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2015年2月

2015年2月11日 (水)

保守というものの試金石、神話をまっとうに理解しているか。

 私は歴史家なので、保守思想というものは大事だと思う。ただ、保守という場合に、問題なのは、保守すべき歴史の時間というものを十分に長くとることである。

 試金石は神話をどう考えるかである。その意味で、「安全神話」という言葉は使ってほしくないということを繰り返してきた。下記は、定年の直前に、東大の文学部での研究集会で講演したもの。校正をしてそろそろでるので公開。
 
 神話は、その風土に棲む人びとが、その自然というものにどのように面したかを、端的な形で示す。その意味での世界観を示す。それをまっとうに理解し、受け継ぐかどうかは、日本の歴史学にとって最大の課題の一つであると思う。


地震の神話と地震の記憶ーー奈良・平安時代の地震にふれて
 はじめに
 東日本大震災の後に「安全神話」という言葉を聞きます。日本社会では、決定的な問題の修飾語として宗教的な意味をもった言葉が使われることがあります。たとえば第二次大戦の敗戦後に使われた「一億総懺悔」という言葉、「国民みんなが悪かった」という言葉です。懺悔というのは宗教(仏教)的にはきわめて重要な言葉で、こういう場合につかっていいのかには疑問がありますが、原発の「安全神話」という言葉は、それと同じように事態の経過や責任を曖昧にする力をもつものとして流通しているように思います。人々は原発事故について怒り、批判する場合も、まずそれを神話のように信じ込まされていたことに驚き、そこに自分たちの反省を重ねようとしているようにみえます。そこにはさまざまな意味があるでしょう。しかし、私は、こういう問題に進んで神話という言葉を適用したマスコミの感性を信頼できません。

 それはさておき、こういう一種の愚直ともみえる反省のあり方は、あるいは「無宗教」といわれる、この列島に棲む人々の意識のあり方に関係するのでしょうか。ただ歴史学者として考えるのは、まずはこのような言葉使いは、人々にとって「神話」というものが他人事であり、神話が文化の外に存在していることを示すのではないかということです。もちろん、このような文化の非神話化には理由がありました。つまり、第二次世界大戦を引き起こした日本の天皇制国家が、皇国史観といわれる神話イデオロギーによっておおわれていたという事情です。その解体が日本社会から文化としての神話を一掃してしまった訳です。そして、「戦後社会」の支配的な潮流としては、そこから今回の「安全神話」という用語法まで、ある意味では一直線であったように感じます。もちろん、だからといって「戦後派」の思想や学芸の位置をおとしめようというのではありません。しかし、私は、ここには前近代の歴史の記憶の軽視があるように思うのです。

地震火山神話 
 『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で基本的な説明をしたことですが、日本の神話の基本には地震・噴火神話がありました。つまり、列島を生んだといわれる女神、イザナミは火の神を出産した時、大やけどをおって死去します。それを悲しんだ父神イザナキは「根の鍛すの国」に妻を訪問し、妻の精気を身にまといつかせて生き返り、海岸で禊ぎをして穢を放出します。その時に、まず大禍津日神(穢神)が身体をおおう汚れから生まれ、その後に、左目からアマテラス(日神)、右目からツキヨミ(月神)、そして鼻からスサノヲが生まれました。スサノヲは、根の国の死の穢を残す部位、つまり鼻から生まれた神であって、その意味ではもっとも穢れた神であって、そのような神として、穢を受け入れる海を象徴する神となったということになります。

 「穢」というのは、神話では人間のエネルギーそれ自体が生み出すものと考えられていて、けっして単にマイナスのものではありません。この穢を海の神が受け入れ、そこから何かが生まれるというのは、福島原発の放射能汚染水が海に放出されていることを考えますと、非常に不思議な気持ちになりますが、それはさておいて、スサノヲは、母神のいる「根の国」を恋い慕って哭き叫びます。そして姉のアマテラスを慕って高天の原に駆け上がるのですが、そのとき「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」といわれているのが、彼が地震神であることの証拠です。これは、ギリシャ神話の海神ポセイドンが同時に地震神であるのと同じであることになります。

