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2014年12月28日 (日)

法学界は何を考えているのかーー「ひとり親、手当打ち切り」にふれて

 
 年末に急に入ってきた仕事がともかく区切りがついて、1時間ほど寝た。他事も多く、やや消耗である。
 先日、法学界はいったい何を考えているのであろうと書いた。今日の東京新聞の記事、「ひとり親、手当打ち切り」(27日)を読んでもそう思う。これは結論まで書いておきたい。

 東京新聞によると、シェアハウスに独身男性がいることを理由に「一人親手当(児童扶養手当・児童育成手当)」の支給がうち切られたというのである。女性は離婚後に、この児童扶養手当・児童育成手当をうけていたが、その後、実家にいる間は受給せず、シェアハウスに入居した昨年四月に再申請した。そのときはシェアハウスには独身男性もいたが、市の担当者の確認のもとに受給していた。バス・トイレなどは共用だが、それぞれの居室は独立というシェアハウスである。ところが、十月に、「都の見解にしたがい、同じ住所の男女は事実婚とみなす」ということになって受給がうち切られたというのである。これは34年前の国の通知(事実婚の判断基準は同居)に根拠があるという。

 こういう公序良俗に反することを行政がやるというのは、まずは行政の責任である。こういうときに、組織内でおかしいと声をあげ、内部・外部告発を行うことは公務員の全体の奉仕者としての義務である。しかし、現在のところ市の担当者は「都の決定だからやむをえない」といい、都は「異性と住所が同じなら、同一世帯ではないことが客観的に証明されないと受給対象から外れる」といい、厚生省は全体の方針には問題がないという。これはようするに上から言われたことをやっているのです、役人はそういうものですという論理である。

 しかし、これが新聞で報道されれば、上記の役人も、家でこういう問題が話題になるであろう。少なくとも話題になる可能性があるということは役人も感じるであろう。そういうことで子どもに顔向けができるのであろうか。

 この役人たちは、日本国憲法を仕事の基準にしているという日常意識がないのではないだろうか。これは憲法のいう全体の奉仕者という任務規定に反することである。

 まず憲法15条。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。○2すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」
 このようなことを行う公務員は本来的には罷免されるべきものである。ジャーナリズムは、このような事柄については、根本的には憲法に反映された国民による公務員の罷免権を代表して発言するべきものである。
 
 次ぎに、第二十二条。「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。次ぎに第二十四条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」

 憲法と婚姻というと、「両性の合意」ということになるが、「家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という部分が重要であって、ここに「住居の選定」とあるのは、英文ではchoice of domicileで、まさにこの「一人親手当」の問題に該当すると思う。
  
 次は第二十五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」である。
 これは生活保護に関する朝日訴訟に関係する条であるが、朝日さんに対しても、自治体行政は憲法違反行為を行った。それは一度は裁かれていることであるが、行政の本質は変わっていないのである。


 憲法に反する行政というのは、語義矛盾であるが、それが現実の行政の一定部分の実態である。先日、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、小役人の悪、「凡庸な悪」について論じるという映画をみた。
 しかし、これは私たちの世代にとっては、とくに新しい知識ではない。フランキー堺という俳優が主演した「私は貝になりたい」という映画は、同じ「凡庸な悪」を問題にしていた。これがナチスの下での官僚の論理であること、また日本の第二次世界大戦を容認し、推進した役人の官僚論理であるということは、ある種の常識であったのではないか。
 
 さて、法学界は、このような事柄についてどう考えているのであろう。私は法学界が法学界として意見を表明することがないのを、アカデミーのあり方としてきわめて奇妙に思う。
 歴史学界は、「歴史を忘れようとする社会」=「日本」に対して、必要なさいは、必要な態度表明をしてきた。それはそれ自身として「政治的な」ものである前に、歴史を学ぶという学者の職能からいって、どうしても必要なこととして述べてきたのである。歴史を忘れないということのために歴史学は存在するのであって、忘れようという動きについて、おかしいというのは学者の給料分の仕事である。

 憲法を行動基準としない行政とそれをもたらす社会の構造や政治に対して、法を研究する学者がどのような態度を取るかというのも、その職能に関わる問題であるはずである。先日述べたような法治主義に反する政治の動きに対しての意見表明も同じことである。これは学者としての職能的な責任という意味での社会的責務であって、必要な時、必要な時に、問題を明瞭にすることは学者の協同体として必須のことであるはずである。
 
 もちろん、法学界の中には普通の神経をもった学者がおり、必要なときは個人としてあるいは個人の集団として見解を表明していることはよく知っている。しかし、問題は全体としての法学界に、そもそも上記のような認識が消失していることである。
 
 これはもとより、法学というものの社会的な性格に根付いたことである。つまり、法学の世界には、法曹界(裁判官・検事・弁護士)という職業世界があり、それを媒介とした企業・行政などの現場があり、大学の法学部は、それらに複雑にからめ取られている。そのおのおのは「たこつぼ」構造をなしており、特権と利害によって「たこつぼ」が固められて身動きがとれないようになっているのである。幻想の上では、学術としての法学あるいは法学者は、この特権構造の中枢にいるのであろうが、実際には、飾りにすぎないということになっているのではないか。

 このような構造から相対的に離れた法学界の協同体というものがなければならないはずである。法学界には大学毎の学閥からはなれたインターカレッジな権威のある職能的な性格をもった学会・学界(たとえば歴史学の場合の歴史学研究会や日本史研究会のような)というものが存在しない。
 しかし、なにしろ問題は、日本社会が憲法にもとづく法治主義が非常に弱く、しかもそこからさらに外れつつあるという状況もあるという問題である。もちろん、このような認識には異議がありうるであろうが、問題の性格が深刻なものであることだけは一致できるはずである。これを学術としての法学がどう考えるか、法学の協同体がどう考えるかというのは根本問題である。その認識を前提にして、はじめて法曹世界との職能性、専門性のうえでの関係がありうるはずである。

 問題は「憲法を行動基準としない行政」が日本社会において根強く続いているということであって、そろそろ、現在のような法学界の状況それ自体が、このようなゆな憲法状況あるいは法状況を支えているのではないかという自己分析がでてきてもよさそうに思う。いま問うべきは「日本人の法意識」ではなく「日本法学界の法意識」であろう。

 それができなければ、ようするに法学は誤用学問(これは変換ミス、御用学問)にすぎないということになるだろう。そのような実情を直視せずに「法科大学院」構想に突っ走ったのはやはり誤りであったと思う。ようするに自分の利害に関わることだと動くが学術の社会的責任にかかわることでの動きはできないというのは大人のあり方ではない。

 私は、3,11の後にはまだ東京大学にいたので、大学が全力をもって問題に取り組むということがありうるのではないかと若干の期待をした。しかし、東大法学部には、それらしい動きはなかった。一定の時間がたった現在、そろそろ、どの学界も、自分たちは、いったい何を考え、何をやったかということを考えてオープンにするべき時期である。
 ともあれ、大学法学部は、実際上、実用法学以上の学的な権威を社会科学・人文科学のなかで失っている。それを自覚していない訳ではあるまい。それが社会的責務に対する曖昧な感覚と結びついていることは明らかである。
 そのような状況は、他の社会科学・人文科学あるいは哲学や社会学の立場から集中的に批判を加えるべきものと思う。

 さて、年賀状にかかろう。来年はもう少しゆっくりとした年末を迎えることができますように。

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