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2015年3月23日 (月)

歴史とは何か--三木清『歴史哲学』について

 必要があって、久しぶりに三木清『歴史哲学』を読んだ。やはりよいものだと思う。
 30冊のために書いたが、「『日本史研究』」というよりも、歴史学論(というよりも『歴史哲学』)になってしまったので、このまま出すかどうかはわからない。

はじめに
 歴史学が文学と同じなのは、ともかく本を読むのが好きでなければならないということである。そしてある歴史書の描く時代に入っていくことは、われわれが文学の世界のなかに入っていくことと、どこか似ている部分があると思う。
 
 ただ、歴史学の研究をしてみようということになると、その本を書いた歴史家の他の著作や、その著作に引用された他の学者の仕事を読んでいくことになる。研究を進めるために、それらの歴史家の仕事の全体にむきあい、そこに自分を同調させていくのである。もちろん、最初のうちは、一人で、自己流で進むことはできる。ともかくも史料を読んでいくという形で研究を進めることができる局面も多い。しかし、途なかばになり、「小暗き森に踏入りぬ」ということになると、先を進んでいる人間を意識するほか、自分の前に世界は開けなくなる。
 
 歴史学は、大量の史料が無秩序なままであったり、微細だが貴重な史料が隠されていたりする中で調査を重ね、それらを一つ一つ処理して道をつけていかねばならない。そのためには、どうしても先行者の仕事を確認しながら、それを乗り越えていくことが必要になる。これは歴史学という学問が、結局、個人の頭脳と肉体を道具として史料に向き合い、史料の向こう側をのぞこうする学問であって、いわば手作りで職人的な仕事だからだと思う。

 ここが文学の仕事と違うところである。もちろん、文学者も執筆の前には資料を調査し、分析・総合の作業を行うが、彼らにはその先の想像力がオリジナルであることこそが肝心である。しかし、歴史家の仕事は最初から最後まで調査・分析・総合なのであって、叙述をしていても、すべてはそこに戻っていく。歴史家の仕事が成功した場合には、そこに生まれるのは歴史の独自な姿そのものであって、歴史家の仕事自体は、それがいかにオリジナルなものであったとしても、むしろ消えて忘れられていくことこそが目標である。

 本書の目的は、日本史研究の基本書として30冊を撰び、その紹介を通じて、このような歴史家の仕事について説明することにある。いちおう、「読書入門」「史料の読み」「学際からの目」「研究書の世界」「研究の基礎」と区分してみたが、どれも、「歴史家の仕事とは何か」についての説明であると読むことができるだろう。

 ただ、「歴史家の仕事とは何か」という問題は、「歴史とは何か」という問題と深く関係している。だいたい、職人的な資質をもった人が多い歴史家は、普通、「歴史とは何か」などという問題について語ろうとしないし、そんなことを考えている人間であるとは、自分自身を意識しない。しかし、私たちは、「歴史家の仕事とは何か」ということについて考え続けているもので、実際には、それを通じて「歴史とは何か」という問題に面と向かっているものなのである。

 ただ、それは歴史家という人種でないと、なかなか実感できないような問題である。これは見取り図のようなものであるから、ある程度立ち入ってからの方が利用価値があるかもしれない。歴史学のなかには、最終的には「歴史とは何か」という巨大な疑問がひかえていることを知っておいていただくのも意味があるかとも思う。それ故に、読者は、以下の文章は、気が向いたら、あるいは30冊の紹介を利用した後に読んでいただけばよいという位置づけであると考えていただければよい。

E・H・カー『歴史とは何か』

 「歴史とは何か」といえば、E・H・カーに同名の本がある(岩波新書)。ネーミングがよく、類書がないこともあってよく売れた本である。カーは外交官から現代史研究に転じた歴史学者で、この本の価値は、カーが「歴史家の仕事とは何か」について、ややシニカルな口調もまじえて率直に語っていることにあるように思う。ヨーロッパ思想において語られた、歴史に関する一種の名言集となっているのも、この本が読まれた理由であろうか。