 さて、このスサノヲの性格を受け継いだのが、有名なオオナムチです。彼は、スサノヲの娘と気脈を通じて、スサノヲの許から、スサノヲの宝を盗んで逃げ出します。その宝でもっとも大事なものが、琴でした。オオナムチはそれを肩に担ぎますが、『古事記』には、その琴が「樹に払れて地動鳴みき」とあります。つまり、この琴は地震を起こす道具だったのです。スサノヲはオオナムチを追いかけますが、追いつけないと覚ると、娘との結婚をみとめ、「宝物を使って地上の王者となれ、大国主命と名乗れ」と呼びかけました。「オオナムチ」の「オオ」は大きいという意味、最後の「ムチ」は「貴」とも書いてノーブルという意味の修飾語ですから、この神の性格は、「ナ」という言葉にあらわれています。この「ナ」とは自然としての大地という意味です。これに対して、「オオクニヌシ」の「クニ」は領有された土地を意味します。つまり、オオナムチは地霊の神から、オオクニヌシとして人間界の王者となったということになります。

八・九世紀の大地動乱
 日本が本格的に文明化したのは八世紀、奈良時代のことでしたが、この時代には、まだまだ神話世界は生きていました。そして、問題は、八世紀・九世紀が列島にとって一つの大地動乱の時代であったことです。地震学者の一部には列島においてだいたい六〇〇~七〇〇年の地震の長周期性(スーパーサイクル)を考え、この時代、さらに一五〇〇年前後(室町時代)、そして現在を大地動乱の時代と考える議論があります。それが事実かどうかは、私にはわかりませんが、歴史の側から史料を点検してみると、地震や噴火が八・九世紀の社会史と深い関係をもっていることは一目瞭然です。そのうちもっとも重要なのは、七三四年に発生した河内大和地震でしょう。実は、この地震の五年前に、奈良時代政治史の行方を決めたといわれる長屋王事件が発生しています。長屋王は、時の天皇、聖武に血統的にはもっとも近い有力な王でしたが、反逆を理由として自死に追い込まれ、怨霊となりました。この河内大和地震で長屋王の父の高市皇子の王墓が崩壊したことは確実で、それもあって、この地震は長屋王の怨霊の引き起こしたものと考えられたらしいのです。聖武が「釈迦は地震を鎮める力をもつ」という華厳経の経文にひかれて、大仏の建造事業を展開したもっとも深い原因はここにあったのです。

 九世紀に入っても事態は同じでした。とくに今回の三・一一の地震とほぼ同じ規模をもっていたという八六九年の陸奥大地震・大津波は、やはり伴善男という貴族が、応天門事件で追放されて、死去した翌年でした。この伴善男もやはり怨霊となって地震を引き起こしていたと考えられていたらしいのです。

 この時代は、そのしばらく前の八六四年には富士大噴火が起きており、その後、いわゆる関東大震災と同じ発震構造をもつとされる南関東地震が起き、さらに南海トラフの大地震が発生しています。これらの史料をみていますと、当時の人々は神話の神々がおそるべき怨霊に姿をかえて復活したと感じていたのではないかと思います。その恐怖は相当のものであったでしょう。

 私は、京都祇園社の祇園会の創始が、八六九年の陸奥大地震・大津波の直後と伝えられているのは、このような世情と関係していると考えています。祇園社の神、牛頭天王は陰陽道の神で、播磨国広峯社から移座してきた神ですが、問題は、この牛頭天王がスサノヲと同体とされることです。そもそも、広峯社の原型は播磨のスサノヲ社であったというのです。播磨は出雲とともに、スサノヲ・オオナムチ神話の重要な舞台ですが、この点で無視できないのは、祇園御霊会創始の前年に、播磨国で山崎断層という長い断層を震源として地震が発生し、その余波が京都に及んでいることです。そして、祇園社は、京都東部を南北に走り、近江朽木谷にのびる花折断層の直上に立っています。祇園は、いわば首都に設けられたスサノヲの神殿なのであって、地震神スサノヲは、播磨から地震とともに巨歩を運んだというのが人々の幻想だったのではないでしょうか。

 普通、御霊会は疫神、疫病の神を祭るものとされます。しかし、地震神と疫神は一体でした。たとえば九世紀に、在位中きわめて地震が多く、地震に呪われた王とでもいうべき文徳天皇という天皇がいます。彼のの墳墓を設営するための使が「地神」の集団に追われたという説話が残っているのですが、地霊は「千万の人の足音」のような地鳴りを発して後ろから追いかけてきて、異様な臭いのある熱風をふかせたといいます(『今昔物語集』)。ここには地震神が、同時に疫病をもたらすような風を吹かせるというイメージがあります。これはそもそもスサノヲが地震の神であると同時に、穢の神であった、つまり疫病の神であったことに対応しているといってよいでしょう。

