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2015年4月

2015年4月28日 (火)

小学校でプレートテクトニクスを教えよう。ーネパールの地震のこと

小学校でプレートテクトニクスを教えよう。ーネパールの地震のこと

 ネパールの地震の死者が4000近いというのが今日の新聞であった。阪神大震災、アチェの津波、東日本太平洋岸地震と続く追悼である。
 
 地上の命という点で変わりない。多くの死者。

 阪神大震災では6437人、東日本太平洋岸地震が18475人(行方不明をふくむ)の死者を出している。明治以降、日本で1000人以上の死者を出した地震は12回に上る。

 地面がゆれて裂けるというのは最大の不安である。

 地震や噴火について、小学校・中学校・高校で、どういうように、どういう順序で教えていくかを真剣に議論すべきだと思う。私はプレートテクトニクスを早い時期からカリキュラムに入れることが決定的だと思う。

 なぜ、ジャーナリズムは、そういう問題提起をしないのであろう。日本のジャーナリズムは前進的な問題提起をすることが少ないのではないか。政治や社会のあり方について一歩、離れて議論することは大事であろうと思う。しかし、社会にとって緊要な問題というものを前進的に議論し、誰でもが賛成できることについて、しかし、それを実現するためには実際には覚悟と配慮がいるという問題について、集中してキャンペーンを張っていくということはもっとできるのではないか。

 地震については、もっとも重要な問題は、学校教育で、何をどう教えるべきかを少し長い視野で継続的に議論することだと思う。
 
 中心は、小学校でプレートテクトニクスの学説を教えることである。いまの子供たちは、高校でも正規の授業で地学をとらなければプレートテクトニクスについて教えられることはないというのが、一昨年、高校で歴史地震についての授業をやった時に知ったことであった。ここ20年ほど、地学教育の時間数が、歴史教育とともに一貫して減少してきた。これは政府や文部科学省がそういう政策をとってきたということだが、東日本太平洋岸地震後も、大きく抜本的に改善されたとはいえない。
 プレートテクトニクスの学説というのは、わかりやすい画像と動画を作れば、子供たちにもわかる話しである。防災教育のためにも、地震学のためにも、理科教育にプレートテクトニクスを小学校時代から持ち込むことが有益だろうと思う。
 
 小学校では、同時に、その地域の地震の歴史、そして噴火の歴史をカリキュラムのなかに組み込まねばならない(私見では、日本の神話や民話には地震に関係するものも多いので、それを教材としてもよい)。
 中学校では、小学校でやったことを詳しく教え、同時に防災教育を行う。そしてその地域の歴史地震、歴史噴火については立ち入って教える必要がある。
 高校では、地球科学全体のなかで、プレートテクトニクスを教えるということになる。また日本と世界の歴史地震、歴史噴火についても全面的に教えることになる。
 これをやっておけば、南海トラフ大地震にむけても相当話しが違ってくると思う。

 また今回のネパールの地震についても理解が異なってくる。ユーラシアの真ん中と端っこでも、人の命の価値は同じである。我々が同じ運命の下にあるということを、ユーラシアの地震の全体のあり方を知った上で、考える力をもつかどうかはきわめて大きな問題だと思う。


 ネパールの地震の発生機構が東京大学地震研究所のHPにのっている(http://taro.eri.u-tokyo.ac.jp/saigai/2015nepal/index.html)。この地震は、インドプレートが毎年5/6センチ北上してユーラシアプレートに衝突していることを原動力とする地震であるが、日本で地震が発生する条件にとっても他人事ではないというのを、石橋克彦氏の『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)で知った。

 この本では、著者が主張して有名になった駿河湾地震説が、「アムールプレート東縁変動帯仮説」に新らしい形で統合されている。アムールプレート(以下AMプレート)とは、中国の南部地塊を中心とするユーラシアプレートの部分プレートであり、これが毎年一定のスピードで東進しているという。そしてAMプレート南東端が、太平洋プレートと押し合うようにして、静岡の遠州ブロックまで伸びており、南海トラフ巨大地震によってプレート間の固着が剥がれると、それを条件としてAMプレートが一挙に東進し、糸静線断層帯周辺が破壊されるという。

