左右の全体主義
年末・新年、仕事がつんでいて自由な文章を書く余裕もなかった。いまもないのだが、明日、久しぶりに地震関係の研究会(東アジア地震の史料蒐集)があって報告なので、頭を変えるために、散歩にでてコーヒーを飲んでいる。
私の頭は単純なので、歩けば、そして別の雰囲気の場所にすわると切り替わるようになっている。いわゆる「鳥頭」、三歩歩けば忘れてしまう。
もう一つは文章を書くことで、瞑想の核を一つつかんで、そこから文章を書くという自動作業に入ることである。もちろん、もっといいのは寝ることである。
さて、あまり瞑想にふさわしいことではないが、「左翼的な思考」というもののを考えることとすると、その欠落点というものが「全体性」という概念にあるというのはよく知られたことらしい。それは「全体性」を掌握したという思い込みである。「全体がこうである。それゆえに、現在はこうであり、状況はこうである。あなたはこうである。こう行動しなければならない。『敵』か『味方』か、云々」という訳である。
こういうのは1960年代末の「学生運動」というものにさらされた、我々の世代だとよく知られた論理であって、さんざんやられた。私は、こういう思考方法がいわゆる「左右の全体主義」の基礎にあるという「社会常識」を、そう簡単に馬鹿にしてはならないと思う。左翼の「逆スタ現象」といわれたものと、大江健三郎がいっていた右翼の「宏大な共生感」という奴である。こういう「左右の全体主義」批判という言い方は、たしかに、実際には、あまりに通俗的であり、多義的であって、しばしばただの評論と怠惰あるいは惰性にすぎないことは否定できないだろう。しかし、通俗論理、通俗道徳には真理が宿るのである。
こういう「左翼的な思考」は習癖的なものなので、必ず醒めるのではあるが、その問題はどこにあるのかというように考える。「左翼的な思考」は全体を知ったという感情の問題であって、真理値の問題ではないということであろうか。その感覚のもっている鋭さは幻覚の鋭さに似ている。いま考えたのは、ようするに全体というものは所詮個人にはみえないということである。当然のことではあるが、全体がみえたときには、それは知識化し、骨化したものとして、それはいわば物体化して石にきざまれた恐ろしい真理の神の姿になってしまう。相対的真理は絶対的真理にはなっていかない。相対的真理は現実の心のなかでは破片のまま骨化していく。それに耐えて、現実の変化と現実に対する実践にこころを開くこと、そこでの協同を何よりも大事にすること、そこで謙虚になること、全体がどうなるかはわからないことを覚悟すること、というようなことなのだろうか。私は『全体性と無限』というレヴィナスの魅力的な題名の本を手に取ったことはない。そのうち時間をみてみてみたいものである。
さて、『現代思想』ができてきた。網野さんの特集である。座談会にでたが、本当に疲れた。自分の写真がでているが、座談会の途中、頭を通常ではない忙しさでつかうことに疲れているようすの冴えない顔である。
今月は1月24,25と滋賀県博物館の研究会。1月31日が栃木小山で講演。意外と予定がある。
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