地震・噴火・雷電の三位一体と龍。
 さて、日本の神話の中では、地震神は雷神・火山神とともに三位一体の関係をもっています。たとえば、七六四年、聖武天皇の娘の孝謙女帝が再即位した直後、大隅国の海で大噴火があり、その様子が「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」と伝えられています。それによって火山島が出現する様子は、神が「冶鋳」の仕業を営むようであるといわれています。そして、この神の名はオオナムチだったのです。ここからは、大地の神の力が雷音と地震、噴火の三位一体として受けとめられている様子がわかります。

 その中で、あたかもゼウスのように、神話の頂点に立つのが雷電です。つまり、落雷は地面を震動させます。そこで人々は落雷こそが地震の原因であると考えます。そして、火山噴火の際には火山雷が発生しますが、この火山雷も同じように山体を揺すって噴火を導くのだと想像したのは自然なことです。人々は、こうして地震や噴火という大地の不可思議な動きの原因をより日常的な落雷現象にひきつけて理解した訳です。

 そして、この大隅国の海底噴火の例で興味深いのは、オオナムチが「冶鋳」を営むといわれていることです。これはヴァルカンがVolcanoの下に棲むということでしょう。そもそもさきほど「根の鍛すの国」という言葉を紹介しましたが、「鍛す」とは、「鍛冶」の「鍛」、つまり火をつかって金属を打ち鍛え鋳造することをいいます。スサノヲやオオナムチはそこに棲む「冶鋳」の力をもつ巨神であったのです。平安時代末期の『中臣祓訓解』という史料になると、スサノヲの棲む「根国・底国」は「无間の大火の底なり」とされます。奈良時代・平安時代の人々が、大地の下には巨大な火があると考えていたことは確実です。人々は、人間のエネルギーによって発生した穢は、その地下の火の国に流れ込んでいき、浄化され、そしてあらためてエネルギーに転化していくと考えていたように思われます。

 我々は、いま、「根の鍛すの国」を地中のマグマの存在という形で認識しており、大小の地震が日本のどこで起きているかもネット情報として知っています。しかし、その知識が、どこまで人間と自然との関係に内在した知恵となっているか、実情を考えてみるとお寒いものがあります。少なくとも我々の世界観の中には核爆発による巨大な火が必要にして十分な形で位置づけられているということはできません。この点で、私たちは神話の時代の人々のもった世界観を馬鹿にしてはいけないと思います。

『宇津保物語』と『源氏物語』
 さて、日本の歴史学は、地震史の研究については、阪神大震災から東日本大震災までの現実の地震の動きに遅れをとってしまいました。これまで地震の歴史について人々に十分な文化的・歴史的な知識を提供できていなかったと思います。しかし、いま、歴史学は必死になって、この列島における地震や噴火の歴史の解明に取り組みはじめました。それは相当のスピードです。私は、その中で、以上のような地震火山神話についても考えておくことが重要であると思っているのですが、しかし、問題はさらに広がっていくことはいうまでもありません。これは、歴史学の今後に期待していただきたいことですが、問題の広がりを示す一つの例として、以下、平安時代の地震と社会の歴史について、最近考えたことを報告したいとと思います。

 さて、八・九世紀の地震・噴火活動のはげしさは一〇世紀に入っても変わりませんでした。九一五年には日本の有史最大といわれる十和田大噴火が起き、また九三八年の地震もはげしいもので、このために天慶に改元されました。改元の理由は地震と兵乱の予測にあったのですが、実際に地震の翌年に純友と将門の反乱が発生しました。朝廷が強い危機感に襲われたのは九世紀と変わらなかったと思います。

 日本文学の三田村雅子さんに教えていただいたのは、これが『宇津保物語』(俊陰)に描かれた地震のイメージに反映している可能性です。つまり、『宇津保物語』の主人公の清原俊陰はペルシャで天女から琴をあたえられて帰ってくるのですが、その琴は地震を引き起こし、山をくずし、大地を割る力をもっていたというのです。この琴の力によって、東国から上ってきた武士が、地面に沈んだという話題から『宇津保物語』が始まっているのはきわめて印象的です。ここにはスサノヲの琴のイメージが流れ込んでいるように思います。

 一一世紀に入ると、地震はしばらくおさまる様子をみせます。そのころ執筆された『源氏物語』には地震の記事は登場しません。しかし、たとえば有名な明石巻には、流罪で流されていた光源氏をめぐって、暴風雨や雷などの「あやしき物のさとし」があり、明石に津波を印象させるような大波が寄ってきたという興味深い記事があります。そして、その夜、光源氏の夢に父帝(桐壺帝)が地下世界から海に入り、そして明石の浜の渚に上って源氏を訪れたという訳です。桐壺帝は光源氏に対して、なぜこんなところにいるのか(なぜ流罪になっているのか)と問い、その足で現帝・冷泉帝を問いつめに上ったといいます。その結果、源氏は呼び返されたというのが物語の展開ですが、地下世界・海から上ってくる亡霊というのは、まさに、これまでみてきたような地霊スサノヲのイメージではないでしょうか。場所が播磨国であるのもきわめて示唆的です。紫式部は地震そのものを描くことはしなかったのですが、八世紀以来の王権と地震、「天変地異」の記憶を背景において物語を設定している可能性が高いのです。

