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2014年9月22日 (月)

101地震火山、歴史地震研究会

 9月20日、21日。名古屋で歴史地震研究会があった。歴史学研究会のホームページにのっている北原糸子さんの災害史研究と歴史地震学会についての『歴史学研究』掲載の文章に、歴史地震研究会の会員のなかに歴史学者が少なすぎるとあるのを読んで会に参加した。今回は名古屋大会で、はじめて出席し、報告をした。
 いま帰りの新幹線。歴史の学会とはあまりに違う雰囲気なので驚いたが、二日目からは面白さに徐々になれてきた。なにが面白かったかというと、個々の内容は当然として、全体はおそらく地理的な認識ということなのかも知れないと思う。
 私は仕事が特定の寺院文書の編纂であったこともあって、土地勘がない歴史家なので、「中部の地震と津波」「東北の地震・津波・噴火」「東北日本海の地震と津波」「関西の地震」「関東の地震と津波」「南海トラフ」「西日本の地震と津波」と、全国各地の地理と歴史史料、そして地殻図・断層図をみせられて、ついていくのがたいへんだった。しかし、徐々に慣れてくる。地震学プロパーの報告も多く、数式と図表はわからないが、何を明らかにしようとしているのかは何となくわかる。新しいことを次から次へと聞かされるというのはいいことなのかもしれない。
 歴史学は時間移動であるが、こういうのは空間移動である。二つはまったく違うことであるが、しかし、主観的には、時間と空間をアプリオリとして受けとる仕方は相似している。主観作用のなかでは時間移動と空間移動は類似した感情をもたらす。客体的にも「異文化」間移動という点では似てくる側面があると思う。こういう認識=感覚過程を自然科学的な話を筋のようにしながら聞いているのが気持ちがよいのだと思う。
 いろいろ驚いたことがあり、研究上も役に立った。地震の記述にかかわる地動の方向だとか、揺れ方だとかについての史料記述を解釈する上で面白かったのは、第二次世界戦争末期と戦争直後の地震についての記憶の分析であった。デイサービスの場をたづねて老人の記憶を聞き取り、それを大量に集計して分析したという。『驚きの介護民俗学』の世界である。人間は地震計なので、その記憶は役に立つということであった。
 地域ごとで地震を感じる仕方が違う。徐々にくるか、急にどかんとくるか、揺れの様子、長さなどなど。これによって、データの少ない1944、1946年の南海トラフ巨大地震の震度や揺れの特性分析が可能であるという報告である。私にはとくに『平成19年度東南海地震の体験から(静岡県中遠振興センター』という報告書に「へびがのたるような音がした」という記述があるのに驚いた。これは地震神=龍というシェーマにぴったり適合する。これはずっと昔からかわらないのではないかと思った。
 もう一つメモに残しておきたいのは、3,11のときの幕張の液状化についての分析であった。高校の校庭に直線的な裂け目が入ったが、その地下を確認すると埋め立てにさいしての杭列を確認したというのである、杭列の陸側・海側で埋め立てに使用した土砂が違い、陸側は砂、海側は細かな泥(シルト)であった。陸側は「海面下土地」と呼ばれる所有権のある「浅海」であって、それと海側の埋め立ての方式が埋め立ての工事方式に反映した。そして、この相違線にそって校庭地面がさけ噴砂が噴出したというのである。
 報告者のご意見では、「自然に対する人工改変が災害の本質である」ということであり、埋め立て記録のような公文書を確実に残して地盤管理の参考にしなければならないということであったが、これは歴史学としても考えるべきことであると感じた。

 そろそろ東京である。

 土曜日の夜はホテルで偶然に大災害についてのNHKの番組をみる。プレートに大きな海山が沈み込んでおり、その破壊が東日本大震災の震源起点となったという画像がでる。これは説得的なものだった。アスペリティといわれるものの物理実態が、海山なのであるということになる。アスペリティといわれたものは多様な実態をもち、動くということのようである。南海トラフの同じ構造は沈み込みの圧力は一定であるから、周期性を前提にした上で、この動きを屈曲して沈み込むプレートの裂け方の多様性とあわせて追跡観察でき、プレートの沈み込みがつっかえる構造がわかれば、応力破壊が一定の誤差によって予測できることになるのであろうか。プレート間地震については一定の想定、予知が可能になるということだろうか。「予知」と「予測」についての議論を思い出す。
 もう一点の感想メモ。私もいったし、いろいろな報告でも強調されたが、自然への謙虚さということである。忌みと恐れという心情である。それはそうなのだが、よく考えてみると、自然に対する「責任」ということがあるのかもしれない。わが家の猫の死を見守った経験を思い出す。親しんだ生物の死に顔は人間の死に顔とおなじである。そういう意味での自然への責任ということ、自然への主体性ということは人間の驕りではないと思う。

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