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2014年11月

2014年11月15日 (土)

沖縄の知事選挙がどのような結果となるか、固唾を呑んでいる。

 多くの人もそうであると思うが、沖縄の知事選挙がどのような結果となるか、固唾を呑んでいる。
 とくに保守と革新の協同候補がでているというのが、日本の第二次世界大戦後の政治史のなかで大きな変化であると思う。そして、これが沖縄からでているということの意味を考えなければならないと思う。

 ただ、私は、「保守と革新」ではなく、「保守と進歩」という軸で問題を考えたい。「保守と革新を乗り越えて」ではなく、「保守と進歩がともにいる」ということである。「保守と進歩」とは歴史との関係においていわれる言葉である。歴史の今ということである。
 歴史学は保守と進歩のバランスを調整するところに大きな社会的役割がある。これはエイヤという気持ちで、『かぐや姫と王権神話』のあとがきで書いたことだが、しかし、そういう立場で歴史の過去・現在・未来をみるのは歴史家にとって自然なことであると思う。

 そもそも「革新」という言葉は意味が曖昧で使うべきではない言葉である。「革新」という言葉には、ただ「変化」させる、「変化が第一」といういらだちのニュアンスがある。「革新」という言葉には、そのような「変化・不満」をベースにした「維新」という言葉と共通のニュアンスがある。「維新の志士」などというと、「ともかく変えなければ」「俺がやる」などという意味が含まれていて、これは独特な自我意識と一体である。

 こういう習癖のような考え方の内部にひそんでいる「維新の思想」というのは、歴史家から見ると、「復古的な革新」という国家思想である。「明治維新」は「文明開化」を標榜して「王政復古」を行ったが、そこには「外圧を利用し、策略を弄してもともかく変える」という相当の無理が含まれていた。

 日本列島はユーラシアの東端にあるから、列島社会が輸入文化を重視すること、文明的な「まね」がうまいことは一種のやむをえない伝統でもあり、長所でもあるとは思う。しかし、それが国家思想のなかに「新しものずきのご都合主義」という強い風潮をもたらした。「明治維新」はその典型であるが、前近代史を通じて、この種の「維新」の思想というのは、つねに国家思想の内部に存在してきた。「明治維新」がそれ以前と違ったのは、それ以前の「新しもの」が中国のものであったのに、「明治維新」は「西欧」のものであったという違いである。

 ともかく「明治維新」の「王政復古」は「文明開化」を標榜して行われたが、それは文化的には、列島社会に根付いた伝統文化を大きく破壊する結果をもたらした。復古であるにもかかわらず文化にとって無惨な結果となったのは、それが「復古的革新」であったためである。もちろん、忘れ去られるほかないものがあったのは事実であり、明治時代の思想の歴史のなかには貴重なものが含まれている。しかし、文化的には「明治維新」は取り返しのつかないことを行った。網野善彦氏は「明治の時代に近代化を進めたとして高い評価を与える考え方には大きな問題がある」といわれるが、その問題の第一は、いわゆる「神仏分離」を中心とした文化財破壊である。この夏に比叡山に登ったときに、それを実感した。比叡山の文化財保存にとっては信長と「神仏分離」が相並んで甚大な損害をもたらした。そして「神仏分離」は、結局、日本社会における「神祇・神道」の文化的な位置も壊すことにもなった。
 学者がこの種の国家思想の磁場からは離れて存在しなければならないのは宗教者と同じである。
 
 保守と進歩の双方が必要であることは、conservativeとprogressiveと言い直せば明瞭である。そして歴史家は、現実の仕事としては、どちらかといえば直接には保守conservativeの仕事であるというほかない。保守を考えた上で、未来を考えるということになる。過去の事実を可能な限り正確に記録し、記憶を歪める力に抗することである。

 「進歩」というと、最近では、それをもっぱら近代思想の枠組であるとして不評である。19世紀ヨーロッパの「進歩思想」が現実には、世界の帝国的分割と他文明に対する野蛮な抑圧を意味した。進歩というのは私有の発展であるという論理である。そのような「進歩思想」が「進歩思想」としてはいまだに圧倒的な影響力があることは事実であり、それを拒否することの重要性は明らかであると思う。
 しかし、それとは区別された真の意味での進歩というものは、私はあると思う。そのような進歩も拒否するという「進歩」拒否というのはただのニヒリズムと無思想である。

 沖縄の「保守」と「進歩」の協同の方向は列島全体にとって大事な意味をもっていると思う。もちろん、そしてその協同は(政治的な協同という点でいえば)まだ決して幅広い流れではないだろう。それは出発点ということであろうと思う。
 「保守←→進歩」の協同が政治的な姿をとるというのはほぼ初めてのことであるから、それ自身で議論され、調整されるべきことは多いだろう。と同時に、「保守」の側も「進歩」の側もおのおので詰めるべき点が残っているに違いない。この道は相当に複雑な問題をはらんでいるのではないか。それを歴史学の立場から考えていきたいと思う。おそらく問題が複雑になるのは、「保守←→進歩」という軸が、さらに他の軸線との関係で複雑な諸問題を抱えているからだと思う。