 私が興味深いと思うのは、光源氏の愛人の夕顔が熱病に襲われて死ぬ場面に登場する疫病の神が後ろから足音をさせて追っかけてくると描かれていることです。これはさきほど紹介した文徳天皇の陵墓を設置する使者を襲った地震神と同じイメージであることは両方を読み比べてみるとよくわかります(参照、保立・三田村・河添房江、座談会「平安時代の天変地異と『源氏物語』、『天変地異と源氏物語』」翰林書房、二〇一三年六月)。

院政期の祇園社と地震
 『源氏物語』の執筆時期、さらにいえば、いわゆる摂関政治の盛期、道長・頼通の時期は、どちらかといえば地震が静穏な時代でした。その意味では、それはいわゆる「戦後」に似ていた時代であったのかもしれません。一一世紀の後半以降、つまり院政期には、ふたたび地震が活発になって、政治と社会に大きな影響をもたらすことになりました。

 その画期となったのは、後三条天皇の時代、一〇七〇年に祇園社が焼失した直後に「なゐ」があったことである。「なゐ」というのは地震のことですが、「な」はオオナムチの「な」と同じで大地という意味です。この地震は、スサノヲの神殿・祇園社の位置をふたたび前面に押し出しました。翌年八月には祇園天神が新造され、翌々年には、歴代の天皇でははじめて後三条天皇が祇園に行幸することになりました。

 そして、一〇九三年には京都で建物の倒壊する強い地震があり、続いて、五月には奈良の春日山の谷間に地震の地鳴りが響いたことが記録されています。これはちょうど、春日社の神人が近江国司とはげしい相論を行っていた最中であったため、神人たちは、地震を神の怒りを示すものであるとして京都にデモンストレーションをかけました。これが春日の神木が都に動座した最初の事件、いわゆる強訴の事件の最初です。同じようなことが、一〇九五年の地震でも起きて、比叡山の山僧が強訴に及び、ここで日吉社の神輿がはじめて京都に動座することになりました。

 この時代の政治史では、比叡山と春日社の強訴が大きな意味をもったことはよく知られていますが、その最初のキッカケが地震にあったことはもっと注目されてよいと思います。こういう騒然とした状況の中で、祇園の御霊会を場としてファナティックな大田楽の踊りが展開し、京都は騒然とした雰囲気になったのですが、このような政治状況が、一〇九六年の東海地震と一〇九九年の南海地震に重なっていきました。特に後者の南海トラフの大地震は、時の関白後二条師通の突然の死去と重なったことが重要です。。死んだ師通は比叡山=祇園の神罰をうけ、オオモノヌシ(=オオクニヌシ)が宿るという比叡山の牛尾山の岩盤の下に押し込められたという噂が広がっています。

平氏と祇園・福原・厳島瀬戸内の龍神信仰 
 『平家物語』には、平清盛は白河法皇が祇園社の入り口で見初めた町の女、祇園女御に生ませた落胤であるという一節があります。これもこの時代の祇園社の位置に関係している可能性が高いようです。
 清盛が、この祇園女御から生まれたというのは事実ではないと思われますが、清盛の父の平忠盛は白河院が祇園女御を中心に営んだハレムに奉仕する位置にいました。細かな事情は省略しますが、忠盛は、播磨国司であったときに、祇園社に荘園を寄進するなど祇園社に取り入っています。以降、播磨国は平家の勢力圏に入ります。忠盛は、この時、播磨守の地位を生かして祇園の本社にあたる広峯社との関係を強めたのではないかというのが、私の想定です。これは現在のところ推定に過ぎませんが、しかし、忠盛・清盛が祇園信仰に肩入れしたことは確実であると思います。

 清盛は厳島を信仰し、そこを平家の氏神にしたのですが、実は、厳島の神は、「沙羯羅竜王の第三の姫宮」といわれる女神です。そして、そもそも祇園の牛頭天王は沙渇羅龍王の娘の薩迦陀を妻としたとしたといわれていて、つまり祇園社と厳島は夫婦あるいは親族であるということになります。またこう考えますと、清盛の福原別荘が、神戸の山際から流れ出す天王川のすぐ上の祇園社を中心に営まれたことも重大な意味をもってくると思います。

