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2015年3月

2015年3月25日 (水)

民主党の辺野古声明、一体どういうことなのでしょう。

 政府は沖縄県翁長知事の辺野古工事停止の要請、指示に対して、行政不服審査法にもとづく不服審査請求をした。行政的な指示・要請に対して、しかるべき政府の責任者が面談と討議もせずに、不服審査請求にでるというのは常識では考えられない。懸念されていた政府による「全面対決」の選択である。
 
 「指示」というのは、普通の言葉だと偉そうだが、これは許認可権をもつ役所が、その認可をうけた他の行政機関に対して行ったものである。行政機関同士の話である。これは、行政機関同士で話しあい、調整するというのが普通である。調整が無理でも話しあいくらいはするものである。ところが、政府が、翌日、即時に、挨拶もなく、不服審査請求にでるというのが、すごい。

 そもそもこれは指示であって、普通の行政処分ではないから、不服審査という手続きがふさわしいのかも問題がある。不服審査するのならば、7日経って、岩礁破壊許可が取り消しということになったときに不服であると申し立てるのが普通だろう。「指示」の段階で、不服審査を申し立てるというのは、いわゆるけんか腰というものである。

 おどろくべきことである。国民は行政機関同士が喧嘩をするために、行政機関の運営と人員に税金を払っているのではない。余計なやりかたで、世の中を騒がすなというのが、普通の反応である。現在の中央政府というのは、官僚の時間、エネルギーというのは、国民の所有に属することは分かっていないのではないか。政府というものは、国民の公僕である。国民のなかにはさまざまな意見があるが、政府が行動するときは、異なる意見の国民に対しても、礼をつくして行動し、発言するべきものである。そのくらいの上品さをもってもらわないと教育上よろしくない。そういう公僕意識が、けんか腰の内閣にはまったく存在しないのである。

 沖縄県はご苦労なことだと思う。

 しかし、驚いたのは、ブロゴスで読んだ、枝野官房長官による民主党の声明というものである。「政府が沖縄に対してドアをオープンにしていないことは極めて残念である」ということは述べてあって、そこに問題があるのではない。これは常識であろう。

 常識をいうのはいい。私は自分のことを常識的な人間とは思っていないが、文章を書くときは常識で表現しようと思う。枝野氏が常識を表に立てるのも文句をいおうとは思わない。しかし、民主党は政党であろう。政党というのは常識をいっていればすむものではなく、政策をいうべきものである。どうしろといっているのかがまったくわからない。ここには翁長知事の工事中止指示を受け入れよという言葉すらない。

 安倍内閣のこの間のやりかたがおかしいというのであれば、せめて、「翁長知事の行使中止指示を受け入れよ」「県が許可事項の実施についての調査を行うのは当然のことである調査の間は、工事を止めよ」というのが最低のいうべきことであろう。枝野氏の声明では実際には「まあまあ」といってるだけで何をいっているのか分からない。

 枝野氏の声明が言っているのは、「民主党は、沖縄をはじめとする関係住民の負担軽減に全力をあげるとともに、地元の理解を得つつ、在日米軍再編に関する日米合意を着実に実施するという苦渋の決断をしたが、このような沖縄を突き放した対応は、却って事態の進展を遅らせるものと危惧している」「沖縄の負担軽減と日米同盟の着実な深化を円滑に進めるためにも、政府がより沖縄県民の心に寄り添った姿勢を示すことを強く求める」ということである。
 
 ようするに、この枝野という人は、私だったら、会った上で同じことをもっとうまくやるといっているのである。私たちは「苦渋の決断」をした経験があるので、うまくやれるといっているのである。なぜ、そういうことができるかということの根拠を語らない。信じられない主観的発言である。こういう発言が仮にも政党の幹事長からでるということとは考えられない。「事態の進展を遅らせ」ないために、「日米同盟の着実な深化を円滑に進める」という姿勢、これはようするに、私は、現在の安倍内閣と同じ考え方であるが、私ならばもっとうまくやるということではないのか。

 政党としての民主党は結社であるから、何をいってもいいということもあろうが、しかし、民主党は政治資金規正法にもとづいて税金による補助をうけている政党である。国民は何をいっているかわからない政党に税金を払わされているというのはきわめて不愉快な話しである。政策もいわずに常識をいっているだけというのは政党の溶解である。溶解の政党か、妖怪の政党か。あるいは妖怪の正当化かというようなものである。ワープロというのは変換すると、自然に皮肉がでてくるらしい。

 何という政党であるか。


 民主党が安保条約を維持しようということは、民主党の政策であろう。「日米同盟の着実な深化」というのも考え方としてはありうるであろう。ただ、辺野古の新基地建設で問題となっているのは、軍事同盟をイラク・中近東まで広げようということであって、これは従来の安保の考え方とは違うことである。そこをどう考えるのか、この政党は何を考えているのか。こういうように政策を考えるから、辺野古は、こういう形で沖縄県と相談できるという話しをしないと、何をいったことにもならない。

 辺野古の基地は、新基地建設である。軍港を作り、大規模滑走路をつくり、沖縄の基地群の中心基地として、中近東を爆撃するための基地、海兵隊輸送のオスプレイ派遣のアメリカ軍のベースとして利用しようということである。この基地は、何よりもアメリカの、湾岸戦争以来の失策によって起きた中近東の現状を(またも)アメリカが軍事力で処理しようという行動のための基地である。ヨーロッパがそういう基地として使えないから、太平洋から攻撃態勢を保持しようという基地である。

 たしか10年ほど前、沖縄国際大学への米軍機の墜落は、イラク派遣の訓練中のことであったことはよく知られている。今回の辺野古の巨大基地建設は、普天間の危険性を理由として基地を移転し、日本の費用でアメリカの中近東政策の破綻を取り繕い(実際には拡大する)ための巨大基地を作ろうということであって、その意味で普天間の事故に直接に連接する行動である。

 本当に心配なのは、アメリカ軍の爆撃をうける中近東の人びとにとって、その出撃基地の根本が日本にあるということである。テロは許し難い。しかし、辺野古の巨大基地は、そして沖縄がテロをうける確率が極めて高くなることは十分に予想される。そのとき、いまの内閣、自民党、民主党はどう責任をとる積もりなのであろうか。

 そもそも、中近東からみて、爆撃基地は沖縄にあるのではなく、日本にあるのである。それ故に、テロは日本国内どこにでも起こりうる。逆にいうと、辺野古新基地のような基地は、東アジアを目途に入れたものではないから、別に沖縄にある必要はない。東京にあっても、どこにあっても、テロ側にとっても、アメリカにとっても同じことである。そういう基地が沖縄にあって、沖縄がテロにあったら、どうする積もりなのであろう。

 政策問題というのは、まずはそういうことだと思う。あれだけ、ヨーロッパで、そして各地でテロが起きている。先日の苦しい事件、ジャーナリストが殺害された事件からいって、日本で起きる可能性は当然に考えておかねばならないはずである。テロなどは起きませんというのであろうか。