 しかし、問題は、カーの議論はどうしても「歴史家の仕事とは何か」に戻っていく傾向があって、本題の「歴史とは何か」という議論には十分な筋が通っていないことである。この本を本格的な「歴史哲学」の書ということはできない。カーは「歴史は過去と現在の対話である」ということを言葉を変えながら繰り返すのであるが、翻訳の文章がよくないこともあって、議論の筋が不鮮明で、内容も常識的な評論の域を超えていないというのが率直なところであおる。

 そもそも、この本は、1961年にケンブリッジで行った講演をまとめたものである関係もあって、どうしてもイギリスの史学史や、当時のイギリスの「帝国のたそがれ」といわれる世相を中心にまわっている。そして、「十九世紀に西洋諸国はアジアおよびアフリカを植民地にしましたが、歴史家たちは、これらの大陸の後れた民族に対する長期的な結果ということを理由にして、この植民地化を許容しております」などという、いかにもヨーロッパの優越感そのものという記述も多く、いま読んでいると違和感が多い。

三木清『歴史哲学』

 そこでここでは、三木清の『歴史哲学』を下敷きとして、「歴史とは何か」について手短な説明をしておくことにしたい。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、終戦後の一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子、リッケルト・ハイデガーについてドイツ哲学の本流を学び、パスカルを初めとしたフランス思想にも強く、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この『歴史哲学』のみしか存在しないといわれている。

 この三木『歴史哲学』のよいところは、三木が歴史というものに、「事実としての歴史」「存在としての歴史」「ロゴスとしての歴史」の三つの層序を区別して議論していることであろう。これによって、「歴史とは何か」という形で一般的な問いを投げかけるよりは、はるかに具体的な問題の整理が可能になっている。ただ、この「事実」「存在」「ロゴス」という三つの用語はハイデガーの『存在と時間』を利用したもので、三木は、この作業のなかでハイデガーの哲学を換骨奪胎して、ハイデカーを批判し乗り越えることをめざしていた。三木の作業が中途で終わっていることもあって、それを正確に理解するのは困難ではあるが、しかし、これを追跡しておくことは、「歴史哲学」を考えてる以上は、必要なことだと思う。

「事実Tatsacheとしての歴史」=現在史

 そこで私の理解した限りで説明をしていくと、まず「事実としての歴史」ということの意味が一番分かりにくいが。この「事実」とは、Tatsacheというドイツ語の翻訳であって、三木は、Tatsacheとは、Tat(行為)とSache(物事)をあわせたもので、「そこでは行為と物とが二つでない」と説明している。つまり、Tatsacheとは、目の前にある実践的な問題という意味なのである。三木は、ハイデガーがTatsacheという用語に「問題」「運命」が目の前に存在するという意味を読み込んだことを前提として、この「事実としての歴史」という用語を作った(『存在と時間』12節)。ここではその趣旨をふまえて必要におうじて「現在史」と記すことにする。

 それがどのようなものとして登場するかといえば、たとえば、2011年3月11日の東日本太平洋岸地震は869年に発生した陸奥沖大地震とほぼ同型のプレート境界地震であったという。1200年近い時間をおいてプレートの運動が大地震を繰り返し、それによって、日本列島の災害の歴史があらためて「問題」として登場したのである。この運命において9世紀と現在は直結する「問題としての歴史」の中にあったことになる。また、現在、沖縄では沖縄県をあげて米軍基地の撤去を要求し、そのなかで、沖縄がほぼ11世紀以来、「日本」とは別の王国を形成していた事実があらためて呼び起こされている。状況を知れば知るほど、現在の日本国家が、琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって国際法に反して王国を消滅させた明治維新権力の行動と似たようなことを繰り返しているという認識が生まれるのは自然なことである。

 このようにして歴史は、さまざまな形で「現在史」として登場する。三木は、これこそが歴史のすべての基礎にあるものであるというのである。こうして歴史は、現在史の中で問われる諸問題に関わる過去史、過去の問題史の膨大な束が露頭しているようなものとして現れることになる。人びとは、そのような時間の断面をともに歩む存在であり、そこに存在する「運命」「問題」に直面して行為する。三木は、このように「事実としての歴史」=「現在史」を何よりも重視し、その内実を「現在」における行為・実践・運動であるという。