 これが、著者が新たに定式化した「駿河湾地震」の発生機構である。著者によれば、この仮説によって、南海トラフ巨大地震前後に、北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造体沿いに発生する地震・続発地震などが理解可能になるという。またプレート間地震と内陸地震の関連の基礎理解の道が開かれるともいう。

 この「アムールプレート東縁変動帯仮説」は地震学界のなかでも論争は続いているようで、もとより、私には、この仮説の地震学的な評価はできないし、また正しく要約しているかどうか自体にも自信はない。

 しかし、この本を読んでいると、この仮説には強い説得力がある。

 ともかくインド亜大陸の北上衝突によって中国大陸が東へ押し出されることを原動力とするというAMプレートの東進の観察を基礎に構築された雄大な仮説である。

 これが学説として具体性をましていけば、日本列島の自然史を現在と関係させて理解するのみでなく、自然史の側面からユーラシアというものを人ごとでなく、考えられるように思う。早く地球科学の側で論争が進み結論がでるのを期待したいものである。それがあれば、ユーラシアの地震というものをみる目が異なってくると思う。

 なお私が興味があるのは、朝鮮半島北部から大興安嶺にスポット的に続く、火山帯が、アムールプレートの北の境界をつくる、バイカルリフト帯(Baikal Rift Zone。バイカルからカラフト北部まで続く) にそって発生しているらしいという仮説であって、これは東北アジアで火山神話が生まれていく自然史的な前提ではないかという問題である。

 以上については、このブログで、上記石橋克彦著書、および平朝彦の著書に関係して書いたことがあるので参照願いたい。

 また、私は一昨年、地震研究の国家プロジェクトの基本を策定する文部科学省の委員会の委員をやったが、そのときに議論して答申に入った、地震・噴火の学校教育における扱いについての文章も下記に引用しておく。ただ、この文章では抽象的すぎたかも知れない。

「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について、建議」(平成25年11月8日、科学技術・学術審議会)
 」
(5) 社会との共通理解の醸成と災害教育
国民や行政機関の担当者などに,防災・減災に関連する地震・火山現象の科学的知見や,現在の地震・火山の監視体制,予知や予測情報の現状を正しく認識してもらうため,関連機関が協力して,研究成果を社会に分かりやすく伝えるための取組を強化する。その基礎として学校教育や社会教育などに,地震・火山噴火についての豊富で体系的な情報を,自然科学的知識のみでなく,災害史や防災学など人文・社会科学分野の知識も含めて提供する。

2015年4月14日 (火)

何処かの出版社で、「東アジア世界地図帳」を作ってくれないだろうか。

 何処かの出版社で「東アジア世界地図帳」をつくってくれないだろうか。
Rekisitizu


 北海道から沖縄まで、普通の日本地図で90頁だろうか(60万分の一の地図を基本に)。
 普通の地図帳についている索引などはいらないから、それに50頁ほどの東アジアの世界地図をつけてほしい。全部で160頁ほどで、厚すぎず、重すぎずというものがほしい。

 シベリアからフィリピン・ベトナム・カンボジャまでは、主要な地名が山脈・河川・海の形がわかるように入れてほしい。
 そして、巻頭には、上のようないわゆる「逆地図」を巻頭にしてほしい。日本列島は、こういう視線で見られていたのだし、こういう視座で我々の先祖は生きていたのだから。

 そして、できれば巻末には、旧国名(信濃国・近江国など)入りで、江戸時代の諸藩の詳しい境界図と海路図をあわせて載せてほしい。我々の列島は、文化と産業をふくめて、この時期に現在の姿をとったのだから。
 
 日本列島に棲むものが、江戸時代までに実際に縁をもち、自分たちの世界と関係させてイメージしていた世界である。だいたい、上の「逆地図」の範囲である。こういう地図の精度の良いもの、美しいものを作ってほしい。
 経済・政治・社会で、東アジアとのつきあいは増えることはあっても減ることはない。プラスの関係であることを望むが、マイナスをふくめて、ともかく増えることはあっても減ることはない。実務の上で、そういう地図帳が必要になっているのではないだろうか。
 よくいわれるのは、「お隣の韓国の地名を7ついってみよう。海の向こうのアメリカの地名を7ついってみよう。どっちが楽だった」という設問である。
 これは、普通、アメリカの方が楽だと思う。韓国とアメリカについて、いろいろな考え方はあるだろう。しかし、こういう基礎知識のレヴェルで差があるというのは、私たちの国の文化構造、知識構造の特徴であることは確かだ。別に上の「東アジア世界地図帳」にアメリカを入れるなというのではない。環太平洋世界というものが大きな意味をもちだしているということは事実だからである。しかし、やはり常識的にいってまず「東アジア世界地図帳」があった方がよいように思う。

