BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月

2015年1月29日 (木)

辺野古の状況が十分に報道されない状態が続いている。

 辺野古の状況が十分に報道されない状態が続いている。後藤さんの救出と、それに関わるイスラム国の情報は重要な記事である。救出にむけ可能なすべての動きが進捗し、事態が好転することを望む。
 
 しかし、拙宅でとっている東京新聞には、昨日28日夕刊、本日29日朝刊、本日夕刊には辺野古についての記事がまったくない。

 ネットで他紙の報道をみたところ、毎日のみが、下記のような記事を載せていた。

「防衛局:辺野古に大型ブイ設置 仮桟橋設置へ準備加速」2015年01月29日
 【辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設作業で28日、沖縄防衛局は大型作業船などで臨時制限区域沿いにコンクリートブロックを投下した後、海面から高さ約3メートルの大型の浮標灯(ブイ)2基を設置した。水深の深い12カ所のボーリング調査や事実上の埋め立て工事となる仮設桟橋設置工事に向け、立ち入り制限区域を明示する作業の一環。28日は翁長雄志知事が設置した埋め立て承認の取り消しや撤回を検討する検証委員会の準備会合が開かれたが、国側は移設作業を加速化させている。

 28日の作業は午前9時半から始まり、午前10時半と午後1時半ごろ、大型クレーン船に並べられていた大型ブイが中型の作業船に移され、瀬嵩区側の制限区域沿いに設置された。関係者によると、同様の大型ブイは大浦湾側だけでも制限区域に沿って23基設置されるという。

 米軍キャンプ・シュワブ沿岸の浮桟橋付近では、浮きが付いた足場のような四角い枠を準備する作業も確認された。

 移設に反対する市民らはカヌー16艇と抗議船で油防止膜(オイルフェンス)にしがみつき、大型ブイを設置する作業船や抗議行動を阻む海上保安庁に「作業をやめて」と繰り返し訴えた。午前10時5分ごろには、臨時制限区域外を航行する抗議船が、海上保安庁によって約30分間にわたり、拘束される場面もあった。(琉球新報)

 以上、毎日新聞電子版より

 ところが、最後に(琉球新報)とあるので、気になって琉球新報の電子情報をみたところ、同一の記事がのっていた。正確なところを確認する手段はなく、あるいは紙面それ自身をみれば独自取材もあるのかもしれないが、この限りでは、ようするに、毎日新聞は、琉球新報の記事を転載したということである(これは推測なので御許し願いたい)。

 繰り返しとなるが、こういう状況はおかしい。少なくとも一面に載せるべきことであり、紙面の余裕もあるはずである。

 巨大なコンクリートブロックを投下しているということは海底・海面の埋め立て開始ということである。私には、そこまで言っていいのかどうか、正直なところ躊躇があるが、しかし、この列島のなかで行われていることの基本を知らずに、知らせずに事態が進んでいるということは、マスコミ各紙も事態に荷担しているということではないだろうか。もし、事実そうであるとすれば、事はマスコミ企業新聞社すべてに関わる以上、異様なことである。
 
 イスラム国のテロ行動はアメリカ軍の行動に関わって行われている以上、同時進行している沖縄における状況を情報として提供するべきことは当然のことである。客観的な報道というのは、そういうことであるはずである。

 組織体としてのマスコミ新聞は、そういう通常の判断さえもできなくなっているのか。

 繰り返しとなるが、これは浮き足立っているとしかいいようがない問題で、本格的な検討を必要とする問題であろうと思う。

 なぜ日本のマスコミが、こうなっているのか。正直、私にはよくわからないことで、メディア論の研究者の意見を聞きたいところである。

 まさか各社が記者を沖縄に派遣していないのであろうか。しかるべき経験と見識のある複数からなる記者集団を沖縄に派遣・常駐させていないのではないかといことが疑われる。もしそうだとすれば、企業の最悪の官僚化であろう。

 中東の状況について、日本のジャーナリズムのみが新聞社専属の(あるいは明瞭な契約の下に)ジャーナリストを派遣せず、フリーのジャーナリストに依拠した報道をしてきたという問題があることはよく知られている。(少なくとも態度としては)それと同じようなことが沖縄に対しても行われているということなのかということが疑われる。

2015年1月27日 (火)

この国のマスコミはおかしい。翁長知事の県警への抗議をなぜ報道しない

 昨日、26日、沖縄の翁長雄志知事は、県庁に海上保安本部と県警の責任者を呼んで、新基地建設に反対する市民らにけが人が出ていることに抗議し、警備に当たってけが人を出さないよう申し入れた。琉球新報によると「大変憂慮している」「県民36万人の思いが込められた抗議行動だ。この事実を心掛けて職務をしてほしい」と求めたという。