 この点で、もう一つ確認しておきたいのは、平安時代に入ると、雷神・地震神・火山神がどれも龍と観念されていたことです。龍は水神であるとともに海の神・航海神でもあって、福原で清盛が、法華経千僧供養をして龍神を祭ったことは、それに関係している訳です。そもそも、牛頭天王も厳島女神も龍体をもつ神でした。この時代、祇園社と厳島神社につかえる人々は、平氏の勃興に並行する形で、連携しつつ龍神信仰を瀬戸内海に広めたと考えられる訳です。彼らが海の商人であったことはいうまでもありません。

 清盛は、この厳島を氏神とし、京都・福原・厳島を結んで、瀬戸内海に一種の海上王国ともいえるような王朝を樹立しようとしたということもできるでしょう。清盛は福原から厳島に月詣し、自分の娘の妊娠と男児誕生を祈祷し、その結果、安徳天皇が「祈り出された」というのは、この意味で無視できません。

 平氏政権は、一一八五年に壇ノ浦で滅亡します。その時、安徳は入水して死亡するのですが、安徳は、もともと龍であったから「海に沈ませ給ひぬる」「はてには海へ帰りぬる」という結果になったのは自然なことだということになります。そして、平家滅亡の半年後に、山城大和を襲った大地震が発生しますが、これも清盛が龍になって起こしたのだというのが、『愚管抄』の評価だったのです。この大地震は清盛の死霊が引き起こしたという訳です。
 金沢文庫には一三世紀頃に描かれた日本図が残っていますが、その絵では、日本列島を龍が取りまいているように描かれています。この国土観は、以上のような平安時代の経験に根づいているものと考えます。

おわりに

 以上、短い時間で、奈良時代から平安時代末期までの地震と神話・物語の紹介をしました。日本の歴史文化には地震が骨絡みになっている事情はご理解いただけたでしょうか。私は、歴史学がこのようなことを見のがしてきたことに驚いています。それは歴史学が、地震列島日本の人々が、実は、地震のことを一種のタブーにしてきたという状態を本格的に突破しようという見通しをもっていなかったことを示すといわれてもやむをえないでしょう。そして、三・一一の後になってみると、これを解き明かすことが、歴史学にとっての一つの社会的な責務であることは明らかであると考えています。

 さて、最後にふれた一一八五年の大地震は『方丈記』に描かれて著名なものです。私は、様々な理由から、この「海は傾きて陸地をひたせり」といわれた津波は若狭で発生したものである可能性が高いと考えています(保立道久「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年一〇月)。若狭にどのような津波が来たかについては、まだ歴史地震学の側で確定的な議論はないように考えますが、若狭湾の原発のことを考えるまでもなく、この問題は歴史学の現代的な責任にも関わってくると考えています。このような問題をふくめて、学術世界は、この列島に人類が住み続けるための知恵のあり方を省察し、人文社会科学・自然科学の境界をこえて一致した声をあげることを期待されているのだと思います。

 以上の簡単な素描は、倉卒の間にまとめたものですが、これをもって地震と災害の死者を念頭において「語り継ぐ記憶と備える文化」を考えるという論題にお応えしたいと思います。たしかに、この列島の住人は、過去の記憶の宝庫を点検してみる必要があるのではないでしょうか。そして、冒頭に述べたことに戻ると、その際、私たちの自然観が神話的な自然観と比べても、あまりに粗雑で、分節化して、世界観としての統一性を失っていることを自覚すべきではないでしょうか。その意味でも「安全神話」という言葉の使用を止めることができないだろうかと考えるものです。

2015年2月 9日 (月)

琉球・沖縄は、歴史学にとってはきわめて大事な場所である。

 琉球・沖縄は、歴史学にとってはきわめて大事な場所である。現在の沖縄のことを考える上で、過去の長い歴史を前提にして、それを考えるのは当然のことである。

 「沖縄は、日本社会のなかで、個性ある文化一般をこえたきわめて特殊・例外的ともいえる地域的独自性と文化的個性をもっており、日本社会の他のいずれの府県にも類例を見いだすことのできない、きわめて特殊な地域として歴史的に存在しているだけでなく、現在の時点においてもなお、きわめて独自な地域として存続している」

