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2014年12月24日 (水)

C・ギアーツのInvolutionと東アジアの近世化

 岩波講座『日本歴史』17巻、近現代3の月報に書いたもの。

この巻には小野沢あかねさんの「戦間期の家族と女性」がのっている。上野千鶴子さんの『資本制と家内労働』におけるフェミニズムと女性史への問題提起に対する歴史学の側からの回答の現状を知ることができる。また「人身売買と家族規範」などをふくむ全体の論調からは、歴史学がなぜ、従軍性奴隷の実態を明らかにすることを、学術の方法の問題として重視するのかを明瞭に知ることができる。歴史学研究会・日本史研究会編『{ 慰安婦]問題を/から考える』も一読を御進めする。

 『日本史の基本の30冊』に曽根ひろみさんの『娼婦と近世社会』(吉川弘文館)を入れるので用意をしているが、曽根さんは江戸期社会を売春社会と特徴づけている。この問題は江戸期社会が明治以降の社会の最大の共通点の一つだったのかもしれないと考えている。それが従軍性奴隷につながる訳だ。

C・ギアーツのInvolutionと東アジアの近世化
 一五年ほど前、『講座世界歴史』の月報への執筆を依頼されたときに「日本は、純粋に封建的な土地所有の組織とentwickeltenな小農民経営をもっており、それによって、……忠実なヨーロッパの中世像を示す」という『資本論』の本源的蓄積の章の注記について論じた。ここでマルクスは、日本の幕藩制がヨーロッパ中世の「像を示す」といっているだけで「江戸期日本=封建制」という図式を提出している訳ではない、この文章を典拠としてマルクスが江戸期日本を封建制そのものと理解していたとすることは無理だというのがその結論であった。「封建制範疇の放棄」という副題をもった拙著『歴史学をみつめ直す』は、この小文を大幅に追補して社会構成体史論の再構築を考えようとしたものである。

 ところが最近、『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』(大谷禎之介・平子友長編、桜井書店)が刊行され、そこに掲載された天野光則氏の論文によれば、上記の文章の情報源にリービヒの『化学の農業および生理学への応用』があり、マルクスは、そこに収められたH・マロンの日本報告をノートし、それを利用したらしいという。そして、マルクスのノートには「日本人は播種や植付のとき、完全な成育にちょうど必要な肥料をあたえる」という引用があるという。この成育の原語を確認したところ、Entwickelungであったのである。

 私は右の小文を書いた段階でも、『資本論』の問題の一節で右にドイツ語のままで残したentwickeltenがもっぱら「発達した」と訳されていたのに疑問をもっていたが、このマロン・ノートからするとentwickelnという言葉は、この語の「包巻きをほどく」という原義に近い「育成する、養成する」という意味を重視するべきものであろうと考えた。もちろん、マロンの報告にはEntwickelungをいわゆる発展に近い意味で使用している箇所もあるが、英語のdevelop=発展のニュアンスは、マルクスの用語というよりも、むしろロストーのような近代化=Take-offという議論の発想に近いように思う。Entwickelungという言葉のマルクス的な用法は、developの本来のニュアンスをentwickeln→envelopeの経路に求めることができるのかなどという、私にはまったくわからない問題をふくめて専門家に教えていただきたい問題である。

 ともかく江戸期の小農を「発達した小農民経営」というのは、点検してみた限りでは、リービヒやマロンの記述からは出てこないイメージである。むしろ『資本論』(第三部五章四節)が日本農業を「小規模な園芸的(gartnermassig、aはウムラウト)に営まれる農業」と特徴づけていることが示唆的だろう。マルクスはリービヒの略奪農業というヨーロッパ農耕についての批判的特徴付けの対局にあるものとして、「育成的=園芸的」などの言葉を使って日本の農法を表現しようとしたのではないだろうか。