 歴史学にとって重要なのは、ここで三木がいう「現在」とはContemporaryという意味であって、一つの時代区分における客観的な位置をいう現代、すでに過去となっている現代、つまりModernではないということである。イタリアの歴史哲学者、クローチェのいう「すべての歴史は現在史である(現在性Contemporaneitaをもつ)」ということの意味は、ここにあるということになる。人びとは、「現在の瞬間」に立って、その「運命」「問題」につらなる過去を手繰り寄せる。現在の問題の根を探っていくと過去のある時代に到達する。過去において解決されなかった問題は、持続し、あるいは肥大化して現在のなかに巣くう。だから歴史は、ここでは本質的に遡行的に認識されるものとなる。このような「遡行」(retroactive)は「回顧」(retrospective)とは違う。それは、意識の上で過去を振り返るのではなく、現在まで連続してきた歴史の運動、「行為=物」(Tatsache)の実体を手繰り寄せて具体的に確認することであって、むしろ「追体験」という表現がふさわしい。かって、佐々木潤之介は「歴史学とは、歴史的に形成された問題は、歴史的に解決・克服できるということを基礎にして、その営みを続ける学問である」(佐々木潤之介『地域史を学ぶということ』吉川弘文館、16頁)と述べた。ここでは歴史学は、「歴史的に形成された問題を歴史的に解決・克服する」できるという現在の学であるということになる。

ハイデガー『存在と時間』への批判

 さて、三木が、このように「事実としての歴史」こそが歴史の実体であるとしたのは、ハイデガーの存在論が、主体と実存の立場といわれるものをなによりも重視したことを前提としたものである。

 いわゆる実存主義ということになるが、実存とは、ドイツ語では「Existenz」、つまり、外へEx投げ出された存在istenz というような意味である。何故という理由もわからず、ここに存在し、気づいてみれば、疎遠で身も知らぬもののなかに投げ出されて存在しているように感じる。そういう不安の感覚を見つめ続けることから出発しようというような立場あるいは気分を基礎にする哲学ということになろうか。その基礎になっているといわれるのがハイデガーの大冊『存在と時間』である。

 ドイツ語を母語としないものにはともかく分かりにくい書であるが、三木の用語法を理解するために重要なので、簡単に紹介すれば、その出発点は、人間が世界の中に安定した存在として自己を感じる、いいかえれば「世界・内・存在」として自己を感じる仕組みについての簡単な定義にある。ハイデガーは、それを世界が自分にとって有用な道具の連なりのようにみえることであるという。つまり、世界は目的ー手段連関からなるようにみえるのであるが、しかし、実は、このような有用的なもの、直接に道具となりうるもの取り囲まれた自我(ハイデガーのいう現存在)は、常にそこから引き離される可能性をもつ存在であって、不安のなかにあるということになる。直接に有用的な道具存在から剥奪され「存在」それ自体に投げ込まれることは「無」への直面である。これは時間の内においても同様であって、人間は、いつ人生の様々な期待にそって組み立てられた目的ー手段の人生の予定連関から切り離されるかわからない。つまり、「時間・内・存在」としての人間にとっても過去・現在・未来のすべてが「無」となるという訳である。

 ハイデガーの世界観がきわめてペシミスティックなものであることに驚かされるが、これは歴史家にいわせれば、典型的な世紀末的感情である。もちろん、ここで「世紀末」というのは19世紀世紀末のことで、ドイツの世紀末には、M・ウェバーがいうように、とくに小市民的或いは職人的な感情が強く残っていたが、それが本格的な資本主義と労働力の商品化、大工場制に移行する動きからもたらされる不安がドイツの世紀末を特徴づけていた。職人的な労働のあり方においては世界は道具にそくして存在していて、直接に有用的なものとして現れる。しかし、大工場と資本は、人びとを狭い道具と職人世界から切り離す。ハイデガーの『存在と時間』を読んでいると、経済世界について意味ありげなことをいってはいるものの、結局、経済を道具レヴェルでしか認識していないことがよくわかる。「世界」の有用的な関連、「世界・内・存在」というのは、経済学的にいえば、人間社会の環境としての有用性と使用価値の世界のことである。そういう馴染んだ世界から切り離され、有用性(効用)の向こう側にある世界、商品世界の裏側に存在する世界は、ハイデガーにとっては非本来的で不安にみちた頽落の世界であるということになる。

