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« 総選挙、左翼と右翼ということについて | トップページ | 遠山茂樹『歴史学から歴史教育へ』 »

2014年12月15日 (月)

 総選挙の結果。法学界・政治学界は猛省を 

 先日、『草の根のファシズム』について書いてから考えているが、吉見義明氏の議論は一言でいえば、天皇制ファシズムの特徴は、それが戦争の加害経験を中核として形成されたファシズムであったということであろう。

 Creeping Fascism(徐々に迫ってくるファシズム)という概念に対して、戦争先行形ファシズムということであろう。「満州事変」という戦争によって、また日清・日露以来の戦争によって作られていったファシズムということでいえばCreeping Fascismという考え方と背反する訳ではないが、こういう考え方は天皇制ファシズムを考える上で重要であろう。この戦争先行形ファシズムを明瞭に考えることによって、Creeping Fascismの姿も明瞭になるのかもしれない。

 さらに、この戦争先行形ファシズムという概念は、今後の心配されるファシズムの基本的な形であろうと思う。

 現在の安倍首相グループの動きはやはり右翼というものではないと思う。右翼というものは、たとえそれが仮想的なものであったとしても、共同体や民族の利害の無視に対する憤懣をふくんでいる。安倍首相グループの動きは、あまりに資本とアメリカの利益に結びついた動きであって、それ自身としては政治思想的な背景を欠いている。ともかくTPPが信じられない話である。日本の自然と農業を破壊してはじない人々を右翼というのは無理である。

 ファッショ的とかファシズムとかいわざるをえないのだが、実際に彼らにそれだけの覚悟も論理もないようにみえる。だからファシズムなどというと、大げさなという反応が返ってくるのであろうが、しかし、 けれども、こういうのもファシズムなのであろうと思う。
 つまり、東アジアで戦争が起きる可能性は少ない。アメリカが中国と戦争しようというはずはないし、アメリカはともかく「かしこい」からそういう計算のあわないことはしない。東アジアの戦争にアメリカが取り組むことはありえない。アメリカは東アジアで戦争をしてももうからないのである。

 問題は結局、ユーラシア中央部でのエネルギー、石油問題のからんだ戦争である。そこで戦争が進行中であり、さらにまた新たな形で拡大する可能性は、アメリカの動きからみて十分にありうることである。そしてアメリカが戦争をすれば、今度は日本が派兵をする。安倍グループのやっていることはアメリカの戦争に同行するということである。若干の過言をいえば、戦争では協力するから、若干のことは多めにみてほしい。そして、一緒に儲けさせてくださいというのが彼らの本音である。

 21世紀にもう一度激しい局地戦争が起き、それが複雑化してこじれ、広域化する可能性は十分にあると考えておかねばならない。もちろん、その可能性は低くなっているとは思う。ヨーロッパ・アセアン・南アメリカが独自の動きをみせており、そういうなかで戦争が複雑化する可能性は減少している。けれども中央アジアから中近東は、アメリカ・ロシア・中国の利害と衝動によっては、やはり依然として危険である。

 そこにアメリカの手下のようにして出ていき、戦争とテロのなかに日本が入っていけば、そういう「戦争」が先行すれば、日本の社会のなかでファシズム的な異常が激化する可能性はある。ヨーロッパは、アメリカの戦争に荷担するなかでテロ攻撃をうけたが、あの社会はドライなところがあるから、情緒的な動きには展開しなかった。日本で同じことがあれば、空恐ろしい。

 単純すぎる見通しかもしれないが、戦争先行形ファシズムという吉見氏の議論が重大であり、気になるのは、このためである。


 総選挙の結果がでた。もう生きている内に、何度、総選挙があるかという年齢になってきた。こういうことも自分で記録してメモをとって忘れないようにしないとならない。

 ということでいちおう、記録しておくと、自民党が改選前(二九三)から2議席減らし、公明党4議席増。全体として公示前より2増、民主党が11増、維新は1議席減の41。次世代の党が19から二議席に減らして壊滅状態。それに対して日本共産党が13増、社民が2議席を維持、生活の党が5から2に減少という議席結果である。投票率は、まだ知らない。

 共産党は躍進し、民主党もともかく議席を増やしたということであるが、安倍氏は、これで九条改憲に突っ走ろうとするであろう。TPP承認と消費税で日本経済と国土は破壊的な影響をうける可能性も高い。日本共産党が13増、社民と生活の党が2議席。政策的に近いこの3党でも25で、維新・公明党に及ばないというのは残念な結果である。自分で何をした訳でもないから残念な結果といってもしょうがいないが、しかし、ともかく、いろいろ議論が進んだようにみえるのは気持ちの底に暖かいものが流れる。若い人々の動きには感動させるものがある。

