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2014年12月26日 (金)

何が「想定外」であったのか。

Zunomi


 貞観地震(869年)の津波の浸水(左側)と3,11の浸水範囲(右側)を比較したもの(左側は佐竹建治ほか、『活断層古地震研究報告』(2010)より)。
 ほぼ同型である。

 何が「想定外」であったのか。

 今日の東京新聞の一面によれば、10年前、2009年ごろから東日本大震災と同じクラスの貞観地震(869年)の危険性が原子力安全保安院の内部でも問題になっていた。地震学の側の指摘をうけて保安院の小林勝・耐震安全審査室長が、貞観津波の再来リスクを検討するように保安院幹部に提案したが、「あまり関わるとクビになるよ」と釘をさされた。電力会社の圧力も強いというのである。
 政府事故調に対する証言ということである。
 ようするに、まさに想定外ではなかったということであり、保安院はそれを知っていて無視したということである。 
 
 同じ新聞のラストの面には、「東電、旧経営陣、再び不起訴へ」という記事が載っている。
 昨日の東京新聞には東電に賠償増を要求していた浪江町民のうち、死亡者が238人に達するという記事があった。東電は、これまで2回、和解案を拒否し協議が続いているということである。

 こういうのは仁義もなにもないということであろう。
 まず、公務員については、これはその職責に反する。公務員法にある「全体の奉仕者」という規定に反する行為である。これは普通の倫理でいえば、最低、給料返上ものである。政府事故調査委員会は、そういう趣旨を証言者に対して述べていないに相違ない。
 この保安院幹部とは誰なのか。それは、欧米の(という言い方が残念だが)の議会であれば、当然に議会喚問の対象となる。日本の国会でも、国政調査権を発動するべき問題であることは明らかである。

 「東電の経営陣」は、これで何の社会的サンクションもうけていない。東京新聞の記事には、福島第一原発の事故時の所長であった吉田氏も、津波情報を知りながら、取り上げなかったとある。その間に人が死んでいく。
 問題は、もちろん、これが「犯罪」かどうかということであるが、実態を社会的に明らかにすることと、責任の究明が十分でないというのが、その前提である。どこにどう責任があったかを徹底的に明らかにするという感じ方なしには、その議論はできない。

 法治主義の前提には、ともかくも理屈が通り、物事をあまりに曖昧にしないということがあるはずであろう。ものごとを曖昧にしないために法の権威という物はあるのである。こういうことが続くと(すでに続いている訳であるが)、法というものの前提が崩れる。

 そういうことを法学の方々は、どう考えているのであろう。これを自己の職能が否定されていると感じないのであろうか。こういう風潮は法の否定であるということを感じないのであろうか。歴史学者は、日本の社会について「歴史を忘れた社会」という言い方をよくする。法学界にとっては法治主義の考え方が根付いていない社会という考え方はしないようである。これはどういうことなのであろう。
 こういうことが続くこと社会の耐性のようなものが切れていくのではないか。話の筋が通らないということが社会の局面であまりに赤裸になると、個々人の生きていく上での耐性のようなものが切れやすくなるのではないだろうか。私たちの社会の根本問題である。

 『現代思想』の網野善彦さんについての特集がでた。私も座談会にでたが、そこで次のようなことをいっている。


この八月末、国連の人種差別撤廃委員会(CERD)が沖縄の人々に特有の民族性、「先住民族」としての性格を認め、その権利の保護を日本政府に勧告する「最終見解」を公表しましたね。これが国際常識だと思います。沖縄の世論が大きく動いていて、台湾では学生の民主化の運動が起き、香港でも起きた。インドネシアはジョコ・ウィドドが大統領になり、一九六五年の9・30事件と軍事クーデターの見直しもおきつつある。沖縄のような民族自立的な動きは、東南アジアに連接しているものなのかもしれない。そういう世界のなかで南からの日本というものを具体的に考えざるを得ない。島尾敏雄さんの言うヤポネシアですよね。金子光晴の放浪記を読んでも、そもそも日本にとって東南アジアは、ひじょうに近かったわけです。江戸時代から明治時代にかけて、そういう関係をもっていたのがたいへん大きかったわけです。それをすべて潰したのが第二次世界大戦です。この関係がまた別の形で巡ってきそうな今、網野さんが生きていられたら何をいわれたか知りたいですね。
 なにしろ3・11の原発事故の放射能が太平洋に流れて広がっているわけですから、東南アジアとは海を通じて一体と見ざるをえない。そういう自然条件が、温暖化問題にせよパンデミックにせよ明らかに登場しています。結局人間は自然に教えられて頭をコツンを叩かれて、社会を賢くしていくしかない。それが国際レベルでの「無所有」というものによって迫られる。網野さんがおっしゃっていたことはまさにその問題ですよ。

 たとえば網野さんの無縁論に関連しますが、「無所有」について思うのは、3・11のあと、福島のゴルフ場が東京電力に対して除染の補償を求めた訴訟がありましたが、そのときに東電側がどう主張したかというと「そもそも放射能は無主物だ」として反論しました。無主・無縁の自然というものが目の前に存在していて、そもそもは人間が核エネルギーを引きだしたというのは一つの達成ではあるけれど、それによってこういう事態がもたらされているわけです。これは現代的な無縁の形態ですよ。そのことを歴史的な事実を含めてすべて明らかにするということになると、これは明瞭に歴史理論の領域に関わってくると思います。この歴史理論の部分を社会科学、人文科学全体で共有することは、歴史学にとっては抜かしてはならない課題だと思うのです。

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