 これに対して、日本の経済史学は、たとえば大塚久雄が論文「生産力における東洋と西洋」(『共同体の基礎理論』)において、「西洋」の農業を粗放性と土地生産性の低さ=労働生産性の高さ、「東洋」の水田農業を集約性と土地生産性の高さ=労働生産性の低さによって特徴づけたように、水田農業を集約的であるだけでなく「労働摩耗的」な農耕として描き出しマイナス評価することが多い。しかし、マルクスは、むしろ問題を社会分業論として考えていた。つまり右の園芸的農業を論じた一節で「この方式では、農業の生産性は、他の生産部面から引きあげられる人間労働力の多大の浪費によってあがなわれている」といっているように、本来は工業分野に配分されるべき労働が農業部面で「浪費」されているというのである。彼がこういう事態を「日本の模範的農業の狭隘な経済的存立条件」といっていることは疑いをいれない。

 大塚の論文は視野の広いものだが、このような「労働摩耗」が水田稲作を原初から制約した「生産力的宿命」であるとする点には従うことができない。むしろ春田直紀が生態学的な方法意識に立って、だいたい鎌倉時代から「様々な生業の進展・発生による空間利用の濃密化」が進んだとしているように、それは歴史的な所産であると思う(『民衆史研究』七〇号、春田論文)。私は、これは宮崎市定のいうところの「近世化」の農業分野における現れであると考えており、この問題を詰めていくことによって、大塚と宮崎の議論を統合的に継承することが可能ではないかと考えている。

 ただ、その際にどうしても必要なのは、大塚にも宮崎にもなかった環太平洋史の視点であろう。つまり日本の歴史にはヨーロッパから中国にいたるユーラシアの東西軸のみでなく、環太平洋の西部円環にそった影響、この列島にそくしていえば南北軸というべき軸線の影響も強い。後者をみるためには、B・アンダーソンやC・ギアーツなどの東南アジアをフィールドとしたアメリカの学者の仕事を参照する必要があるが、「近世化」との関係で有益なのは、ギアーツの『インヴォリューション』である。involutionとはevolutionからの造語で、芸術のマニエリズム的な精緻化・複雑化の内に向かう袋小路を表現する用語を借用した範疇であるという。ギアーツは、この用語によってインドネシアの集約的な水田稲作が大きな人口吸収力をもつ方向に特化した生態系システムを表現した。その根本的な経済条件はコーヒーや茶という資本集約的な農業を自己のもとに担保してモノカルチャーを強制したオランダ植民地主義特有の搾取パターン、一種の二重経済構造にあったという観察は正しいであろう。

 しかし、環太平洋世界全体でみた場合、その北西の中国文化圏において同様な過程がすでに一二世紀以降、進展していた。上に「近世化」と表現した過程は、宮崎がマニュファクチャー段階に比定したような宋代中国の経済発展が基軸となって東アジア全域における生産様式の生態学的な稠密化をもたらしたのである。網野善彦が、その時代の日本を「未開」からの最終的な変化と措定し、「資本主義」への傾向を指摘したこともよく知られている。しかし、このような東アジアの動きはモンゴルの世界帝国化を中間項として、結局、ヨーロッパの世界覇権の時代に結果し、一六世紀における環太平洋世界へのヨーロッパの重商主義勢力の登場をもたらした。そして、資本の原蓄は、太平洋の東西に位置するメキシコと日本産の銀をキーにして、近世化の時代に蓄積された環太平洋の富を吸い上げることを主要な内容としていたのである。この時代にmodernが始まり、そこで「血と火の文字で人類史に刻み込まれた」諸問題は今でも棘として突き刺さったままである。こういう環太平洋世界の歴史という観点からすると、ギアーツのいうインドネシアにおけるinvolutionは、より自生的であった東アジアの「近世化」のあとを歪められた形で追尾したものと位置づけるべきだと思う。

