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2014年12月 1日 (月)

キルケゴール的な「個人」

 文明なるものの進んだ今日、永遠なるものを人間と同じような姿や感情をもつ神の姿において考えるのは、擬人的な神概念であって時代遅れだとされる。ところが、永遠なる存在に審判者としての位置を想定する場合に、それを普通の裁判官あるいは最高裁判所の裁判官と同じようなものと考えることは、別に時代遅れであるとはいわれない。そして、その場合、普通の裁判官は、それほど広汎にわたる事件を処理できるものではない。それは永遠の世界も同じであるという錯覚が滑り込んできて、広汎な審判が個々人の内面にまで及ぶ厳しさをもっていることが曖昧にされる。人々も一致して、しかるべき立場の人にもこういう錯覚を共有してもらって安穏を確かめたいということになる。そしてもし、あえて異説を主張するような個人、自分自身の生をわざと恐れとおののきによって不安で気の重いものにし、さらには他の人々も巻きこもうというような個人がいたら、彼を狂人扱いにして、必要なら死んでもらおうという訳である。その場合、我々の方が多数でありさえすれば、それは何も不正なことではない。多数者が不正をなしうるなどということこそナンセンスであり、時代遅れの妄想である。多数者のなすところ、それこそが永遠なるものの表現であるという訳だ。

 久しぶりに旧職場に向かう総武線でブログを書いている。上記は最近凝っているキルケゴールの翻訳しなおしの仕事。『死にいたる病』の一節である。キリスト教や神という用語をできるかぎり省略し、訳語を変えるというやり方で読んでいると、どの文節もそのまま現代思想として通用するのが面白い。ギリギリまで、その作業をしてみてから考えてみたいことがいくつかある。キルケゴールは断片的には拾い読みしたものの、『死にいたる病』のほかは、『哲学的断片』『誘惑者の手記』くらいしか読んでいないが、それらをふくめて来年は読み直してみたいものだ。
 
 今年も年末が近づいて、賀状をだす季節となった。私はずっと「核時代後」という私年号を使っているが、これもキルケゴール的な「個人」ということになる。

 実は、さきほど必要があって銀行へ行って用をすませたが、用紙の書き込み枠に「和暦」という注記による限定があった。そこで欄外に「西暦」を記入しておいたところ、窓口の女性が、「平成云々」というので、そっちで記入してくれますかといった。不思議そうな顔をしているので、「悪いけど元号は覚えないようにしているので」と説明。彼女は面白そうな顔をした。

 「悪いけど」というのはただの挨拶であって、歴史家としては当然のことである。元号をどう考えるかは歴史観の原則問題に関係していて、それについては不本意な意識の使用や不要な妥協はしないというのが(私見では)歴史家にとってほ根本的な問題。私は時間の永遠性の感覚を日常的に維持するためには、西暦しか覚えないというのが次善の策であると考えている。

 もちろん、職場などの共同性のある場所では、事務情報の形式については学者としての個人意見を押し通すことはしない。事務情報をあつかう側には、事務処理形式を判断する権利があって、社会的慣習のままでやっていく権利がある。実際、日本の世俗社会のコンピュータシステムが元号で統一されている以上、それはやむをえない。そういう世界から解放されたことをつくづくありがたいと思う。

 しかし銀行のような商品経済関係、市民的経済関係で元号を強要されるのは不快である。本来は、そのような銀行とはつき合わないというのが原則的な生活態度というものである。そもそも元号と西暦の変換システムを日本のコンピュータシステムが内在しているというのは巨大な無駄である。システムの開発・装備・維持などで、これまでどれだけの社会的資源が無駄にされたか。経済とは過去将来の小さな無駄を排除する計画性をいうはずである。こういう意味での経済が日本の社会生活に根づくのにはあと何年かかるか。

 核時代後という年号表記が、今後、どこまで根づくかはわからないが、しかし、この問題が十分に筋を通して処置されることは、私のような立場からすると、社会の進歩をはかる重要な指標である。

 我が国の首相は、テレビの街頭インタビューで自分のやっている経済「政策」が不評なのを聞いて、「もうかっている人はもうかっているといわないものです」、インタビュアーが偏っているといったということである。
 「もうかっている人はもうかっているといわないものです」というのは通俗的な拝金主義者(ローマ法王の言葉)の日常感覚である。この人はそういうのが自分の実感なのであろう。
 それを自分の政策が不評という国民の声にj反論して口に出すことが一国の首相にふさわしいものとは思えない。この人は国民の代表という意識がないのである。この人は、自分の属している身分集団の常識と被害者意識を垂れ流している。自分の属している集団が一種の身分集団(世襲政治家集団)となっていることを自覚していない。日本国のためにたいへんになげかわしい。
 
 
明日は京都。朝の新幹線で30冊の原稿を一つ仕上げないとならない。

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