 地図帳というと、「日本地図」「世界地図」の二冊というのが、そういうパターンがまずいのだと思う。
 (1)「東アジア世界図(ふくむ日本)」、(2)「環太平洋世界図(ふくむ東南アジア)」、(3)「ユーラシア地図(ふくむヨーロッパ・アフリカ)」という三冊構成、あるいは(1)(2)をあわせてしまって、2冊構成の地図帳という考え方があってよいのではないだろうか。

 地理学の人たちはどう考えているだろうか。歴史学からいえば、これは「日本史・世界史」という二パターンで人類史を考えてしまう「慣れ」「慣習」「偏見」と同じことであると思う。

 地理学の場合は、さらに「国境」というのが関わってくるだろう。実務に必要なのは、国境ではなく、地名である。世界はまずばらばらにしなければならない。バラバラにするのが基本であって、そのレヴェルでの知識を基礎知識、基礎感覚というのであろうと思う。

 
 小学生のときにもらったら、ずっと使えるものがよい。同じ本を小学生から中学生、そして大学まで持ち続けるというのは、本との接触の仕方ではたいへんに大事なことだと思う。私は、中学生のときに母に買ってもらった『字源』を、最近、諸橋轍次の大漢和を購入するまで、ずっと使っていた。そういう形で使えるのは、地図と辞典ではないだろうか。
 デジタルとコンピュータは重要で、欠くことはできないが、やはり、「物」としての本をみて、さわってきたという経験の上に、「知識」が残るというのは精神にとって大事なことであるように思う。そんなことを今になって考える。

 私は歴史家なので、地名の知識が必要になる。実にしらないもので、それを手早く確認するためには、もちろん、今はネットワークを使わしてもらう。平凡社の歴史地名辞典があるので、すぐに詳しく調べられる。それはすばらしいことだと思う。40年前、研究をはじめたころにはそんなことはできなかった。グーグルアースでやれば、地形までわかる。
 ただ、地図帳で確認する驚きというのはやはりある。

 いま、「基本の30冊」の29冊目で、榎森進氏の『アイヌ民族の歴史』を取り上げるので、やっと半分読んだ(600頁あるのです)。ともかく地名を確認しながら、東北北海道の全体を地図帳でみながら読んできた。そういうなかで、上のようなことを感じる。

 昨日は「アシタカ」の地名を確認した。「もののけ姫」のアシタカはアイヌ出身と設定されているが(入間田宣夫「もののけ姫と歴史学」『東北学』25号)、そのアシタカの出自の地を、北奥のアイヌ地名を追いながら確定していく、榎森進さんの作業を読むなかで確認した。

 ところが、アイヌの歴史に直結するサハリンとマンジュ国のヌルハチの動きを確認するなかで、清の初期の首都、審陽の場所を確認するために、そしてサハリンとシベリアの地名を確認するために世界地図帳を探したが、でてこなくて、時間がかかった。

 そういう事情で、「東アジア世界地図帳」がほしいと考えたのです。どこかの出版社がださないでしょうか。アイデアは、協力します。

2015年4月13日 (月)

Nuclear Plant は「核発電所」といおうーー村上春樹氏の意見に賛成

 村上春樹氏が、Nuclear Plant は「核発電所」と訳そうという提案をしている。

 「これから「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか?」「僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。nuclear=核、atomic power=原子力です。ですからnuclear plantは当然「核発電所」と呼ばれるべきなのです。そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようという国の意図が、最初から見えているようです。「核」というのはおっかない感じがするから、「原子力」にしておけ。その方が平和利用っぽいだろう、みたいな」(村上さんのところ、2015-4-03)。

 この提案に賛成。

 「水力発電所」「火力発電所」「原子力発電所」と並べると、問題が多いのがわかりやすい。「火力」「水力」というのは、利用の仕方と、発電技術は体系的に完成している。それに対して「原子力」は完成した技術ではなく、統御が可能かどうかはわからない。また「廃棄物」の処理ができない状態なのはよく知られている。