 
 投票率52パーセントのうち自民党の支持は半分か。安倍氏は、国民の25パーセントの支持で「大勝利」として突っ走るのであろう(注記比例は自民党は33パーセントということであるから、純得票率は17、16パーセントとである!)。
 これはすべて小選挙区制という虚偽の選挙制度の結果であり、小選挙区制が虚偽を作り、安倍的ファシズムの条件を作ったのである。


 これを考えると、私は法学・政治学の諸氏は強く反省してほしいと思う。ようするに、日本の法学者のなかでは、相当の人々が1994年、いまから20年前、小選挙区制に賛成して動いた。これを厳密に考え、批判すべきところをはっきりと批判・嘲笑し、反省すべきところは反省してもらわないと、学術世界の責任の取り方が曖昧になり、筋が通らない。

 もっともどうしようもなかったのが、元東大総長の佐々木毅氏である。最近、『中央公論』で安倍氏に対する苦言を述べているらしいが、小選挙区制を作った論功行賞で政府から受けがよく、受けがよい人を総長にしておけば、いいことがあるであろうという世俗計算の支持をうけて東大総長になった人物である。私も会議などで見たことはあるが、その場を処置するのはさすがに頭がいいようにみえるが、学者としてたいした業績がある訳ではない(佐々木氏は国立大学の独立法人化を容認・推進した責任もあり、諸悪に根元的責任がある。明瞭な批判が政治学界からないのは事なかれ主義の表現である。政治学が事なかれでどうする)。

 もう一人は山口二郎氏であって、しばらく前の東京新聞コラムに、いまでも小選挙区制導入に賛成したことを反省していないというのを知って驚いた。「国民は小選挙区制の使い方を知らない」というのである。彼の考え方では、国民がかしこければこんなことにはならなかったというわけである。もちろん、山口氏のいうことで尊重されるべきことも多いが、しかし、こういうのは学者には許されない無責任であって、自分の言論に責任をとろうという姿勢ではない。お調子ものというほかない。

 もちろん、私も小選挙区制導入時に、法学者の多数は常識的な立場をもっていたことを記憶している。あのとき法学者の側で、小選挙区制導入と二大政党制という幻想にそって強い発言をしたのは、右の両氏である。

 これは端的にいうと、川島武宜・我妻栄・丸山真男の後の東大法学部がどこかおかしいということである。そしてとくに駄目なのが政治学であるということは学術世界にとっては、ようするに丸山後継が駄目であったということであるように思う。

 そして、それは丸山の学問自身に若干の問題があったことを示すのではないかというのが私の持論。

 もちろん、丸山の議論には重要な論点もある。しかし、私は、抜本的な検討が必要であろうと思う。要点は以下の三点。

 第一はそもそも「無責任の体系」という図式が安易であったということである。『現代政治の思想と行動』でもっとも失敗した議論が天皇制ファシズムを「無責任の体系」として批判した部分である。これが日本的な批判の心情にぴったりしていて俗耳に入りやすく、議論として浸透したことにすべて意味がなかったというのではない。しかし、責任の体系と意思決定の詳細を事実にそくし、構造的に明らかにしないままでの「無責任」論は、所詮、評論にすぎない。そもそも戦前の体制の「無責任」は、より即物的に容赦なくいえば「無知・無能・無謀」の結果、コロラリーであることを本質とするということも忘れてはならない。

 第二に歴史論にふみこんで言えば、丸山のファシズム論は、ファシズムが、人間のもっとも野蛮で倒錯的な欲望を大衆的に組織することを鍵とし、その中枢には政治思想というよりも虚構に虚構を重ねる奇怪な無思想、「神秘」と非合理の妄想世界が実在するという事実への省察がかけている。彼には奇怪なものがわからないのである。

 丸山はナチスと天皇制ファシズムを「下からのファシズム」「上からのファシズム」などと図式的に区別するのみで、天皇制ファシズムが「下の野蛮」を組織したということを無視している。これは丸山の学問の弱さである。

 第三にそもそも歴史学の立場からは、丸山の議論は経過的な評論に近い部分が多く、すべてを決定的に精算する必要がある。私の分担では、「歴史の古層」の論文であって、その中核は神話論であるが、これは、到底、容認できないということがあり、そういうこともあって、私は、いま神話論に取り組んでいるということになる。丸山は神話は理解できないような人格であったというほかない。
 丸山の仕事に大きな意味があるのはわかっている積もりで、とくに私たちの世代にとっては、ほとんどはじめてよむ本のなかに丸山が入っていた。しかし、そろそろ卒業したいものである。

 さて、今回の選挙に戻ると、それにしても「知識人」といわれる人のなかに、「もうあきれて投票しない」とか「棄権も必要だ」などという馬鹿なセンチメンタリズムがあるのは信じられないことである。これは売文業者、売文化業者のいうことである。職能としての学問・文化に対する責任というものを感じることができない。こういう「もう投票しない」という声を意味ありげにいう人は、小学校に戻って勉強しなおした方がよい。
 諦め。それこそがCreeping Fascismのもっとも重要な要素であるという初歩的知識もないのだ。

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