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2015年5月

2015年5月28日 (木)

保守と革新という言葉を越えて 

 
 堀田善衛に「幸福への意思」というエッセイがある。久しぶりに読んでみた。「幸福への意思」という題であるが、むしろ堀田のいいたいことは「不幸への意思」という言葉である。その要点は次のようなもの。

 「私にはあの戦争の犠牲においてえられた、幸福になり平和に暮らすための様々な基礎的な条件を、一つ一つと失くしていっている今日の状態、その姿を身近に見る思いがすることが多い。それで私は考えました。いったい私たちは本当に幸福になろう、平和に暮らそう、と思い、本当にそれを欲しているのか、どうかと。まことに傲慢無礼な疑いです。けれども、平和と幸福のための基礎的な条件が、多数決によって一つ一つと崩されてゆくのを見ていると、そういう疑いが湧いてくるのを禁じえません。(中略)。私には、私たちのなかには、どこかに『不幸への意思』とでも云いたくなるようなものがあるような気がします」。

 1952年7月の『新日本文学』にのったものだから、いまから63年前のものであるが、しかし、今にもあてはまるのが気味の悪いところである。私は、これを重要な問題であるというように、ずっと考えてきた。その答えが少し見えてきたように思うので、書いてみたい。

 つまり、「私たちのなかには、どこかに『不幸への意思』とでもいうべきものが潜んでいるのではないか」というのは、一種のニヒリズムのように聞こえるが、しかし、むしろ事実の一面を突いていると考えた方がよいのではないかということである。

 システムを破壊したい、絶望と自棄の心情、あるいは未来について正確に考えようとしない心情。どうせそんなものだというあきらめ。破滅型の自己破壊衝動のようなもの。これは個人のなかに宿ることがある。

 しかし、ここで問題にするのは、社会的な問題である。私たちの社会、あるいは世界には、確実に「不幸への意思」をもった集団が、その中枢部に存在するということである。その極点は戦争である。第二次世界大戦に突っ込んだ日本の支配層は、これが見込みの少ない戦争であるということ、あるいは少なくとも賭のようなものであることを知っていた。また、イラク戦争の経過をみても、それは明らかである。なぜ、虚偽情報を操作して他国に侵略したブッシュのような人物が社会の中枢に宿るのか。ニクソンも同じである。

 なんでそういうことになっているのか。私は、富の一極集中あるいは権力の一極集中といわれるもの、膨大な利害が社会の一極に集中する構造が一種の病理現象をもたらすということであろうと思う。安楽のなかにいる社会集団、特殊な生活環境を確保した閉鎖的な集団、その一部が病理現象におちいり、世界にアドジャストできないという感覚のままに、その富なり、指導力なりを、ともかく使ってみたいという欲求。そういう黒々としたものが客観的に存在するといわざるをえないと思う。藤田省三氏に「安楽のファシズム」という言葉があるが、その安楽を「大衆的な構造」と捉えるのではなく、過剰な安楽の特殊な病理現象ととらえる余地はないか。

 遠いことをいうようだが、歴史家として、平安時代の貴族社会の異常というものを見ていると、そういうことを考える。そして、最近、考えるようになったのは、そういう自己破壊衝動のようなものが、自然に対する不信感、自然が自己の思いのままにはならないという不満感、それをねじふせてやるという高揚感、どうせ大したことはないというあざけり。そういうものによって倍増されているのではないかということである。
 
 『歴史のなかの大地動乱』という新書で九世紀の日本列島を「温暖化、パンデミック、大地動乱」と描いたが、現在は、これにくわえて「原発、核発電所」を抱え込んでいるということになっている。「核発電所」を作ってきた側の自己弁護の心情というものが怖い。それは一種の自棄であり、突き詰めていえば、結局、自己呪縛であり、未開の怖れである。巨大になったシステムをどう扱ってよいか、責任をもった思考を展開できない子ども。魔力を呼び出してしまった魔法使いの弟子。
 
 さて、そういう自己破壊衝動の様相を、徹底的に、具体的に明らかにすることが必要なのであろうと思う。これは学術の敵である。そして、私は、この社会(あるいは社会の頂点的中枢)に宿った自己破壊衝動を飼い慣らすためには、社会は「保守と革新という言葉を越える」覚悟をもたねばならないのではないかと思う。

 もちろん、これは従来の保守や革新の内容や実績を否定しようということではない。しかし、保守・革新が、おのおのそのまっとうな部分において培ってきたものをさらに伸ばしていくためには、「保守的進歩=進歩的保守」というようなことが必要なのではないかと思う。沖縄の翁長知事の行動をみていると、そう思う。
 
 しかし、「保守的進歩=進歩的保守」というのは、別の言葉で表現するべきものであって、適当な言葉としては「成熟」あるいは「持続」sastainabilityということになるのではないかと考える。こういう意味で、私は、「保守・革新」というという言葉の使用は根本的に再考するべきであると思う。

 とくに問題は「革新」である。以下、やや舌足らずになるが、説明してみたい。

 私は、おそらく40代の頃から、歴史家としては「保守」というのは必要なことだ、そして「革新」という言葉は問題が多いという立場をとってきた。

 これは外国語で表現してみれば自然なことで、まず「保守」はCoservativeである。社会的な記憶をささえる情報を公正に管理する組織、つまりアーカイヴズには、かならずコンサベーター、つまり資料保存の専門家がいる。情報をたとえば撮影によって記録したり、文字の書かれた紙の損壊をさまたげるなどの仕事はきわめて奥が深い仕事である。歴史家は社会の記憶を保存するための知識や感覚を創り出すという仕事が社会との関係では、もっとも重要な仕事なので、そもそもどのようなものであれ「過去を大事にする」という保守の信条をもつのが当然なのである。歴史家は、現実の仕事としては、どちらかといえば直接には保守conservativeの仕事であるというほかない。

 これに対して「革新」というのは、新たに革(改)めるということであって、英語でいえばReformである。歴史家とて、「改革」というのは必要なことであると思う。しかし、「改革、改革」といって、それを理由にして社会システムを変化させようという主張にはつねに疑心をいだく。Reformという名目によって何が行われるかは、中身を検討しなければわからないのだが、そもそも、Reformということを、その言葉だけで褒めたたえるという傾向がある。Reformという言葉に呪縛されているかのような論調というのがもてはやされるのはきわめて問題だと思う。

 歴史上とくに問題であったのは、「復古的革新」というもの、いわゆる「維新」の思想である。「明治維新」は「文明開化」と「王政復古」を無理に組み合わせて遂行された。歴史家からいえば、明治時代は、本当に困った時代で、過去の文化財をあれだけ破壊した時代はない。「復古」というのは、ようするに過去を恣意的に選択し、その基準に入らない過去を切り捨て破壊するということであった。それが列島社会に根付いた伝統文化を大きく破壊する結果をもたらしたのである。復古であるにもかかわらず文化にとって無惨な結果となったのは、それが「復古的革新」であったためである。伝統敵文化を尊重して社会を作っていくというのは手間も資本もかかる仕事である。そうではなく、いわば安上がりのナショナリズムを超国家主義という形で実現する方向に進めたのが明治憲法体制であった。