 この記事が私のとっている東京新聞にはのっていない。東京新聞は3面左側コラムで、前知事が選挙前、そして、選挙結果がでた後にも強行した辺野古埋め立て承認について、同じ26日、翁長知事が検証委員会を設置する方向を示したことについての報道をするのみで、この県警・海上保安部に対する抗議の申し入れにふれていない。他の各紙がどう対応したかは情報をもたないが、多かれ少なかれ同じだろう。自治体の長が警察・保安関係の責任者に抗議したというような重大ニュースを載せないのはジャーナリズムの最低基準をクリヤーできない不見識である。

 なぜ、こういう不見識が生まれるのかが問題だが、第一には、ようするに「騒然とした状況」のなかで、責任のデスクの体制が「何が基本か」を判断できない状況であるとしかいいようがない。これは事態をどう考えるか、賛成か反対かなどとは関係のない良識に属する問題である。良識より「騒然」とした状況それ自体に注目してしまうということなのではないか。第二には、新聞紙面を商品としてみる感覚なのであろう。実際、琉球新報によると、海上保安部も県警も知事の要請に対して居直っているということだから、そういうことを朝から読みたくないという読者も多いのは当然である。良識に反したことが行われているということを書きたくないという心理がはたらくのだろう。

 私は普通の学者なので「騒然」とした状況をこのまない。県知事選挙で県民の意思がでた以上、さまざまな困難はあっても、それにそって粛々と処理を進めるのが普通のことだ。じっくり物事を考えるために、無理なことはやらないというのが常識というものである。仲井真前知事はそういう態度はとらず、また日本の政府はそういう立場をとっていないが、ジャーナリズムが、「無理なことはしない、するべきではない」という立場をとらずにどうするのだということである。少なくともそういう立場から事実を淡々と報告しなくてどうするのだということである。

 こういうのをみていると、そもそもジャーナリズムは「騒然」としたことが好きなのだろう、何という人びとだという感覚をもたざるをえない。騒然としたことが「飯の種」という感覚が日本のジャーナリズムには根付いているのである。やや迂遠なことをいわせていただくと、平安時代、武士は、強盗や山賊を捉えることを職責とし、しかも必要な場合には、強盗・山賊を手下にかかえ、自分自身が強盗山賊をして生きていた(鎌倉時代の『吾妻鏡』に畠山氏の発言としてでてくる)。これはようするに武士は犯罪を「飯の種」として生きていた犯罪身分の一部であるということである。江戸時代の目明かしがヤクザを飯の種としていたのと同じである。何を飯の種とするかという論理は、同じことだ。職能を「天命=ベルーフ」と思わずに、それを無視する形で「飯の種」視しているというのは普通の職業倫理に反する。

 もちろん、沖縄の問題は真っ正面からキャンペーンを張るべき問題である。辺野古で人びとが行動しており、乱暴な「警備」によって怪我する人もでているのである。彼らの主張は、実際に選挙結果を実現するための普通の行動である以上、「普通のジャーナリズム」ならば性根をすえてキャンペーンを張るのが当然である。

 しかし、私は、そこまで要求する訳ではない。問題はそれ以前のことだろう。少なくとも自治体の長が警察・保安関係の責任者に抗議したというような重大ニュースを載せるのは、購読費を支払った読者に対する普通の対価であろうというのである。
 本来、その記事さえ載せないようなマスコミを購入する必要はない。それこそ、琉球新報・沖縄タイムズを毎日ネットワークで見ていれば、それで必要はすむのである。日本社会は本質的に「多忙社会」だから、さすがに、そういうことは忙しくてできない。現在の企業としてのジャーナリズム、マスコミは、そういう隙間と社会の弱さを「飯の種」にして生きているというのが実態であることなのであろう。
 「多忙社会」を「騒然社会」にすることに貢献するジャーナリズムは、「消滅・死滅」していくべき存在である。

2015年1月23日 (金)

中田考氏の記者会見-アカデミーと教育界が考えるべきこと

 昨日、東京外国特派員協会での中田考氏の記者会見をネットワークからみた。立派な学者が必要な行動をしていることに感動する。

 今朝の東京新聞にはニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏が「二人が解放されるには、二億ドルの支援を中止するか、イスラム国にも公平に支援するかだろうが日本の威信にかかわる問題、難しいだろう」と表情をくもらせたとある。

