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« キルケゴール的な「個人」 | トップページ | 総選挙、左翼と右翼ということについて »

2014年12月14日 (日)

総選挙、政治には絶対はないが、社会には絶対というものがある。

 総選挙ということである。選挙のときの政党選択は、基本的に、その時の最大の社会的問題にそって判断するべきものであると考えるが、今回の場合の絶対条件は、第一に沖縄の人々が、普天間基地の撤去について、県知事選挙で示した要求をどう考えるか、第二は東日本太平洋岸地震の被災地域の復旧と原発の大事故をどう考えるかであろう。この問題は原発の廃棄を選択するかどうかである。

 総選挙というのは、生きているうちにあと何度あるだろう。ともかくメモを残しておきたい。

 もちろん、多くの考えるべきことがあるが、しかし、この二つは沖縄県知事選と福島県知事選という直近の選挙の結果と政党の動きに関わるから、ここを基準として考えることが適当であろうと思う。
 沖縄では先日の知事選挙において、翁長那覇前市長が県民全体の33パーセントの支持率で当選した(投票率64パーセント)。仲井真前知事に10万票の差をつけた圧勝である。」衆議院選挙では、この知事選の確認団体が協同で、日本共産党・社会民主党・生活の党そして県議団からなる選考委員会で決定されたという元県議会議長、自民党県連顧問の仲里氏の四人を全衆院選挙区に立て、全員当選を目指すことが確定した。
 問題は福島だが、この10月の県知事選挙では、内堀雅雄前副知事を自由民主党、民主党、維新の党、公明党、社会民主党が支援し、元宮古市長の熊坂義裕氏を日本共産党、新党改革が支援し、内堀氏が全県民の30パーセントの支持率で当選した(投票率46パーセント)。熊坂氏と井戸川克隆氏、さらにほか3人の候補は脱原発を主張したが、熊坂氏は全県民の8,3パーセントの支持率にとどまり、井戸川氏などもふくめて全県民の14パーセントの支持率にとどまった。当選した内堀氏も県内原発の全基廃炉をいうが、自民党・民主党の支持をうけながらのものである。

 私は、社会的な問題を判断するときには絶対的な判断が可能であると考える。沖縄の米軍基地の撤去と、原発の即時停止、そして地震津波災害からの復旧は優先的な必要であり、絶対的な正統性をもっている。ここに日本社会のもっている自由なエネルギー、剰余エネルギーのすべてをまわすべきものである。困難はあり、無理はあっても、その道を通じてしか社会を維持する道はないと考える。
 もちろん、ここで振り向けられるべき「自由な社会的エネルギー」がどの程度のものか、そのエネルギーをどう使用すべきかについてはさまざまな意見はある。これは議論の対象である。しかし、米軍基地・原発の即時停止・災害復旧は絶対優先課題ではないという意見にはどのような意味でも賛成することはできない。このレヴェルでの「あれか、これか」という差異は絶対的である。もちろん、その意見は自由である。また中間的な意見というものはつねにある。しかし、事柄自体は絶対的な問題であると思う。

 政治の基本は政党選択である。ここからすると、今回の全国選挙、衆議院議員選挙における政党選択は上記の直近の重要選挙からの論理的な帰結として、日本共産党を選択するという狭い範囲に狭められる。いわばお寒いことではあるが、これが日本の政治の現実である。
 民主党という選択肢は、この党がここ10年やってきたことからしてまったくありえない不毛の選択である。この政党は、明瞭な自己の基本政策上の誤りについてさえ正確な総括を述べないことが決定的である。(マニフェストには沖縄の基地反対はなく、「日米同盟深化」「在日米軍再編に関する日米合意を着実に実施」とある。消費税増税は延期とあるのみ。機密法自体には賛否をいわず)。また問題は社民党であって、この党は、沖縄では役割を果たしながら、なぜ福島県知事選で、上記のような選択をしたのか。この党の責任は大きい。
 いま必要なのは基本的な選択である。数をどうする。ああなればこうなるというような希望的選択ではない。沖縄の米軍基地と原発の即時停止には、そういう種類の選択では越えることがない客観的な壁がある。体制的な壁がある。それをよしとする力は強力な体制として厳存している。

 政治は代表ということである。政治が社会を代表するというのは、ただ代議制ということのみであるのではない。代表するという役割は、どのような社会でも、どのような問題でも必須なのであって、「直接民主制」においても代表はつねに必要である。しかし、代表を固定しない、代表を身分的に固定しない。社会を構成する全員が代表性をもっているというのが社会の進歩である。社会は無限に多様であって、その無限な多様性を全体として認識することはできない。認識したとたんに無限な多様性は私たちからずれていく。