 網野善彦氏は「明治の時代に近代化を進めたとして高い評価を与える考え方には大きな問題がある」といわれるが、その中心問題は歴史家にとっては、いわゆる「神仏分離」を中心とした文化財破壊である。作夏、比叡山に登ったときに、それを実感した。比叡山の文化財については、信長による破壊が有名であるが、むしろ「神仏分離」の方が甚大な損害をもたらしたように思う。そして「神仏分離」は、結局、日本社会における「神祇・神道」の文化的な位置も壊すことにもなった。

 話がずれたが、それゆえに、私は、「革新」というよりも「進歩」という言葉を好んで使ってきた。しかし、問題をconservativeとprogressiveと言い直せば、保守と進歩の双方が必要であることはいよいよ明瞭である。歴史家からすれば、あるいはもっとも常識的にいって、CoservativeなしのReformation=progressive、ReformationなしのCoservativeというのはありえないことだと思う。ようするに「保守」に「進歩」を対置するということはそろそろやめて、「成熟」あるいは「持続」=sastainabilityに賛成する世論を多数者としていくことを、第一の社会的な立場としたらどうかということである。
 「保守」対「革新=進歩」の対立ではなく、「成熟=持続=sastainability」と「破滅型=不幸への意思」の対立こそが現実的な対立なのではないかということである。

 歴史学は、社会の成熟をめざす学問、社会が社会自身と折り合いをつける、社会が、その実態としての過去と折り合いをつけて、未来を眺望することを支える、そういうことを希望としている学問である。
 もちろん、問題の根本は人類の未来をどう構想するかということであって、それは日々の社会的・政治的実践によって問われるほかない問題である。歴史学は現在に直接に関わることはできない。しかし、未来を考えるためには、社会がその過去と折り合いをつけて成熟への意思をもたねばならない以上、社会を後ろから支えることは必要なことだと思うのである。

2015年5月26日 (火)

「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 以下に「「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」を転載します。
 筆頭に署名している日本歴史学協会は、日本の歴史学を代表する学協会で、学術会議の直下に位置する存在です。この声明は日本の歴史学者の普通の意見を代表しています。


「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。

 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。

 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。

 第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。

 日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。

当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。

2015年5月25日

       歴史学関係16団体      

日本歴史学協会     

大阪歴史学会      

九州歴史科学研究会   

専修大学歴史学会    

総合女性史学会     

朝鮮史研究会幹事会   

東京学芸大学史学会   

東京歴史科学研究会   

名古屋歴史科学研究会  

日本史研究会      

日本史攷究会      

日本思想史研究会(京都)

福島大学史学会     

歴史科学協議会     

歴史学研究会      

歴史教育者協議会 

2015年5月25日 (月)

ポツダム宣言と原爆投下

 ポツダム宣言と原爆投下に関わって、武田清子『天皇観の相剋』の紹介を再掲します。秋頃までには人文書院発行予定の『日本史の30冊』に掲載される予定です。私は母校、国際キリスト教大学で、武田先生の指導をうけましたが、先生の研究が、この問題についての基本研究です。
 この問題の経過は、私のような、奈良・平安時代というはるかな昔を研究している歴史家にも周知のもの、歴史家ならば周知のことで、最近の国会での首相の発言は、歴史家のコモンセンス、常識と日本の政治家の意識が、いかに隔絶しているかということをよく示していると思います。


武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)
 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。それは第二次大戦後の国際情勢の中で作られたものであって、それ故に、現憲法における天皇の位置を歴史的に考察するためには大量の外国語史料の蒐集と分析が必要である。
キリスト者の戦争期経験
 本書は、その初めての試みである。今から40年前にこれが可能だったのは、著者が国際キリスト教大学教授に就任後、1965年から2年間、プリンストン、ハーバートの両大学で過ごす機会をもてたためであった。武田は、このとき、アメリカの対日政策の中心にいたジョセフ・バレンタイン(国務省極東部長)、ユージン・デューマン(戦前のアメリカ大使館顧問)、さらに学者ではヒュー・ボートン(近代日本史、ハーバート大学長)、さらにはエドウィン・O・ライシャワー(駐日大使、ハーバード教授)などにインタビューを重ね、しかも彼らのアドヴァイスによって、多くの史料を蒐集することができた。
 実は、私は国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、著者の自伝的メモによれば、武田は何人もの男衆をかかえた関西の古い地主の家で、生け花や琴などの生粋の日本文化のなかで育った。しかし、母の薦めで、ミッションスクール神戸女学院に入学し、大学部三年のときに受洗したことが人生の転機となった。浄土真宗の信者であった母は信仰に入る以上、一生涯それを守り抜けるかと質した上で、それを容認したという。
 受洗の前年、1937年には、キリスト者に対する圧力が強まるなかで、同志社大学総長湯浅八郎が辞職させられ、東京大学では矢内原忠雄が経済学部教授の職を追われるという時代である。そのなかで、著者は、20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事するという道を歩んだ。武田はニーバーにアメリカに残ることを進められたが、日本に戻って苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。こういう経験のなかにいた武田にとって、敗戦前後の時期、世界各国の政府、要人、学者らが、天皇制をどう扱うべきかについて考え、行動した同時代史は他人事ではなかったのである。
アメリカ国務省の知日派ーージョセフ・C・グルー
 検討の出発点は武田が身にしみて知っていたアメリカの世論である。1945年6月のワシントンポストの報じるギャラップ世論調査では、天皇の扱いについて処刑(33%)、裁判(17%)、終身刑(11%)、追放(9%)があわせて70%。回答なし(23%)を除くとほとんどが強硬処置であった。
 アメリカ政府国務省内には日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループと「知日派」とされるグループが存在した。彼らは、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動していたエリートたちであるが、前者でよく知られているのは、有名な中国研究者のオーウェン・ラティモア。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留するように提案している。後者の代表が、前駐日大使のジョセフ・C・グルーである。彼は、日米開戦によって、6ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに、宣教師などとともに送還船に乗せられ、1942年7月20日、モザンビークで、アメリカから送還された日本大使などの一行と交換という形で、ようやくアメリカにたどり着く。武田は、後者の日本大使などと一緒だったから、グルーとすれ違っていることになる。
 帰国したグルーは、アメリカ全土で日本の戦争体制の暴圧と狂気を講演してまわったが、日本の敗戦が決定的になった時点で、アメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、天皇制の廃止はさけるべきであるという主張を展開した。グルーは天皇制自体をどう扱うかは日本国民の選択に属する問題であるとし、その上で、天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であり、その権威を利用して日本の降伏と占領を、これ以上のアメリカ軍人の犠牲がないように進めるべきであると主張したのである。このようなグルーの主張は、グルーが1944年5月に国務省極東局長、年末には国務次官になって明瞭に打ち出され、以降の対日占領政策を規定することになった。
 重要なのは、グルーと原爆投下問題との関わりである。つまり、1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は、君主国であることを否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくするという説得であって、トルーマンは、一時それに賛成し、グルーの提案は、ポツダム宣言の草案にも「(日本が)再び侵略を意図せざることを世界が納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする(This may include a constitutional monarchy under the present dynasty)」と記入された。
 しかし、アメリカ軍部は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいた。彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったに違いない。グルーの提案は、結局、原爆の投下を優先する国務長官バーンズと軍部、そしてトルーマンの意思によって潰えたのである。とはいえ、グルーは必死に行動し、最後は7月17日のポツダム会談に出席するために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにその所信を述べたメモを突っこむという「執拗なまでの熱心さは異常なほど」であったという。しかし、ポツダム会談の前日、7月16日、ニューメキシコにおける原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。上記の宣言草案の一節は正文には反映しなかったのである。
 当時の天皇制政府が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものを何よりも優先していたことはよく知られている。そのため、降伏しか道がないことを知りながら、政府は無意味な躊躇によって時日を空費し、ポツダム宣言の受諾は原爆投下後にずれ込んだ。この間、沖縄では壮絶な地上戦が展開され、県民の4人に一人が死去するという惨禍をもたらしたことは忘れてはならないことである。
 陸軍長官スティムソンは、翌年、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、もし最初のトルーマンの判断が維持され、もう少し早い時期に、降伏後も日本の君主制は保持されうると発表していたならば、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」という忌まわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。
終戦の経過を正確に認識する意味
 この経過は、本書の「天皇か原爆か 日本の無条件降伏の鍵」という章で初めて明らかにされたのであるが、これを正確に認識しておくことは、いまでも当事国にとっては必須のことであろう。とくに私が注意しておきたいのは、これが政治史だけの問題ではないことである。つまり、本書のあとがきで、武田は「青年期の思想的苦悩と深い関係をもつ問題であったがゆえに、近代日本における天皇制の問題に切実な関心をもってきた一学徒として、’敗戦と天皇制’の問題をめぐってあとづけたこの小著を、今日、青年期にある息子と、そして同じ世代の、戦後に生まれ育った若い人々に対して、私どもの世代から伝達しておきたい一つの記録としておくりたいと思う」と述べている。武田が本書を執筆した背景には、キリスト者としての戦争期体験をふまえ、天皇制をめぐる日本「土着」の価値観というものをどのように読み解くかという内発的欲求があったのである。
 武田はそういう立場から、「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場として、相当の頁数を使って、日本で過ごし、この国を愛した欧米人の日本観を紹介している。たとえば、日本で生まれ育ち、朝鮮で医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストラリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。武田はこれらを専攻の近代日本思想史に位置づけているが、そのほかにも本書は多くの示唆をふくんでいる。
 もちろん、本書はすでに40年前のものであり、参考文献にかかげたような新しい研究を参照しなければならない。また本書でもっとも欠けているのは中国・朝鮮・ベトナムなどのアジアからの視座であろう。著者も認めているように、それは当時の世界政治のなかで大きな位置をもっていた「社会主義」の動きをどう評価するかという問題にも関わってくる。現在、日本のコミュニズムの側からも、この時期の国際政治におけるスターリンの異様にして巨大な罪悪が史料にもとづいて明瞭に描かれるようになっているが、私が国際キリスト教大学で武田の指導をうけていたころ、すでに武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが「20世紀社会主義」の全体主義的性格を強く批判していたことは記憶に新しい。こういう問題においては、時は過ぎ去らないものだと思う。
 歴史学においても、20世紀の歴史のすべてをあらためて見直すべき時期が来ていることは確実である。

