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2014年9月 5日 (金)

荘園をどう教えるか(3)


 たしか去年の夏であったと思うが、「荘園をどう教えるか」という記事を二回書いた。それが書けなくなったのは、荘園をどう教えるかはまず8世紀から10世紀の土地制度をどう教えるかが重要であるが、それについての私見を書くのは、学界に発表していない見解を書く訳には行かないと考えたからである。ブログで私見を野放図に書きだしたら、これはこまるというのが、歴史学であると思う。

 ただ、下記については、今度の新著に書いたことで、年内にはでるし、この程度ならば、ほとんど方法論だし、他の研究者のオリジナルな発見のじゃまということにはならないだろうということで、書くことにする。

 ようするに、荘園をどう教えるかという場合の最初のネックは、いったい、班田収受制というものはどうなったの?ということであろうと思うが、基本的なシステム(あるいは制度枠組)としては似たシステムとして「負名体制」というものがあると考えれば、このネックはクリアーできるということである。

 日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載するもの。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

 なお、散田には、この「あがつ」の意味とともに、荒れた田地あるいは分散した田地という意味も一貫して存在した。たとえば一一一二年(天永三)の大和国広瀬荘使解は「散田・町田」として分散した田地と「町田」(満町坪のこと)を対比している(『平』一七七九)。そして、八四二年(承和九)の因幡国高庭荘預解にみえる「散田」という言葉は「散田」という用語の初見であるが、これは「得田」との対比において損田という意味であらわれている(『平』七三)。「班田」ではなく、「散田」という用語が使われるようになる上で、「散」には「あかつ」と「散らばった」という二重の意味があったことが大きかったのではないだろうか。つまりすでに散田という用語の登場の時から、「散」の「分散した、重要でない」というような状態をあらわす語義と、「配る、頒つ」という個々に処理するという営為をあらわす語義が融合・二重化して使用されているのである。後に「能悪を相交へ散田」(『平』一七四九)、「暗に膄迫の地を度り」(『新猿楽記』)などといわれる田地の豊度の判断もふくめ、この作業の手間や散文性を、この「散田」という言葉で一挙に表現したものであろうか。手間の中心が「満作」をめざして行われる耕作強制であったために、状態としての「散田」が強く意識されたと考えておきたい。

 もちろん、班田収受においては、その六年一班制はその前年の十一月から翌年五月までのうちに造籍することと結びついており(六年一造)、この点で大きく違っているが、班田の季節は収穫後の十月から田文の授造を開始し、翌年二月に終えることとなっており、散田の季節と大きく異なる訳ではない。造籍の問題を別とすれば、負名の散田請作は毎春のこととなっており、村井の言に反して、これは田地の収授=散田と請作がより日常的でシステム化された管理をうけるようになっていたことを表現するといってよい。戸田は東大寺領阿波国新島・勝浦・枚方などの荘園の九八七年(寛和三)の「当年散田之務」を行う使者が、その「春時各進請文」の処置を二月に行った様子を復元し(『平』三二五号)、「当年散田の実質的作業は、現地の荘官・刀禰らによって行われていたはずである。寺家符を帯びて巡回する寺家使は、その確認と公的際かが主たる任務であり、その上に(中略)高次の決済の職務があったのではないかと私は考えている」と論じている(戸田「一〇~一三世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)る。ようするに寺家使がまわってくる前に実質的な作業を現地で遂行するシステムがあったのである。ともあれ私は戸田と村井のあいだの論争については依然として戸田の側に賛同したいと考えている。

 村井見解については戸田「書評、泉谷康夫著『律令制度崩壊過程の研究』」(『史林』五八―五、一九七五年)が、ほぼ同一の見解に立つ泉谷の見解とあわせて反批判している。戸田はそこで「当時の国衙(在庁・郡司の機構)はその必要とする特定の行政的実務能力と諸手段を備えていた(必要ならば煩瑣な事務手続きもとることができた)のであって、春時の利田請文を提出させる”勧農”は、検田・収納とならんで主要な国衙行政の一つであった。だから事務能力低下論による否定は論外である」としている。この事務能力否定論に対する批判は佐藤泰弘「国の検田」(同『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年)によって継承され、佐藤は検田論を素材として一〇世紀以降の国衙が「きわめて現実的な収取制度を構築した」ことが明らかにした。ただ、佐藤は、村井・泉谷による戸田の「公田請作」論批判について、戸田の「利田請文」論や伊賀国黒田庄の国衙関係史料の理解に関わって、それを承認している。本論で述べたようにたしかに戸田の「利田請文」論には問題があるが、「春時起請」の理解そのものについては、つまり論の大枠については、戸田の見解はいまだに有効であると考えている。

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