 これを「火力」「水力」「原子力」と並べるのは、「原子力」というものが利用可能な形態で存在するかのような誤解を呼ぶ。正確にはやはり「核発電所」がよいのではないか。

 これは「原子力発電」に賛成かどうか、あるいはそれを今後どうするかとは、少し違う問題だと思う。つまり、誰もが現状の原発には問題があることを認めている。そして、それは相当に重大な問題であることも普通は認められている。そうだとすると、社会的には、最低、問題を回避しないという合意があった方がよい。

 大事なのは、小学校教育だと思う。状況を正確に教えるには、「水力発電所」「火力発電所」「核発電所」と並べた方がよいと思う。ともかく、原発の廃棄物の処理は重大問題で、今の小学生たちの時代には確実に大きな負担になっているはずで、「小学生にそれを教えない」という立場はあるかもしれないが、その分、せめて事態を正確に認識するための言葉の体系は用意しておくのが誠実なやり方だろうと思う。子供たちが「原子力発電所」で覚えるか「核発電所」で覚えるかは意外と大事なことだと思う。

 もちろん、教科書検定で、「核発電所」という言葉を使ったら、文部科学省は何というだろうか。歴史学の教科書の「検定」では、両説を併記せよとか、通説を書けなどの検定意見がつくから、これも通らないだろう。

 少なくとも、その前に、ともかく村上さんのいうことを考え方として知ってもらう。あるいは「その方がいいんじゃないか」という意見を自分でも誰かにいうなどして、ある程度、流通する言葉にする必要があることは確かだろう。

 その場合、もっとも責任があるのは、原子力学界だと思う。これは原子力学界にとって重大な問題ではないだろうか。彼らは、村上さんのいうことなど気にしないのだろうか。

 英語ではatomic plantよりnuclear plantというのが普通になっているという。私には、なぜそうなったのかはわからないが(誰か分かりますか?)、ただ、ドイツ語もKernkraft-Generation。Kernも核。英語のnuclearは核だから、たしかに核発電所という語感で他国の人びとは考えているのだろう。

なお、ついでに「核時代後」という年号を使うようにしたいというのが、歴史家としての意見。私は、自分の賀状は、20年以上、これでやってきた。今年は、「核時代後71年」である。核爆弾の開発以来、71年ということで、これは世界の年号表記としてもっとも問題がないと思う。

 歴史家としては、時間と年代の表記は、何よりも直線的でなければならない。歴史家としては、年号はリニアーでなければならない。直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと思う。

 世界中で客観時間で時間を認識するというのは、歴史学の最終目的の一つであるが、そのための重要条件は、年代表記ができる限り連続的であるということで、この点で、今でも日本の元号を使うというのは賛成できない。この点で、西暦(キリスト紀元)というのは便利であるが、しかし、西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影がある。これを将来の将来まで使用するということには、無理があるように思う。イスラムの人には、とても賛成できないだろう。

 それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題である。世界史をどう考えているかという問題である。これを国連で提案するような日本政府であってほしい、そういう政府にするようにしなければならないと思う。
 昨日は選挙があったが、原発問題を回避せずに考えていきたいものである。

2015年4月 6日 (月)

政治は「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談

 政治はまずは「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談記事を読んだ。

 東京新聞の記事を読む。気になるのは、リードでの会談の紹介が「菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事はーー」という順序になっていることである。琉球新報電子版の記事は逆の順序である。これは県知事を最初に出すのが当然ではないかと思う。

 これは言葉の問題ではない。マスコミが「聞く」姿勢の問題である。テレビのニュースなどをみていると、菅官房長官の発言、「辺野古移転は普天間の危険性除去のための唯一の解決策である」という主張を冒頭に紹介して、翁長県知事の意見を十分に紹介しない例が多い。ようするに政府のいっていることを紹介すれば瑕疵はない。事務的にこなしているということである。ジャーナリストには言葉と文章にもっと意識的になる訓練をしてほしいと思う。

 翁長県知事は相当に明瞭に発言をした。県幹部によるとこれほど厳しい口調の翁長氏はめずらしいというのが東京新聞の記事である。「県民のパワーは祖先に対する思い、子や孫に対する思いが重なり、一人一人の生き方になっているので、建設は絶対に不可能だ」と言い切ったということである。