 その軸線とは第二の軸としての「左翼←→右翼」軸と、第三の軸としての「インターナショナリズム←→ナショナリズム」軸であろう。これを考えるためには、日本の「右翼」思想といわれるもので思想態度として取るべきものがあることを追跡してみることだろうと思う。アメリカになかば占領され、国家の独立を侵犯されているという状況のなかで思想としての「右翼思想」は成立しがたいものになっているが、しかし、一つの共同体主義としての右翼思想というものがすべて無意味であるというようには、私には考えられない。いま、この国にとって恐るべきものは、むしろ、無思想であり、虚偽の思想であり、詐欺瞞着であり、公然と表明される悪意であり、それが許されている状況であると思う。

以下、翁長候補の2012年の朝日インタvユー
http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm

2014年11月13日 (木)

slideshare火山地震「祇園御霊会と南海トラフ地震」 東海学春日井シンポジウム講演

2014年11月 5日 (水)

江戸時代の農民経営は「発達した」ものか?entwickeltenの翻訳

「日本は純封建的な土地所有の組織と育成的な小農民経営とをもっており、このような日本は、多くはブルジョアジーの偏見によって影響されている我々の歴史書よりもはるかにありのままのヨーロッパ中世についての観念を与えてくれる。」

 岩波の日本歴史の月報に「C・ギアーツのInvolutionと東アジアの近世化」という文章を書いた。ゲラの校正である。
 この小原稿の内容は、マルクスの『資本論』の本源的蓄積の章の注記にある日本論の一節をどう解釈するかという問題から始まる。そこに「日本は、純粋に封建的な土地所有の組織とentwickeltenな小農民経営をもっており、それによって、……忠実なヨーロッパの中世像を示す」とあるentwickeltenなる用語は、どこでも「発達した」と訳されている。日本の江戸時代は封建制で、しかも「発達した小農民経営」をもっているというのは、江戸時代史研究者がながく、議論の前提にしていたものであるが、これは「育成的な小農耕経営」とでも訳すべきものであるという議論である。これは最近、刊行された『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』(大谷禎之介・平子友長編、桜井書店)に掲載された天野光則氏の論文にマルクスのH・マロンの日本報告についてのノートの翻訳があり、それによると、マロンは、リービヒとともに、日本の農耕を育成的・園芸的なものと理解していることが明らかであるという理由による。以前書いたこの『資本論』の日本論の解釈ではマルクスが特別に興味をもって論じているゴミや屎尿のことを書いたが、いわばマルクスの生態学的な論理が、ここにもでているこかもしれない。

 平田清明氏によるマルクスのテキスト再解釈からはじまる時代を経験した私の世代など(これは平田の理解が正しいということを意味はしないが)にとっては、たとえば安良城盛昭氏のようなマルクス理解は最初からとても信じられないものであった。あれは厳密なものでなく、ただの自己流であるというのがずっと感じていたこと。

 さて、このentwickelten問題というのは、私にとって長い間の疑問であった。以前、このマルクスの一節について考えて、ここからマルクスが江戸期日本が「純粋封建制」であったと理解していたとするのはとても無理だと考えて、ちょうど頼まれた岩波の『講座世界歴史』の月報に、そのことを書いた。まだ15年ほどまえのことであるとゲラに書いてあって、もっと昔のことだと感じていて驚く。

 さてそのときから、entwickelten=developedについても本当に「発達した」かどうかをうたがっていて、友人の松本彰氏にいろいろ聞いた。彼はDPEについてふれて、developには現像するという意味があるからといってくれた。そこで、私の頭ではentwickelten=developedというと、松本氏と、私たちの家族にとって大事な記憶となっているある写真屋の店先の風景が、まず心にうかぶということになっている。そしてその写真屋にかかわる生活の記憶がやってくる。

 こういうのは、結局、一種の想起術あるいは記憶術である。記憶術というものはシモニデスがはじめたというが、家族や夫婦などをふくむ親しい人間関係というものは、こういう共通する記憶の重層によって支えられているものだと思う。学術も人間の普通の精神活動のスタイルであるから、そこに入ってくる概念や方法というものも、結局、個人の頭のなかでは、この種の生活・人生上の些事とからまりあって記憶されているのであろうと思う。

 「概念」の側からみれば、人生や生活は「概念」の索引であるということになるのだろう。兆候・索引・予感・感情のなかから概念と言葉のイメージを作っていく。それらは個人個人をとるとまったく違った文脈で記憶されているのであるが、しかし、こういう地盤がなくなってしまっては、概念というものは生きていかない。逆にいえば生活に一貫性をもたせる上で、概念というものの意味は大きいのであろうと思う。豊かな生活の側からみれば、概念というのは、生活の豊かさの基本である自己同一性をささえる内省の世界に不思議な形でかかわってくるものだと思う。
 さて、「封建制」という言葉や概念は、日本史の分析範疇としてはすでにその地盤を失っている。新しい前近代の見方・感じ方を前提にした方法概念というものをどうやれば作っていけるのかということを考える。

2014年11月 1日 (土)

