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2014年12月14日 (日)

総選挙、左翼と右翼ということについて

総選挙、左翼と右翼ということについて
 先日、このブログで沖縄知事選挙の結果について書き、「保守と革新」ではなく、「保守と進歩」という枠組で物ごとを考えたい。「革新」という用語は曖昧な性格をもっていて、できれば使いたくない。そして「保守と進歩の双方が必要であることは、conservativeとprogressiveと言い直せば明瞭である。そして歴史家は、現実の仕事としては、どちらかといえば直接には保守conservativeの仕事であるというほかない」と述べた。

 これは「左翼・右翼」という言葉の見直しにも関わってくる。この言葉は、フランス革命の時代の議場の座席から来た言葉であることはよく知られている。この「左翼・右翼」という用語も曖昧な言葉であって、そろそろ退場させた方がよいのではないだろうか。

 左翼・右翼というのは、ようするに「現在」に対する態度であって、「過去と未来」をふくむ「時間」には関わらない言葉である。もちろん、一般には、左翼が進歩に結びつき、右翼が保守に結びつくということではある。しかし、現実には、問題はそんなに単純ではない。

 それが「左翼・右翼」という空間に関わる表現をもっていることは、それが現在への態度を強く問う姿勢の位置を示す言葉である事情をよく示している。それはいわば「空間」に関わる言葉、自己の場所取りに関わる言葉なのである。そして左翼と右翼というのは、相互の論争を中心に組み立てられた言葉である。それは直接には現在の捉え方の論争であって、その場合、両者とも、自己を「現在」の支配的価値感情からは離れた位置に場所をとる。

 つまり左翼も右翼も社会の現状に対して突出した位置取りをする。そこには社会の現状に対する強い批判(あるいは憤懣)がかならず含まれる。その憤懣の方向が違うために、左翼・右翼の感情的な対立が生まれる。

 「左翼」は、この社会の現状批判において「知性中心主義」をとる。その知性の中身が本当に客観的なものかどうかは別として、「左翼」というものは、とかく理屈が先行するもの、「角がたつ」ものである。これに対して「右翼」の論理は「分かったようなことをいうな」という経験主義であって、熟知した共同的感情をなによりも重視する心意に立つ。その極点がナショナリズムにいく訳である。

 私は、こういう左翼・右翼という心理は、それ自体としては双方にそれなりの社会的根拠があるのではないかという考え方である。もちろん、私は学者なので、左翼であることを隠そうとは思わない。学者は知性の立場に立って、社会から自立し、それに対して批判を貫き、「理屈」で「角をたてる」のがその職能的な役割である。批判を第一にしない学問などというのは、(それ自体の価値は別として)社会的な意味は極小になる。

 とくに日本のような社会で歴史学者をやっていると「左翼」であるのがいわば常識的なスタンスになる。これは説明が必要かもしれないが、実際、日本社会において歴史学者が「右翼」であるというのはむずかしいことなのである。つまり寺山修司ではないが、「身捨つるほどの祖国はありや」というのが、日本の「民族」の状況である。アジア太平洋戦争の経過からしても、また日本の戦後の支配政党(自民党)がアメリカべったりで「買弁」的、「売国」的な姿勢をとっている関係からいっても、日本には普通の右翼というものが成立する条件がほとんどといっていいほどないのである。そういうなかで、歴史学者は、いわば「保守的左翼」という立場をとるのが普通になっていくのではないかと思う。少なくとも、私はそうであった。
 
 さてしかし、「左翼・右翼」という類別がすでに半分無効と考えた方がよいのは、現在の現実の状況そのものに規定されたことである。つまり、現在の自民党は、10年前の自民党とは大きく異なっている。それは先の沖縄知事選に自民党の元幹事長であり、一時期の自民党を代表していた野中広務氏が翁長氏の事務所に激励のメッセージをだしたということ、そして安倍現首相に対して保守の本流をくつがえし、自民党を乗っ取ったものとして強い批判をしていることなどのみで明らかである。さらに重大なのは、各地域で戦後の自民党の中心を担った政治家たちの一定部分が安倍批判を述べていることである。

 私は、安倍首相の立場は、とても保守とはいいにくいものであることは明らかだと思う。そして安倍氏を「右翼」といえるのかどうかも疑問が多い。その政治手法は国民の代表であり、公僕であるという思想そのものがなく、実際には議会に縛られないことを希望し、さらに今回のような機密保護法を提出しているところからみて法治主義そのものを敵視する立場にいるというほかないだろう。TPPにせよ、経済政策にせよ、あまりに虚構の宣伝に類する発言が多い。そもそもこの人には国民的・民族的な利益というものを大事にしようという発想がないのである。その意味では、少なくとも、その政治手法は、半分、ファシズムに近いというほかないものである。

 もちろん、私は先日の「日本史の30冊」で吉見義明氏の『草の根のファシズム』をとりあげたときに述べた定義に厳密に対応するようなファシズムは、現在の日本社会では成立しがたいと思う。現在、世界でファシズムが実現すること自体が考えがたい。万が一、危険があるとしたら、アメリカが南米大陸との戦争というようなことになった場合であろうが、それは考えがたい。ともかく世界大戦、世界戦争ということがなければ新たなファシズムが体制として成立することは難しいのではないかと思う。もしまたファシズムが来るとしたら、それは世界戦争とほぼ同時tけいなものになるのではないだろうか。これは壊滅的なものである。

 そういう留保をおいた上でのことであるが、安倍首相の政治手法や、乱暴さはファシズム的なものというほかないように思う。

 こういう事態のなかで、「左翼・右翼」という19世紀的な分類法は意味を失っているのではないかというのが、私見である。必要なのは、ファシズム的な思考法に対置するのは、普通の民主主義、あるいは民主主義という言葉に拒否反応があるとしたら、普通の「中道・中庸」ということではないかと思う。

 現在の政治状況では、政党間の連携などを議論する条件はないが、日本共産党と社民党が中枢となって、民主党内部の良識派(ただし私は政治家ではないので、そういうものが本当にあるのかどうかは知らない)を支えて、100議席を超える「リベラルブロック」が野党の主導権を握るという希望を、tokyo democracy crewで読んだ。それがもっともよい短期展望であろうが、そのようなブロックは、中道と名乗ることもできるはずである。その意味では、日本共産党に「中道」の自覚をもってほしいと思う。

 そもそも、「革新」という言葉、「左翼・右翼」という言葉は曖昧でお払い箱にすべきものであるとしても、「中庸」という言葉は、それこそ孔子・老子、そしてアリストテレス以来の正しい言葉として有効なものであって、某政党のような政党が「中道・中庸」を自称するというのはおかしなことであると思う。

大きな海は隔てているものの、アメリカと中国という危険な大国の間にはさまれたこの国で、ファシズムのことを考えていると、ファシズムの対局にあるものが何かということを考えざるをえなくなるように思う。

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