参考文献
荒井信一『原爆投下への道』(東京大学出版会 、1985年)
中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』(岩波新書、1989年)
藤村信『ヤルター戦後史の起点』(岩波書店、1985年)
不破哲三『スターリン秘史』(新日本出版社、2014年)

2015年5月13日 (水)

ネパールの大地震と仏典の地震

 ネパールの大地震が余震もあってたいへんな様子である。
 先日、「小学校でプレートテクトニクスを教えよう。ーネパールの地震のこと」という記事を書いた。これはネパールの地震の発生機構が、インドプレートが毎年5/6センチ北上してユーラシアプレートに衝突していることを原動力とするものである以上、日本で地震が発生する条件にとっても他人事ではないというのを書いた。

 インド亜大陸、ネパールと日本は無縁の場ではないということをもっともっと考えなければならないと思う。それがグローバルということの実態のはずである。

 グローバルというと、すぐに軍事的な事柄を考えるのはやはり無知の象徴だろう。しかし、それが社会からしみ出してくるように了解されるためには、文化全体の説得力をグローバルなものにまで高めるのが必要である。

 そこでもう一つ思うのは、仏典に頻出する地震の原点は、釈迦の誕生したシャカ国が現在のインドとネパールの国境地帯のヒマラヤ山麓にあったこととは関係しないのかということである。インド亜大陸南部には大きな地震はあるのかどうかがまず問題であり、インドで地震の歴史史料がどうなっているかという問題にも関わる。これは素人がいっても仕方がないことだとは思うのだが、インド仏教史の人にきいてみたい。

 そもそも、仏典には、地震に対する言及が多いのである。たとえば、『金光明経』(巻二)に描写された「災異」は、「疾疫・彗星・大地震動・暴風・飢饉」などと描写され、この時代の様子そのものをさしているのではないかとさえ思わせる。しかも鳩摩羅什(三四四~四一三)が翻訳した『摩訶般若波羅蜜経』(巻一)には「世尊」が「獅子遊戯三昧」に入れば、その「神通力」で六種の震動を自由に起こすことができ、すべてが不定であることを教え、衆生を解脱させることができると書かれている。また『大方広仏華厳経』(巻四十六)にも、仏の「十自在法」の一つとして「六種震動」を自在にあやつる能力がみえ、『大方広仏華厳経疏』(巻八)によれば、この仏の「神力」は、第一に「諸魔」を制圧するためであり、第二に衆生を迷いから解き放つためであるという。これらは仏教がもつ災異を払いのける力を描いておりきわめて雄弁である。

 仏教の聖教を翻訳した中国大陸中心部には大きな地震は少ないから、これはインドの仏教自体のなかで、養われてきた観念ではないのかと思う。そうだとすると、やはりネパールの地震というのはシャカ以来の問題、仏教にとっても根本的な問題となるのではないか。これも小学校で語ってよいことなのではないか。少なくとも日本の仏教文化というものを考える上で重要な問題ではないのか、ということである。

 聖武天皇のたてた東大寺大仏は、上記の華厳経にもとづいて、折から発生した河内大和地震に関係して発願されたというのが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書いたことであるが、こういう問題は細かく知っていてよいことなのではないかと思う。


 すべてを根本的に考え直さなければならないのではないだろうか。

 やはりその一つの基礎はプレートテクトニクスの学説だろう。

 石橋克彦氏の『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)によれば、インドプレートの衝突によって、中国大陸が東へ押し出され、それを原動力として日本列島にむけてアムールレートが東進してくるのだという。これを考えることによって、南海トラフ大地震は、このアムールプレートの東縁部、つまり北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造線沿いに発生する地震と一連のものとして分析できるというのが、石橋の「アムールプレート東縁変動帯仮説」である。
 
 これらをふくめて、地震や噴火について、小学校・中学校・高校で、どういうように、どういう順序で教えていくかを真剣に議論すべきだと思う。私はプレートテクトニクスを早い時期からカリキュラムに入れることが決定的だと思う。

 なぜ、ジャーナリズムは、そういう問題提起をしないのであろう。日本のジャーナリズムは前進的な問題提起をすることが少ないのではないか。政治や社会のあり方について一歩、離れて議論することは大事であろうと思う。しかし、社会にとって緊要な問題というものを前進的に議論し、誰でもが賛成できることについて、しかし、それを実現するためには実際には覚悟と配慮がいるという問題について、集中してキャンペーンを張っていくということはもっとできるのではないか。


 以上については、このブログで、上記石橋克彦著書、および平朝彦の著書に関係して書いたことがあるので参照願いたい。

 また、私は一昨年、地震研究の国家プロジェクトの基本を策定する文部科学省の委員会の委員をやったが、そのときに議論して答申に入った、地震・噴火の学校教育における扱いについての文章も下記に引用しておく。ただ、この文章では抽象的すぎたかも知れない。