 これは1978年のNKHKの全国県民意識調査を分析した歴史家・安良城盛昭氏の言葉であるが、たしかに沖縄は独自なものをもっている地域だと思う。沖縄における「保革」の連携というのは、おそらく、前近代から続く長い沖縄の歴史というものと切り離せないものであろうと思う。沖縄における「保守」の思想というものの実態を知りたいと思う。
 
 沖縄は、独特な文化をもち、長く東アジア・東南アジアの窓であるような社会であった。私は、柳田国男・折口信夫が沖縄に惹かれたことは、彼らにとって自然なことであったし、重要なことであると思う。もちろん、高良倉吉がいうように、もっとも重要な学者が伊波普猷であり、伊波ー河上肇のルートの上に問題を考えなければならないが、しかし、柳田・折口問題は、現在の沖縄の雰囲気、そして「本土」の雰囲気を前進的に見通しのよいものにしていく上では検討を欠かせないと思う。ともかく、そういう積もりで、神話論をやっている。
 
 それにしても、そういう目で沖縄の現在を考えるという学術文化の雰囲気がなくなっているのではないかというのが心配なことである。

 さて、下記は、いま書いている『日本史の30冊』の一冊、豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、二〇〇三年)の紹介文である。やっと書けた。歴史に興味のある人には、安良城盛昭・高良倉吉氏などの本とともに、是非、読んでほしいものである。


 一九六三年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテー マであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。

 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。こうして近縁的な社会の相違が「発展の相違」に還元され、琉球は「本土」にくらべ、社会発展史上で一〇世紀も遅れていたと結論される。しばらく前までは、「本土」の歴史学界でも一四世紀の琉球王国ははじめての古代国家であり、薩摩の武力進入(一六〇九年)は、封建国家による古代国家の統合であるなどという意見がしばしば聞かれた。

 この種の抽象論は今では笑い種にすぎないが、比嘉たちの議論には彼らなりの理由があった。琉球王国に武力統合した薩摩藩、「琉球処分」によって中央集権を確定した明治国家の支配の下で、琉球が直面した差別と収奪を強調するあまり、彼らは、琉球史の枠組を苦難と「貧しさ」を基軸として描いてしまったのである。

 しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。琉球史を無前提に「日本史の一環」ということはできないというのである。その起点を作ったのは、太閤検地論で有名な沖縄出身の歴史学者、安良城盛昭であり、その影響の下で本格的な史料分析によって琉球王国の国制を明らかにした高良倉吉であった。

 本書はそれ以来、二〇年ほどの研究の到達点を示している。残念ながら、本書は通史ではなく、編者による序論と六本の論文からなる研究論集であるが、しかし、「本土」と琉球が各々異なりながらも深く関係しあって発展と変化の道を歩んできた枠組を明らかにすることに成功している(想起されるのは、かって岡本太郎が「沖縄・日本は地理的にはアジアだが、アジア大陸の運命をしょっていない。むしろ太平洋の島嶼文化と考えるべきである。(しかも)沖縄・日本は太平洋のなかでもひどく独自な文化圏である」と述べたことであろう。有名な島尾敏雄のヤポネシア論も同じ発想である。本書が歴史の舞台として設定したのも、同じ琉球弧から千島列島にいたるジャパネシア世界である。)

 その時代区分は、序論とⅠ章「琉球王国の形成と東アジア」(安里進)で述べられており、その(1)草創期縄文文化は、南アジアに特徴的な丸ノミなどをともなうもので、琉球弧ルートで鹿児島に到ったが、六四〇〇年前の鬼界カルデラ噴火で壊滅した。その後、展開したのは(2)「貝塚文化」であって、北部九州の縄文文化との交流も維持しながら独自化の道を歩み、中国とのタカラガイ交易などを特徴としていた。そして本土の弥生時代に対応する時期を(3)「貝塚後期文化」といい、そこでは旧石器時代以後の温暖化のなかで発達したサンゴ礁の生態系に依拠した生業システムが形成される。彼らは、豊かな漁撈と独占的な貝交易によって弥生農耕文化を受けいれる必要がなかった。そもそも農業の発展のみを社会分析のモノサシとするようなことは誤りであるというのが本書の視座である。

 「本土」の古墳時代以降に対応する(4)貝塚文化最末期には、ホラガイが仏教の法具とされ、日本を経由して大陸に流通し、さらに唐で発達した螺鈿細工の原料としてのヤコウガイも移出される。その代わりに人びとは鉄器を入手するが、このような交易の統括において役割を高めた首長が、琉球の各地域に盤踞し始めたのである。

