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2014年9月

2014年9月28日 (日)

地震火山、111御岳の噴火と天孫降臨神話と

 木曽御岳の火砕流の画像をみた。
 先週の金曜日に世田谷市民大学で火山噴火の話をしたのちなので、驚く。

 高千穂への天孫降臨神話に「うきじまりそりたたして」という言葉がでてくる。
 これは難解をもって知られるが、噴煙や火砕流の動きを表現するものだと講演で話した。
 つまり、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」という意味であって、これは火砕流の動きを描写した呪文であるというのが、私見。

 御岳の噴煙と火砕流はまさにそういう感じである。

 これはすでに『物語の中世』の学術文庫版のあとがきで書いているが、若干の説明をすると、全文は、「天の浮橋にうきじまりそりたたして」というもの。天の浮橋とは、「大きな岩石を天への梯(橋)とする観想」「岩石から思いついた(中略)天界と地界をつなぐ一種の梯」「聳え立って空裡にかかる岩石などからの示唆であるとすべき」というのが神話学の松村武雄氏の古典的な見解(『日本神話の研究』)である。
 松村武雄さんの意見は、天孫降臨神話には火山噴火神話の反映があるという私説に唯一適合的なものである。
 
 暗黒の噴煙と稲妻が山巓に接触し、そこから長大な岩梯子が天界に登り、また山腹にまで降りてくるという幻想。天の浮橋とは火砕流、溶岩流であり、それが山巓から噴煙につながっている様子というイメージとなる。

 天孫降臨」は火山神話の表現と考えるので、その詞章にでる「八重たな雲」とは、巨大な噴煙による暗黒を表現したもの。棚雲とは一面に広がっていく雲で、たとえば「時に、天暗冥く、夜昼別かず」(『日向国風土記』高千穂神話)などとあり、八六四年の富士の大噴火でも「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」(『三代実録』貞観六年七月十七日条)となる。火山灰の黒雲によって地上はまっくらになるというのは、昨日の噴火を経験した人たちがこもごもかたっていることである。

 なお、天孫降臨神話のもう一つの難解な詞章、「いつのちわきちわきて」(「稜威之道別道別而」)は、火山雷の表現である。「いつ」は「厳」の「いつ」。「ち」は漢字の表記通り「道」、「わき」は「分き」。
「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということになる。これは稲妻の放電が枝分かれしながら落ちてくる様子を描写したもの。火山雷のイナズマの描写。

 下記に『古事記』の関係部分を引用しておく。

 しかして天津日子番能邇邇藝命に詔りて、天の石位を離ち、天の八重のたな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天の浮橋にうきじまりそりたたして、竺紫の日向の高千穗のくじふるたけ(クジフル岳)に天降り坐しき。
(『古事記』天孫降臨条)


 9世紀とくらべて火山噴火が少ないのが、現在の大地動乱の時期にとってはすくいであるが、今後どうなるのか。市民大学では、小学生のころから火山噴火の史料を教授し、漢文を読む訓練をしなければならないと思うと話したのだが。

 被害にあわれた方はたいへんであろうと思う。さらに拡大しないように。

 火山をもつ自治体にとってはショックな話であるが、研究組織を立ち上げ、安全な麓の地学現象を観察する十分な条件と機会を保証することが必要なのだろうと思う。しかし、そのためには、社会全体が火山を大事にしなければならない。まずは教育のなかで隅に追いやられている地学教育を復権することである。そして歴史火山学のような学問も十分に考えていかなければならないと思う。
 

2014年9月23日 (火)

110 歴史地震研究会報告予稿ジャパネシアの神話と地震・噴火

ジャパネシアの神話と地震・噴火
保立道久

§1. はじめに
日本の神話のなかに地震・火山神話があることについては,はやく小川琢治『支那歴史地理研究』や寺田寅彦「神話と地球物理学」などで指摘されていたが,歴史学・神話学の側ではほとんど論及されることがなかった.この問題は地震の理学研究に直接に資することは少ないが,列島の地殻を人々がどう認知していたかという一般論のレヴェルでは重要な作業であると考える.またギリシャ神話のポセイドンが海神であるとともに地震神であることはスサノヲと同じであるなど,神話学にとってはきわめて重要な問題である.