 中田氏の提案は「イスラム国にも公平に支援するか」というよりもさらに限定的・具体的なもので、「イスラム国」行政下の難民への食料・寝具などの物の形式での援助をトルコと新月社(赤十字社)を通じて送るという提案である。そして「七十二時間で人質に何かするのはまってほしい」というメッセージである。記者会見の最後に、それをふくむメッセージを日本語で読み上げた後に、アラビア語で読み上げた。具体的な反応があるとよいと思う。

 騒然とした状況のなかで学術が何をすべきかということを考えさせられる。騒然とした状況であるからこそ、学術文化の筋の通った主張をしなければならず、それに直面して行動し主張せざるをえない学者の姿勢については、アカデミー全体で支えるべきことであると思う。中田氏がいっていたように、日本はイスラム学が強く、アラビストも多い国である。第二次世界大戦前の思想世界で大きな影響をもっていた高楠順次郎や大川周明がアラビストであったことは学術世界ではよく知られている(彼らの思想が「大東亜共栄圏」に結果したのは別の事情である)。これは世界の学術世界のなかでも意味の大きいことだ。

 こういう時期だからこそ、アラブとイスラムについての正確な基礎知識を提供することが必要であろうと思う。その場合に誰でも思うのは、井筒俊彦の『イスラム文化』を再読することであろうか。井筒が大川周明と関係が深かったことはよく知られている。


 ただ、もっと強調されるべきなのは、おそらく近代自然科学の源流が7-12世紀のアラビア科学にあったという厳然とした事実であろう。歴史家からみると、イスラム文化というものの実態は「イスラム教」ではない。少なくともイスラム教とキリスト教は類似したものであり、両者の類似した宗教的・文化的性格は「十字軍」前後までは明瞭なものであったと思う。ある意味ではキリスト教それ自体もアラブ由来なのであって、「十字軍」は、それをヨーロッパ社会それ自体が自覚していたことを示している。

 イスラム文化の実態は、むしろイスラム文化の下で自然科学(医学・数学)が発展し、またイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』が示すように社会科学の発展も相当のものがあったという事実である。イスラム帝国というものの実態と遺産は、それらの科学・技術の発展、そして科学技術情報の帝国レヴェルでの集中と展開というものにあった。前近代における帝国というものの実態は情報にある。とくに数学はアラビアの数学が決定的な意味をもったことはよく知られている(はずである)。なぜ、数字をアラビア数字というか、なぜ代数をアルジェブラというかは、これは中等教育でかならず教えるべきことである(実際に歴史の教科書にはのっている)。それを歴史で教えるのではなく、数学の授業で教えるべきなのである。

 下記に伊東俊太郎『近代科学の源流』(163頁)から、アル=フワーリズミーの『代数学』から引用する。これは9世紀に成立したものである。書名の『代数学』は直訳すれば『アル=ジャブルとアルムカバーラの計算』となる。アルジャブルとは、数式における「移項」の操作を、アルムカバーラは同類項の整理操作をいう。いま、日本の中学校では「因数分解」ということを教えるが、その時には、これがアラビア科学に由来するものであることをかならず教えるべきなのである。


 神の恩寵に対して、神を讃めたたえよ、神がその恩寵にふさわしいものとなす、神のすすめる行いをもって。神をうやまう被造物の上に、神が課した行いをなしつつ、神への感謝を申し述べる。……
 さてまことに、人間が必要としている計算(hisab)というものを考察したのち、私はこのすべてが数によることを見出した。そしてこれらの数の全ては1(wahid)から合成されていること、(逆に言えば)1がすべての数にはいりこんでいることを見出した。そしてさらに次のようなことも見出した。すなわち、いわゆる数のすべては、1から出発して10まで進んでゆき、そこで1についてなされたのと同じように、こんどは10が2倍されたり3倍されたりして、その10から20や30がつくられ、100の完成にまで至ることを。そこからさらに、1や10についてなされたと同じように、100が2倍されたり3倍されたりして1000までゆく。その後はこのようにして、1000が幾倍かされ、それに(上述の)10箇からなる組(apd―1,2、……10および10、20……100など)の任意のものがつけ加えられて、達せられる限りの数の限界までゆく。
 さらに私は、al-jabrとal-muqabalaの計算において必要であるところの数は、三種類あることを見出した(後略)。 
 
 前半は数論である。これは小学生に数字をアラビア数字ということ、10進法とは何かを説明するときにつかってよい。そして、(後略)の部分には二次方程式の説明がある。中学生・高校生には、この原文をよませて因数分解の説明をすればよいと思う。