「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について、建議」(平成25年11月8日、科学技術・学術審議会)」
(5) 社会との共通理解の醸成と災害教育
国民や行政機関の担当者などに,防災・減災に関連する地震・火山現象の科学的知見や,現在の地震・火山の監視体制,予知や予測情報の現状を正しく認識してもらうため,関連機関が協力して,研究成果を社会に分かりやすく伝えるための取組を強化する。その基礎として学校教育や社会教育などに,地震・火山噴火についての豊富で体系的な情報を,自然科学的知識のみでなく,災害史や防災学など人文・社会科学分野の知識も含めて提供する。

2015年5月11日 (月)

欧米の日本史関係研究者の「日本の歴史家を支持する声明」

 欧米の日本史関係研究者の「日本の歴史家を支持する声明」がでた。新聞で大きく報道されている。

 日本の一人の歴史家として感じるのは、まず、日本のマスコミはアメリカからのニュースを事大主義的に大事にするということである。馬鹿ではないか。

 歴史家の仕事は過去を共有する(記憶が同じ)ということを目指すということである。未来を共有する、未来と希望を共有することによって人間は集まるというのはしばしば幻想であって、実際には過去を共有することによって、人間は同じ未来に入っていく。走馬燈のように人生の諸局面が目前にあらわれてくるというが、それは過去を俯瞰する形で人間の知識・意識・感情がスピードをもって自己点検のサイクルに入ることをいう。
 宇宙の晴れ上がりというのはビッグバンのあとにくるというが、過去の晴れ上がりということがあるだろうというのが歴史家の確信である。晴れ上がった過去を眼前にして、未来へ進んでいく。晴れ上がった過去によって未来への道がほのかに照らされるというのが、未来への本源的な行動のありかたであるべきなのだと思う。そうしてそちらに行くほかないということで進んでいくというのが、最近、評判の悪い「歴史の必然」ということであるというのは、哲学の真下信一氏の講演会で聞いたこと。言い方は少し違うがそういうことをおっしゃったのだと思う。

 過去の晴れ上がりなしに、未来はないという確信の下に歴史学をやっている積もりではあるが、もちろん、自分の過去も晴れ上がらないままに生きてはいるので、大きなことはいえないが、しかし、バックトゥーザフューチャーというのは、人間は後ずさりをしながら、背中から未来に入っていくことであるというのは堀田善衛の『天上台風』のエッセイにあったこと。

 過去の晴れ上がりというのは、過去とその全貌がみえるようになったということである。前近代社会では、背中から未来に入っていくというのは、堀田のエッセイでも、それをうけた勝俣鎮夫氏の仕事でも、一種の不安定を意味するという読み方がされている。今の感覚だと、「後じさりしながら、未来へ入っていく」というのは不安な移動のように感じるが、しかし「バックトゥーザフューチャー」というのは、いってみればふり返りもせずに、座ったまま、眼前の過去が遠くへ移動していくような時間のスピードに乗ることなのだと思う。過去は眼前にみえ、過去から遠ざかれば遠ざかるほど、いよいよ、その全体がみえてくる。未来への移動は過去の延長であって、基本的な不安はない。そういうのが前近代社会における時間・空間観念の基礎にすわっていたのだろうと思う。それを「千篇一律」、「日々是好日」、保守と安穏という」イメージのみで見ては成らないのではないか。
 むしろ新しい意味でそのような未来への進み方が必要になっているのではないか、などということを考える。「バックトゥーザフューチャー」

 さて、声明の話しに戻るが、問題の中心は「慰安婦問題」(従軍性奴隷の問題)であるが、その声明は歴史家の常識を反映している。その出だしは、下記のようなもの。

「下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
 また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。」

 
 さて、上記の最初の文章に「日本の多くの勇気ある歴史家」とある。
 しかし、普通の新聞読者は「日本の多くの勇気ある歴史家」といわれても何のことかわからないだろう。「日本の多くの勇気ある歴史家」ということについて、新聞は一切ほとんど報道しない。つまりこういう声明は日本の歴史家は何度も出している。しかし、新聞に5行のベタ記事がのれば、めずらしい位に大きく扱ったというのが実際である。

 金をとって情報を提供するマスコミが、日常、必要なことは報道しておかないで、外国の歴史家が同じことをいえば取り上げるというのは、ようするに「犬が人を噛んでも報道しないが、人が犬を噛めば報道する」ということである。
 歴史家ではない国民のなかにはいろいろな意見があるだろう。しかし、ジャーナリストというのは、最低、必要な情報を確実に提供するという専門性をもつ職業のはずである。その条件を作っていないという状況を問題にせずに議論しろというのはおかしなことであることは自明であろう。この問題について議論したい人は、まずこういうマスコミの視野の狭さ、無責任さがどこからどのようにでてくるのかを考えるのが先であろうと思う。そういう社会なのであるという怖れをもつのも当然であろう。

 もちろん、こういうことを報道するなということではない。しかし、もう少し常識と恥じらいというものをもってほしいと思う。自分が報道していないことを外国の歴史家が声明を出すと報道する。それは自分が「無知なのか」または「勇気がないのか」のどちらかであるということぐらいは分かっていてほしいと思う。最低、この声明で述べられているようなことは歴史家の常識であることは分かっていてほしいと思う。


全文は以下の通り。

OPEN LETTER IN SUPPORT OF HISTORIANS IN JAPAN
日本の歴史家を支持する声明

 下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
 また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。
 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに、彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。
 「慰安婦」の正確な数について歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合について、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
 多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。アメリカ、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
 今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって海外であれ国内であれ、第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するようなことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事実です。しかし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
 今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
 過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
 私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。

署名者一覧(名字アルファベット順)