 ようするにハイデガーのいう「世界」なるものは、最初から局限された狭い世界なのである。それに対して世界の全体に対する積極的な行為の立場を強調する三木は、ハイデガーの立場は解釈学的な立場にすぎないという。世界を解釈しようというのは、無意識に、その主体が直面している世界の一部を切り取るという操作を前提としており、それは動く世界、そして世界を動かそうという立場とは違うという。三木にとっては、「世界時間とは異なる主体的な時間を純粋に取り上げることに全努力を傾けつつあるハイデッガーにあってさえ、解釈学的立場が決定的にはたらいている。しかるに一般に解釈学的立場は内在の立場であり、そこでは時間は結局意識の時間にとどまる。これに反し、新しい歴史哲学は何よりも歴史そのものを作る行為の立場に立たねばならぬ」というのは自明のことであった。

「存在としての歴史」、過去は物質としてしか実在しない

 三木は、「最初に行為がある」という。そして、「事実(問題)としての歴史」の現在的な場におけるTatsache(Tat=行為とSache=物事)の蓄積が過去の重層を作り出す。三木の考え方では、過去の重層の根底に「現在史=事実としての歴史」が根底にある存在であるからこそ、そこから客観的に生み出されてきた「存在としての歴史」を、歴史の第二のあり方として正面から全体として捉えなければならないということになるのである。
 こうして、三木にとっては、「存在」はハイデガーのいうように意味を了解しがたいものとしての「無」であるのではなく、「事実(問題)」に直面した行為が瞬間瞬間に生みだし、意味づけ、構造づけられたものであるということになる。三木の言い方では「存在」は「現在」が「過去=無」として重層していったものであり、「歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷属せしめる」のである。

 過去は過ぎ去る。それ故に過去は物質としてしか実在しない。「存在としての歴史」の圧倒的な力と永遠に近い時間は、人間に自己の位置感覚を忘失させる。それは一つのランダムな傾向性(法則)として貫いていて、人間を押し流す。歴史は、たしかに、多数の意思とその環境との多種多様な相互作用の結果であって、人間の歴史ではあるのであるが、それは現在史からは疎外されたもののように存在している。過去は人間の物質的環境となり、環境と人間との物質代謝の中で逆に人間は過去に規定されているとは意識せずに、自己変化を強制される。

 問題は、この行為が未来が食い込んでくる「現在の瞬間」に行われることである。三木は、そこでは本来的な時間が未来から食い込んでくるのであって、その瞬間瞬間は、物理的な通時的時間chronologicalとは別の秩序に属するとして、「瞬間は本来時間の原子ではなく、かえって永遠の原子である」というキルケゴールの言葉を引用する。行為の時間は、順次に刻まれて連続する物理的な時間ではなく、新たな否定性をはらむ瞬間であり、未来が食い込んでくる汀線に存在する「現在の瞬間」であるという。「事実Tatsacheこそ真に動的なものであり、これに対して存在はむしろ一面において事実の否定として固定的なものといわれよう。存在の運動と発展とは根源的には事実の運動と発展とにもとづくものと見らるべきであろう」といっている。

 つまり、現在史の立場は、「存在としての歴史」を理解することによって、それをどうにかして乗り越えていくほかないのである。たとえば、先にふれた869年に発生した陸奥沖大地震が1000人余の人間を津波で溺死させ、陸奥に棲んでいた人間の肉体の世代的再生産に一定の影響をあたえているはずである。その様子を今から詳しく追跡することはできないが、しかし、考古学者によれば、人びとの遺体は今でも多賀城の下の河川敷周辺に埋葬されている可能性が高いという。そして人びとの死をもたらした太平洋プレートの運動はいまでも同じように続いている。「存在としての歴史」は多様な物質的痕跡として、地質データ・考古データ、さらには文献史料データとして、現在に残されている。

 現在史の立場は、この過去の「存在としての歴史」のなかに降りていくことによって、現在史を維持し、歴史を取り戻す力をもった「現在」を恢復しようという試みである。三木のいうように、ここに歴史の自由がある。3・11において地震と災害を問題として突きつけられた日本の歴史学界は、いま全力をあげて、歴史地震と災害史の研究に取り組んでいるが、それは、こういう意味での歴史の自由の学術的な条件を作ろうという試みであるということになる。

