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2015年3月25日 (水)

民主党の辺野古声明、一体どういうことなのでしょう。

 政府は沖縄県翁長知事の辺野古工事停止の要請、指示に対して、行政不服審査法にもとづく不服審査請求をした。行政的な指示・要請に対して、しかるべき政府の責任者が面談と討議もせずに、不服審査請求にでるというのは常識では考えられない。懸念されていた政府による「全面対決」の選択である。
 
 「指示」というのは、普通の言葉だと偉そうだが、これは許認可権をもつ役所が、その認可をうけた他の行政機関に対して行ったものである。行政機関同士の話である。これは、行政機関同士で話しあい、調整するというのが普通である。調整が無理でも話しあいくらいはするものである。ところが、政府が、翌日、即時に、挨拶もなく、不服審査請求にでるというのが、すごい。

 そもそもこれは指示であって、普通の行政処分ではないから、不服審査という手続きがふさわしいのかも問題がある。不服審査するのならば、7日経って、岩礁破壊許可が取り消しということになったときに不服であると申し立てるのが普通だろう。「指示」の段階で、不服審査を申し立てるというのは、いわゆるけんか腰というものである。

 おどろくべきことである。国民は行政機関同士が喧嘩をするために、行政機関の運営と人員に税金を払っているのではない。余計なやりかたで、世の中を騒がすなというのが、普通の反応である。現在の中央政府というのは、官僚の時間、エネルギーというのは、国民の所有に属することは分かっていないのではないか。政府というものは、国民の公僕である。国民のなかにはさまざまな意見があるが、政府が行動するときは、異なる意見の国民に対しても、礼をつくして行動し、発言するべきものである。そのくらいの上品さをもってもらわないと教育上よろしくない。そういう公僕意識が、けんか腰の内閣にはまったく存在しないのである。

 沖縄県はご苦労なことだと思う。

 しかし、驚いたのは、ブロゴスで読んだ、枝野官房長官による民主党の声明というものである。「政府が沖縄に対してドアをオープンにしていないことは極めて残念である」ということは述べてあって、そこに問題があるのではない。これは常識であろう。

 常識をいうのはいい。私は自分のことを常識的な人間とは思っていないが、文章を書くときは常識で表現しようと思う。枝野氏が常識を表に立てるのも文句をいおうとは思わない。しかし、民主党は政党であろう。政党というのは常識をいっていればすむものではなく、政策をいうべきものである。どうしろといっているのかがまったくわからない。ここには翁長知事の工事中止指示を受け入れよという言葉すらない。

 安倍内閣のこの間のやりかたがおかしいというのであれば、せめて、「翁長知事の行使中止指示を受け入れよ」「県が許可事項の実施についての調査を行うのは当然のことである調査の間は、工事を止めよ」というのが最低のいうべきことであろう。枝野氏の声明では実際には「まあまあ」といってるだけで何をいっているのか分からない。

 枝野氏の声明が言っているのは、「民主党は、沖縄をはじめとする関係住民の負担軽減に全力をあげるとともに、地元の理解を得つつ、在日米軍再編に関する日米合意を着実に実施するという苦渋の決断をしたが、このような沖縄を突き放した対応は、却って事態の進展を遅らせるものと危惧している」「沖縄の負担軽減と日米同盟の着実な深化を円滑に進めるためにも、政府がより沖縄県民の心に寄り添った姿勢を示すことを強く求める」ということである。
 
 ようするに、この枝野という人は、私だったら、会った上で同じことをもっとうまくやるといっているのである。私たちは「苦渋の決断」をした経験があるので、うまくやれるといっているのである。なぜ、そういうことができるかということの根拠を語らない。信じられない主観的発言である。こういう発言が仮にも政党の幹事長からでるということとは考えられない。「事態の進展を遅らせ」ないために、「日米同盟の着実な深化を円滑に進める」という姿勢、これはようするに、私は、現在の安倍内閣と同じ考え方であるが、私ならばもっとうまくやるということではないのか。