私は,このような観点で『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書),『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で地震火山神話の概略について述べてきた.とくにスサノヲが京都祇園社にいるという観念が長く続いたことは,祇園会の位置もふくめ日本の歴史文化にとって重要な問題であると考えている.

§2. 1096年東海地震から1099年南海地震
今回は,そのような見方が,地震史料の読みを豊かにする上で意味があることを,上記の南海トラフ地震に関係する史料によって述べる.

1096年の東海地震は,数年前から地震が一定の頻度で続き,疫病の流行などもあって社会不安が蓄積するなかで発生した.比叡・春日の神人などの嗷訴が初めて行われた時期でもある.春日神木の動座には,1093年5月の奈良春日山の鳴動を神意とみた神人の動きがあった.この『扶桑略記』記載の鳴動は.,『大日本地震史料』不採だが,「山谷屡響」とあり,実地震であった可能性がある.

1095年10月には比叡山の最初の神輿動座が続いたが,それに対して,関白師通が神輿を射させ,これが翌年の祇園祭を熱狂的なものとした.『源平盛衰記』(巻四)は,怒った叡山の衆徒が近江坂本の日吉社の神体山,牛尾山山頂の八王子社の前で師通に対して「鏑矢一つ放ち給へ」と祈祷をしたところ,「御神殿より鏑箭鳴り出でゝ,王城を指して鳴行」き,関白が鏑矢の音を聞き,「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」という夢をみたという噂を伝えている.関白の命は,母の麗子の祈祷によって三年ほど猶予されたが,結局,寿命が尽き,1099年1月の南海地震の直後,2月から「風気」を発して調子を崩し,3月に発病し,6月に死去した.そして師通の死後,牛尾山山頂に立つ八王子宮と三宮の神殿の間にある盤石の下に師通の魂が籠め置かれ,雨の夜には石に押されて苦悶の声が聞こえるという物語の運びとなる.

牛尾山は標高380m,いわゆる神隠型の山であって,山頂には巨大な磐座が存在する.『古事記』は,この牛尾山には地震神オオナムチと同体の大物主神が鎮座しているとし,さらにこの神は「鳴鏑もつ神」であるとしている.師通は『古事記』以来の伝統のある地震神の「鏑矢」にやられたということになる.比叡山と祇園の間に本末関係があることはいうまでもないから,ここには日吉神社(オオナムチ)ー祇園(スサノヲ)という地霊・地震神の神観念が動いたのであろう.これが東海地震と南海地震のあいだの3年を意味づける形で語られていることが興味深い.

§3. 『平家物語』と1245年地震
『源平盛衰記』をふくむ『平家物語』の諸本には、その他、地震神を龍体であると語っている部分もあり、神話的な地震のイメージを語っていることが注意される.『平家』延慶本にも,1179年地震の直前に陰陽頭安倍泰親が院に参上して地震の危険を泣訴したが,その通りにこの地震が巨大で長く続き,鳴動が列島全域に波及したという独自の記事がある.私はこの時の地震が政治情勢に大きな影響をあたえたことから考えて,この地震が南海トラフ地震ではないか,『平家物語』諸本のうちでも原初の形に近いといわれる延慶本の記載をまったくの虚偽であるとは考えにくいとしたことがある(「平安時代末期の地震と龍神信仰」2012,『歴史評論』750号).

しかし,『平経高記』1245年7月29日条に『平家』に酷似した泰親の泣訴についての記述があるのを発見した.重要なのは,この記事が南海トラフ地震である可能性が指摘されている三日前の大地震(石橋克彦『南海トラフ大地震』)に関係して書かれていることである.『平家』が形を整えるのは,このころのことであるから,あるいは,実際に巨大であった1245年地震の印象が逆に『平家』の1179年地震のイメージに反映したということがあるのかもしれない.