 これを小学校・中学校・高校で正確に教えることはきわめて重要であろうと思う。私などは、イスラム学に一部由来する「大東亜共栄圏」の思想を戦争イデオロギーとして喧伝したという過去の経歴からすると、むしろ現代日本の国家的な原則の一つとして、自己批判的に「イスラム文化」を尊重するということを確認しておいてもよいようなことである。そしてその際にはなによりも『近代自然科学の源流』としてのアラビア科学ということが優先されねばならないと思う。

 もそもヨーロッパはアラブから多くのものを真似し、模倣することによって、自己の文化を創っていったのである。「模倣」は型の論理であるから、論理的方法が重視される。それはギリシャがエジプト・メソポタミアの科学を「模倣」することによって論理学を展開したのと同じことである。これは「模倣」が悪いということではない。しかし模倣者は精神的な恩義というものをわすれてはならない。ヨーロッパ学術世界は、そのような世界史的視野を失っているのではないか。少なくとも、そのような世界史的視野と省察は現在のヨーロッパ文化のなかから消失しているように思う。
 
 以上、迂遠な話と思われるかもしれないが、中田考氏の提案がなんらかの形でいきることを願う。その提案の意味を学術の分野をこえて考えていきたいと思う。ともあれ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が「二人が解放されるには、イスラム国にも公平に支援する」と述べていることは中田氏の意見が十分に考慮するべき選択肢のなかにあることを明瞭に示している。

明日は滋賀である。一泊して、沼津へ。富士山がどうみえるか、狩野川の河口の雰囲気はどうか、楽しみであるが、いろいろなことが起きたときに、ともかく予定を守らねばならないというのは気になることだ。しかし、自分の仕事を通じて地盤を耕さねばならに。結局、著書の校正はまにあわなかった。来週になる。Yさん勘弁。

2015年1月18日 (日)

21世紀はテロの時代になるのかどうか。

 20世紀は「世界戦争の時代」といわれた。しかし、これと対比すると21世紀はテロの時代になるのではないかというのが最大の懸念である。もしそういうことだとすれば、ちょうど2001年におきた9,11テロによって、テロの世紀の開始が画されていることになる。

 これを考える場合には、二度の世界大戦はかってない破壊的なもので、しかもそれ以外にも20世紀の歴史はおそろしいものであることをもう一度くわしく記憶しなおさなければならない。それを前提としないでは、テロの時代というような時代の特徴付けが正しいかどうかを考えることはできない。

 木畑洋一『20世紀の歴史』(岩波新書) は、20世紀の歴史がジェノサイドと大量迫害殺人、戦争の歴史に満ちていることを示している。この本を読んでいると、これらの戦争・抑圧・内戦にともなう死者の数を数えることは歴史家にとってもっとも大事な作業なのだということを実感する。現代史家の視線は確実なもので、これは基礎的な歴史知識であり、歴史像の基礎であると思う。

 たとえば、私は、第二次大戦後に「二度目の植民地征服」といわれるイギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ列強を中心とした植民地体制の再建の動きがあったこと、その中で大量迫害死があったことを系統的な知識としてはもっていなかった。木畑によって紹介すると、インドネシア独立戦争では、オランダ側がインドネシアのナショナリストに極端な暴力をもってのぞみ、インドネシア側で戦闘員が4万5千から10万人、非戦闘員が2万5千から10万人死んだ。インドシナ独立戦争ではベトナム側の死者が20万人とも40万人ともいわれ、フランス側では、フランス人2万、外人部隊(アフリカ人をふくむ)1万5千、(ラオスなどをふくむ)現地召集が4万6千人の死者である。インド独立は平和的な権力移譲であったといわれるが(私もそう習った)、現実にはこの時のインド・パキスタン分離のなかで暴力事件が多発し、その過程での死者は50万から100万と推定されている。インパ分離がイギリスの植民地支配維持の思惑に一因があったことはよく知られている。アルジェリアでは、フランスのアルジェリア民族解放戦線の動きと悪名高いフランスのOASの攻撃によってアルジェリアの側の死者数は30万から40万に達したという。そして、アフリカのケニヤにおけるマウマウに対するイギリスの攻撃は10万から30万のキクユ族の死をもたらした。これに1948年のイスラエル建国にともなう「大破局・ナクバ」と第一次中東戦争による死者が加わるのである。

 もちろん、ソビエトによる東欧に対する社会帝国主義支配によっても多くの死がもたらされ、さらにスターリン・毛沢東の指示によって発生した朝鮮戦争も、第二次世界大戦後の戦後体制における陣地確保としては、同じ文脈で理解できる(シベリア抑留も同じ要素をもつ)。