 翁長氏は保守の出身であり、保守の立場から、少しは自民党に期待していたのではないかと思う。昨年の総選挙の結果から、それは無理だということはわかっていても、長い間の立場から若干の期待をもつのは当然のことだ。しかし、安倍自民党は保守ではない。保守の自然心情ともいうべき「祖先に対する思い、子や孫に対する思い」に耳を傾ける相手ではないということを見切ったのであろう。翁長氏には、そういう保守の立場を維持してほしいと思う。

 結局、この間の沖縄と内閣の間をみていると、歴史体験の相違、戦争体験の相違に行き着くように思う。沖縄の人びとは、第二次大戦末期の沖縄戦で四分の一の県民の命を失った。その相当部分は本土軍の横暴、県民の放置、追い出し、そして集団自決の幇助と強制によるものだ。それは忘れることはできないだろう。沖縄の現状を辿っていくと戦争に行くのである。

 他方、安倍自民党は、そもそも首相の安倍氏が母方の祖父の岸信介に強い親近感をもっている。岸氏はいわゆる革新官僚の中心人物の一人として、戦争を遂行した人物である。これは根本的に立場が違う。

 それ故にこそ、普通の人間ならば考えるべきことは、安倍氏の場合は、莫大な犠牲をはらった沖縄県民の声に耳を傾けるということであろう。安倍氏がそういう姿勢をもっていないことは「官房長官」菅氏の一挙手一投足に明らかである。あれでは官僚機械だ。

 さて、聖徳太子の称号に「豊聡耳」(トヨトミミ)という名があるのはよく知られている。十人の人の訴えを同時に聞くことができたという説話もよく知られている。たしかにこれは政治ということの本質を示しているといってよいと思う。それは「聞く」ことなのである。問題は、何を聞くかということにあるが、そこには、ヒトの声を聞く背後で、神霊の声を聞くということがふくまれているのであろう。

 沖縄の場合は、沖縄戦の死者の声を聞くということである。岸信介が、安保条約の強行採決をしながら、自分は「声なき声」に支持されているといったことはよく知られている。あれだけ明瞭な沖縄の選挙結果をみながら、民意が示された訳ではないと称した菅氏は同じことをいっている訳だ。

 私は、世代からいって、三島由紀夫の『英霊の声』は、岸発言に対する反発であったのであろうと感じてきた世代である。安保条約は、アメリカとの軍事同盟をあらためて強化するという条約であったから、太平洋戦争における死者の声が、三島には、アメリカと闘って死んだ我々の立場はどうなるのだという声として聞こえたのであろうと思う。沖縄の人びとにには、いまでも沖縄戦の死者の声というものが聞こえてくるのであろうと思う。それが分からなければ、歴史というものも、政治というものもないだろう。ここには歴史的体験、戦争体験というものが「いま」に露出している断層のようなものがある。
 
 さて、歴史家の仕事であるが、横浜市博の鈴木靖民氏から、エッセイ集、『足と目で稼ぐ歴史学』をいただく。國學院の定年が二・三年前、この三月、客員教授も終わったということで編まれた文集である。そこに、聖徳太子の「豊聡耳」(トヨトミミ)という名は、『魏志倭人伝』が投馬国(出雲)の正官を「弥弥(ミミ)」、副官を「弥弥那利(ミミナリ)」というのと関係があるだろうという短文がのっている。「ミミの原義は不詳だが首長の称号でしょう」というのが鈴木さんの推定である。

 私は、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という「ミミ」と「弥弥」の「ミミ」は関係しているのだと思う。つまり、これは「神」霊を「聞く」能力が首長の属性であったことを示すのではないかと思う。ユダヤでも、アフリカでも、平安時代の日本でも、神は「ささやく」ものであった。ささやく神の声を聞くには独自の能力と注意力が必要であるというのは、世界中にある観念である。政治は聞くことというのは人間社会の本性に関わるようなことなのであろうと思う。

 鈴木さんは「ミミの原義は不詳だ」とするが、もっとも有力なのは、溝口睦子氏によるもので、この「ミ」は、「綿津見(ワタツミ)、山津見(ヤマツミ)」などの「ミ」であり、そしてそもそも「神」の「ミ」であるという。そしてそれは「巫」(ミコ)の「ミ」でもあるという。それは「名付けられていない、目に見えないある意思」を聞く能力であるという。溝口氏の音韻論的な、語源学的な説明は精緻なものであるが、ようするに「このある意思に通じて、ときにはこれを動かすことができるのがミ(巫)であった」というのは、鉄案であろうと思う。