§3.おわりに
以上,少なくとも『平家』の作者が地震とその神話的観念に対して強い関心をもっていた様子だけは明らかにすることができたであろう.神話や物語史料が,これまで歴史地震研究の対象になったことは少ない.それらは地震の理学的研究による論証が終わった後に、はじめて使用できるものなのかもしれない.しかし,史料としては興味深いものも多く、歴史学の立場からは是非模索を続けてみたいと考えている.
なお,論題に「ジャパネシア」という用語を使用したのは,神話論研究の上でも列島の地殻災害史を考えるためにも,インドネシアから列なる群島としての日本という見方が必要であると考えるためである.

2014年9月22日 (月)

101地震火山、歴史地震研究会

 9月20日、21日。名古屋で歴史地震研究会があった。歴史学研究会のホームページにのっている北原糸子さんの災害史研究と歴史地震学会についての『歴史学研究』掲載の文章に、歴史地震研究会の会員のなかに歴史学者が少なすぎるとあるのを読んで会に参加した。今回は名古屋大会で、はじめて出席し、報告をした。
 いま帰りの新幹線。歴史の学会とはあまりに違う雰囲気なので驚いたが、二日目からは面白さに徐々になれてきた。なにが面白かったかというと、個々の内容は当然として、全体はおそらく地理的な認識ということなのかも知れないと思う。
 私は仕事が特定の寺院文書の編纂であったこともあって、土地勘がない歴史家なので、「中部の地震と津波」「東北の地震・津波・噴火」「東北日本海の地震と津波」「関西の地震」「関東の地震と津波」「南海トラフ」「西日本の地震と津波」と、全国各地の地理と歴史史料、そして地殻図・断層図をみせられて、ついていくのがたいへんだった。しかし、徐々に慣れてくる。地震学プロパーの報告も多く、数式と図表はわからないが、何を明らかにしようとしているのかは何となくわかる。新しいことを次から次へと聞かされるというのはいいことなのかもしれない。
 歴史学は時間移動であるが、こういうのは空間移動である。二つはまったく違うことであるが、しかし、主観的には、時間と空間をアプリオリとして受けとる仕方は相似している。主観作用のなかでは時間移動と空間移動は類似した感情をもたらす。客体的にも「異文化」間移動という点では似てくる側面があると思う。こういう認識=感覚過程を自然科学的な話を筋のようにしながら聞いているのが気持ちがよいのだと思う。
 いろいろ驚いたことがあり、研究上も役に立った。地震の記述にかかわる地動の方向だとか、揺れ方だとかについての史料記述を解釈する上で面白かったのは、第二次世界戦争末期と戦争直後の地震についての記憶の分析であった。デイサービスの場をたづねて老人の記憶を聞き取り、それを大量に集計して分析したという。『驚きの介護民俗学』の世界である。人間は地震計なので、その記憶は役に立つということであった。
 地域ごとで地震を感じる仕方が違う。徐々にくるか、急にどかんとくるか、揺れの様子、長さなどなど。これによって、データの少ない1944、1946年の南海トラフ巨大地震の震度や揺れの特性分析が可能であるという報告である。私にはとくに『平成19年度東南海地震の体験から(静岡県中遠振興センター』という報告書に「へびがのたるような音がした」という記述があるのに驚いた。これは地震神=龍というシェーマにぴったり適合する。これはずっと昔からかわらないのではないかと思った。
 もう一つメモに残しておきたいのは、3,11のときの幕張の液状化についての分析であった。高校の校庭に直線的な裂け目が入ったが、その地下を確認すると埋め立てにさいしての杭列を確認したというのである、杭列の陸側・海側で埋め立てに使用した土砂が違い、陸側は砂、海側は細かな泥(シルト)であった。陸側は「海面下土地」と呼ばれる所有権のある「浅海」であって、それと海側の埋め立ての方式が埋め立ての工事方式に反映した。そして、この相違線にそって校庭地面がさけ噴砂が噴出したというのである。
 報告者のご意見では、「自然に対する人工改変が災害の本質である」ということであり、埋め立て記録のような公文書を確実に残して地盤管理の参考にしなければならないということであったが、これは歴史学としても考えるべきことであると感じた。