 植民地体制からの開放と独立が、この「二度目の植民地征服」を乗り越えることによってようやく実現されたということを忘れることはできない。私は、1948年生まれで、いわゆるベビーブーム世代であって、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争の実態的な記憶はないが、しかし、この「二度目の植民地征服」に関わる記憶は、自然に自分のなかに入っていることを確認した。インドシナのディエン・ビエンフーの戦いの写真や、映画『アルジェの戦い』の記憶は、やや遅れながらも、我々の世代の記憶のなかに根付いているのである。我々の世代は、その延長線上でベトナム戦争をうけとめたのであろうと思う。

 話がずれたが、この意味では、木畑が、20世紀がどれだけの犠牲をもって19世紀、1880年代からの「帝国主義の時代」を乗り越えたかを強調することの意味は重大である。木畑はホブズボームが1914年以降、ソビエトの崩壊までを「短い20世紀」=異様なる時代として総括するのに反対し、1880年代からの「長い20世紀」のもたらしたものを、ともかくも肯定的に考えなければならないという論調を展開する。ホブズモームの理解は端的にいってヨーロッパしかみていないという批判は正しい。世界全体をみて、巨大な犠牲と巨大な変化を確認したうえで議論を展開する木畑の意見を「楽観主義」であるということはできないと思う。私にはまだまだ20世紀におけるジェノサイドと大量迫害殺人、戦争の歴史の詳細を実感するだけの体系的な知識はないが、木畑のいう意味での帝国主義と植民地体制の時代を乗り越えたのだという指摘の意味は重いと思う。

 しかし、その上で、木畑の指摘をこえて考えなければならないことも多いと思う。

 それは第一に、歴史をみるスパンの長さに関わっている。つまり20世紀を人間の異様なる大量死の時代として考える場合には、それが16世紀の世界資本主義の原始的蓄積の時代におけるアンデスとアフリカにおける大量虐殺以来の歴史の到達点であったということを考えなければならないと思う。16世紀以降、人類の歴史は大量死という異常事態がいつ起こるかわからない。それが日常の風景である時代に入ったのである。そして、それは1945年における「核時代」の開始によって現在も続いているのである。

 第二は木畑のいうように本当に「帝国主義」の時代は終わったとまでいえるのだろうかという疑問である。私には、湾岸戦争とユーゴスラビア爆撃は欧米が集団的な帝国主義のイデオロギーと体制を再建したもののように思えるのである。それは古典的な領土分割をともなう帝国主義ではないが、資源独占という意味では、以前として膨脹主義的な未来予測をともなっている。将来を見越した地政学的な勢力圏を確保しようという点では相似した衝動がいまだに諸列強を支配しているようにみえる。それは科学技術と情報技術の知財化のネットワークの経済構造(情報資本主義・知識資本主義)に支えられているだけに不可視の部分が強くなっているが、現実には諸列強世界の帝国的な構造は継続しているというほかないのではないかと思う。

 第三は、それにかかわってそもそも帝国・帝国主義というものをどう考えるのかという問題があると思う。19世紀以来の帝国というものはレーニンの古典的な定義をどこまで維持すべきかは別として経済構造に基礎がある。その膨脹主義が資本主義的な事業拡大の無限の衝動に源由があり、それにもっとも適合的であるというハンナ・アーレントの理解は正しいと思う(『全体主義の起源』)。

 しかし、帝国主義には歴史的な基礎がある。前近代の帝国の基礎があるのではないだろうか。木畑は、帝国を「帝国意識」の問題として描くが、「帝国意識」の源由にあるのは、歴史である。

 こういう観点から言うと、アメリカには、ヤンキー帝国主義のニュアンスがある。ネイティブ・アメリカンズに対する抑圧、アフリカ人に対する奴隷化、南アメリカ支配とアンデス文明に対する虐殺行為の歴史的由来をひく帝国主義である。そして、ヨーロッパ(EC)にも「ヨーロッパ帝国」のニュアンスがあると私は思う。ブローデルやウォーラーステインは12世紀以降のヨーロッパに「帝国性」をみとめず、「世界=経済」構造とするが、しかし、現実には、相当の帝国性があるというのが、近年の歴史学の意見である。外部から客観的にみれば、キリスト教主義を背景とする集合的帝国ー「自由貿易帝国主義」(普通は19世紀についてのみいわれるが、むしろ帝国化がヨーロッパ内戦と外縁拡大によって固定しなかったという要素を重視したい)を考えて何の問題もないと思う。そしてこの帝国が、それに対応して生まれたイスラムの諸帝国の歴史的由来を主張するのが現在の中近東における支配システム(板垣雄三のいう「中東国家体制」。サウジアラビア・カタル・アラブ首長国連邦など)である。2012年の歴史学研究会大会全体会での長沢栄治報告は2011年の「アラブの春」が対峙した中近東の支配体制を欧米帝国主義諸国に従属的に同盟し、危機を自己培養し、腐朽しつつ展開している「アラブ諸国家システム(アラブ的全体主義)」を描き出した。残念ながら、長沢報告を聞いた後も十分な勉強をしておらず、確信をもっていうことはできないが、私は、このブロックも一種の帝国性をもっているのではないかと思う。彼らには世界をみる帝国的な視線と生活様式がある。そもそもイスラム帝国はヨーロッパと同じように一種の多元性をもっていたのではないか。ヨーロッパを「世界=経済」構造とするのは一種のヨーロッパ中心主義ではないかと思う。
 なお、日本については、江戸時代、早くからヨーロッパ(オランダ・ロシアその他)が日本を世界の「七帝国の一つ」(あるいは「六」「十一」とも)とみなしていたという問題がある。江戸期国家もそのような自己認識をもっていたことが明らかにされており(平川新『開国への道』小学館日本の歴史十二、2008年)、それが明治国家の帝国意識にかかわっていることも明らかである。