 私は、それは世界の歴史的・民俗的事例からいってまず「聞く能力」、その意味で「耳」の能力であるというように考えるのである(なお本居宣長などによると、ミとミミは通じて使われる同一語であるという。これも溝口睦子論文を参照)。

 もしそうだとすると、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という異名ははるか過去の神話的な観念を顕しているということになる。

 日本の「保守」政党はなくなってしまい。真正保守が残るのは沖縄だけになってしまったということであろうか。保守政党がなくなってしまった国というのは、さすがに世界でもめずらしいのではないか。現在の自民党は何とも奇怪な存在である。あれは政党ですらないのではないか。

 こういう状態を考えるためには、どうしても神話の研究が必要であると考えて、最近、神話研究にのめり込んでいるが、そろそろ「基本の30冊」も終わるので、はやくそちらに移動したい。歴史家などは、何もできるわけではないが、ともかく、沖縄は、柳田国男・折口信夫のいうように日本の神話の原質の一部を露頭している嶋である。せめても、神話の本質的な研究によって、「本土」と「沖縄・琉球」の間の理解の通路を探りたいと思う。

2015年4月 2日 (木)

「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」

 私も、大江健三郎・和田春樹氏らの下記の緊急声明に賛同しました。こういう声明がネットワークによってすぐ広がること、そういう意味では、一人一人の意見がすぐに広がることが可能になったのはめざましいことであると思う。自分たちで自分たちの意見をまとめて出す。それは逆にいうと、それは一人一人の意見と立場というものが問われるということであろう。

 たとえば、中国の現在の体制では、こういうことはできない。こういうようにネットワークで声明が出るということが世界で通常なことであるとはいえない。他方で、しかし、こういう形で意見を表明する機会が増えるというのは、日本の現状のマスコミと世論のあり方が機能不全に陥っているということの表現であるようにも思う。

 ただ、私は、次の部分の表現には、若干、引っかかった。つまり「このまま強引に工事を進めれば、沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく、日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちることになるでしょう」という部分である。

 それはその通りであるだろう。しかし、何といってよいか。
 
 「沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく」という部分であるが、「深刻な衝突や不信」というものは、実は前からあったということを十分に表現していないのではないか、ということである。それがあるということが誰にも見えるようになった。ということだと思う。すでに、そういうところにいたという認識を共有して考えていこうということであるはずだが、こういう言い方はやや切り口上のように思う。

 「日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちる」というのも、同じことで、そういうものがどこまで本当にあったのか。もちろん、現在、「日本という国に対する信用」というものが存在し、現在もあるということは、事実である。しかし、その存在の仕方の危うさというものもあって、くこういう言い方もやや切り口上であると感じてしまう。

 歴史家にとっては、「深刻な衝突や不信」「日本という国に対する信用」というものが、どう存在するか、どう作られているのかということを考えるのは、過去という観点から物事をみる仕事に関わってくる。

 もちろん、こういう声明が事態の変化に応じて、ネットワークを利用して、すぐに発せられること。しかも、こういうように一人一人がどう感じているかということを書くということができるというのは、めざましいことである。ともかく、ナイーヴな言い方をすれば、こういう声明は「みんなで考えよう」ということなのだから。

 希望をみるには、過去を知ることが必要ということを感じる。少しでも、沖縄の人びとにとって、そして現在の状況のなかに希望というものがほしいと思う。

 

             <緊急声明>

「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」

私たちは、沖縄での辺野古米軍基地建設をめぐる問題に、重大な関心を寄せてきました。沖縄県民の意思は、もはや明確です。昨年2014年1月の名護市長選挙では、同米軍基地建設反対を公約する稲嶺進氏が再選、11月の県知事選では、同じく建設反対を明言する翁長雄志氏が、10万票もの大差で、現職の仲井真弘多氏を破り、12月に行われた総選挙では、小選挙区すべてで建設反対候補が勝利しました。思想・信条を超え、また政治的・党派的違いを超えた「オール沖縄」で、辺野古米軍基地建設には、「NO」という県民の強い意思が示されたのです。