ダニエル・オードリッジ(パデュー大学教授)
ジェフリー・アレクサンダー(ウィスコンシン大学パークサイド校准教授)
アン・アリソン(デューク大学教授)
マーニー・アンダーソン(スミス大学准教授)
E・テイラー・アトキンズ(北イリノイ大学教授)
ポール・バークレー(ラファエット大学准教授)
ジャン・バーズレイ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
ジェームズ.R・バーソロミュー(オハイオ州立大学教授)
ブレット・ド・バリー(コーネル大学教授)
マイケル・バスケット(カンザス大学准教授)
アラン・バウムラー(ペンシルバニア・インディアナ大学教授)
アレキサンダー・ベイ(チャップマン大学准教授)
テオドル・ベスター(ハーバード大学教授)
ビクトリア・ベスター(北米日本研究資料調整協議会専務理事)
ダビンダー・ボーミック(ワシントン大学准教授)
ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学ビンガムトン校名誉教授)
ダニエル・ボツマン(イェール大学教授)
マイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)
トマス・バークマン(ニューヨーク州立大学バッファロー校名誉教授)
スーザン・L・バーンズ(シカゴ大学准教授)
エリック・カズディン(トロント大学教授)
パークス・コブル(ネブラスカ大学リンカーン校教授)
ハルコ・タヤ・クック(ウイリアム・パターソン大学講師)
セオドア・クック(ウイリアム・パターソン大学教授)
ブルース・カミングス(シカゴ大学教授)
カタルジナ・シュエルトカ(ライデン大学教授)
チャロ・ディエチェベリー(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)
エリック・ディンモア(ハンプデン・シドニー大学准教授)
ルシア・ドルセ(ロンドン大学准教授)
ロナルド・P・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス名誉フェロー
ジョン・W・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)
マーク・ドリスコル(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)
プラセンジット・ドアラ(シンガポール国立大学教授)
アレクシス・ダデン(コネチカット大学教授)
マーティン・デューゼンベリ(チューリッヒ大学教授)
ピーター・ドウス(スタンフォード大学名誉教授)
スティーブ・エリクソン(ダートマス大学准教授)
エリサ・フェイソン(オクラホマ大学准教授)
ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)
マイルズ・フレッチャー(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)
ペトリス・フラワーズ(ハワイ大学准教授)
ジョシュア・A・フォーゲル(ヨーク大学教授)
セーラ・フレドリック(ボストン大学准教授)
デニス・フロスト(カラマズー大学准教授)
サビーネ・フリューシュトゥック(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
ジェームス・フジイ(カリフォルニア大学アーバイン校准教授)
タカシ・フジタニ(トロント大学教授)
シェルドン・M・ガロン(プリンストン大学教授)
ティモシー・S・ジョージ(ロードアイランド大学教授)
クリストファー・ガータイス(ロンドン大学准教授)
キャロル・グラック(コロンビア大学教授)
アンドルー・ゴードン(ハーバード大学教授)
ヘレン・ハーデーカー(ハーバード大学教授)
ハリー・ハルトゥニアン(ニューヨーク大学名誉教授)
長谷川毅(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
橋本明子(ピッツバーグ大学教授)
サリー・ヘイスティングズ(パデュー大学准教授)
トム・ヘイブンズ(ノースイースタン大学教授)
早尾健二(ボストンカレッジ准教授)
ローラ・ハイン(ノースウェスタン大学教授)
ロバート・ヘリヤー(ウェイクフォレスト大学准教授)
マンフレッド・ヘニングソン(ハワイ大学マノア校教授)
クリストファー・ヒル(ミシガン大学助教授)
平野克弥(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
デビッド・ハウエル(ハーバード大学教授)
ダグラス・ハウランド(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校教授)
ジェムス・ハフマン(ウイッテンバーグ大学名誉教授)
ジャネット・ハンター(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授)
入江昭(ハーバード大学名誉教授)
レベッカ・ジェニスン(京都精華大学教授)
ウィリアム・ジョンストン(ウェズリアン大学教授)
ジャン・ユンカーマン(ドキュメンタリー映画監督)
イクミ・カミニシ(タフツ大学准教授)
ケン・カワシマ(トロント大学准教授)
ウィリアム・W・ケリー(イェール大学教授)
ジェームス・ケテラー(シカゴ大学教授)
ケラー・キンブロー(コロラド大学ボルダー校准教授)
ミリアム・キングスバーグ(コロラド大学助教授)
ジェフ・キングストン(テンプル大学ジャパン教授)
ヴィキター・コシュマン(コーネル大学教授)
エミ・コヤマ(独立研究者)
エリス・クラウス(カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授)
ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授)
栗山茂久(ハーバード大学教授)
ピーター・カズニック(アメリカン大学教授)
トーマス・ラマール(マギル大学教授)
アンドルー・レビディス(ハーバード大学研究員)
イルセ・レンツ(ルール大学ボーフム名誉教授)
マーク・リンシカム(ホーリークロス大学准教授)
セップ・リンハルト(ウィーン大学名誉教授)
ユキオ・リピット(ハーバード大学教授)
アンガス・ロッキャー(ロンドン大学准教授)
スーザン・オルペット・ロング(ジョンキャロル大学教授)
ディビッド・ルーリー(コロンビア大学准教授)
ヴェラ・マッキー(ウーロンゴン大学教授)
ウォルフラム・マンツェンライター(ウィーン大学教授)
ウィリアム・マロッティ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
松阪慶久(ウェルズリー大学教授)
トレント・マクシー(アマースト大学准教授)
ジェームス・L・マクレーン(ブラウン大学教授)
ガビン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)
メリッサ・マコーミック(ハーバード大学教授)
デイビッド・マクニール(上智大学講師、ジャーナリスト)
マーク・メッツラー(テキサス大学オースティン校教授)
イアン・ J・ミラー(ハーバード大学教授)
ローラ・ミラー(ミズーリ大学セントルイス校教授)
ジャニス・ミムラ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校准教授)
リチャード・マイニア(マサチューセッツ州立大学名誉教授)
中村美理(ウェズリアン大学准教授)
ユキ・ミヤモト(デポール大学准教授)
バーバラ・モロニー(サンタクララ大学教授)
文有美(スタンフォード大学准教授)
アーロン・ムーア(マンチェスター大学准教授)
テッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学教授)
オーレリア・ジョージ・マルガン(ニューサウスウェールズ大学教授)
リチャード・タガート・マーフィー(筑波大学教授)
テツオ・ナジタ(シカゴ大学名誉教授)
ジョン・ネイスン(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
クリストファー・ネルソン(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
サトコ・オカ・ノリマツ(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター)
マーク・ノーネス(ミシガン大学教授)
デビッド ・桃原・オバミラー(グスタフ・アドルフ大学准教授)
尾竹永子(ウエズリアン大学特別講師、アーティスト)
サイモン・パートナー(デューク大学教授)
T・J・ペンペル(カリフォルニア大学バークレー校教授)
マシュー・ペニー(コンコルディア大学准教授)
サミュエル・ペリー(ブラウン大学准教授)
キャサリン・フィップス(メンフィス大学准教授)
レスリー・ピンカス(ミシガン大学准教授)
モーガン・ピテルカ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)
ジャネット・プール(トロント大学准教授)
ロジャー・パルバース(作家・翻訳家)
スティーブ・ラブソン(ブラウン大学名誉教授)
ファビオ・ランベッリ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
マーク・ラビナ(エモリー大学教授)
シュテフィ・リヒター(ライプチヒ大学教授)
ルーク・ロバーツ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)
ジェニファー・ロバートソン(ミシガン大学教授)
ジェイ・ルービン(ハーバード大学名誉教授)
ケネス・ルオフ(ポートランド州立大学教授)
ジョルダン・サンド(ジョージタウン大学教授)
ウエスリー・佐々木・植村(ユタ州立大学准教授)
エレン・シャッツナイダー(ブランダイス大学准教授)
アンドレ・シュミット(トロント大学准教授)
アマンダ・C・シーマン(マサチューセッツ州立大学アマースト校准教授)
イーサン・セーガル(ミシガン州立大学准教授)
ブォルフガング・ザイフェルト(ハイデルベルク大学名誉教授)
マーク・セルデン(コーネル大学上級研究員)
フランツイスカ・セラフイン(ボストンカレッジ准教授)
さゆり・ガスリー・清水(ライス大学教授)
英子・丸子・シナワ(ウィリアムス大学准教授)
パトリシア・スイッペル(東洋英和女学院大学教授)
リチャード・スミスハースト(ピッツバーグ大学名誉教授)
ケリー・スミス(ブラウン大学准教授)
ダニエル・スナイダー(スタンフォード大学アジア太平洋研究センター副所長)
M・ウイリアム・スティール(国際基督教大学教授)
ブリギッテ・シテーガ(ケンブリッジ大学准教授)
ステファン・タナカ(カリフォルニア大学サンディエゴ校教授)
アラン・タンスマン(カリフォルニア大学バークレー校教授)
セーラ・タール(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)
マイケル・ティース(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)
マーク・ティルトン(パデュー大学准教授)
ジュリア・トマス(ノートルダム大学准教授)
ジョン・W・トリート(イェール大学名誉教授)
ヒトミ・トノムラ(ミシガン大学教授)
内田じゅん(スタンフォード大学准教授)
J・キース・ヴィンセント(ボストン大学准教授)
スティーブン・ブラストス(アイオワ大学教授)
エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学名誉教授)
クラウス・フォルマー(ミュンヘン大学教授)
アン・ウォルソール(カリフォルニア大学アーバイン校名誉教授)
マックス・ウォード(ミドルベリー大学助教授)
ローリー・ワット(ワシントン大学(セントルイス)準教授)
ジェニファー・ワイゼンフェルド(デューク大学教授)
マイケル・ワート(マルケット大学准教授)
カレン・ウイゲン(スタンフォード大学教授)
山口智美(モンタナ州立大学准教授)
山下サムエル秀雄(ポモナ大学教授)
ダーチン・ヤン(ジョージ・ワシントン大学准教授)
クリスティン.ヤノ(ハワイ州立大学マノア校教授)
マーシャ・ヨネモト(コロラド大学ボルダー校准教授)
米山リサ(トロント大学教授)
セオドア・ジュン・ユウ(ハワイ大学准教授)
吉田俊(西ミシガン大学教授)
ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学マディソン校教授)
イヴ・ジマーマン(ウェルズリー大学准教授)
ラインハルト・ツェルナー(ボン大学教授) / 187人