 十分な知識のないことを述べたが、「21世紀はテロの時代になるのかどうか」を歴史学的に考える場合には、こういう諸問題への見通しが必要なのではないかと考えている。ともかく、依然として持続している帝国の構造こそが、その内部に暴力とテロをやしなう実態であろうと思う。21世紀がテロの時代になるかどうかは、その帝国の構造がどうなるか、どこまで精算されるかにすべてかかっている。そしてそこでは16世紀以来の世界史を理解する歴史像を人びとがどうかたるかも大きい。

 長沢氏は「アラブの春の擁護、民主化支援を介入の正当化の根拠として、覇権主義的な秩序の再編が、現在試みられているのである。たとえばサウジアラビアに対するドイツ。メルケル政権による戦車供与や治安訓練などがその一例である」とし、さらに「社会的混乱を助長することによって、専制的権力の維持・強化をはかる旧体制側の伝統的戦術こそが宗派主義の扇動であった」「19世紀の東方問題以来、この地域における宗派主義の策動は、欧米の介入とたえずむすびついていた」と述べている。
 
 20世紀から残された「帝国主義」は、たしかに木畑がいうように大きく乗り越えられた。20世紀の巨大な犠牲と巨大な変化は、それだけの意味をもっていると思う。それ故にこそ、その実態と戦争の責任を世界的な記憶の構造のなかに定置することが必要なのである。南京大虐殺における殺害の数について、中国政府において30万という演説があったのに対して、日本政府の官房長官がもっと少ない、事態を誇張していると主張したという問題が最近報道された。歴史家から言わせれば、20世紀における大量殺害の歴史はもっとも慎重な議論が必要な問題であることを自覚できない政治家というのは語義矛盾である。少なくとも、このような主張は、南京大虐殺の人数を20世紀のなかで考えるという視野が必要だろうと思う。そのとき、世界各地でおきたジェノサイドと大量殺害の数とくらべて、結局、「それはどこでもあることだ」という姿勢に落ち着いてしまうのか、それとも20世紀という時代がどういう時代であったかを正面から考えるという姿勢をとるかが大きな岐路になるように思う。
 そして、そのような省察なしには、「21世紀はテロの時代になる。20世紀の血塗られた歴史が、その方向への呪縛としてはたらく」ということであろうと思う。
 
 それにしても、フランスにおけるテロに対するフランス国家の対応をみていて、ヨーロッパの時代の終わりを感じる。彼らはヨーロッパに内在する16世紀以来の歴史的責任という感覚が薄い。湾岸戦争に荷担した歴史的罪悪さえもわすれているようだ。その無知と厚顔は計り知れない。
 なにしろ木畑がいうように、2005年、フランスは「フランス人引き揚げ者のための、国民の感謝および国民的支援に関する法」なるものを公布し、アルジェリア戦争のフランス側軍人や引き揚げ者を顕彰したのである。これはさすがに世論の批判をあびて一部撤回されたが、ようするにアルジェリア問題は依然として続いている。彼らはサルトルの思想レヴェルさえ維持することに失敗しているのではないか。

 私たちの世代は、どうしてもヨーロッパの文化・学術・思想についての信頼が深かった。ともかくそれにどっぷりつかっていたのである。私は、ユーゴスラビア爆撃のときにちょうどベルギーにいたが、そのとき、ドイツのハバーマスが爆撃を支持する意見をだしているのを知って、ヨーロッパ思想の混迷状態の深さを知った。おそらくそれがまったく解決されないままなのであろうと思う。