にもかかわらず、安倍政権は、仲井真前知事が2013年暮れ、公約を翻して行った公有水面埋め立て承認を盾に、強引に埋め立て工事を進めています。こうした政府の行為は、沖縄県民の意思を侮辱し、日本の民主主義と地方自治の根幹を破壊する暴挙です。

新知事は、「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認手続に関する第三者委員会」(以下「第三者委員会」)を設置することを決め、仲井真弘多前知事が行った公有水面埋立承認手続に法律的な瑕疵がなかったかどうか、検証を始めました。つまり、埋立承認、あるいはその根拠となった環境アセスメントの正統性が崩れる可能性があるということにほかなりません。まともな民主主義国の政府であれば、少なくともこの検証期間中、埋立工事を中断するのが当然です。

翁長県知事は3月23日、新たな決断を下しました。ボーリング調査を含むすべての作業を停止するよう、沖縄防衛局に指示したのです。この指示に従わない場合、辺野古沿岸の岩礁破砕許可を取り消すことを視野に入れたものです。

このまま強引に工事を進めれば、沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく、日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちることになるでしょう。

私たちは、翁長新知事の基地移設拒否の立場を支持し、今回の知事の作業中止指示と岩礁破砕許可取り消しについても、全面的な支持を表明するものです。私たちは、次の諸点について強く要請します。

日本政府は、海底ボーリング調査を含む、辺野古埋立にかかわるすべての行為をただちに中断すべきである。政府が埋立の根拠とする仲井真前知事の「埋立承認」は、すでに沖縄県民によって拒否されている。
この間、日本政府は、沖縄の総意を代表する翁長新知事との面会さえ拒絶しているが、これは、日本国憲法が保障している地方自治と民主主義の精神を否定するものである。民意の尊重が、民主主義の原点である。日本政府は、翁長新知事による面会要請を誠実に受け入れ、本件に関する真摯な協議に応じるべきだ。
日本政府には、自ら掲げる「地方創生」のスローガンを実践し、沖縄県に基地問題解決と自立経済建設についての実権を移譲するよう、要請する。
環境大臣には、今回の辺野古米軍基地建設に向けての埋立事業に関する環境影響評価書(辺野古アセス評価書)の内容に対して、環境保全上の見地から適切な意見を述べるべき責任がある。とくに辺野古地域・沿岸地域は、沖縄島の環境保全指針で「自然環境の厳正なる保護を図る区域」(ランクⅠ)とされ、ジュゴンをはじめ絶滅の恐れがある多様な生物種が生息する貴重な海域である。今回の埋立工事等による自然形状の人為的な変更や破壊によって不可逆的で取り返しのつかない絶対的損失がもたらされる恐れがきわめて高い。環境大臣には、世界遺産の候補にもなっている誇るべき沖縄の美しい海域を保全する重大な責務を果たすよう、ここに強く要請する。
沖縄県民の辺野古新基地建設拒否の意思の背景には、日本全体の0・6%に過ぎない沖縄に、74%もの米軍基地が押し付けられている現状への不満、憤りがある。日本国民には、この構造的差別ともいえる現状を直視し、日本の安全保障の問題は、その負担も含めて、日本全体で考えていくべきことを要請する。

2015年4月1日

        浅岡美恵(弁護士)
淡路剛久(立教大学名誉教授)
        礒野弥生(東京経済大学教授)
        内橋克人(評論家)
        遠藤誠治(成蹊大学教授)
        大江健三郎(作家)  
        加茂利男(立命館大学教授)
         川瀬光義(京都府立大学教授)
         古関彰一(独協大学名誉教授)
        小森陽一(東京大学教授)
        斎藤純一(早稲田大学教授)
        高橋哲哉(東京大学教授)
        千葉 眞(国際基督教大学教授)
        寺西俊一(一橋大学特任教授)
        中野晃一(上智大学教授)
        西川 潤(早稲田大学名誉教授)
        西谷 修(立教大学教授)
        原科幸彦(東京工業大学名誉教授・千葉商大教授)
        前田哲男(評論家)
        間宮陽介(京都大学名誉教授)
        宮本憲一(大阪市大・滋賀大学名誉教授)                          
        和田春樹(東京大学名誉教授)

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