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2015年1月23日 (金)

中田考氏の記者会見-アカデミーと教育界が考えるべきこと

 昨日、東京外国特派員協会での中田考氏の記者会見をネットワークからみた。立派な学者が必要な行動をしていることに感動する。

 今朝の東京新聞にはニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏が「二人が解放されるには、二億ドルの支援を中止するか、イスラム国にも公平に支援するかだろうが日本の威信にかかわる問題、難しいだろう」と表情をくもらせたとある。

 中田氏の提案は「イスラム国にも公平に支援するか」というよりもさらに限定的・具体的なもので、「イスラム国」行政下の難民への食料・寝具などの物の形式での援助をトルコと新月社(赤十字社)を通じて送るという提案である。そして「七十二時間で人質に何かするのはまってほしい」というメッセージである。記者会見の最後に、それをふくむメッセージを日本語で読み上げた後に、アラビア語で読み上げた。具体的な反応があるとよいと思う。

 騒然とした状況のなかで学術が何をすべきかということを考えさせられる。騒然とした状況であるからこそ、学術文化の筋の通った主張をしなければならず、それに直面して行動し主張せざるをえない学者の姿勢については、アカデミー全体で支えるべきことであると思う。中田氏がいっていたように、日本はイスラム学が強く、アラビストも多い国である。第二次世界大戦前の思想世界で大きな影響をもっていた高楠順次郎や大川周明がアラビストであったことは学術世界ではよく知られている(彼らの思想が「大東亜共栄圏」に結果したのは別の事情である)。これは世界の学術世界のなかでも意味の大きいことだ。

 こういう時期だからこそ、アラブとイスラムについての正確な基礎知識を提供することが必要であろうと思う。その場合に誰でも思うのは、井筒俊彦の『イスラム文化』を再読することであろうか。井筒が大川周明と関係が深かったことはよく知られている。


 ただ、もっと強調されるべきなのは、おそらく近代自然科学の源流が7-12世紀のアラビア科学にあったという厳然とした事実であろう。歴史家からみると、イスラム文化というものの実態は「イスラム教」ではない。少なくともイスラム教とキリスト教は類似したものであり、両者の類似した宗教的・文化的性格は「十字軍」前後までは明瞭なものであったと思う。ある意味ではキリスト教それ自体もアラブ由来なのであって、「十字軍」は、それをヨーロッパ社会それ自体が自覚していたことを示している。

 イスラム文化の実態は、むしろイスラム文化の下で自然科学(医学・数学)が発展し、またイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』が示すように社会科学の発展も相当のものがあったという事実である。イスラム帝国というものの実態と遺産は、それらの科学・技術の発展、そして科学技術情報の帝国レヴェルでの集中と展開というものにあった。前近代における帝国というものの実態は情報にある。とくに数学はアラビアの数学が決定的な意味をもったことはよく知られている(はずである)。なぜ、数字をアラビア数字というか、なぜ代数をアルジェブラというかは、これは中等教育でかならず教えるべきことである(実際に歴史の教科書にはのっている)。それを歴史で教えるのではなく、数学の授業で教えるべきなのである。

 下記に伊東俊太郎『近代科学の源流』(163頁)から、アル=フワーリズミーの『代数学』から引用する。これは9世紀に成立したものである。書名の『代数学』は直訳すれば『アル=ジャブルとアルムカバーラの計算』となる。アルジャブルとは、数式における「移項」の操作を、アルムカバーラは同類項の整理操作をいう。いま、日本の中学校では「因数分解」ということを教えるが、その時には、これがアラビア科学に由来するものであることをかならず教えるべきなのである。


 神の恩寵に対して、神を讃めたたえよ、神がその恩寵にふさわしいものとなす、神のすすめる行いをもって。神をうやまう被造物の上に、神が課した行いをなしつつ、神への感謝を申し述べる。……
 さてまことに、人間が必要としている計算(hisab)というものを考察したのち、私はこのすべてが数によることを見出した。そしてこれらの数の全ては1(wahid)から合成されていること、(逆に言えば)1がすべての数にはいりこんでいることを見出した。そしてさらに次のようなことも見出した。すなわち、いわゆる数のすべては、1から出発して10まで進んでゆき、そこで1についてなされたのと同じように、こんどは10が2倍されたり3倍されたりして、その10から20や30がつくられ、100の完成にまで至ることを。そこからさらに、1や10についてなされたと同じように、100が2倍されたり3倍されたりして1000までゆく。その後はこのようにして、1000が幾倍かされ、それに(上述の)10箇からなる組(apd―1,2、……10および10、20……100など)の任意のものがつけ加えられて、達せられる限りの数の限界までゆく。
 さらに私は、al-jabrとal-muqabalaの計算において必要であるところの数は、三種類あることを見出した(後略)。 
 
 前半は数論である。これは小学生に数字をアラビア数字ということ、10進法とは何かを説明するときにつかってよい。そして、(後略)の部分には二次方程式の説明がある。中学生・高校生には、この原文をよませて因数分解の説明をすればよいと思う。


 これを小学校・中学校・高校で正確に教えることはきわめて重要であろうと思う。私などは、イスラム学に一部由来する「大東亜共栄圏」の思想を戦争イデオロギーとして喧伝したという過去の経歴からすると、むしろ現代日本の国家的な原則の一つとして、自己批判的に「イスラム文化」を尊重するということを確認しておいてもよいようなことである。そしてその際にはなによりも『近代自然科学の源流』としてのアラビア科学ということが優先されねばならないと思う。

 もそもヨーロッパはアラブから多くのものを真似し、模倣することによって、自己の文化を創っていったのである。「模倣」は型の論理であるから、論理的方法が重視される。それはギリシャがエジプト・メソポタミアの科学を「模倣」することによって論理学を展開したのと同じことである。これは「模倣」が悪いということではない。しかし模倣者は精神的な恩義というものをわすれてはならない。ヨーロッパ学術世界は、そのような世界史的視野を失っているのではないか。少なくとも、そのような世界史的視野と省察は現在のヨーロッパ文化のなかから消失しているように思う。
 
 以上、迂遠な話と思われるかもしれないが、中田考氏の提案がなんらかの形でいきることを願う。その提案の意味を学術の分野をこえて考えていきたいと思う。ともあれ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が「二人が解放されるには、イスラム国にも公平に支援する」と述べていることは中田氏の意見が十分に考慮するべき選択肢のなかにあることを明瞭に示している。

明日は滋賀である。一泊して、沼津へ。富士山がどうみえるか、狩野川の河口の雰囲気はどうか、楽しみであるが、いろいろなことが起きたときに、ともかく予定を守らねばならないというのは気になることだ。しかし、自分の仕事を通じて地盤を耕さねばならに。結局、著書の校正はまにあわなかった。来週になる。Yさん勘弁。

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