 そろそろ東京である。

 土曜日の夜はホテルで偶然に大災害についてのNHKの番組をみる。プレートに大きな海山が沈み込んでおり、その破壊が東日本大震災の震源起点となったという画像がでる。これは説得的なものだった。アスペリティといわれるものの物理実態が、海山なのであるということになる。アスペリティといわれたものは多様な実態をもち、動くということのようである。南海トラフの同じ構造は沈み込みの圧力は一定であるから、周期性を前提にした上で、この動きを屈曲して沈み込むプレートの裂け方の多様性とあわせて追跡観察でき、プレートの沈み込みがつっかえる構造がわかれば、応力破壊が一定の誤差によって予測できることになるのであろうか。プレート間地震については一定の想定、予知が可能になるということだろうか。「予知」と「予測」についての議論を思い出す。
 もう一点の感想メモ。私もいったし、いろいろな報告でも強調されたが、自然への謙虚さということである。忌みと恐れという心情である。それはそうなのだが、よく考えてみると、自然に対する「責任」ということがあるのかもしれない。わが家の猫の死を見守った経験を思い出す。親しんだ生物の死に顔は人間の死に顔とおなじである。そういう意味での自然への責任ということ、自然への主体性ということは人間の驕りではないと思う。

2014年9月15日 (月)

京都、天神を祭る人々

Kitano


 先週は京都で4日ほどの調査を終えた。歓待をいただく。
 今帰りの総武線のなかである。新幹線では眠りこけた。

 過去の仕事に点検をうけているような出張調査であった。歴史史料の扱いというのは無限の手間を必要とすることである。仕事を離れているので、その実感から離れているから、こういう機会は大事にするべきものなのであろうと思う。

 しかし、なぜ、こういう仕事にもっと人手がないのであろう。ということを、もう一度感じる。地震史料の蒐集事業の話もあった。

 歴史の史料というものは共有のものである。つまり、それは過去に属するものであって、過去をふり返ることができるということが、人に自信をあたえ、そしてそれによって自分を尊重することができ、他者を尊重することが可能となるということである。これはもっぱら個人の生活と人格に関わることのようであるが、しかし、それは集団となっても同じことであるように思う。民族と民族の関係も普通の私人と私人の関係を律する常識や友情にそったものでなければならないというのは、たしかポーランド問題にふれてエンゲルスがいっていたことであるが、彼にかぎらず、19世紀ヨーロッパで生まれた言葉なのであろう。

 人類あるいは人間社会というものが、私人と私人の常識や友情以外の事情によって左右されない。独占や強欲や自恣というようなコンプレクスなしに、社会が透明になっていくということ。逆にいえば不透明の部分は私人、あるいは私人同士の心の闇と闇の関係のなかに潜められること。

 そういう意味で集団が個人化することが重大なのであろうと思う。個人が集団化すると同時に集団が個人化していかなければ、それは全体主義である。集団自身が透明な個人相互の関係に還元されることによって、集団の「代表」というものが単純で交替的な関係になっていき、それでも集団が維持できるということが、社会の夢であるはずである。人の集団の歩む歴史という曖昧なもののように思われるが、しかし、こういう中で歴史自体が透明化していく。そこに現れるのは圧倒的な過去と無限の未来である。その全体を直覚的に感じながら現在に集中する。

 出張では、また神祇・神社ということを考える。考えさせられる機会をいただく。
 神祇や神社というものは、本来、日本の社会のハレの風景であって、その意味ではもっとも楽しく明るいものであったはずのものであろうと思う。ハレ=儀式ということではないはずである。もちろん、いまでも「祭り」は、この国でもっとも明るいものである。その芯のなかに歴史学は入っていかなければならない。