 これをうけてだいたい一〇世紀以降、「本土」の平安時代に対応する時期に(5)原グスク時代が始まる。中国の宋代における華僑の東南アジア展開のような交易の広域化に対応して、この時期、長崎産の石鍋や徳之島産の須恵質陶器カムィ焼が琉球全域に流通する。そして、畠作や水田が本格化し、人口が増大する。その中枢には城塞形の小さなグスク的遺跡が位置していた。そして、一三世紀以降、いよいよ(6)大型グスクの時代が始まり、浦添グスクに拠点をもつ初期中山王家の勢力が他のグスクを圧倒した地位をもって出発した。一四世紀に入ると中山から山南・山北が分離して三山時代が始まるが、一四二〇年代には思紹と尚巴志の父子(第一尚氏)が三山を統一し首里へ拠点を移す。その後、第二尚氏への王朝交替があって尚真王期には(在位一五世紀後半から一六世紀)琉球王国は琉球全域におよぶ繁栄した王国となる。(7)琉球王国の時代である。この時期、琉球は東南アジアにまで貿易船を送り、「万国の津梁」と自称したという。

 問題は、この琉球王国の繁栄が明の冊封と海禁体制のなかでの琉球の特権的地位に支えられていたことで、しかも、時代がすぐにヨーロッパ勢力のアジア登場にむかっていたことである。これがアフリカと南アメリカにおける人間の大量殺害によって特徴づけられ、「長い一六世紀」ともいわれる世界資本主義の原始蓄積期であることはいうまでもない。そして、本書Ⅱ章「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(真栄平房昭)に記されているように、この原蓄の推進要因となったグローバルな貴金属流通の中枢に、メキシコ銀のアジア中国還流と膨大な日本銀の増産があった。

 こうして世界史は近代の帝国の競合の時代に入り、東アジアでは中華帝国の最後の建設と崩壊の時期に入っていく。それに先だって日本が秀吉の朝鮮出兵という帝国的冒険に突入し、それは無益な破壊をもたらしただけで終わったものの、極東の小帝国としての日本(参照、本書■頁)を担保する形で、薩摩の琉球への侵略と武力統合が行われた。

 (8)江戸期の琉球王国は、一方で江戸幕藩体制の下に統合され、他方で清への朝貢体制を維持したが、その中で逆に芸能・生活文化から国制にいたるまで琉球としての特色が意識された。Ⅲ章「自立への模索」(田名真之)は、この純化・独自化の逆説を「琉球的身分制」と「史書の編纂」という側面から描き出している。またⅣ章「伝統社会のなかの女性」(池宮正治・小野まさ子)は沖縄の女性史の分野にあてられており、祭祀と芸能、さらに繊維の生産と貢納を中心とした女性の位置について論じている。Ⅲ・Ⅳを通じて歴史学の側から琉球文化の成熟の様相が語られるが、全体として女性の位置が独自なようにみえるのは、本書の論調からすると、海洋国家に独自な男女間の社会分業ということに関わるのであろうか。なお、Ⅱ章において、琉球が日本列島の南北軸の西南端という位置を生かして江戸期の列島市場との結合を高めながら、砂糖を大阪に出荷する見返りに渡唐銀を入手し、北海の昆布などの海産物の輸出ルートに乗るという遠心性を確保していることなども、「両属と自立」という図柄のなかに位置づけられている。

 さて、以上が前近代部分のだいたいの紹介であるが、Ⅴ章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守)、Ⅵ「世界市場に夢想される帝国」(冨山一郎)は、中華帝国体制の崩壊の隙間を狙って明治国家によって行われた琉球王国の政治的廃絶から(「琉球処分」)、日本の帝国経済の台湾への拡大のなかで必然化された江戸期琉球の砂糖産業の経済的破綻(「いわゆる「ソテツ地獄」)までを取り扱っている。とくにⅤの分析は鋭いもので「琉球処分」がやはり国際的な不法行為であったことを明らかにしているように思う(なお、本書には、これに対応する薩摩の琉球王国侵略についての具体的な記述がないが、これは紙屋敦之の仕事などによって補充する必要がある)。
 冒頭に述べたように、本書は、通史ではない。しかし、この紹介からもわかるように、本書は、具体的な記述のなかで、前近代史と近代史を統一的・連続的に説明するという通史にとってもっとも重要な視座を提供している。何よりも重要なのは、本書が、琉球史というもっとも重要な部面において、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方を実際の叙述において乗り越えたということであろう。それを敷衍すれば、民族なるものが実際の社会・社会構造と異なるレヴェルで自己運動し、「形成」されたり、「統一」されたりする実態をもつというのは幻想にすぎないということであろう。私見では、悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生 活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という固定的定義は、その幻想を形式論理で包んだものにすぎない。