 さて、私は、最近、インドネシアの九・三〇事件についての映画「The Act of Killing」をみた。この事件はスカルノ大統領の親衛隊が起こした軍内部での権力争いという説も強いが、真相はいまだに不明で、直後にインドネシア共産党のシンパであるとして同一村落の居住者らが大量虐殺された。ギアーツの本書の発刊は一九六三年、事件のちょうど二年前のことである。ギアーツは、ハーバートの院生として、一九五〇年代にさかんに行われたアメリカ的な地域研究プロジェクトの中でインドネシアに滞在し、この本のもととなる調査・研究を行ったという。今から五〇年以上むかしのことであるが、映画をみていて、環太平洋の歴史家集団というものが「ありうべきもの」であるとすれば、すべての原点にかえって問題を討議するべき時期がきているように感じた。

 おそらく私たちの世代の歴史家が立ち返るべき原点は、B・アンダーソンの『想像の共同体』の背後にある問題、つまりカンボジャのポルポト政権であろう。いうまでもなく、それは「毛沢東」路線といわれた中国共産党の国際戦略に大きな責任があることであり、これに和田春樹氏の仕事によって学術的に確定した朝鮮戦争がスターリン・毛沢東の南進指示に始まったという事実をくわえれば、その巨悪はスターリンに次ぐものである。そしてインドネシアの九・三〇事件は中国共産党には直接の責任はなく、インドネシア共産党は相当に柔軟な路線をとっていたと考えられるものの、両党の関係が緊密であったことはまぎれもない。

 私たちの歴史学が世界史的な視野と理論を取り戻すためには、結局、このような諸問題も視野に入れながら、歴史学的な方法によって環太平洋世界におけるアメリカと中国のプレセンスを問うべきなのだろう。とくに抜本的に考えるべきなのは、中国の歴史とその現在の「社会主義」をどう捉えるかである。いうまでもなく、毛沢東を生みだしたのは日本の大陸侵略であるから、その歴史的巨悪を見つめ、歴史を省察するためには、どうしても長期にわたる総合的な歴史的視野が必要になるはずである。

 私は冒頭にふれた『世界歴史』の月報で封建制概念の放棄という立場を明らかにして以来、峰岸純夫・藤木久志氏などを中心とした東アジア社会構成の共通項を「地主制」に求める議論にシフトしてきた。これは一九六〇年代、超領域的な「アジア封建制研究会」で議論されたものと聞くが、私は、それを封建制範疇から切り離し、国家・地主・村落の関係に根拠を置く独特の国家・地主的社会構成として捉えることが可能であると考えている。中国の全体主義的な「社会主義」は明らかにその伝統を引きずっている。

 それにしても想起するのは、峰岸氏が地主制を論じるには中国だけをみていては駄目だとして、南からの比較視点を強調し、インドネシア地主制を引き合いにだしていたことである。そしてその素材の一つに九・三〇事件で処刑されたインドネシア共産党議長D・N・アイジットの地主論があった。いま峰岸氏の議論の詳細を復元するすべをもたないが、アイジットの議論が中国共産党の「反地主闘争」と深く関係していたことは明らかである。そして、ギアーツに対して、共同体と地主との関係の分析がないという批判があるのを知ると、これは江戸期の村役人=地主の二重性をめぐる議論と同じことだと思う。

 さて、以上、中途半端になってしまったが、もしこれが正しいとすれば、新渡戸稲造・福田徳三以来の誤訳・誤解は歴史学に影響した「資本論の誤訳」としては最大のものであるということになるのかもしれない。それはアソシエーション概念の誤訳がマルクスの社会主義思想の翻訳において致命的なものであったこと(広西元信『資本論の誤訳』)と比べれば小さな問題であるが、それが東アジア的な全体主義的な社会構成に関する議論につながってくるとすると、やはり重大な問題であるようにも思うのである。さすがマルクスともなると、その誤訳のもたらす害悪はスケールが桁違いであるということになるのだろう。

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