ロゴス(思想)としての歴史

 歴史科学が、このようにして、順々に、存在の歴史の闇のなかに降りていき、歴史の岩盤のなかに光をもたらし、それによって「存在としての歴史」を透明なものとしていくことを目的としていることはいうまでもない。ここで「歴史科学」というのは、歴史研究の広汎な局面において、すでに人文史学・考古学などと自然諸科学の融合的研究が必須のものとなっているためである。従来の考え方では、「過去に関するすべての事実が歴史的事実である訳ではないし、歴史家によって歴史的事実として扱われている訳でもない」などといわれるが、しかし、「存在としての歴史」を明らかにするために、歴史科学は社会・人文・自然の諸科学の融合のもとに過去に関する歴史事実を細大漏らさず復元すべき段階にある。科学の発展は、従来は不要であると考えられていた事実と情報が一挙に有意味に転化するという経過に満ちているのである。

 このようにして存在としての歴史は、ロゴス(思想)の光に照らされて、「ロゴスとしての歴史」に展開していく。これによって現在史は、過去のすべてを自己の視野のなかに入れていき、過去を取り戻していき、自己を過去の時代の先端に立つことになる。現在史と「存在としての歴史」は「ロゴスとしての歴史」によって統一されるのである。

 三木は「ロゴスとしての歴史」を直接には「叙述(歴史叙述)された歴史」と解説しているが、ロゴスというギリシャ語の原義は、三木においてもハイデガーと同様に「告示」という意味で理解されている(『存在と時間』第7節B)。残念ながら、『歴史哲学』は、その末尾に記されているように、歴史の認識論と具体的な史学方法論を将来の課題として残しているために、この「ロゴスとしての歴史」について、三木が何を考えていたかは不明な部分が多いが、おそらくそれは「存在としての歴史」を「時代」区分として告示すること、そして現在史を「史観=歴史像」として告示するという構成であったと思われる。『歴史哲学』を読み込んでみると、「ロゴスとしての歴史」は、歴史叙述において、「存在としての歴史」における現代の「時代」的な位置を明示し、同時に、現在についての主体的な歴史像を告示すべきものとされていたに相違ないと思えるのである。まさに思想としての歴史である。

 第二次大戦後の歴史学が、「時代区分論」と「歴史像」論の二つ、別の言い方では、歴史の科学的認識と主体的認識の二つを歴史学の中心問題として考えてきたのは、この三木の見解を受けたものということができる。それは、その中で三木が殺されたアジア太平洋戦争に対する客観的批判の書、『昭和史』に「人間の歴史が描かれていない」という不満に対して、その執筆者を代表して遠山茂樹が組み立ててきた議論である。遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』は、歴史学は、存在としての歴史のもつ歴史的時間をどう区分するかという「時代区分論」のみではなく、その時代を現在から見てどのように追体験的に位置づけるかという「歴史像」を構築しなければならないと確認している。

この国の歴史学

 とはいえ、この確認通りに歴史学の研究が順調に進んできたかといえば、そうはいえない。そもそも日本の歴史学は第二次世界大戦前は、「皇国史観」というものがあって、日本史研究の入り口は、たいへんに狭かった。第二次大戦後、方法論の開発や、史料の翻刻作業がある程度進んで、だいたい1960年代ころになってようやく誰でもが本格的な研究に入ることができるようになってきたといえるだろう。私は、それを象徴するのが、1962年に刊行が開始された岩波講座『日本歴史』(全23巻)と、1970年に刊行が開始された『講座・日本史』(全10巻)であろうと思う。

 ここで日本史研究の学説史について解説する紙幅はないが、そのときから、まだ40年。世代にして私などはまだ三世代目であろうか。そもそも歴史学は時間のかかる仕事であるが、日本の歴史学は、その意味ではまだまだ若い学問、ようやく成熟の道に入りつつある学問なのである。

 さて、ここ20年ほどで、上記の岩波講座『日本歴史』(全23巻)の編者や執筆者たちの多くは幽明を異にする世界に入って行かれた。以下にかかげる30冊は、彼らの仕事をどう引き継いでいくかという考え方のもとに撰んだものであるが、それらを読み、点検するなかで、以上に述べてきた三木清の『歴史哲学』の粗雑な要約が、何らかの形で役にたてばありがたいと思う。

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