 長沢氏は、報告で、アラブの春と東日本大震災(原発事故)をならべて、「これらの二つの出来事が日本とアラブにとってどのような意味をもつのか。それぞれの社会でどのようにして未来の起点と扱われるべきなのか。歴史学者は、重要な問いに答える責務を負っている。私たちには、この経験に根ざした未来への答えを世界に示す責任がある」としている。一部ではあれ、限られたものではあれ、ユーラシアの東端にいる私たちだからこそ見えてくるものがあるはずだと思う。

 ようやく著書の校正・索引取りが終わりそうで、ほっとしている。今日は日曜日。
 来週は、滋賀県にいくので、帰りに、日曜、沼津に一泊して、沼津の日吉神社を見学してこようと思う。先夏の歴史地震学会で報告した駿河湾奥地震論に関係して、一度はみておきたい。そして香貫山に登りたい。著書の仕事を無事に終えなければ。

2015年1月12日 (月)

左右の全体主義

 年末・新年、仕事がつんでいて自由な文章を書く余裕もなかった。いまもないのだが、明日、久しぶりに地震関係の研究会(東アジア地震の史料蒐集)があって報告なので、頭を変えるために、散歩にでてコーヒーを飲んでいる。
Kokawadera20150112


 私の頭は単純なので、歩けば、そして別の雰囲気の場所にすわると切り替わるようになっている。いわゆる「鳥頭」、三歩歩けば忘れてしまう。
 もう一つは文章を書くことで、瞑想の核を一つつかんで、そこから文章を書くという自動作業に入ることである。もちろん、もっといいのは寝ることである。
 さて、あまり瞑想にふさわしいことではないが、「左翼的な思考」というもののを考えることとすると、その欠落点というものが「全体性」という概念にあるというのはよく知られたことらしい。それは「全体性」を掌握したという思い込みである。「全体がこうである。それゆえに、現在はこうであり、状況はこうである。あなたはこうである。こう行動しなければならない。『敵』か『味方』か、云々」という訳である。
 こういうのは1960年代末の「学生運動」というものにさらされた、我々の世代だとよく知られた論理であって、さんざんやられた。私は、こういう思考方法がいわゆる「左右の全体主義」の基礎にあるという「社会常識」を、そう簡単に馬鹿にしてはならないと思う。左翼の「逆スタ現象」といわれたものと、大江健三郎がいっていた右翼の「宏大な共生感」という奴である。こういう「左右の全体主義」批判という言い方は、たしかに、実際には、あまりに通俗的であり、多義的であって、しばしばただの評論と怠惰あるいは惰性にすぎないことは否定できないだろう。しかし、通俗論理、通俗道徳には真理が宿るのである。
 こういう「左翼的な思考」は習癖的なものなので、必ず醒めるのではあるが、その問題はどこにあるのかというように考える。「左翼的な思考」は全体を知ったという感情の問題であって、真理値の問題ではないということであろうか。その感覚のもっている鋭さは幻覚の鋭さに似ている。いま考えたのは、ようするに全体というものは所詮個人にはみえないということである。当然のことではあるが、全体がみえたときには、それは知識化し、骨化したものとして、それはいわば物体化して石にきざまれた恐ろしい真理の神の姿になってしまう。相対的真理は絶対的真理にはなっていかない。相対的真理は現実の心のなかでは破片のまま骨化していく。それに耐えて、現実の変化と現実に対する実践にこころを開くこと、そこでの協同を何よりも大事にすること、そこで謙虚になること、全体がどうなるかはわからないことを覚悟すること、というようなことなのだろうか。私は『全体性と無限』というレヴィナスの魅力的な題名の本を手に取ったことはない。そのうち時間をみてみてみたいものである。
 さて、『現代思想』ができてきた。網野さんの特集である。座談会にでたが、本当に疲れた。自分の写真がでているが、座談会の途中、頭を通常ではない忙しさでつかうことに疲れているようすの冴えない顔である。
 今月は1月24,25と滋賀県博物館の研究会。1月31日が栃木小山で講演。意外と予定がある。

2015年1月 1日 (木)

核時代という紀年法を使うことを考えてよいのではないか。

核時代という紀年法を使うことを考えてよいのではないか。

 私は、年賀状に、「核時代後」という紀年法を使っている。昨日、大晦日の夜、PCのなかを調べてみたところ、この年号を、ここ20年ほど使用してきたことがわかった。しかし、それがどういうきっかけでそうなったかがわからない。昨日のエントリに「核時代という年号について」という文章を書いたのちに、それが気になりだした。

