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2014年10月 1日 (水)

キルケゴールについて

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 必要があって短期間入院していた。御岳の様子がきになるが、仕事もできず、キルケゴールの『死にいたる病』を読んでいた。

 好きな本なので、楽しんだが、気持ちを切り替えて、急いで仕事に戻らなければならない。
 
 『死にいたる病』の最初の、「人間は精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である云々」というフレーズは私などの世代にはなつかしいものである。

 すでにキルケゴールのいう「追憶の幻想」あるということかもしれないが、過去の想起と幻想は撰ばれた記憶であるが、私は幼稚園がキリスト教系で、その関係で小学校の何年かを教会に通い、中学校時代も高校時代も、おののしばらくは教会にいっていた時期があり、さらに大学が国際キリスト教大学なので、キリスト教文化というものがやはり親しい。

 しかし奇妙なのは、哲学らしい哲学をよもうとしたのが、キルケゴールが先か、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』が先かということである。

 教会の牧師室で、『キリスト教の本質』にこう書いてあったと牧師さんに話したことがあり、いま考えるとS牧師もこまったろうと思う。
 
 さて、下記はメモした、『死にいたる病』の冒頭部分の私訳である。英文とともにかかげる。

 キルケゴールの訳者、枡田啓三郎さんは、三木清の弟子なので、何となく親しみをもっている。つまり三木清全集のほとんどの解説者なので、よく読んだわけだ。
 
 桝田さんお厳密な翻訳と比べるとどうかということであるが、selfというのは「心」と訳した方がよいのではないかと思う。すくなくともわかりやすくなる。


 人間はたしかに精神的な存在である。しかし、精神とは何かといえば、おのおのがふり返ってみればわかるように、それはまずは心であろう。しかし、さらに心とは何かといえば、心というのは、人がみずからの心に結びついている関係である。あるいは、その関係において、心が心自身に結びついていることであるといってもよい。それゆえに心というのは、ただの意識の関係ではない。それは意識の関係が心自身に結びついて絡まり合っているような関係である。人間は無限と有限、永遠と瞬間、自由と必然の結びついたものであり、一言でいえば結ばれたものなのである。ただし、結ぶというのが二つの要素の関係であるというでだけでは、それはまだ人間というものではない。

Man is spirit. But what is spirit? Spirit is the self. But what is the self?
The self is a relation which relates itself to its own self, or it is that in
the relation [which accounts for it] that the relation relates itself to its
own self; the self is not the relation but [consists in the fact] that the
relation relates itself to its own self. Man is a synthesis of the infinite
and the finite, of the temporal and the eternal, of freedom and
necessity, in short it is a synthesis. A synthesis is a relation between
two factors. So regarded, man is not yet a self.

 つまり、結びついた二つのもの自体にだけ注目していると、三番目に位置する結びつき方そのものは、一つの影のような姿でしかみえない。二つのものが実態であって、それがたがいに結びついて関係ができているのだ。別の言い方をすれば、まず二つのものが結びあうなかで関係になるという訳である。たとえば、人を頭と身体の関係として考えるというのは、そういうことであって、そのとき人は結局のところは頭とその意識を中心にとらえられることになる。これに対して、逆にまず結びつき、あるいは「結ぼれ」があって、それがそれ自身の心に結合されているというように考えれば、そこでは三番目の絡まり合い結ばれたもの自体がまず目にみえる。こういうものこそが心なのである。
In the relation between two, the relation is the third term as a negative
unity, and the two relate themselves to the relation, and in the relation
to the relation; such a relation is that between soul and body, when
man is regarded as soul. If on the contrary the relation relates itself to
its own self, the relation is then the positive third term, and this is the
self.

 こういう自分自身のなかでの結びつき方としての心は、自分自身で作り出したのか、あるいは他者によって作り出されたのかのどちらかであるはずだろう。もし後者だとすれば、自身の心に結ばれたものは疑いなく独立的なもの、三番目のものとなるだろう。しかし、そうだとしても、この結ばれたものは、やはり一つの関係として、それを結びつけた他者の全体と結びついてくる。


Such a relation which relates itself to its own self (that is to say, a self)
must either have constituted itself or have been constitut140930_174131


ed by another.
If this relation which relates itself to its own self is constituted by
another, the relation doubtless is the third term, but this relation (the
third term) is in turn a relation relating itself to that which constituted
the whole relation.

 このようにして生まれ、できあがった絡み合ったものが人の心なのである。

 フォイエルバッハ・キルケゴール・マルクス・ヘーゲル・という順序で哲学書を読んだわけだが、最初に戻りたい。
彼らは近代という時代に同じことを考えたのではないかと思う。

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