 すでに新書『沖縄』も「どこかに‘日本人’または‘日本民族’なるものがいて、ぜんぶ同じ体質と同じ文化をもち、同じような歴史的発展をしてきたという考え方」を痛烈に批判していた。比嘉らが「ナショナリズム」を「無関心」や「差別」を突き抜けて希求される「国民的な連帯意識」の問題としたことは冒頭に引用した通りである。たしかに「民族」とは、実在する「国家ー国民」の関係とは区別される「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。
 しかし、国家と社会の間に存在する公的な圏域が民族の名をもってよびだされる場合、それが民主主義的なものか、魔物であるかはすべて時と場合による。琉球史は、この歴史学にとって緊要な方法問題に直結する分野であり、本書は、それを具体的な実証の場所で考える上での試金石となっている。

比嘉春潮・霜田正次・新里恵二『沖縄』、岩波新書1963年
安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス、1980年
高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館、1987年

2015年2月 2日 (月)

テロと国家理性ーー世界史認識が生活上の必要となる時代

 後藤健二さんが殺害された。湯川遥菜さんにつづく、蛮行、最悪のテロ行為である。「イスラム国」なるもののへの国際的な包囲、資金源の流入ストップを本格的に進めることは、国際法の基本問題となると思う。これはテロに対する法的諸権限をふくめ、国連の体制と機能の強化が中心になるだろう。それは実質上は、イスラエル・パレスチナ問題を中心とした中近東の地域秩序を、中近東の人びとの意思にゆだねる方向で19世紀以来のヨーロッパの歴史的誤りを総括し、状況を復元していくことを必要としている。そのなかでヨーロッパが中近東に対する過去を抜本的に反省し、また中近東の諸国家が「イスラム国」をテロ集団として包囲する方向を実現することである。21世紀がテロの時代となるかどうかが問われる時期がしばらく続く。

 安倍首相の発言は、テロを理由に「戦争を」という方向に進みかねない様相である。これは9,11の後のブッシュの愚行の繰り返しである。テロ被害をうけた国として、政府は、この間の情報を公開し、国内的・国際的検証にこたえる必要があり、そのなかで、ブッシュのような行動はしないことを明瞭にすべきである。

 2001年の9,11から、2003年のイラク侵攻にいたるブッシュの戦争の愚行の過程をすべて思い起こす必要がある。しかし、日本政府は、イラク戦争の口実となった、イラクに大量破壊兵器があるというブッシュの宣伝を受け入れたことを、いまだに間違いだったと言明していない。当のアメリカで誤りが確認されているにもかかわらず、小泉内閣の判断は「正しかった」という強弁がそのままになっているのである。日本は、国家理性というものが存在しない国家であり、10年前の過去の明瞭な誤りの総括さえもできない国家である。残念ながら、それが事実である。
 
 後藤さんの妻の声明を読んだが、10歳前後の時期をヨルダンのアンマンで過ごしていたという一節に息を呑んだ。家族の方々にとって無念きわまりないことであろう。世界は狭くなっており、一人一人の個人の生活が世界大の動きのなかで作られるようになっている。人の生死の舞台が世界の全域に広がっている。世界史の動きが一人一人の人間の生活や運命に関わってくる時代なのであると思う。もちろん、人間の歴史はつねに世界史に関わって存在していたが、その世界との関わりが日常的に意識され、世界を意識する中で生活を作っていく時代が本格的に始まったのだと思う。世界史認識が生活上の必要となる時代である。
 
 ともかくも国家が存在する以上、そこに平準的なミニマムの国家理性をもたせなければ大変なことになる。そして国家理性の中枢部分は歴史理性であることはいうまでもない。

 友人から寒中見舞いが届く。そこに「国内外とも多事多難。数百年、あるいは二千年以上前の歴史が今を覆っているような気がする昨今です」とある。多くの歴史家がそう感じていると思う。

 一昨日土曜は、栃木の小山市で講演「頼朝と頼政ーー伊藤氏との関係を中心に」。一泊して昨日日曜は、松島さん御夫妻に寺野東遺跡(縄文時代の環状土盛遺構)と下野国分寺、国分尼寺そして国府跡を御案内いただく。
 
 迂遠なことであり、はるかな過去だが、ともかく過去の現場に立ち、それを少しでも正確に認識することの力を感じる。過去を過去として認識するという営為は、どのような場合も同じことである。それは過去を過去から取り戻すということであり、過去と現在が直結したところで動いているという現実認識を新たにすることである。その現実認識のなかでは、人の死は、過ぎ去らない。

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