 こういうときはネットワークのありがたさである。WIKPEDIAに「哲学者芝田進午が提唱したヒロシマ紀元」とあり、鹿野政直さんの『日本の近代思想』(岩波新書)に芝田氏の見解が引用されていることを知った。晩聲社の和多田進氏が鈴木邦男氏にだした手紙から引用する。

 「芝田進午は、日本でヒロシマ紀元を提唱してきた哲学者である。」「哲学者としての芝田は、『核時代の新しい哲学』の樹立をめざした。『それは一党、一派、一宗教、一世代、一階級、一民族の哲学ではなく、人類の哲学でなければならない』」と考えていた。……そんな「芝田進午の教えを受けた和多田進は、出版社である晩聲社の代表である。刊行する書物に『核時代』という年の表記を入れ始めた。第一号は一九八七年末に出版の小関智弘『鉄を読む』であった。奥付には『核時代四二年(一九八七年)一二月二五日初版第一刷』と入れた」ということである
(『メルマガ北海道人』22回、和多田進・鈴木邦男10年目の往復書簡、13回。http://www.hokkaido-jin.jp/mailmagazine/mm_bn2.php?no=22#03)。

 私は国際キリスト教大学の出身なので、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺をされた著名なアメリカのクリスチャン、アリス・ハーズの『われ炎となりて』を、大学時代にはよく読んだ。芝田氏は、アリス・ハーズの翻訳者である。いま、芝田氏の訳したアリス・ハーズ『ある平和主義者の思想』(岩波新書)が手もとにある。それを調べてみると、一九八頁に次のようにある。

 「アメリカの哲学者ジョン・サマヴィル(一九〇五年ー)は、その著『平和の哲学』(邦訳、岩波書店)で、これまでの世界史をいままでのように古代・中世・近代にわけるよりも、原子力時代以前と以後にわけるべきではないかと述べています」

 芝田進午氏は、ジョン・サマヴィルの紹介でアリス・ハーズと知り合ったのであるから、芝田のヒロシマ紀元の思想は、おそらくサマヴィルにまでさかのぼることができるのだろう。これは、少し正確に調べてみようと思う。

 和多田氏は、先の鈴木邦男氏への手紙で、「この状況の下で私たちは生き、暮らしを立て、メディアの仕事をしているわけです。そのことを忘れないために、私は「核時代」紀元を死ぬまで使い続けるつもりでいるというわけなんです」と述べている。それは2007年(核時代62年)のこと、東日本大震災の四年前である。
 私も、この核時代という紀年法は、真剣に考えてもよいことなのではないかと思う。

核時代後という年号について

150101_074900


 今年も暮れる。と書いていたうちに新年となった。

 例年、大晦日まで賀状がずれ込むが、今年は、ともかく大急ぎの仕事が28日に終わり、29日に賀状の処理がすんだ。


 私は、賀状では、核時代後という年号をつかっている。今年は「核時代後71年」と計算した。これは、自分ではじめたのではない。すでに誰かがどこかで使っているのを聞いた記憶があり、それにならった。何となく、それに関わって原民喜の名を記憶している。

 いま、過去の年賀状を調べてみたところ、「核時代後四七年(西暦1992)元旦」というのがもっとも古かった。20年以上、これでやってきた。
 その賀状には、『詩経秦風』渭陽から、下記の詩をとって載せていた。

 我送舅氏
 悠悠我思
 何以贈之
瓊瑰玉佩

 西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影がある。それを将来の将来まで使用するということには、無理があるように思う。ただ広島・長崎におとされる核爆弾がはじめて実験された年が紀元となるのは、なにかつらい感じもする。それはもとより、この列島に関わるだけのことではない。少なくとも、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争についての感じ方が、まずはアジア・太平洋地域で共有されなければならない。それはいまの状態ではむずかしい。

 それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題である。世界史をどう考えているかという問題である。それがどのような区切りの意識になるのか。

 さらに、実際にこのことを考える条件は、原子力発電をやめ、そして廃炉が進み、さらに世界で核廃絶が決まるということが必要になるに違いない。核というものをどう考えるかの一致が必要であり、その意味で「核問題」からの解放が必要である。残念ながら、それはまだまだ先のことである。それまでは、この「核時代後」(広島・長崎紀元)を、この列島の人びとが使用するというのは考え方としてはありうるように思う。

 歴史家としては、年号はリニアーでなければならない。直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと思う。そして、ともかく歴史家としての仕事が、新しい世界史の時間意識を作るうえで、少しでも有効なものとなるように努力したいと思う。

 写真は近くの作草部神社。元旦の朝。今年は仕事をしていて、夜はいかず。

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »