テロと国家理性ーー世界史認識が生活上の必要となる時代
後藤健二さんが殺害された。湯川遥菜さんにつづく、蛮行、最悪のテロ行為である。「イスラム国」なるもののへの国際的な包囲、資金源の流入ストップを本格的に進めることは、国際法の基本問題となると思う。これはテロに対する法的諸権限をふくめ、国連の体制と機能の強化が中心になるだろう。それは実質上は、イスラエル・パレスチナ問題を中心とした中近東の地域秩序を、中近東の人びとの意思にゆだねる方向で19世紀以来のヨーロッパの歴史的誤りを総括し、状況を復元していくことを必要としている。そのなかでヨーロッパが中近東に対する過去を抜本的に反省し、また中近東の諸国家が「イスラム国」をテロ集団として包囲する方向を実現することである。21世紀がテロの時代となるかどうかが問われる時期がしばらく続く。
安倍首相の発言は、テロを理由に「戦争を」という方向に進みかねない様相である。これは9,11の後のブッシュの愚行の繰り返しである。テロ被害をうけた国として、政府は、この間の情報を公開し、国内的・国際的検証にこたえる必要があり、そのなかで、ブッシュのような行動はしないことを明瞭にすべきである。
2001年の9,11から、2003年のイラク侵攻にいたるブッシュの戦争の愚行の過程をすべて思い起こす必要がある。しかし、日本政府は、イラク戦争の口実となった、イラクに大量破壊兵器があるというブッシュの宣伝を受け入れたことを、いまだに間違いだったと言明していない。当のアメリカで誤りが確認されているにもかかわらず、小泉内閣の判断は「正しかった」という強弁がそのままになっているのである。日本は、国家理性というものが存在しない国家であり、10年前の過去の明瞭な誤りの総括さえもできない国家である。残念ながら、それが事実である。
後藤さんの妻の声明を読んだが、10歳前後の時期をヨルダンのアンマンで過ごしていたという一節に息を呑んだ。家族の方々にとって無念きわまりないことであろう。世界は狭くなっており、一人一人の個人の生活が世界大の動きのなかで作られるようになっている。人の生死の舞台が世界の全域に広がっている。世界史の動きが一人一人の人間の生活や運命に関わってくる時代なのであると思う。もちろん、人間の歴史はつねに世界史に関わって存在していたが、その世界との関わりが日常的に意識され、世界を意識する中で生活を作っていく時代が本格的に始まったのだと思う。世界史認識が生活上の必要となる時代である。
ともかくも国家が存在する以上、そこに平準的なミニマムの国家理性をもたせなければ大変なことになる。そして国家理性の中枢部分は歴史理性であることはいうまでもない。
友人から寒中見舞いが届く。そこに「国内外とも多事多難。数百年、あるいは二千年以上前の歴史が今を覆っているような気がする昨今です」とある。多くの歴史家がそう感じていると思う。
一昨日土曜は、栃木の小山市で講演「頼朝と頼政ーー伊藤氏との関係を中心に」。一泊して昨日日曜は、松島さん御夫妻に寺野東遺跡(縄文時代の環状土盛遺構)と下野国分寺、国分尼寺そして国府跡を御案内いただく。
迂遠なことであり、はるかな過去だが、ともかく過去の現場に立ち、それを少しでも正確に認識することの力を感じる。過去を過去として認識するという営為は、どのような場合も同じことである。それは過去を過去から取り戻すということであり、過去と現在が直結したところで動いているという現実認識を新たにすることである。その現実認識のなかでは、人の死は、過ぎ去らない。
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