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2014年10月22日 (水)

「運・鈍・根」--「じょうぶな頭とかしこい体」

昨日は吉祥寺の明星学園中学で「出前授業」。

 相手は中学二年生で、中学生相手などに話したことはないので、準備が一昨日の夜にまで食い込み、苦し紛れで、運・根・鈍と「人生」という話を結論部に用意していった。

 この「運・鈍・根」という話は竹内理三先生が、私の先輩の結婚式で話されたこと。歴史家に必要なのは、「運・・鈍根」であるという話である。それと五味太郎のいう「じょうぶな頭とかしこい体」というテーゼをまぜた話。歴史学という学問への誘いのような話もしてほしいということだったので、用意しておいたのがよかった。
 最初に言ったのがだれなのかは知らないが、人生で大事なのは「運・根・鈍」であるという話である。

 一番目に大事なことは「運」である。人生のほとんどは運で決まる。これはその意味では平等なもので、誰にでもめぐまれる。恵まれた場合に、その「運にこたえる」には、反応力が必要で、その基本は、自分の身体にある。つまり身体の調子を知っていて、身体を大事にしていること。強くなくてもよいから「かしこい身体」をもっていること。これがないと反応ができない。
 同時に、環境の自然を知っていることも必要で、自分の部屋をうまく整理し、自分の家をうまく整理し、社会への通路や職場の環境をよく知っていることが必要になる。これは自分の周りの自然に責任をもっていることである。これは自然を大事にというお説教ではない。自分の周りの自然を知っていることで人間がもてる力というものがある。この環境の自然というのは社会的な環境になってしまった自然も含む。交通路の危険や、起こりうべき災害についての自然をも含むということになる。
 みんなで自然(人の身体、環境的自然)を大事にして責任をもっている。身体と環境の平等。ここは平等である。平等というのはそういうことで、ウェーバーのいう「機会の平等」である。それが社会にとっての平等の出発点である。もっているものを平等にするとか、能力の平等だとかいうこととは違う。そういうことは不可能である。
 災害が起きた場合にその「不運」は分け合い、必要な支えをするということであり、また「不運」にも病気になった場合もささえあうというのが平等な社会である。こういう社会を作ることへの合意がどうしても必要である。

 二番目に大切なことは「根」である。これは根性。これは耐える力で、身体は堪える力をもたない。我慢をするのは身体ではなく、頭である。人生を決めるのは結局、「かしこい頭」ではなく、「丈夫な頭」である。時間に耐える力。頭は本来かしこくないが、耐える力はもっている。
 自分をかしこいと思えないと言うのが賢さ。賢さとしいていえば、それは過去への賢さ。内省と反省。そして前を向けるかどうか。あきらめられるかどうか。許しを乞えるかどうか。「打たれ強い」かどうかという問題である。 これは社会にとっては、過去を内省し、ゆとりをもって、時間をかけて蓄積する力である。「丈夫な社会」というのはそういうことで、過去を内省し、前をむけるということであって、これが「明るい社会」である。
 これは歴史学の独自な責務に深く関わってくる。

 その上で、三番目に大事なことが「鈍」である。これは一言でいえば居直りということ。「個人」ということ。個人として自分のなかに沈潜してしまって外部に対しては「鈍」になるということである。一種の外部遮断である。
 より端的な言葉でいえば、居直ってしまうということである。居直ってしまうというと「行儀が悪い」ということと混乱するが、ここで「居直る」というのは第一に「居ずまい」をただすということであって、第二に覚悟を決めるということである。個人はみんなとは違う。絶対に横並びにしない。付和雷同を嫌うという神経である。社会には、集団というものはない。個人がいるだけ。人間の意識は個人の脳髄にしか宿らない。テレパシーはない。集団というのは代表されることはできるが、それは部分的なことについて可能であり、特定の人間が全体を決定的に代表する、集団を構成する諸個人の全人格を代表するということはありえない。代表性はすべての個人がもっているのである。
 人間は、身体的・社会的自然を共有しているが、あくまでも個々人で自然とは関わっている。そしてそれらの自然の中には永遠の時間が露出しており、をもっている。その永遠を感じると言うことが、外部に対しては「鈍」になるということである。一種の外部遮断であり、トランセンデンシャル、超越論的な立場、もっともよい意味でのメタフィジクである。マルクスはスピノザについてふれた手紙で「万物を永遠の相で眺めれば心は休まる」と述べているが、たしかに人間にとっての哲学的意識とは、具体的生活からの離脱による「永遠の相」の直感であって(全集二九巻、四三八頁)、その世界のなかに入れば時は止まる。
 
 竹内先生は「運・鈍・根」といわれたが、上記は「運・根・鈍」の順序に変えた。歴史学は、学問全般と同様に居直るためにあるということで、歴史学への誘いとして。
 
 以前、東大のプロジェクトで小学校への出前授業ということをやったが(PWがslideshareにのっている)、こういう学者が小学校・中学校・高等学校にいって授業するというのは面白いし、有効なことだと思う。国立の大学でやるのは報償を教員にだせないが、かわりに図書費・研究費を配分するという方式をきめればよいと思う。
 どの小学校・中学校・高等学校でも、教科毎に毎年一回は、この種の外部授業があるということにすれば、学界と教育界の垣根は一挙に縮まるだろう。そもそも学者と教師は根本的には同じ職業だから、これはそういう意味でもよいスタイルの交流だと思う。そんなにお金もかからないから、政府・自民党のお馬鹿さんたちがやろうとしているという「道徳」――こういうのは道徳のない人たちがやっても何の意味もない――よりも金はかからず、一挙両得の方策だ。

 御題は「地震火山列島の歴史を考える」ということで、話しているうちに、相手の中学生の二年の少年少女が、深刻な顔になりはじめて、これはたいへんにこまった。一学年四クラスなので、二クラスづつに分けて、二回、同じ話をしたのだが、一回目は、これはどういう方向に話を落着させようというので迷った。
 そこで二時間目は、話のスピードをあげて、用意していた上の「運・根・鈍」という話に十分に時間をとった。
 災害史というものを考えるためには、「永遠の時間、長い時間」というものが、現実世界に存在するということを伝える必要があるということなのだが、さて、この趣旨が曖昧にでも伝わったかどうか。本当に授業というのはむずかしい。

 本当に久しぶりに井の頭公園を通った。楽しみにしていったのは、井の頭公園に臨むマンションを確認することであった。行きに歩いていって、たしかに思っていた位置にマンションがあるのを確認した。
 私は国際キリスト教大学の卒業なので、井の頭公園はよく知っている。そして、大島弓子さんのマンガが好きなので、彼女の『サバのいた夏』などの猫シリーズの舞台になったマンションが、たしかにあそこら辺にあったという記憶がある。けれども、彼女のマンガを読むようになったのは5年ほど前からなので、記憶のイメージとマンガのイメージが現実のものとして結びつかない。しかし、それがたしかに結びついた。

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