 福島の原発事故について、安倍首相が、10年ほどまえ、そんなことはおきませんといっており、福島事故のすぐ前には、当時の民主党の菅首相が原発を「市民運動」時代の見解をかえて、原発容認、さらには原発を外国に売るという政策をとっていたことはよく知られている。彼らは実際に原発事故が起きたのちに責任をとっているとはいえない。同じことを繰り返そうというのであろうか。「みんなで進めば怖くない。被害を受けるのは私ではない」ということでないことを願うものである。

 もう、そういうことを忘れている人びともいるであろう。自分の税金で働いているはずの政治家の体たらくなどというものを憶えているのは不愉快な話しである。しかし、枝野氏が「ただちに影響ない」と言い続けていたことは、私は、なかなか忘れられない。

 ヤスパースがナチス党に入党したハイデガーについて、世界史の歯車に何も知らずに手を突っ込んだ子供といったというのは有名な話しであるが、そういう喜劇を21世紀になっても何度もみせられていてはたまらない。

2015年3月23日 (月)

 「本土」の住民の沖縄への責任。基地を引き受けるか。安保をやめるか。

 翁長知事が30日までの期限を限って、防衛局に対して、辺野古作業停止を指示した。これが守られない場合は、辺野古埋め立てに関する岩礁破砕許可を取り消すということである。

 日本政府が、この指示に応じることを願う。

 翁長知事が知事になって以来、長く沖縄の各界において議論と調整が続いてきたに相違ない。翁長知事の会見の様子を動画でみたが、県庁の中枢の意思が固いことは明らかである。翁長氏は「粛々と進む」と述べていた。その通りと思う。
 
 『世界』の臨時増刊号「沖縄、何が起きているか」が、3月24日にでるようである。私も「辺野古を報道しない”異様な”日本のマスコミ」という文章を書いた。
 私の文章は別として、多くの方々がよまれることを願う。

 さて、異様なのは、同時に、「日本人」である。同じ国家に属しながら、国家政策として現在取られている安保条約にもとづく基地の74パーセントを沖縄におしつけていて、恬として恥じない国民というものは、近代国家の組織原則とは外れている。

 これは「日本人」というものを根本から考える必要を示している。

 この場合、「日本人」の義務は、二つに一つ。一つは、可及的速やかに沖縄の基地を本土で引き受けることである。これまで70年にわたって沖縄に基地を押しつけてきた。しかも、アメリカ軍による占領の直前、沖縄戦においては県民の4人に一人が死すという惨禍をあたえた。それも基本的に日本軍がしたことである。これは近代国家の原則である国民の権利の平等という点からいって、基地をすべて本土にもってきても当然ということである。

 とくに、現在の内閣のメンバーが地元に基地をすべてもってくる。たとえば安倍首相が地元の山口県にすべて沖縄の基地をもってきたいと主張するのは筋が通った話である。首相が、私を支持していただいたのだから、地元に御願いしてみるというのは自由である。そして、頼まれれば、安倍氏を支持した山口県民は拒否すべきではないだろう。立派な大人が投票した以上、それは義務的なことである。「長州人」がそんなことがわからなくてどうするということである。

 私は、沖縄の方には、申し訳ないことではあるが、この本土に基地をすべて移すということはいえない。むしろ、もう一つの選択肢で御願いしたい。それは迂遠なことであるが、「本土」で、基地を提供する根拠となっている安保条約を問い直し、それをやめることについての議論をすることである。

 これは、今、沖縄の人がそう簡単にはいえないことである。沖縄では、ともかく基地を減らし、その跡地を民間的に開発する。あるいは自然を保全するということで、沖縄の経済と環境の豊かさを維持するという点で一致して行動している。これだけたいへんな沖縄の人びとに安保条約をどうするかという議論についてまで御願いする訳には行かない。上の『世界』の臨時増刊の対談で、佐藤優氏が、「(沖縄では)安保条約の廃棄、すべての基地の閉鎖という極端な話はしていない」と述べている通りである。74パーセントの基地を半分にせよという話でさえなく、ともかく辺野古だけはどうにかしたいということである。「新たな基地負担、新たな環境破壊はやめよ」ということであり、これならば、アメリカ・日本の両国家と相対的に話が可能であろうというように沖縄が考えるのは当然のことである。

 安保条約についての議論が、今できるのは、明らかに本土である。これにはもちろん、さまざまな意見があろうが、しかし、そもそも基地がおかれている根拠をなす安保条約をどう考えるかという議論さえほとんど存在しないのは異様なことである。「本土」で、この問題を議論するのは、けっして「極端」ではなく、むしろ自然なことである。こういう条約があるから沖縄に不当な負担をかけている。それがそれだけ必要なことかを確認したいというのは実に普通のことである。

 安保条約はよいが、基地負担は減らすという言い方は、もちろん、成立する。しかし、現在の日本の政治家に本当にそれを考え、実行できる集団なり、力があるとは、とても考えられない。戦後70年の間、それができなくて真剣な反省をしてこなかったような政治家たちを、今から信頼せよというのは無理な話である。自由民主党・民主党などの劣化は相当のものである。

 ここのところがどうかという原点に戻って議論しなければ、ものごとは始まらないと、私は思う。

 私には、この議論をせずには、つまりともかくもそこに立ち戻って、そもそもどういうことになっているのかという議論をしなければ、物事は結局進まないと思う。それが「本土」に住むものの責任である。

 こういう議論をせずに、世界最大のアメリカと日本の軍事同盟のキーをなす基地の現状を大きく変えることができるなのというのは、私は幻想であり、相当部分が議論のための議論にすぎないと思う。

 ともかく、こんなことが続くならば、もう安保条約の適否について議論せざるをえないという意見が、(沖縄では現状では出しにくい以上)、本土で強くでてこなければ、沖縄基地が抜本的に減らされるということは、現在の日米の政府のあり方からいってありえない。
 そんなことは少しでも考えれば、誰でもわかることだと思う。

 なお、私は、歴史家なので、これに関係して考えなければならないことが多い。一つは、沖縄がほぼ11世紀以来、「日本」とは別の王国を形成していた事実があらためて呼び起こされるのは当然のことである。状況を知れば知るほど、現在の日本国家が、この琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって国際法に反して琉球王国を消滅させた明治維新権力の行動と似たようなことを繰り返しているという認識が生まれるのは自然なことである。

 これだけの歴史的事情があり、かつこういう状態が続けば、沖縄は独立を主張する十分な権利があるのは国連レヴェルでの判断としては普通の判断である。

 もちろん、現状では、その前の問題、つまり、先に述べたように、近代国家が特定の自治体にのみ特定の負担を押しつけるなどということはありえないという原則で処理すべき問題であると思い、当面は、それが望ましいと思うが、沖縄の方々が、こういう状況でより強い自治権を主張するのは当然であり、また独立を主張する権利もあると思う。

 ただ、その上で、いま、私が興味があるのは、沖縄・琉球の文化と日本の文化が、やはり相当早くから深い関係をもっていたと考えてもよいのではないかということである。
 つまり、柳田国男と折口信夫が主張した日本文化の南方起源という問題である。

 迂遠なことをいうようだが、折口信夫は、沖縄の本来の神話には月の信仰が強かった可能性があるという。私は日本の神話においても月の神の位置は高かったのではないかと考えている。
 逆にいうと、日本で太陽神信仰、アマテラスが圧倒的に強くなるのは10世紀以降と考えている。そして、沖縄でも太陽神信仰が強くなるのは14世紀ころではないかという有力な意見がでている(安里進『琉球の王権とグスク』、日本史リブレット、山川出版)。ようするに、10世紀までは琉球も日本も月神神話が強かったのではないか、同じ神話圏に属していたのではないかという仮説である。

 これらの問題をふくめて、琉球・沖縄と日本「本土」の関係を十分に考えなければならない。そういう議論が「日本国」国籍をもつ人びと全体のあいだで教養として考えることができるようになるといい。そのために歴史家としてできることをやりたいと思う。

 しかし、いま「本土」という言葉を使った。「本土」という言葉を使うのならば、上に述べた二者択一の問題を本当に真剣に考えるべきであると思う。そうでなくて何が「本土」か。

歴史とは何か--三木清『歴史哲学』について

 必要があって、久しぶりに三木清『歴史哲学』を読んだ。やはりよいものだと思う。
 30冊のために書いたが、「『日本史研究』」というよりも、歴史学論(というよりも『歴史哲学』)になってしまったので、このまま出すかどうかはわからない。

はじめに
 歴史学が文学と同じなのは、ともかく本を読むのが好きでなければならないということである。そしてある歴史書の描く時代に入っていくことは、われわれが文学の世界のなかに入っていくことと、どこか似ている部分があると思う。
 
 ただ、歴史学の研究をしてみようということになると、その本を書いた歴史家の他の著作や、その著作に引用された他の学者の仕事を読んでいくことになる。研究を進めるために、それらの歴史家の仕事の全体にむきあい、そこに自分を同調させていくのである。もちろん、最初のうちは、一人で、自己流で進むことはできる。ともかくも史料を読んでいくという形で研究を進めることができる局面も多い。しかし、途なかばになり、「小暗き森に踏入りぬ」ということになると、先を進んでいる人間を意識するほか、自分の前に世界は開けなくなる。
 
 歴史学は、大量の史料が無秩序なままであったり、微細だが貴重な史料が隠されていたりする中で調査を重ね、それらを一つ一つ処理して道をつけていかねばならない。そのためには、どうしても先行者の仕事を確認しながら、それを乗り越えていくことが必要になる。これは歴史学という学問が、結局、個人の頭脳と肉体を道具として史料に向き合い、史料の向こう側をのぞこうする学問であって、いわば手作りで職人的な仕事だからだと思う。

 ここが文学の仕事と違うところである。もちろん、文学者も執筆の前には資料を調査し、分析・総合の作業を行うが、彼らにはその先の想像力がオリジナルであることこそが肝心である。しかし、歴史家の仕事は最初から最後まで調査・分析・総合なのであって、叙述をしていても、すべてはそこに戻っていく。歴史家の仕事が成功した場合には、そこに生まれるのは歴史の独自な姿そのものであって、歴史家の仕事自体は、それがいかにオリジナルなものであったとしても、むしろ消えて忘れられていくことこそが目標である。

 本書の目的は、日本史研究の基本書として30冊を撰び、その紹介を通じて、このような歴史家の仕事について説明することにある。いちおう、「読書入門」「史料の読み」「学際からの目」「研究書の世界」「研究の基礎」と区分してみたが、どれも、「歴史家の仕事とは何か」についての説明であると読むことができるだろう。

 ただ、「歴史家の仕事とは何か」という問題は、「歴史とは何か」という問題と深く関係している。だいたい、職人的な資質をもった人が多い歴史家は、普通、「歴史とは何か」などという問題について語ろうとしないし、そんなことを考えている人間であるとは、自分自身を意識しない。しかし、私たちは、「歴史家の仕事とは何か」ということについて考え続けているもので、実際には、それを通じて「歴史とは何か」という問題に面と向かっているものなのである。

 ただ、それは歴史家という人種でないと、なかなか実感できないような問題である。これは見取り図のようなものであるから、ある程度立ち入ってからの方が利用価値があるかもしれない。歴史学のなかには、最終的には「歴史とは何か」という巨大な疑問がひかえていることを知っておいていただくのも意味があるかとも思う。それ故に、読者は、以下の文章は、気が向いたら、あるいは30冊の紹介を利用した後に読んでいただけばよいという位置づけであると考えていただければよい。

E・H・カー『歴史とは何か』

 「歴史とは何か」といえば、E・H・カーに同名の本がある(岩波新書)。ネーミングがよく、類書がないこともあってよく売れた本である。カーは外交官から現代史研究に転じた歴史学者で、この本の価値は、カーが「歴史家の仕事とは何か」について、ややシニカルな口調もまじえて率直に語っていることにあるように思う。ヨーロッパ思想において語られた、歴史に関する一種の名言集となっているのも、この本が読まれた理由であろうか。

 しかし、問題は、カーの議論はどうしても「歴史家の仕事とは何か」に戻っていく傾向があって、本題の「歴史とは何か」という議論には十分な筋が通っていないことである。この本を本格的な「歴史哲学」の書ということはできない。カーは「歴史は過去と現在の対話である」ということを言葉を変えながら繰り返すのであるが、翻訳の文章がよくないこともあって、議論の筋が不鮮明で、内容も常識的な評論の域を超えていないというのが率直なところであおる。

 そもそも、この本は、1961年にケンブリッジで行った講演をまとめたものである関係もあって、どうしてもイギリスの史学史や、当時のイギリスの「帝国のたそがれ」といわれる世相を中心にまわっている。そして、「十九世紀に西洋諸国はアジアおよびアフリカを植民地にしましたが、歴史家たちは、これらの大陸の後れた民族に対する長期的な結果ということを理由にして、この植民地化を許容しております」などという、いかにもヨーロッパの優越感そのものという記述も多く、いま読んでいると違和感が多い。

三木清『歴史哲学』

 そこでここでは、三木清の『歴史哲学』を下敷きとして、「歴史とは何か」について手短な説明をしておくことにしたい。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、終戦後の一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子、リッケルト・ハイデガーについてドイツ哲学の本流を学び、パスカルを初めとしたフランス思想にも強く、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この『歴史哲学』のみしか存在しないといわれている。

 この三木『歴史哲学』のよいところは、三木が歴史というものに、「事実としての歴史」「存在としての歴史」「ロゴスとしての歴史」の三つの層序を区別して議論していることであろう。これによって、「歴史とは何か」という形で一般的な問いを投げかけるよりは、はるかに具体的な問題の整理が可能になっている。ただ、この「事実」「存在」「ロゴス」という三つの用語はハイデガーの『存在と時間』を利用したもので、三木は、この作業のなかでハイデガーの哲学を換骨奪胎して、ハイデカーを批判し乗り越えることをめざしていた。三木の作業が中途で終わっていることもあって、それを正確に理解するのは困難ではあるが、しかし、これを追跡しておくことは、「歴史哲学」を考えてる以上は、必要なことだと思う。

「事実Tatsacheとしての歴史」=現在史

 そこで私の理解した限りで説明をしていくと、まず「事実としての歴史」ということの意味が一番分かりにくいが。この「事実」とは、Tatsacheというドイツ語の翻訳であって、三木は、Tatsacheとは、Tat(行為)とSache(物事)をあわせたもので、「そこでは行為と物とが二つでない」と説明している。つまり、Tatsacheとは、目の前にある実践的な問題という意味なのである。三木は、ハイデガーがTatsacheという用語に「問題」「運命」が目の前に存在するという意味を読み込んだことを前提として、この「事実としての歴史」という用語を作った(『存在と時間』12節)。ここではその趣旨をふまえて必要におうじて「現在史」と記すことにする。

 それがどのようなものとして登場するかといえば、たとえば、2011年3月11日の東日本太平洋岸地震は869年に発生した陸奥沖大地震とほぼ同型のプレート境界地震であったという。1200年近い時間をおいてプレートの運動が大地震を繰り返し、それによって、日本列島の災害の歴史があらためて「問題」として登場したのである。この運命において9世紀と現在は直結する「問題としての歴史」の中にあったことになる。また、現在、沖縄では沖縄県をあげて米軍基地の撤去を要求し、そのなかで、沖縄がほぼ11世紀以来、「日本」とは別の王国を形成していた事実があらためて呼び起こされている。状況を知れば知るほど、現在の日本国家が、琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって国際法に反して王国を消滅させた明治維新権力の行動と似たようなことを繰り返しているという認識が生まれるのは自然なことである。

 このようにして歴史は、さまざまな形で「現在史」として登場する。三木は、これこそが歴史のすべての基礎にあるものであるというのである。こうして歴史は、現在史の中で問われる諸問題に関わる過去史、過去の問題史の膨大な束が露頭しているようなものとして現れることになる。人びとは、そのような時間の断面をともに歩む存在であり、そこに存在する「運命」「問題」に直面して行為する。三木は、このように「事実としての歴史」=「現在史」を何よりも重視し、その内実を「現在」における行為・実践・運動であるという。

 歴史学にとって重要なのは、ここで三木がいう「現在」とはContemporaryという意味であって、一つの時代区分における客観的な位置をいう現代、すでに過去となっている現代、つまりModernではないということである。イタリアの歴史哲学者、クローチェのいう「すべての歴史は現在史である(現在性Contemporaneitaをもつ)」ということの意味は、ここにあるということになる。人びとは、「現在の瞬間」に立って、その「運命」「問題」につらなる過去を手繰り寄せる。現在の問題の根を探っていくと過去のある時代に到達する。過去において解決されなかった問題は、持続し、あるいは肥大化して現在のなかに巣くう。だから歴史は、ここでは本質的に遡行的に認識されるものとなる。このような「遡行」(retroactive)は「回顧」(retrospective)とは違う。それは、意識の上で過去を振り返るのではなく、現在まで連続してきた歴史の運動、「行為=物」(Tatsache)の実体を手繰り寄せて具体的に確認することであって、むしろ「追体験」という表現がふさわしい。かって、佐々木潤之介は「歴史学とは、歴史的に形成された問題は、歴史的に解決・克服できるということを基礎にして、その営みを続ける学問である」(佐々木潤之介『地域史を学ぶということ』吉川弘文館、16頁)と述べた。ここでは歴史学は、「歴史的に形成された問題を歴史的に解決・克服する」できるという現在の学であるということになる。

ハイデガー『存在と時間』への批判

 さて、三木が、このように「事実としての歴史」こそが歴史の実体であるとしたのは、ハイデガーの存在論が、主体と実存の立場といわれるものをなによりも重視したことを前提としたものである。

 いわゆる実存主義ということになるが、実存とは、ドイツ語では「Existenz」、つまり、外へEx投げ出された存在istenz というような意味である。何故という理由もわからず、ここに存在し、気づいてみれば、疎遠で身も知らぬもののなかに投げ出されて存在しているように感じる。そういう不安の感覚を見つめ続けることから出発しようというような立場あるいは気分を基礎にする哲学ということになろうか。その基礎になっているといわれるのがハイデガーの大冊『存在と時間』である。

 ドイツ語を母語としないものにはともかく分かりにくい書であるが、三木の用語法を理解するために重要なので、簡単に紹介すれば、その出発点は、人間が世界の中に安定した存在として自己を感じる、いいかえれば「世界・内・存在」として自己を感じる仕組みについての簡単な定義にある。ハイデガーは、それを世界が自分にとって有用な道具の連なりのようにみえることであるという。つまり、世界は目的ー手段連関からなるようにみえるのであるが、しかし、実は、このような有用的なもの、直接に道具となりうるもの取り囲まれた自我(ハイデガーのいう現存在)は、常にそこから引き離される可能性をもつ存在であって、不安のなかにあるということになる。直接に有用的な道具存在から剥奪され「存在」それ自体に投げ込まれることは「無」への直面である。これは時間の内においても同様であって、人間は、いつ人生の様々な期待にそって組み立てられた目的ー手段の人生の予定連関から切り離されるかわからない。つまり、「時間・内・存在」としての人間にとっても過去・現在・未来のすべてが「無」となるという訳である。

 ハイデガーの世界観がきわめてペシミスティックなものであることに驚かされるが、これは歴史家にいわせれば、典型的な世紀末的感情である。もちろん、ここで「世紀末」というのは19世紀世紀末のことで、ドイツの世紀末には、M・ウェバーがいうように、とくに小市民的或いは職人的な感情が強く残っていたが、それが本格的な資本主義と労働力の商品化、大工場制に移行する動きからもたらされる不安がドイツの世紀末を特徴づけていた。職人的な労働のあり方においては世界は道具にそくして存在していて、直接に有用的なものとして現れる。しかし、大工場と資本は、人びとを狭い道具と職人世界から切り離す。ハイデガーの『存在と時間』を読んでいると、経済世界について意味ありげなことをいってはいるものの、結局、経済を道具レヴェルでしか認識していないことがよくわかる。「世界」の有用的な関連、「世界・内・存在」というのは、経済学的にいえば、人間社会の環境としての有用性と使用価値の世界のことである。そういう馴染んだ世界から切り離され、有用性(効用)の向こう側にある世界、商品世界の裏側に存在する世界は、ハイデガーにとっては非本来的で不安にみちた頽落の世界であるということになる。

 ようするにハイデガーのいう「世界」なるものは、最初から局限された狭い世界なのである。それに対して世界の全体に対する積極的な行為の立場を強調する三木は、ハイデガーの立場は解釈学的な立場にすぎないという。世界を解釈しようというのは、無意識に、その主体が直面している世界の一部を切り取るという操作を前提としており、それは動く世界、そして世界を動かそうという立場とは違うという。三木にとっては、「世界時間とは異なる主体的な時間を純粋に取り上げることに全努力を傾けつつあるハイデッガーにあってさえ、解釈学的立場が決定的にはたらいている。しかるに一般に解釈学的立場は内在の立場であり、そこでは時間は結局意識の時間にとどまる。これに反し、新しい歴史哲学は何よりも歴史そのものを作る行為の立場に立たねばならぬ」というのは自明のことであった。

「存在としての歴史」、過去は物質としてしか実在しない

 三木は、「最初に行為がある」という。そして、「事実(問題)としての歴史」の現在的な場におけるTatsache(Tat=行為とSache=物事)の蓄積が過去の重層を作り出す。三木の考え方では、過去の重層の根底に「現在史=事実としての歴史」が根底にある存在であるからこそ、そこから客観的に生み出されてきた「存在としての歴史」を、歴史の第二のあり方として正面から全体として捉えなければならないということになるのである。
 こうして、三木にとっては、「存在」はハイデガーのいうように意味を了解しがたいものとしての「無」であるのではなく、「事実(問題)」に直面した行為が瞬間瞬間に生みだし、意味づけ、構造づけられたものであるということになる。三木の言い方では「存在」は「現在」が「過去=無」として重層していったものであり、「歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷属せしめる」のである。

 過去は過ぎ去る。それ故に過去は物質としてしか実在しない。「存在としての歴史」の圧倒的な力と永遠に近い時間は、人間に自己の位置感覚を忘失させる。それは一つのランダムな傾向性(法則)として貫いていて、人間を押し流す。歴史は、たしかに、多数の意思とその環境との多種多様な相互作用の結果であって、人間の歴史ではあるのであるが、それは現在史からは疎外されたもののように存在している。過去は人間の物質的環境となり、環境と人間との物質代謝の中で逆に人間は過去に規定されているとは意識せずに、自己変化を強制される。

 問題は、この行為が未来が食い込んでくる「現在の瞬間」に行われることである。三木は、そこでは本来的な時間が未来から食い込んでくるのであって、その瞬間瞬間は、物理的な通時的時間chronologicalとは別の秩序に属するとして、「瞬間は本来時間の原子ではなく、かえって永遠の原子である」というキルケゴールの言葉を引用する。行為の時間は、順次に刻まれて連続する物理的な時間ではなく、新たな否定性をはらむ瞬間であり、未来が食い込んでくる汀線に存在する「現在の瞬間」であるという。「事実Tatsacheこそ真に動的なものであり、これに対して存在はむしろ一面において事実の否定として固定的なものといわれよう。存在の運動と発展とは根源的には事実の運動と発展とにもとづくものと見らるべきであろう」といっている。

 つまり、現在史の立場は、「存在としての歴史」を理解することによって、それをどうにかして乗り越えていくほかないのである。たとえば、先にふれた869年に発生した陸奥沖大地震が1000人余の人間を津波で溺死させ、陸奥に棲んでいた人間の肉体の世代的再生産に一定の影響をあたえているはずである。その様子を今から詳しく追跡することはできないが、しかし、考古学者によれば、人びとの遺体は今でも多賀城の下の河川敷周辺に埋葬されている可能性が高いという。そして人びとの死をもたらした太平洋プレートの運動はいまでも同じように続いている。「存在としての歴史」は多様な物質的痕跡として、地質データ・考古データ、さらには文献史料データとして、現在に残されている。

 現在史の立場は、この過去の「存在としての歴史」のなかに降りていくことによって、現在史を維持し、歴史を取り戻す力をもった「現在」を恢復しようという試みである。三木のいうように、ここに歴史の自由がある。3・11において地震と災害を問題として突きつけられた日本の歴史学界は、いま全力をあげて、歴史地震と災害史の研究に取り組んでいるが、それは、こういう意味での歴史の自由の学術的な条件を作ろうという試みであるということになる。

ロゴス(思想)としての歴史

 歴史科学が、このようにして、順々に、存在の歴史の闇のなかに降りていき、歴史の岩盤のなかに光をもたらし、それによって「存在としての歴史」を透明なものとしていくことを目的としていることはいうまでもない。ここで「歴史科学」というのは、歴史研究の広汎な局面において、すでに人文史学・考古学などと自然諸科学の融合的研究が必須のものとなっているためである。従来の考え方では、「過去に関するすべての事実が歴史的事実である訳ではないし、歴史家によって歴史的事実として扱われている訳でもない」などといわれるが、しかし、「存在としての歴史」を明らかにするために、歴史科学は社会・人文・自然の諸科学の融合のもとに過去に関する歴史事実を細大漏らさず復元すべき段階にある。科学の発展は、従来は不要であると考えられていた事実と情報が一挙に有意味に転化するという経過に満ちているのである。

 このようにして存在としての歴史は、ロゴス(思想)の光に照らされて、「ロゴスとしての歴史」に展開していく。これによって現在史は、過去のすべてを自己の視野のなかに入れていき、過去を取り戻していき、自己を過去の時代の先端に立つことになる。現在史と「存在としての歴史」は「ロゴスとしての歴史」によって統一されるのである。

 三木は「ロゴスとしての歴史」を直接には「叙述(歴史叙述)された歴史」と解説しているが、ロゴスというギリシャ語の原義は、三木においてもハイデガーと同様に「告示」という意味で理解されている(『存在と時間』第7節B)。残念ながら、『歴史哲学』は、その末尾に記されているように、歴史の認識論と具体的な史学方法論を将来の課題として残しているために、この「ロゴスとしての歴史」について、三木が何を考えていたかは不明な部分が多いが、おそらくそれは「存在としての歴史」を「時代」区分として告示すること、そして現在史を「史観=歴史像」として告示するという構成であったと思われる。『歴史哲学』を読み込んでみると、「ロゴスとしての歴史」は、歴史叙述において、「存在としての歴史」における現代の「時代」的な位置を明示し、同時に、現在についての主体的な歴史像を告示すべきものとされていたに相違ないと思えるのである。まさに思想としての歴史である。

 第二次大戦後の歴史学が、「時代区分論」と「歴史像」論の二つ、別の言い方では、歴史の科学的認識と主体的認識の二つを歴史学の中心問題として考えてきたのは、この三木の見解を受けたものということができる。それは、その中で三木が殺されたアジア太平洋戦争に対する客観的批判の書、『昭和史』に「人間の歴史が描かれていない」という不満に対して、その執筆者を代表して遠山茂樹が組み立ててきた議論である。遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』は、歴史学は、存在としての歴史のもつ歴史的時間をどう区分するかという「時代区分論」のみではなく、その時代を現在から見てどのように追体験的に位置づけるかという「歴史像」を構築しなければならないと確認している。

この国の歴史学

 とはいえ、この確認通りに歴史学の研究が順調に進んできたかといえば、そうはいえない。そもそも日本の歴史学は第二次世界大戦前は、「皇国史観」というものがあって、日本史研究の入り口は、たいへんに狭かった。第二次大戦後、方法論の開発や、史料の翻刻作業がある程度進んで、だいたい1960年代ころになってようやく誰でもが本格的な研究に入ることができるようになってきたといえるだろう。私は、それを象徴するのが、1962年に刊行が開始された岩波講座『日本歴史』(全23巻)と、1970年に刊行が開始された『講座・日本史』(全10巻)であろうと思う。

 ここで日本史研究の学説史について解説する紙幅はないが、そのときから、まだ40年。世代にして私などはまだ三世代目であろうか。そもそも歴史学は時間のかかる仕事であるが、日本の歴史学は、その意味ではまだまだ若い学問、ようやく成熟の道に入りつつある学問なのである。

 さて、ここ20年ほどで、上記の岩波講座『日本歴史』(全23巻)の編者や執筆者たちの多くは幽明を異にする世界に入って行かれた。以下にかかげる30冊は、彼らの仕事をどう引き継いでいくかという考え方のもとに撰んだものであるが、それらを読み、点検するなかで、以上に述べてきた三木清の『歴史哲学』の粗雑な要約が、何らかの形で役にたてばありがたいと思う。

2015年3月15日 (日)

米軍に「良き隣人」をみた沖縄の「保守」--翁長知事の発言

 翁長知事が、当選後、米軍について「良き隣人のなすべきこととは思えない」と発言したことが強い印象に残っている。

 これは知事が、米軍に「良き隣人」たることを期待するという言葉に馴染んでいたことを意味する。それを前提として、少しづつでも状況を改善していく。これが沖縄の「保守」の考え方であったのであろうと思う。

 もちろん、現在の問題は、アメリカも日本の「本土」政府も、どちらも決して「よき隣人」ではないということが誰の目でみても明らかになってしまったということであろう。だから沖縄では、「保守」の知事がアメリカ軍と安倍内閣を強く批判するということになっている。
 
 このままアメリカ軍と安倍内閣が巨大基地建設、キャンプシュワブの大拡大を強行するとすると、問題は日米安保条約にもとづく基地提供それ自身ををどう考えるかということになる。日米安保体制そのものが問われるということになる。もし、そうなれば、またさまざまな議論が必要になってくる。

 けれども、その議論に進む前に、私は、沖縄の「保守」の立場というものが、歴史からみると、ある意味で自然なものであったということを確認しておくべきだろうと思う。 

 翁長知事の発言を聞いて思い出したのは、岡本太郎の沖縄文化論である(岡本太郎『沖縄文化論』、1961年)。

 岡本は1957年に占領下の沖縄を訪れた。岡本は、美術学校の同期で、二科会の会員であった大城皓也に誘われて沖縄に行った。最初は遊びの積もりであったとあるが、この沖縄経験が岡本の仕事に大きな影響をあたえたことはよく知られている。岡本の観察は自己省察もふくめて率直でするどいが、岡本は沖縄では「誰にあっても、底抜けに善良だ。これでピントがあっているんだろうかと、ちょっと心配なくらいだ。沖縄には『いちゃりば、ちょうでえ(行き会ったものはみな兄弟)、ぬう、ひぇだてぬあが(何の隔てがあろうか』という言葉があるそうだ。たしかに、自分と他人を意識し、隔てているような、あの小市民独特のいやったらしさが感じられない」といっている。ようするに気が合う人が多かったのだろう。

 岡本は、インターナショナル・ウィメンズ・クラブという琉米新善機関のパーティに招待されたときの経験を述べているが、そこにも、そういう柔らかい雰囲気があったという。「私はいささか気をぬかれた。ここには征服者と被征服者がいる。そのはずだ。だが、沖縄人の方が自然にふるまっている」としている。岡本は、そこに琉球の上層部の貴族的な弱さをみるなど、複雑な状況をみているという自覚もあるが、ともあれ、ここには琉球社会の一部にアメリカを「よき隣人」としてつきあうという様子があったことがみえる。

 私は、これはある意味では自然なことであると思う。

 もちろん、アメリカの沖縄占領にともなう基地占拠は、国際法に違反した銃剣による土地強奪によるもので許し難いものである。けれども、日本による明治維新後の「琉球処分」、沖縄に対するなかば植民地的な支配、貧困の強制と沖縄差別、そして沖縄戦における日本軍の県民を見放す行動、集団自殺をふくむ大量死をもたらしたなどなど、日本国家のやってきたことと比べて、歴史的にみてどちらがひどいかという比較の問題は、確実に存在したと思う。岡本が沖縄戦の戦跡をめぐって、「この戦跡をみていると、はるかに日本人が日本人に対しておかした傲慢無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りでやりきれない」と述べている通りである。

 こういう歴史的経験は、20年前くらい前までは、今日よりもさらに沖縄に濃厚に残っていたのだと思う。これが沖縄の「保守」の考え方や、立場がある意味で自然なものであると考えることの理由である。本来の「保守」というものは、どのような場合でも歴史に根をおくものであって、その限りではつねに尊重するべきものであると、私のような歴史家は考える。

 沖縄の歴史と、「本土」の歴史は大きく異なる道だったのであって、こういう意味での沖縄の「保守」を、日本の「本土」に棲む「革新」が一方的に批判することはできないだろう。

 「琉球処分」によって琉球王国を国際的な信義に違反する形で、日本に強行的に編入し、その上で沖縄県に対してさまざまな行政的差別を行い、沖縄戦において甚大な被害をあたえた以上、「本土」に棲む人間は、「本土」に棲むということ自体によって、特定の責任が発生しているという事態があるはずである。

 先日13日の朝日新聞の電子版に、小説家の目取真俊氏のインタビユー記事があった。そこで「翁長知事は工事を止めることができるでしょうか。あまり期待していないということでしょうか」という質問に対して目取真氏は次のようにいっている。

 「中央から地方への権限の移譲は進んでいません。限られたなかで、やれることをやるしかない。去年の知事選で翁長さんを応援し、路地裏まで歩いてビラをまいたのも、すぐに工事を止めてくれると思っていたからではありません。当選しても厳しいのはわかっていた。それでも、やらなければ事態がもっと悪くなるから応援したわけです。期待とか希望とか、そんな生ぬるい世界じゃないんですよ。私たちはここまで追い込まれているんですよ」
 
「自民党にも、昔はもっと歴史を肌で知る政治家がいました。戦争で沖縄に犠牲を押しつけた、という意識を心のどこかに持っていた。それがいまでは、歴史認識も配慮もない。基地を押しつけて当たり前という、ものすごく高圧的な姿勢が中央に見えます。沖縄の保守の人さえそう話す。これじゃあ付いていけない、と思う人が出て当然でしょう。政治が劣化しています」。


 「ヤマトゥにいたら、戦争から70年のブランクがあるような感じがするでしょう。でも沖縄の感覚は全然違う。市街地をオスプレイが飛び、迷彩服を着て小銃を手にした部隊が県道を歩いている。戦争の臭いが、ずっと漂っているのです。日本の戦後史は一つではなかったのです」

 「憲法9条だけを掲げる平和運動にも、欺瞞(ぎまん)を感じています。敗戦後、再び侵略国家にならない保証として非武装をうたう9条が生まれました。ただし、共産圏の拡大に対抗する必要から日米の安保体制が築かれ、沖縄に巨大な米軍基地が確保されたのです。9条の擁護と日米安保の見直しが同時に進まなければ、結局は沖縄に基地負担を押しつけて知らん顔をすることになる」

 「ヤマトゥ離れの意識が、この2~3年で急速に広がっています。もっと自治権を高めていかないと二進(にっち)も三進(さっち)もいかない、という自立に向けた大きなうねりが、いま沖縄で起きている。辺野古の海の抗議活動は、この地殻変動の一つの表れなんです」

 
 翁長知事と沖縄県が面とむかっているのは、アメリカの世界戦略と、それに従属する日本の国家と資本主義の構造そのものである。

 そして、目取真氏のいうように、そのなかで「もっと自治権を高めていかないと二進(にっち)も三進(さっち)もいかない」ということになっている。これが沖縄=琉球は、本来、自立した国家、琉球王国であったという問題に結びついてくることはいうまでもない。

 もう一度、沖縄に関わる歴史の全体を知らなければならないと思う。

 岡本太郎『沖縄文化論』(一九六一年)の一節を引用しておく。

 「沖縄・日本は地理的にはアジアだが、アジア大陸の運命をしょっていない。むしろ太平洋の島嶼文化と考えるべきである。(しかも)沖縄・日本は太平洋のなかでもひどく独自な文化圏である」

 岡本は、一九三〇年代、留学先のパリでシュルレアリズム運動に参加する一方で、パリ大学でオセアニアを対象とした民族学の専門的研究に取り組んでいる。この指摘は、その蓄積を前提としたものである。
 これは、有名な島尾敏雄のヤポネシア論より早く、本質的には同じことをいったものである。つまり、日本の歴史は、現在でもほとんどの場合は、インドから中国・朝鮮にいたるユーラシアの東西軸の影響の下で語られる。しかし、岡本と島尾は、そうではなく、むしろ環太平洋の西部、インドネシアから千島列島にむけて北上する群島の連なり、この列島にそくしていえば南北軸というべき軸線の影響が強いというのである。

 アメリカの世界戦略というものは、こういう西太平洋全域の視野から見なければならない。それを「国民的常識」とすることが歴史家の重要な役割だろうと思う。

2015年3月13日 (金)

内閣と沖縄県。粛々とやっているのはどっちか。

 沖縄タイムスから電話取材があった。
辺野古への巨大基地建設の問題である。

 ブログに「このままで行くと、国(というよりも自民党内閣)と県庁の全面的な対立に発展する可能性がある。こういうことは明治維新以降の日本現代史の上ではじめてのことである。自由民権運動のときは地域社会と藩閥政府の対立という実態はあったが行政行為において、こういうレヴェルの対立はなかった」と書いたことについての説明を求められた。

 第二次大戦前の県知事は中央の決定であるから、こういうことは起こりえなかったことはいうまでもないから、行政の相互が行政行為それ自身で対抗しあうというのは、日本国家史上ではじめてのことであると思う。歴史家としてはそういうことを目撃しているという感じで事態をみている。

 公務員が「辺野古」の工事について監視するために立ち番を組むということを沖縄県庁が正規の内部手続きの上で決定せざるをえなかったというのはきわめて重い事件である。

 国と自治体の行政は、主権者の意思を尊重し、それにできる限り従うことを前提として、同じ国家の行政組織として相互に調整し、必要な情報を共有するというのが普通のことである。自治体の側で許可権限を行使した問題について、必要な事後調査が必要になった場合に、政府をふくむ他の行政組織が協力するのは当然の原則である。

 それにもかかわらずそのような情報を提供しない。それゆえに何をやっているかを自治体の行政が監視をせざるをえないなどということは法治主義をとる文明国家では考えられない非常識な事態である。それどころか確認のための調査について「不快」であるなどの感情的な発言を内閣の一員である防衛相がいうなどということは、公務員のあるべき姿からの重大な逸脱である

 自治体が国の関わっている行為を監視せざるをえないなどということは法治主義の下ではあってはならないことである。国は、そのような労働を自治体の公務員に強制したことになる。内閣メンバーも自治体公務員も公務員としては同等の存在であって、内閣メンバーだからといって不当な労働を強制することはできない。内閣メンバーは自分が偉いと思っているのではないだろうか。おかしな話、時代錯誤である。

 行政の普通の常識が機能していれば、こういう労働を自治体の側が組織するなどということは不要なことである。これをやらざるをえないと沖縄県庁が総意として決定したことの意味は重い。この「辺野古監視」という決定は沖縄の新聞で報道され、それを報道した本土の商業マスコミは(私のチェックの限りでは)存在しなかったが、日本の国家と自治体の歴史では重要なターニングポイントであろうと思う。

 昨日、菅官房長官が「法治主義でやっている。何が悪い」という居直りのような発言をニュースセンターでみた。沖縄県がその許認可権限にもとづいて確認調査をするということに対して協力しない、批判するというような非常識な行動をとる内閣が、法治主義というような高級な言葉を乱用することは了解できない。自治体の住民の福利にかかわる重要な問題について、自治体がその行政行為についてフォローすることは当然の権限である。

 菅官房長官の発言は、自治体が、選挙結果にもとづき、公約にもとづいて政策を取ること自身を否定するということである。「自治体が勝手にそういうことをして、政府の政策通りに決められたことを守らないことは許し難い」という訳だ。

 これは国家主義といって法治主義とはいわない。というよりも国家主義という言葉も高級すぎるかもしれない。国家というよりも、この場合は「安倍内閣)が決めたことだから守ってもらう」ということである。しかもそれを機構上は地方自治の憲法原則の上で独立的な権限をもつ国家機構に対していうというのは信じられない神経である。

 これは、ようするに「俺が決めたことだから守ってもらう」「俺が法だ」ということである。こういう発言は、法治主義どころか、国家主義どころが、一つの無法な発言である。それを法治主義という言葉で飾る心情は無教養以外のなにものでもない(ニュースセンターでのコメントが、そういうのは「法治主義であるということでは政治ではない。きちんと話さなければならないじゃないか」とあったのは、コメントとしては甘く、本質を見のがしているように思う)。

 たしかに、翁長氏は仲井真前知事の最末期の行動を批判した。しかし、そもそも、仲井真前知事は辺野古への基地建設に反対であるという公約によって当選した知事である。選挙と住民意思はこの間、基本的な変化はない。仲井真前知事の変心を勧誘し、強圧的に選挙で表現された住民意思を踏みにじったのは、安倍内閣自身である。自身で踏みにじっておいて、それに抗議があると、もう決めたことだ。これが法治主義だというような発言は許されない。これをジャーナリズムは全力を挙げてたたくべきである。そうでなければ、日本の法治主義は地に落ちる。

 沖縄タイムスの記者の方には、東京新聞の夕刊に「政府と県の対立が先鋭化している」とあったが、これは正しくないと伝えた。これだと「国と県の両方が先鋭化している」ということになる。これは正確ではない。先鋭化しているのは驚くべき事に内閣であって、内閣が非常にあせって強行し、大規模自治体と事を起こそう、事を構えようとしているというのが事実であうr。

 沖縄県は常識的な行政行為をしているだけであるという現在のスタンスはあくまでもただしい。

 法治主義にせよ、先鋭化にせよ、日本のマスコミはもっと穏当で正しい言語感覚をもってほしいと思う。

 沖縄タイムスの記者には、なぜ、ブログで意見をかかれたのですかと聞かれたが、考えてみれば、報道の偏りへの違和感からなのだと思う。そしてマスコミがそうである以上、こういうことは学者・研究者としては電子媒体をふくめてどんどん発言した方がよいと思う。
 
 特に問題が「法治主義」といわれている以上、法学界の責任は重い。

 今日の東京新聞は沖縄の民意を無視するのかという記事が一面トップである。ほかのマスコミはどうなのだろう。

2015年3月12日 (木)

 外務省は沖縄駐留米軍の意向を取り次ぐべきではない(辺野古サンゴ礁調査)

 外務省は沖縄駐留米軍の意向を取り次ぐべきではない(辺野古サンゴ礁調査)

 本日(3月12日付け)早朝の沖縄タイムスおよび琉球新報の電子版によると、辺野古のサンゴ破壊の調査のために沖縄県が米軍に通告した、「臨時制限区域」への立ち入り調査を米軍が拒否したということである。しかも外務省が、それをそのまま「取り次いだ」という(東京新聞朝刊も同様)。


 現在行われている防衛局の海底作業が、昨年8月に県が許可した岩礁破砕の範囲を逸脱していないかどうかを検証する必要があるという県の見解は当然のことである。「制限区域」外の部分において許可条項以上の行為が行われているということを、県が行政行為として確認した以上、一連の工事について点検するというのは合理的な処置であり、むしろ行政の義務である。

 何事かを許可した機関が、合理的な必要がある場合に、許可した条項の実施が妥当かどうかを調査することは、許可権限のうちに入る。こういう米軍の主張は了解しがたい。外務省はこのような米軍の主張の通告を拒否し、沖縄県の主張にそって調査を行うと解答するのが当然であろう。これでは外務省は日本国の外務省ではなく、米軍の出先取り次ぎ機関である。

 外務省の公務員は公務員であって、少なくとも、その生計の一部は沖縄県民の税負担によって供給されている存在である。その県の自治体が当然の行動をするのに対して、外国軍の意思を取り次ぐというのは一般的には背任行為である。そのような疑問をもたないのは、自己の有する権限についての錯覚というものである。常識的な職業倫理をもっている人間とは考えられない。

 日本国家は、沖縄県と事を構えようとしている。

 沖縄県が、選挙結果にしたがって慎重にひとつひとつ、きわめて漸進的な姿勢で慎重にものごとを進めている。それに対して、内閣が沖縄県を批判し、不快感を表明し、無視する。そして米軍の意思を県に伝達する。適法的に行動する自治体に対して勝手に外国軍に抗議せよ、外国軍と交渉せよ、政府は知らないというのである。

 このような行動をする内閣は、普通の現代国家では考えられない行為である。それに従う公務員は公務員の倫理に反している。自分はそういうことはできないということが何故言えないか。それで馘首されるということではない。それができないのはきわめておかしい。

 先日、政府と沖縄県の全面対立というような異常な事態は望ましくないと書いたが、このままではさらに米軍+政府と沖縄県の対立ということになっていく。そのように極端に不利益な立場に沖縄県が立たされるというのは、この国の国家のあり方が「行政と行政の対立」という目に見える形で問われることになる。そのような異常な事態が自分の棲む列島で起きることをのぞまない。

 望まないといっても、どうしてもそうなっていきそうな様相である。沖縄の方からは、いまさら何をいうかということであろうが、これは改めて根本から考えざるをえない。

2015年3月10日 (火)

政府と自治体(沖縄県)の全面対決は望ましくない(巨大基地の建設は白紙に戻すほかない)

 今日(3月10日)の朝の琉球新報電子版によると。3月9日、沖縄県は「辺野古」監視のために職員を常時派遣し、独自に情報収集する体制を決めたという。

 県庁の部局横断的な組織である「辺野古移設問題連絡調整会議」が9日に確認し、これが翁長知事らによる同日の三役会議を経て決定されたという。

 「マスコミ情報頼みではなく、独自に情報を収集し事実関係を確認する必要がある」(浦崎唯昭副知事)ということで、調整会議に詳細な検討を指示した上での決定ということである。

 10日に知事公室の職員が現地を視察し、細かな監視態勢などを決めるということであるから、現在12時少し前、すでに現地視察は始まっているのだろう。知事公室や農林水産部、環境部などの関係各課の交代で監視体制を組むということである。

 これは中央国家と地方自治体との対立が現場の行政レヴェルで行われるということを意味する。沖縄県としては当然のことであろう。県知事選挙の結果をうけて、県民が県知事選の結果に反する行動をしようとする集団を監視するというのは住民自治の原則からいって当然の行為である。その行為を住民にまかせていては地方自治体の行政自治の面目が立たない。

 このままで行くと、国(というよりも自民党内閣)と県庁の全面的な対立に発展する可能性がある。こういうことは明治維新以降の日本現代史の上ではじめてのことである。自由民権運動のときは地域社会と藩閥政府の対立という実態はあったが、県庁レヴェルでの対立はなかった。

 東日本大震災前にプルサーマル計画にきびしい態度をとり、東電を強く批判していた福島県の前県知事、佐藤栄佐久氏が、もし県知事を続けており、東日本大震災と福島原発事故に直面したとしたら、同じような事態が展開していたかもしれないが、佐藤前知事の告発・辞職という経過のなかで、そういうことにはならなかった。しかし、原発とアメリカ基地のような大きな問題は、このような中央政府と地方自治体の行政的対立ということを生む可能性をもっているということになる。

 こういうことは望ましくないと思う。これは現在の自民党政府が法治主義の原則をとっていないから発生することである。法治主義の第一の基本は選挙結果に行政はしたがうということであるはずである。沖縄県民の総意によって選出された知事の公約を無視するなどということは法治主義の大原則に反する。県知事選はいわば住民投票である。住民投票による住民自治に従うというのは民主主義国では普通のことである。それを越えるような国家判断なるものをすることは許されない。

 こういうことが起こるのは、現在の「安倍自民党内閣」に特徴的なことで、外には、ご近所だと現在の中国の体制であろうか。広くみれば、ここには政治と社会の関係の「東アジア的」な特質があるということであろう。しかし、日本の「本土」であれば、住民投票は決定的な意味をもつにもかかわらず、「基地」「沖縄」となるとそうはならないというのは、東アジア的な特質一般では理解できないことである。

 しかも、これは「自民党政府」ということでもないのが深刻な問題である。自民党の前幹事長野中氏が、辺野古への巨大な新基地建設には自己の政治責任の問題として「耐えられない」と述べていることは、それを明瞭に示している。

 普通の現代国家においては、こういう政府と自治体の全面対決という事態の発生は予定されていない。考えられない事態である。こういう形での問題の発生は望ましくない。「自民党政府」は現在の姿勢を撤回してほしいと思う。

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