 この声明は、二〇一五年三月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会のなかの公開フォーラムと、その後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたものです。ここに表明されている意見は、いかなる組織や機関を代表したものではなく、署名した個々の研究者の総意にすぎません。

2015年5月 7日 (木)

国旗・国歌に関する国立大学への要請に反対する声明に賛同しました

 下記の声明に賛同しました。大学を破壊している政党が、大学に自己の意見を押しつけるということは許し難いことです。国旗・国歌について様々な意見はあるでしょうが、それとこれは別の問題です。大学を破壊している政党が、それを自分で理由づけるためにやっていることです。こういう形で「国」というものを扱うことは国家を愚弄するものです。
 大学の定員・予算をここまで削り込み学術の継続性を危機に追い込もうというのは、ようするに、この政党は学術・文化というものが嫌いなのです。20年前までの自民党とは大きく異なる政党であり、国に余計な困難を残す存在であると、私は思います。


国旗・国歌に関する国立大学への要請に反対する声明

 本年4月9日の参議院予算委員会における安倍晋三首相の答弁を機に、文部科学省は国立大学に対して、入学式、卒業式において国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう要請するとされている。これは、日本における学問の自由と大学の自治を揺るがしかねない大きな政策転換であり、看過できない。

 そもそも大学は、ヨーロッパにおけるその発祥以来、民族や地域の違いを超えて、人類の普遍的な知識を追究する場として位置付けられてきた。それぞれの国民国家の独自性は尊重されるが、排他的な民族意識につながらないよう慎重さが求められる。現在、日本の大学は世界に開かれたグローバルな大学へと改革を進めているが、政府主導の今回の動きが、そうした方向性に逆行することがあってはならない。

日本近代史を振り返れば、滝川事件、天皇機関説事件、矢内原事件など、大学における研究や学者の言論が、その時代の国家権力や社会の主流派と対立し、抑圧された例は枚挙にいとまがない。その後の歴史は、それらの研究・言論が普遍的な価値にもとづくものであったことを示している。大学が国家権力から距離を置き、独立を保つことは、学問が進展・開花する必要条件である。文部科学省は今回のはたらきかけは要請にすぎないと説明しているが、国立大学法人が運営費交付金に依存する以上、「要請」が圧力となることは明白である。

 たしかに教育基本法第二条は、教育目標の一つとして、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」ことを掲げる。しかし、伝統と文化とは何かを考究すること自体、大学人の使命の一つであり、既存の伝統の問い直しが新しい伝統を生み、時の権力への抵抗が国家の暴走や国策の誤りを食い止めることも多い。教育基本法第七条が「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」とするゆえんである。政府の権力、権威に基づいて国旗国歌を強制することは、知の自律性を否定し、大学の役割を根底から損なうことにつながる。

 以上の理由から、我々は、大学に対する国旗国歌に関する要請を撤回するよう、文部科学省に求める。

2015年4月28日

学問の自由を考える会

歴史学と民俗学について。

歴史学と民俗学について。

 ある事典のために書いた歴史学という項目。

 歴史学は過去を過去として考察する学問である。過去の人間社会を考察するために歴史学は過去から伝わる「物・記憶」のすべてを研究手段(史料)として扱う。それは文字史料・絵画史料・物史料・民俗儀礼・伝承記憶などのすべての形態をとり、それらを史料として扱うために歴史学は諸科学の援助をうけて膨大な作業を遂行する。これは経済学・法学などの社会諸科学の考察の中心が現在であり、現在の社会関係であるのとは異なっている。この点では歴史学は諸科学が過去を分析材料として利用できるように奉仕する学問であると自己規定しなければならない。歴史学は、その利用済みの過去素材の貯蔵と発酵の場の世話人でもある。

 もちろん、歴史学がまったく現在に関わらないというのではない。ただ歴史学が関わるのは現在の中にいる人びとの記憶である。人びとの記憶の世界はおのおの独自にしても、その基礎にある過去の事実の写像が歪んでいないようにするというのが歴史学の目標である。現在、アーカイヴズの科学がコンピュータの力をかりて発展し、「社会的な記憶装置」としての性格を帯びはじめているが、この意味では、歴史学はアーカイヴズに奉仕し、いわば人びとの記憶の営みに筋を通していくための学問であるということができる。それによって歴史学は過去を回避せず、過去を共有し、一歩退いたところから未来をみる視座を確保しようとする。

 これに対して、柳田国男に始まった日本民俗学は、いわゆる「経世」の学であり、過去学・過去科学ではなく、現代学・現実科学として自己規定をしていた。もちろん、たとえば石母田正の「三先生のこと」という文章などに明らかなように、柳田は歴史学の最大の先達の一人として認められてきた。民間伝承や民俗・儀礼など歴史学と民俗学の対象とする史料が大きく重なることもいうまでもない。歴史学と民俗学がそれ自体として重なっている面も大きい。しかし、民俗学が民俗意識の中の過去記憶のみでなく、現在の生活意識そのものに直接に関わろうとし、そこに内在する現実疑問に対応する「経世」の学たらんとする意図は貴重なものである。その意味では禁欲的で固い学問であらざるをえない歴史学が、民俗学から示唆をえる局面、教示をえる側面は依然として大きいと考えられる。伝統ある日本民俗学が世界の人類学・社会学・精神科学などと関わって、どう発展していくか、それは歴史学にとってつねに目をはなせない問題である。