 黒田俊雄の顕密体制論がいうように、本来の日本の神社は、いわば寺院に付属した宗教の世俗部門である。しかし、世俗部門であるということは、他方で、民衆生活に無限に近い明るさのなかにいるということであろうと思う。黒田の議論も、もちろん、それをふまえているが、その具体までには踏み込んでいない。戦後派歴史学の重深部の建設者である黒田、そして網野善彦が残した最大の問題は神祇であろうというのが、10年ほど前からの考え方。網野的にいえば、神祇=忌み=無縁ということになるのではないのだろうか。明るさというのは、忌みからの解放の明るさである。

 トップにかかげた写真集は、帰宅したら届いていたもの。ありがたい。上記のようなことを考えることが多いので、三枝さんの文章の意味がよくわかる。北野の祭りの明るさが印象的である。
 宮本常一の『民俗のふるさと』には「人は、その共感を持ちうるものによって社会を形成することが一番平和であり、安心できた」とあるが、そういう世界である。

2014年9月 5日 (金)

荘園をどう教えるか(3)


 たしか去年の夏であったと思うが、「荘園をどう教えるか」という記事を二回書いた。それが書けなくなったのは、荘園をどう教えるかはまず8世紀から10世紀の土地制度をどう教えるかが重要であるが、それについての私見を書くのは、学界に発表していない見解を書く訳には行かないと考えたからである。ブログで私見を野放図に書きだしたら、これはこまるというのが、歴史学であると思う。

 ただ、下記については、今度の新著に書いたことで、年内にはでるし、この程度ならば、ほとんど方法論だし、他の研究者のオリジナルな発見のじゃまということにはならないだろうということで、書くことにする。

 ようするに、荘園をどう教えるかという場合の最初のネックは、いったい、班田収受制というものはどうなったの?ということであろうと思うが、基本的なシステム(あるいは制度枠組)としては似たシステムとして「負名体制」というものがあると考えれば、このネックはクリアーできるということである。

 日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載するもの。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

 なお、散田には、この「あがつ」の意味とともに、荒れた田地あるいは分散した田地という意味も一貫して存在した。たとえば一一一二年(天永三)の大和国広瀬荘使解は「散田・町田」として分散した田地と「町田」(満町坪のこと)を対比している(『平』一七七九)。そして、八四二年(承和九)の因幡国高庭荘預解にみえる「散田」という言葉は「散田」という用語の初見であるが、これは「得田」との対比において損田という意味であらわれている(『平』七三)。「班田」ではなく、「散田」という用語が使われるようになる上で、「散」には「あかつ」と「散らばった」という二重の意味があったことが大きかったのではないだろうか。つまりすでに散田という用語の登場の時から、「散」の「分散した、重要でない」というような状態をあらわす語義と、「配る、頒つ」という個々に処理するという営為をあらわす語義が融合・二重化して使用されているのである。後に「能悪を相交へ散田」(『平』一七四九)、「暗に膄迫の地を度り」(『新猿楽記』)などといわれる田地の豊度の判断もふくめ、この作業の手間や散文性を、この「散田」という言葉で一挙に表現したものであろうか。手間の中心が「満作」をめざして行われる耕作強制であったために、状態としての「散田」が強く意識されたと考えておきたい。