オランダ国王の訪日、宮中晩餐会での挨拶、日本軍によるオランダ国民への虐待について

オランダ王室のホームページから、(HET KONINKLIJK HUIS) Homeから右上のselect languageを英語で
Speeches
Speeches archive
Speech by His Majesty the King at the state banquet on the occasion of the State Visit to Their Majesties the Emperor and Empress of Japan, Tokyo


29 oktober 2014
日本とオランダの関係を概観し、「 both the sweet and the bitter」(暖かな経験と苦い経験)のうちのビターな苦い経験として下記のように明瞭に述べている。このうちのhumiliationは単なる迫害ではなく、辱めをあたえるという決定的な強い意味であって。要するに軍による性奴隷の強制を意味する。

それゆえに、私たちは第二次大戦中におけるオランダの市民と兵士の経験を忘れないし、忘れることはできない。そのときに負わされた傷の痛みは多くの人々の生に暗い影を投げかけてきた。犠牲者に対する嘆きのうめき声は今日までも続いている。牢獄と強制労働と陵辱humiliationの記憶は多くの人々の生活にいくつもの傷跡を残している。

So we will not forget - cannot forget - the experiences of Dutch civilians and soldiers in the Second World War. The wounds inflicted in those years continue to overshadow many people's lives. Grief for the victims endures to this day. Memories of imprisonment, forced labour and humiliation have left scars on the lives of many.

Zo vergeten wij ook niet - zo kúnnen wij niet vergeten - de ervaringen van onze burgers en militairen in de Tweede Wereldoorlog. De wonden die in die jaren zijn geslagen, blijven het leven van velen beheersen. Het verdriet om de slachtoffers blijft schrijnen. De herinneringen aan gevangenschap, dwangarbeid en vernedering tekenen het leven van velen tot op deze dag.

教わった体操

 昨日は市民大学の講演。『竹取物語』論に入って2度目。広瀬の大忌祭が『竹取物語』の舞台であり、そこには天武天皇と広瀬社の独自な関係の謎がからんでいるという持論を御話しする。これは『かぐや姫と王権神話』で書いたことで、いま考えれば、この本にはいろいろな問題があり、「古代史」の研究者から容易に賛同をえられないのは当然なことであるとは思う。しかし、この広瀬神社と天武の関係の問題を含む基本点については問題の要点をついているという考えは変わらない。

 そこでいろいろ見直しをして新しい問題も発見し、準備に相当に入れ込んだ。『かぐや姫と王権神話』は増補する必要がでてきた。

 それらをすべて詰め込んで話したので、講演が終わって電車に乗ったら、極度に疲労しているのを発見。お聞きになる方も疲れたのではないかと心配である。100人ほどの聴衆だが、同世代、お年の方が多い。先々週は、エレベータのところで、「御疲れのようです。そう無理なさらずに」といわれた。
 帰りの電車でも疲労はとれず、結局、帰途、K君のお父さん、森さんに散髪に行く。
 最初の半分は口も聞きたくなく、脱力、目をつぶり、呆然。
 頭を洗ってもらう辺りから、どうにか話す元気もでてきて、近所の話である。20年前にも少なかった個人商店がさらに消えていき、今後もさらに消えていくであろうという予測。ただ、我が家がよく行く肉屋さんは経済力があって心意気で、よいものをできる限りやすく奉仕しようとしているという実際情報を聞く。ウーム、何もしらずに生活しているなという感じである。

 その後には、身体の相談。少し身体をいじってもらい、いまの状況にあう体操を教えてもらう。肩をまわす体操(手を肩に置くように丸めたまま、思いっきり後方から前方にまわすのを5回、逆回しを五回)、しゃがむ体操(しゃがんで、かかとをつけてつま先を浮かしたまま立ち上がる。そしてまたしゃがんで、今度はつま先立ちで腰を前にだしながら立ち上がる。それを5回)いまもやってみた。たしかに違うのだが、続けられるかどうか。
 この体操のやり方はどこかに本がないと聞くと、そんなものはない。自分でやっているものということ。室内仕事だから意識的に考えないとならないのであるとご託宣である。私も室内仕事だが経験と覚悟と身体哲学が違うということである。そこで上にメモを残した。ありがとうございました。

 肉やさんの隣に、以前は野菜屋があった。すでになくなって15年か。最近は、肉屋さんが地元の農家からよい野菜を仕入れて、店の隅においていてくれる。

 地域にとって個人商店は大事というのは、むかし、地域の運動会でのグループをみていればよく分かった。千葉では、60年代の開発計画がブザマであったのだと思う。

 都市計画らしい都市計画もせずに、土地転がしで手近な利潤を狙う動きを促進した。当時の宅地の無秩序開発とスプロール化をもたらした地域開発計画の責任はいった誰が取るのか。当時の自民党、つまり千葉だからハマコー自民党であって、小悪が巨悪を支えて行動したということである。彼らに責任があるのは明らかであるが、しかし、こういうように地域がなってきて、ともかくそこで生活をしてきた側からすると、無秩序感、無力感にかられる。

 家に帰ってきて、月に一度は行っている蕎麦屋が閉店したという話を聞く。

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