 政党としての民主党は結社であるから、何をいってもいいということもあろうが、しかし、民主党は政治資金規正法にもとづいて税金による補助をうけている政党である。国民は何をいっているかわからない政党に税金を払わされているというのはきわめて不愉快な話しである。政策もいわずに常識をいっているだけというのは政党の溶解である。溶解の政党か、妖怪の政党か。あるいは妖怪の正当化かというようなものである。ワープロというのは変換すると、自然に皮肉がでてくるらしい。

 何という政党であるか。


 民主党が安保条約を維持しようということは、民主党の政策であろう。「日米同盟の着実な深化」というのも考え方としてはありうるであろう。ただ、辺野古の新基地建設で問題となっているのは、軍事同盟をイラク・中近東まで広げようということであって、これは従来の安保の考え方とは違うことである。そこをどう考えるのか、この政党は何を考えているのか。こういうように政策を考えるから、辺野古は、こういう形で沖縄県と相談できるという話しをしないと、何をいったことにもならない。

 辺野古の基地は、新基地建設である。軍港を作り、大規模滑走路をつくり、沖縄の基地群の中心基地として、中近東を爆撃するための基地、海兵隊輸送のオスプレイ派遣のアメリカ軍のベースとして利用しようということである。この基地は、何よりもアメリカの、湾岸戦争以来の失策によって起きた中近東の現状を(またも)アメリカが軍事力で処理しようという行動のための基地である。ヨーロッパがそういう基地として使えないから、太平洋から攻撃態勢を保持しようという基地である。

 たしか10年ほど前、沖縄国際大学への米軍機の墜落は、イラク派遣の訓練中のことであったことはよく知られている。今回の辺野古の巨大基地建設は、普天間の危険性を理由として基地を移転し、日本の費用でアメリカの中近東政策の破綻を取り繕い(実際には拡大する)ための巨大基地を作ろうということであって、その意味で普天間の事故に直接に連接する行動である。

 本当に心配なのは、アメリカ軍の爆撃をうける中近東の人びとにとって、その出撃基地の根本が日本にあるということである。テロは許し難い。しかし、辺野古の巨大基地は、そして沖縄がテロをうける確率が極めて高くなることは十分に予想される。そのとき、いまの内閣、自民党、民主党はどう責任をとる積もりなのであろうか。

 そもそも、中近東からみて、爆撃基地は沖縄にあるのではなく、日本にあるのである。それ故に、テロは日本国内どこにでも起こりうる。逆にいうと、辺野古新基地のような基地は、東アジアを目途に入れたものではないから、別に沖縄にある必要はない。東京にあっても、どこにあっても、テロ側にとっても、アメリカにとっても同じことである。そういう基地が沖縄にあって、沖縄がテロにあったら、どうする積もりなのであろう。

 政策問題というのは、まずはそういうことだと思う。あれだけ、ヨーロッパで、そして各地でテロが起きている。先日の苦しい事件、ジャーナリストが殺害された事件からいって、日本で起きる可能性は当然に考えておかねばならないはずである。テロなどは起きませんというのであろうか。

 福島の原発事故について、安倍首相が、10年ほどまえ、そんなことはおきませんといっており、福島事故のすぐ前には、当時の民主党の菅首相が原発を「市民運動」時代の見解をかえて、原発容認、さらには原発を外国に売るという政策をとっていたことはよく知られている。彼らは実際に原発事故が起きたのちに責任をとっているとはいえない。同じことを繰り返そうというのであろうか。「みんなで進めば怖くない。被害を受けるのは私ではない」ということでないことを願うものである。

 もう、そういうことを忘れている人びともいるであろう。自分の税金で働いているはずの政治家の体たらくなどというものを憶えているのは不愉快な話しである。しかし、枝野氏が「ただちに影響ない」と言い続けていたことは、私は、なかなか忘れられない。

 ヤスパースがナチス党に入党したハイデガーについて、世界史の歯車に何も知らずに手を突っ込んだ子供といったというのは有名な話しであるが、そういう喜劇を21世紀になっても何度もみせられていてはたまらない。

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