 もちろん、班田収受においては、その六年一班制はその前年の十一月から翌年五月までのうちに造籍することと結びついており(六年一造)、この点で大きく違っているが、班田の季節は収穫後の十月から田文の授造を開始し、翌年二月に終えることとなっており、散田の季節と大きく異なる訳ではない。造籍の問題を別とすれば、負名の散田請作は毎春のこととなっており、村井の言に反して、これは田地の収授=散田と請作がより日常的でシステム化された管理をうけるようになっていたことを表現するといってよい。戸田は東大寺領阿波国新島・勝浦・枚方などの荘園の九八七年(寛和三)の「当年散田之務」を行う使者が、その「春時各進請文」の処置を二月に行った様子を復元し(『平』三二五号)、「当年散田の実質的作業は、現地の荘官・刀禰らによって行われていたはずである。寺家符を帯びて巡回する寺家使は、その確認と公的際かが主たる任務であり、その上に(中略)高次の決済の職務があったのではないかと私は考えている」と論じている(戸田「一〇~一三世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)る。ようするに寺家使がまわってくる前に実質的な作業を現地で遂行するシステムがあったのである。ともあれ私は戸田と村井のあいだの論争については依然として戸田の側に賛同したいと考えている。

 村井見解については戸田「書評、泉谷康夫著『律令制度崩壊過程の研究』」(『史林』五八―五、一九七五年)が、ほぼ同一の見解に立つ泉谷の見解とあわせて反批判している。戸田はそこで「当時の国衙(在庁・郡司の機構)はその必要とする特定の行政的実務能力と諸手段を備えていた(必要ならば煩瑣な事務手続きもとることができた)のであって、春時の利田請文を提出させる”勧農”は、検田・収納とならんで主要な国衙行政の一つであった。だから事務能力低下論による否定は論外である」としている。この事務能力否定論に対する批判は佐藤泰弘「国の検田」(同『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年)によって継承され、佐藤は検田論を素材として一〇世紀以降の国衙が「きわめて現実的な収取制度を構築した」ことが明らかにした。ただ、佐藤は、村井・泉谷による戸田の「公田請作」論批判について、戸田の「利田請文」論や伊賀国黒田庄の国衙関係史料の理解に関わって、それを承認している。本論で述べたようにたしかに戸田の「利田請文」論には問題があるが、「春時起請」の理解そのものについては、つまり論の大枠については、戸田の見解はいまだに有効であると考えている。

2014年9月 4日 (木)

両口屋是清さんの宣伝雑誌に書いたもの。

 
Ryougutiya
  両口屋是清さんの雑誌『いとおかし』に書いたもの。きれいな小冊子である。
 月と太陽の暦製作室代表の志賀勝という方も書かれていて、「後の十三夜」という記事。今年は旧暦だと閏九月がある年で、後の十三夜があるので楽しみにしているとのこと。専門家の視点はさすがである。
 私はあわただしい秋になりそうで、若干、まいっている。

 「お月さんで兔がお餅をついている」という子どもへの語り口は、日本の文化のなかでも、ぜひ残したいものだと思う。もちろん、これは月の仙女たちの主人――西王母が兔に不死の仙薬を搗かせたという中国の神仙思想の影響をうけた物語である。しかし西王母の像が古墳時代の三角縁神獣鏡に刻まれていることでもわかるように、本当に古くから、この国でも親しまれた物語であって、日本の月の穏和なイメージにとって欠くことができないものである。

 かぐや姫は天に去る直前になって「いまはとて天の羽衣着るおりぞ 君をあはれと思ひ出でける」という歌を書き、その文とともに「不死の薬」を天皇に残す。最初はつれなかった天女が最後に少しの慕情をみせるという『竹取物語』のクライマクスである。しかし、御門は地上の王の矜持をみせ、薬を呑んで女を天に追っていくという態度をとらず、「不死の薬の文、壺具して」(姫の手紙と壺を一緒に)、富士の高嶺にもっていかせ、天に焼き上げた。

 この部分は従来は「不死の薬に、又壺具して」と翻刻されていたが、先年、『かぐや姫と王権神話』という新書を書いたときに、「又」は「文」であろう、そして「に」(尓)と「の」(乃)の変体仮名は誤写の可能性があると考えて、末尾につけた『竹取物語』の全文翻刻では上記のように改めた。そのときあれこれ考えるなかで、この「不死の薬」というものはどういう味のであろうと考えたことを憶えている。おそらく甘い味なのであろう。