 政治には絶対はない。政治は社会の判断を反映すべきものであって、政治の場面に自足して正統性が問われることは本末転倒である。その意味では政治はつねに相対的なものである。政治が個人にとって絶対的なものとなるのは、政治を職業としてそれで生きている人々、政治家・政党人・専任活動家などのみである。彼らにとっての政治は個人責任であり、絶対的なものでなければこまる。政治家というは、ようするに非生産労働である以上、仕事については何をいわれても甘受すべきものであることはいうまでもなかろう。彼らは社会的にいえば「ただめし」食いを許されている存在なのである。
 労働の結果が有益かどうか、有用性をもつかどうかは、学術生産においては予定できない。そこに学術生産の特殊性があるといわれたのはギリシャ史の太田秀通先生である。その意味では学者もただめし食いをゆるされた存在である。ただ、学者の場合は、社会におけるさまざまな専門性を通じて労働の諸分野と間接的(あるいは直接的な)な関係を維持している。それは専門性のネットワークに直接に属していて、その意味では労働の一分野である。それはその範囲では「生産的労働」の形をとっているといってもよい。
 それに対して、政治家・政党人・専任活動家は決して生産的労働ではありえない。そういう意味でそれはいわば「あれかこれか」、「ただめし食い」であるだけに、逆にいわば無限責任の重大な仕事なのである。

 日本共産党については、あくまでも政治組織、社会の利益を代表する組織であって、いわゆる「世界観政党」ではないことを確認してほしい。そういう意味での「ただの」政治組織に徹っすべきだし、「国民の党」という自称は正しいと思う。

 丸山真男は古在由重との対談に後記して「周知のようにマルクス主義の世界観においては、哲学と科学と革命運動とが三位一体をなしている」(『丸山真男対話編』1)と述べているが、すでにそういう時代ではないはずである。

 堀田善衛の『若きの詩人たちの肖像』(171頁)には、反戦活動をする山田喜太郎君に対する違和感が語られている。「反戦活動と社会をひっくり返すための理の筋としては、マルクス主義は、この二つを兼ねうるものとして唯一無二のものであるとは思っていたが、芸術にまではとても無理があると思っていた」「一つの理でもってなにも全部を律することは必要でないと思っていた」とあって、若者の言葉として「文学や芸術のことは、男女の仲と同じで、そっちのことよりももっと手間も暇もかかるよ。そっちの革命ができてからでも駄目かもしれないと思うよ。そして駄目でもいいんだと思うんだ。駄目だからいい、というふうに、いまにマルクス主義の方から判断をするという逆転期が来ないとも限らないよ」とある(なお、この山田喜太郎という名前は山田盛太郎と西田幾多郎をあわせたものではないか。いい冗談とは思わないが、堀田のやりそうなことだと思う)。
 ともかく、社会・自然・人文諸科学をこえた独自な「マルクス主義哲学」なるものは存在しえない、必要がないということは、19世紀以来の経過のなかで、すでに明らかではないかというように、私は思う。論理学と「弁証法」があれば十分だとは思わないが、私は、フォイエルバハ・キルケゴール・バタイユなどの哲学が好きで、それで少なくとも当面は十分であると思う。必要なものは、マルクスのみでなく、上記のような哲学者の考えたであり、さらに禅宗を初めとした東洋思想や神話をふくめた自然思想を含め、すべてはそれらのその先にあると思う。少なくとも歴史学者としてはそういうことである。

 なお代表の論理はキルケゴールのいう「権威」の論理の裏側をみればよいのだと思う。みごとな文章なので忘れないように引用。
 「ソクラテスの考えからすれば、ひとりひとりの人間が自分自身のうちに中心をもっているのであって、全世界はひとえにこの自己という中心にたいして存在する。なぜならば、人間の心(自己認識)は、かならず一つの神への通路だからである。ソクラテスはこのように自分自身を理解した。そして、彼の考えによれば、どんな人間もこのように自分自身を理解すべきであり、そしてそれにもとづいて他の人間に対する自分の関係を理解すべきであった。すなわちいかなるときにも、一方ではへりくだりを、他方では誇りを、両々相持すべきであった。牧師先生が教会の小使いより少しばかり偉くて、どんな人間でも他人に対して権威を振り回している現代からみれば、なんと類まれなることよ。しかも、今日、それらの差別とそれらの無数の権威とがすべて「媒介されて」世をあげての狂気の沙汰と化し、「全員遭難」の惨事を引き起こそうとしているのだ。というのは、これまでいかなる人間でも、ほんとうの意味で権威であった者はけっしてなく、また権威となることによって他人に益をもたらした者や、自分に頼ってくる人間を本当の意味で引っぱっていくことのできた者もおよそいないのに、その大それたことが、別の方法をとることによってみごとに成功するからである」(「哲学的断片」)。


 ついでのメモ。『若きの詩人たちの肖像』には戦争中に上智大学のカソリックの研究所で古在由重・戸坂潤・三木清などが仕事をしていることに、若い詩人が「奇異」の念をもっていた様子が描かれているが、しかし、この研究所の実際は、上の対談における古在の述懐で詳しく知ることができる。両方をよむことができるというのが時間の経過と言うことなのだと思う。
11月24日の記事ですが、トップにおいておきます

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