 歴史学は過去科学、民俗学は現在科学という区別は関敬吾、牧田茂の用語である。そしてその原点は、柳田の1951年(昭和26)6月10日の柳田が民俗学研究所で発言した記録にのっている「過去学」「現在学」という言葉にあるという。これは『民間伝承』(15ー9)に載っているということだが、私の使っている『定本柳田国男集』筑摩書房には載っていない。宮田登『新版 日本の民俗学』(講談社学術文庫1985年)に載っているのを読んだ。
 柳田は、「これまで史学を過去学としてやってきたのが間違いである。民俗学と同様に現在学でやってほしい。私は意識して民俗学を史学の一方面であるといってきたが、ぎゃくにいえば、そういうことだ」という趣旨の発言をしている。私見は史学は過去学であることを明瞭に意識した上で未来を考える学問であるということである。未来を考えるとはいっても、これは漠としたものにならざるをえないし、それこそ他の学問に依拠しなければならず、またさらに本質的にいえば未来は実践の問題である。
 
 この宮田さんの本を引っ張り出すのに時間がかかった。先日作った民俗学の新書文庫の棚に整理。以前読んだ本だが、でてきたところで、もう一度記憶に残したい本である。
 驚いたのは、去年、橋本道範氏から教わったギアーツのインボリューション論についてすでに論じていること。以前に読んだときに線をひいてあるが、involutionを「内旋」と訳してある。

 あわせて、『網野善彦対談集2』(多様な日本列島社会)にのっている谷川健一、坪井洋文、宮田登の諸氏と網野さんの対談を読んだ。
 歴史学と民俗学の関係は、今後、どうなっていくのだろう。ここはおいおい勉強のし直しである。

2015年5月 3日 (日)

「徳一菩薩を仲麻呂の子と考え、さらに論じて藤原秀郷の家系に及ぶ」

千葉史学会での報告について
 千葉史学会で「徳一菩薩を仲麻呂の子と考え、さらに論じて藤原秀郷の家系に及ぶ」という講演をやることになった。
2015年5月17日(日)
場所  千葉大学大学院人文社会科学研究科棟1階
マルチメディア講義室
(千葉市稲毛区弥生町1-33千葉大学内)
 私の講演は、15:00からである。
 用意を始めた。

 変わったテーマだが、これはある大事な人から、「徳一菩薩」についてどう考えるか、正確な意見を聞きたいということだったので、とても断れず、考えてきたことである。この経過について、報告のためにかいた文章があるので、それの最初を以下に載せる。

 正直、これは困ったと思った。徳一をどう考えるかは奈良仏教から平安時代の顕密仏教への移りゆきをどう考えるかに関わっており、おそらく日本仏教史のなかでもっともむずかしい問題の一つではないかと思う。実際、何でも書いてある辻善之助の『日本仏教史』第一巻にも、たった六行の記述があるだけでまったく頼りにはならないことはそれを象徴している。

 最初に考えたのは、ともかく基礎史料となる最澄の経論を読まねばならないということであった。歴史家としてはずかしいことであるが、仏教の勉強も仏教史の勉強も本格的にしたことのないものにはたいへんな重荷である。しかし、お断りすることもできず、ちょうど定年のころであったので、そこから勉強をする積もりで御引き受けした。私はおもに社会史・経済史の研究をしてきたが、長く京都大徳寺・真珠庵・徳禪寺の文書の編纂をしていた。そのなかで徐々に禅宗への興味が高まってきたので、定年後の研究分野の一つとして仏教史に関わることも考えたいと思っていたのである。

 そういうことで、ともかくも基礎勉強であるという気持ちで、岩波書店からでている日本思想大系の一冊、『最澄』に何度か挑んだのだが、これを理解し、通読してノートを取るためには、仏教を一から学ばなければならないことを痛感した。そして、ちょうど、そのころ、私は今年二〇一五年からはじまる地震火山の災害予知の五ヶ年研究計画を立案する文部科学省の委員会の委員を依頼され、ともかく災害予知のための地震の歴史史料の蒐集・研究という問題に忙殺されることになった。委員の仕事は終わったものの、この問題が、日本の国土と歴史にとって重大な問題であることを痛感するなかで、地震や火山噴火についての研究を優先せざるをえなくなって、現在にいたっている。

 以上は、お答えが遅れたことの弁解であるが、ただ、その間にも徳一の研究が進み、とくにこれまでの研究を網羅的に検討して、新しい宗教史的視点を開いた小林崇仁の論文「菩薩としての徳一」(『蓮花寺佛教研究所紀要』第七号、二〇一四年)が発表されたことは私にとって幸いであった。小林は、徳一が最澄の『守護国界章』において「和上」と呼称され、空海の書状(『平安遺文』四四〇七)においては「菩薩」と呼ばれていることに注目し、それによって、「和上」であると同時に「菩薩」であるという徳一の位置が当時の宗教界においてきわめて独自なものであることを示唆したのである。

 つまり、小林によればまず和上号は、高僧という一般的な意味を超えて、受戒作法における戒師の意味があったのではないかという。徳一は鑑真によってもたらされた受戒の作法を引き継いだということになる。小林はこれによって会津慧日寺の北西にある噴丘状の丘が「戒壇」と呼ばれていることを位置づけた。さらに小林は徳一が菩薩と呼ばれた理由を当時の菩薩号をもった僧侶たちとの比較の中で論じ、彼らが持戒・山林修業・修学の深さなどを根拠にして治病・教化・土木工事などの力を発揮した人々であることを明らかにしている。

 小林の論文で確認できる限りではこのような僧侶は外には存在しないかのようにみえる。おそらく、このような位置こそが徳一が最澄に対してあれだけ激しく論難を加え、最澄も本気になって反論するという事態をもたらしたのではないか。

 私は、これを宗教史の問題として論ずる能力はないが、しかし、このような独自な徳一の性格にはやはり徳一の俗的な出自や社会的な地位の問題があったのではないかと思う。つまり、実は、私は、徳一の出自は藤原仲麻呂の子であるという『尊卑分脈』の記載は採用するべき余地があるのではないかと考えるにいたったのである。仲麻呂とは、いうまでもなく恵美押勝、氷上塩焼をかついで孝謙女帝に対して蜂起した当の人物であり、これは徳一の伝記研究を最初に論じた塩入亮忠「徳一法師雑考」が「差支えないと思う」という消極的な形ではあるが、ともかく真理性を認めたほかは、まったく否定されている見解である。園田香融「恵美家子女伝考」(同『日本古代の貴族と地方豪族』所収、初出一九六六年)、高橋富雄『徳一と最澄』(中公新書、一九九〇年)、岸俊男『藤原仲麻呂』(吉川弘文館、1969年)などの碩学の先行研究は、これにまったく取り合っていない。また、右にふれた小林崇仁の論文も、この点については従来の通説を受け継いでいる。

 しかし、私は上記のような「和上」にして「菩薩」という徳一の独自性の根拠を問うという観点からすると、もう一度考慮してしかるべきものと思うのである。これが、あくまでも推論に過ぎないということは認めざるをえないが、しかし、この点、およびそれに関わる論点にだけふれるということならば、どうにか考えを固めることができるかもしれないと感じ始めたのである。そういうことで、以下、調査不十分なまま推測も多いものであるが、ともかく責めを果たしたいと思う。

2015年5月 2日 (土)

歴史学のすすめ

 「基本の30冊」(日本史研究)人文書院、という本を書いているが、ようやく終わりつつあり、最初の部分を書いた。歴史学のすすめのような文章になった。
 
 歴史学は若く新しい学問である。歴史学らしい歴史学、つまり史料の堅実な操作にもとづいて歴史の変動の総体を考察する歴史学の成立は、人文社会科学の中でもっとも遅く、ヨーロッパでも19世紀からである。しかし、日本の歴史学はもっともっと若い。