 『竹取物語』は王の脅しに屈せず、しかも王を恋着の虜にしてしまう可憐で誇り高い女性を描いた、いまから一〇〇〇年以上も昔に描かれた物語である。現代的にいえば、はっとするようなフェミニズムの思想がそこには流れている。
 昨日は法事があって、田舎のなつかしい従姉妹たちにあったが、やはり誇り高い彼女たちも甘い菓子が好きで、土産にもらったそれらを食しながら、この文章を書いている。

2014年9月 2日 (火)

琉球新報社説、国連委員会勧告。沖縄は独自の民族的権利をもつ

 沖縄は独自の民族的権利をもつという国連委員会勧告がでた。

 私たちの世代だと、沖縄「返還」のときから、つねに問題となり、どう考えるかが問われていた問題である。日本に復帰するということは日本国憲法の下に「復帰する」ことだというのが、復帰運動の論理であり、そのなかで、沖縄の独自の民族的な伝統をどう考えるかは、当面の議論にはしえなかった。ただ、そのころ私は星野安三郎氏の沖縄の独自の民族的権利を強調する講演をきいたことがあり、その趣旨には了解できることが多かった。
 日本国憲法の下に復帰するというのは、もちろん、いまでも一つの重要な筋であることは変わらないが、しかし、他方で、沖縄は独自の民族的権利も明瞭となってきたように思う。
 琉球新報のような沖縄の代表的メディアが、「日本」への帰属・併合は、琉球の歴史から見れば、ほんの百数十年前のことだと社説をかかげ、国連委員会勧告をひいて、「国際世論を味方に付け、沖縄の主張を堂々と世界に向け訴えていこう。道理はこちらの方にある」としたことの意味は重い。

 琉球新報の社説を下記に引用させていただく。

<社説>国連委員会勧告 国際世論を沖縄の味方に2014年8月31日

 昔からそこに住む人たちの意思を一顧だにすることなく、反対の声を力でねじ伏せ、軍事基地を押し付ける。地元の人たちが大切にしてきた美しい海を、新たな基地建設のために埋め立てる。
 国が辺野古で進める米軍普天間飛行場の代替施設建設は、海外の目にはそう映るに違いない。
 国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に対し、沖縄の人々は「先住民族」だとして、その権利を保護するよう勧告する「最終見解」を発表した。
 沖縄の民意を尊重するよう求めており、「辺野古」の文言は含まないが事実上、沖縄で民意を無視した新基地建設を強行する日本政府の姿勢に対し、警鐘を鳴らしたとみるべきだ。
 国連の場では、沖縄は独自の歴史、文化、言語を持った一つの民族としての認識が定着してきたといえよう。2008年には国連人権委員会が沖縄の人々を「先住民族」と初めて認め、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は2009年、琉球・沖縄の民族性、歴史、文化について固有性を指摘した。
 それに対し、国は沖縄を他県と同様に日本民族として、人種差別撤廃条約の適用対象にならないと主張している。
 沖縄はかつて琉球王国として栄え、他県とは違う独自の文化遺産、伝統的価値観を今なお持っている。明治政府によって強制的に併合され、日本の版図に組み込まれ、主権を奪われた。これは琉球の歴史から見れば、ほんの百数十年前のことだ。
 国は、他県ではおよそ考えられないことを沖縄に対しては平然と強いる。これが差別でなくて、何を差別というのか。
 歴史的経緯を踏まえ、国は人種差別撤廃委員会が出した最終見解に従い、真摯(しんし)に沖縄に向き合うべきだ。
 最終見解では、消滅の危機にある琉球諸語(しまくとぅば)の使用促進や保護策が十分取られてないことにも言及している。沖縄側の努力が足りないことは反省すべきだろう。
 自己決定権の核となるのがアイデンティティーであり、その礎を成すのは言葉だ。しまくとぅばを磨き、広め、自らの言葉で自分たちの未来は自分たちで決める権利を主張したい。
 国際世論を味方に付け、沖縄の主張を堂々と世界に向け訴えていこう。道理はこちらの方にある。

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