、学術用語として、この言葉を使用するのはやめようということである。私は私営田領主段階を留住領主制、院政期以降を地頭領主制という提案をしている。
もちろん、現在の段階でも地域の領主という意味で在地領主という用語を使うことはかまわない。便利な言葉ではある。しかし、現在の段階で、石母田の仕事を受け止め、考え直そうとすれば、そう簡単に使って良い言葉であるとは思えない。
今日は終戦記念日である。
終戦記念日というか、敗戦記念日というかには、議論がある。事実は敗戦なのだから「敗戦記念日」を使うべきであるという意見も多い。それも一理はある。敗戦した人々に対して、つまり戦争に責任のある人々に対して語る時は、敗戦記念日でよいのであろうし、「終戦」という言葉に事柄を曖昧にするニュアンスをみるのはもっともである。
しかし、私は、石母田のように「解放」「終戦」という気持ちで迎えた人々がいるというのを忘れないようにするには、やはり「終戦」でよいのであろうと思う。宮本百合子の『播州平野』の世界である。
ともかくも、「在地領主」という言葉をどうするかというのは、いわば、歴史学にとっての「終戦処理」「敗戦処理」の一部であるのはいうまでもない。石母田に向き合うことである。
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