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2015年4月 6日 (月)

政治は「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談

 政治はまずは「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談記事を読んだ。

 東京新聞の記事を読む。気になるのは、リードでの会談の紹介が「菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事はーー」という順序になっていることである。琉球新報電子版の記事は逆の順序である。これは県知事を最初に出すのが当然ではないかと思う。

 これは言葉の問題ではない。マスコミが「聞く」姿勢の問題である。テレビのニュースなどをみていると、菅官房長官の発言、「辺野古移転は普天間の危険性除去のための唯一の解決策である」という主張を冒頭に紹介して、翁長県知事の意見を十分に紹介しない例が多い。ようするに政府のいっていることを紹介すれば瑕疵はない。事務的にこなしているということである。ジャーナリストには言葉と文章にもっと意識的になる訓練をしてほしいと思う。

 翁長県知事は相当に明瞭に発言をした。県幹部によるとこれほど厳しい口調の翁長氏はめずらしいというのが東京新聞の記事である。「県民のパワーは祖先に対する思い、子や孫に対する思いが重なり、一人一人の生き方になっているので、建設は絶対に不可能だ」と言い切ったということである。

 翁長氏は保守の出身であり、保守の立場から、少しは自民党に期待していたのではないかと思う。昨年の総選挙の結果から、それは無理だということはわかっていても、長い間の立場から若干の期待をもつのは当然のことだ。しかし、安倍自民党は保守ではない。保守の自然心情ともいうべき「祖先に対する思い、子や孫に対する思い」に耳を傾ける相手ではないということを見切ったのであろう。翁長氏には、そういう保守の立場を維持してほしいと思う。

 結局、この間の沖縄と内閣の間をみていると、歴史体験の相違、戦争体験の相違に行き着くように思う。沖縄の人びとは、第二次大戦末期の沖縄戦で四分の一の県民の命を失った。その相当部分は本土軍の横暴、県民の放置、追い出し、そして集団自決の幇助と強制によるものだ。それは忘れることはできないだろう。沖縄の現状を辿っていくと戦争に行くのである。

 他方、安倍自民党は、そもそも首相の安倍氏が母方の祖父の岸信介に強い親近感をもっている。岸氏はいわゆる革新官僚の中心人物の一人として、戦争を遂行した人物である。これは根本的に立場が違う。

 それ故にこそ、普通の人間ならば考えるべきことは、安倍氏の場合は、莫大な犠牲をはらった沖縄県民の声に耳を傾けるということであろう。安倍氏がそういう姿勢をもっていないことは「官房長官」菅氏の一挙手一投足に明らかである。あれでは官僚機械だ。

 さて、聖徳太子の称号に「豊聡耳」(トヨトミミ)という名があるのはよく知られている。十人の人の訴えを同時に聞くことができたという説話もよく知られている。たしかにこれは政治ということの本質を示しているといってよいと思う。それは「聞く」ことなのである。問題は、何を聞くかということにあるが、そこには、ヒトの声を聞く背後で、神霊の声を聞くということがふくまれているのであろう。

 沖縄の場合は、沖縄戦の死者の声を聞くということである。岸信介が、安保条約の強行採決をしながら、自分は「声なき声」に支持されているといったことはよく知られている。あれだけ明瞭な沖縄の選挙結果をみながら、民意が示された訳ではないと称した菅氏は同じことをいっている訳だ。

 私は、世代からいって、三島由紀夫の『英霊の声』は、岸発言に対する反発であったのであろうと感じてきた世代である。安保条約は、アメリカとの軍事同盟をあらためて強化するという条約であったから、太平洋戦争における死者の声が、三島には、アメリカと闘って死んだ我々の立場はどうなるのだという声として聞こえたのであろうと思う。沖縄の人びとにには、いまでも沖縄戦の死者の声というものが聞こえてくるのであろうと思う。それが分からなければ、歴史というものも、政治というものもないだろう。ここには歴史的体験、戦争体験というものが「いま」に露出している断層のようなものがある。
 
 さて、歴史家の仕事であるが、横浜市博の鈴木靖民氏から、エッセイ集、『足と目で稼ぐ歴史学』をいただく。國學院の定年が二・三年前、この三月、客員教授も終わったということで編まれた文集である。そこに、聖徳太子の「豊聡耳」(トヨトミミ)という名は、『魏志倭人伝』が投馬国(出雲)の正官を「弥弥(ミミ)」、副官を「弥弥那利(ミミナリ)」というのと関係があるだろうという短文がのっている。「ミミの原義は不詳だが首長の称号でしょう」というのが鈴木さんの推定である。

 私は、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という「ミミ」と「弥弥」の「ミミ」は関係しているのだと思う。つまり、これは「神」霊を「聞く」能力が首長の属性であったことを示すのではないかと思う。ユダヤでも、アフリカでも、平安時代の日本でも、神は「ささやく」ものであった。ささやく神の声を聞くには独自の能力と注意力が必要であるというのは、世界中にある観念である。政治は聞くことというのは人間社会の本性に関わるようなことなのであろうと思う。

 鈴木さんは「ミミの原義は不詳だ」とするが、もっとも有力なのは、溝口睦子氏によるもので、この「ミ」は、「綿津見(ワタツミ)、山津見(ヤマツミ)」などの「ミ」であり、そしてそもそも「神」の「ミ」であるという。そしてそれは「巫」(ミコ)の「ミ」でもあるという。それは「名付けられていない、目に見えないある意思」を聞く能力であるという。溝口氏の音韻論的な、語源学的な説明は精緻なものであるが、ようするに「このある意思に通じて、ときにはこれを動かすことができるのがミ(巫)であった」というのは、鉄案であろうと思う。

 私は、それは世界の歴史的・民俗的事例からいってまず「聞く能力」、その意味で「耳」の能力であるというように考えるのである(なお本居宣長などによると、ミとミミは通じて使われる同一語であるという。これも溝口睦子論文を参照)。

 もしそうだとすると、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という異名ははるか過去の神話的な観念を顕しているということになる。

 日本の「保守」政党はなくなってしまい。真正保守が残るのは沖縄だけになってしまったということであろうか。保守政党がなくなってしまった国というのは、さすがに世界でもめずらしいのではないか。現在の自民党は何とも奇怪な存在である。あれは政党ですらないのではないか。

 こういう状態を考えるためには、どうしても神話の研究が必要であると考えて、最近、神話研究にのめり込んでいるが、そろそろ「基本の30冊」も終わるので、はやくそちらに移動したい。歴史家などは、何もできるわけではないが、ともかく、沖縄は、柳田国男・折口信夫のいうように日本の神話の原質の一部を露頭している嶋である。せめても、神話の本質的な研究によって、「本土」と「沖縄・琉球」の間の理解の通路を探りたいと思う。

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