 つまり、日本の歴史学の場合、その本格的な学術的出発は1960年代、今から約50年前のことにすぎない。私は、日本史研究の分野でそれを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズだと思う。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に愛着がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫『奈良の都』、佐藤進一『南北朝内乱』、永原慶二『下克上の時代』、そして佐々木潤之介『大名と百姓』などである。このシリーズの著者は、ほとんど、1962年に刊行が開始された岩波書店の『日本歴史講座』(第一次)の執筆者でもあって、ようするに、この二つの企画のなかで、日本史の研究は、はじめてその学問としての実力を明らかにしたのである。

 こういうと、第二次大戦直後のいわゆる「戦後派歴史学」を無視するのか、そこには学問としての実力を認めないのかという反対意見がでるかもしれない。しかし、「戦後派歴史学」は、学問としての成熟ということになると、なかなか厳しいものがあった。もちろん、石母田正、安良城盛昭、江口英一、井上清、遠山茂樹など、戦後派歴史学の代表者たちの仕事は、その時期の歴史学の水準でみると、一頭地を抜いており、魅力にあふれている。とはいえそれは成熟したものというよりも、いわば歴史学の青春時代の輝きであったのだと思う。

 そもそも、第二次大戦より以前には、厳密な意味でのアカデミーとしての歴史学、つまり歴史学の専門性をふかめていくための史料などの研究手段を共有するための、施設も、人員や予算もなかった。たしかに東京大学に史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、狭い意味での国家的な史料の収集・編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。その上、「皇国史観」といわれた戦争のための「史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈であった。ようするに、史料は十分に公開・蓄積されておらず、皇国史観の下で研究の自由が限られるという状態が19世紀後半から1945年まで続いていたのである。そのなかで、歴史学の発達がきわめて偏ったものとなったのは当然であった。

 第二次大戦後の歴史学は、こういう状態を引き継いで始まった。まずは「皇国史観」の重圧から解放されて、普通の学問をやることに慣れ、研究の方法論を組み立て、それを時代や専門分野をこえて交流するということが、ようやく1950年代後半から始まり、そしてどうにか専門的な歴史学研究の体裁が整ったのが、1960年代であり、それを象徴するのが、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』だったのである。

 それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかという意見もあるかもしれない。しかし、歴史学は、ともかく時間がかかる学問である。まずは(1)歴史の本に興味をもつことに時間がかかる。そして(2)史料の読み方に慣れなければならない。さらに(3)歴史学は一種の雑学なので他の学問分野の仕事にも目が届くようにしなければならない、そして(4)何よりも多数の細かなことを論じた論文、研究書を読み抜かねばならず、最後に(5)歴史理論を組み立てていかなければどうにもならない。本書では、30冊の本を選んで、この(1)から(5)に割り振って、「読書の初め」「史料の読み」「学際からの視野」「研究書の世界」「研究基礎ー歴史理論」という順序で紹介していくが、ともかく相当の手間なのである。

 それは、人生と同じように、一歩一歩、進んでいくほかない。しかも、歴史学は過去のなかを歩く学問であるから、そこには決まった道はない。一歩一歩、迷路の中を歩き倒して、過去の世界のなかに蟻のようにもぐりこみ、それがいつかつながって広い道になり、過去が誰にでも見えるようになること、「宇宙の晴れ上がり」ならぬ、「過去の晴れ上がり」を期待することで生きていくほかない学問なのである。私たち歴史学者は、過去が誰にでも見えるようになることが、現在の人類社会と世界史にとってどうしても必要であるという確信の下に進んでいる。

 歴史学はまだ若いということに誇りをもっているのは、そのためである。そして若いということは、何よりも、やるべき課題が無数にあるということである。現在の日本国家は史料や歴史学、歴史的伝統を大事にしているとはとてもいえず、学術自体の基礎も大学の予算・定員が削られっぱなしという状態である。そういう中で、職業としての歴史学に進もうという場合、あるいは他の学問よりも、生活の見通しは厳しいかもしれない。

 しかし、現在の日本は、どのような仕事でも、若者の相当部分が非正規労働につかねばならないという異様な状態である。こういう事態は、ほぼ20年前から起きたことで、それがなぜ起きたのか、少なくとも歴史学はそれを明瞭に伝えることはできる。歴史学は諸学の下支えをしなければならない関係上、過去を総合的にみる能力は養うことができる。そして、この歴史学の力は、個人個人にとっても、自己の時間を振り返る方法に転用できるものである。歴史学は、自分の誤りを承認し過去を客観視する知の力を養うという点でも有効なように思う。歴史学は、権威も財力ももたないが、しかし、生きる力を、かげから支えることはできるのである。

 ともかく、歴史学において、やるべき仕事は数限りなくあり、覚悟を決めた人手はいくらあってもたりない。本書は、それをわかっていただくために書いた。何歳から始めても、中年になっても、定年後になっても、いま始めれば、人生の時間はたっぷりである。歴史学の研究はやり方になれれば、そう金もかからず、また誰でも一級の仕事が担える仕事である。その仕事場をぜひのぞいていただきたいと思う。

 さて、ともかく歴史学は具体的なことに取り組まなければ仕方がない学問である。これ以上のことについては、右の(1)から(5)、「読書入門」から「研究基礎ー歴史理論」の各部のとびらのページで、少しづつふれたので、そちらを参照願うことにしたいと思う。


 ただ、そうはいっても、歴史学という学問は、やはり変わった学問である。研究に入っていくと、「これは一体どういう学問なのか」と考えることは多いと思う。そこで最後に、何かの役に立つことを期待して、そういう時に私が参考にしてきた本を紹介してみたい。

 まず定番の本は、E・H・カー『歴史とは何か』であろうか。カーは一流の歴史家だから、参考になる部分も多いが、しかし、この本は1950年代のイギリスの歴史学の状況に即して書かれた本であり、理論も本格的なものではないので、いま読む本としてはお奨めできない。むしろ、できればまず三木清『歴史哲学』に取り組まれるのがよいと思う。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、第二次世界大戦の終戦から一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子、新カント派から出発して、ドイツに留学してハイデガーに師事し、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この『歴史哲学』しかないといわれている。

 上で説明した「戦後派歴史学」、つまり、日本の歴史学の青春の時代を代表する研究者であった日本史の石母田正、西洋史の大塚久雄は、三木を通じて歴史学、社会科学の方法論を身につけたという。三木の『歴史哲学』は難解をもって知られるが、西田幾多郎の哲学と同じで、詩のように読んでいればどこかで役に立つと思う。いわばご先祖さまのようなものであるから大事にしてもバチはあたらない。

 私の場合、その次は、太田秀通『史学概論』(学生社、1965年)であった。太田はギリシャ史の大家、私たちの世代では、その理路を尽くした文章に励まされて歴史学の道を歩み始めた人びとは多い。章節の題名だけを掲げると「歴史に対する懐疑」「歴史意識の発展」「実証的科学としての歴史学」「精神的生産としての歴史研究」「歴史研究の構造(研究材料・研究手段・研究主体)」「歴史研究の過程(問題提起・研究作業・叙述)」「歴史学の社会的機能(イデオロギーとしての歴史学・歴史学の存在理由・歴史学の社会的有効性)」「人間の科学としての歴史学」ということになる。私は、ここに「歴史学は一体どういう学問なのか」ということについての、最初の答えがあると思う。

 残念ながら、いまこの本は絶版となっているので、その最終章「人間の科学としての歴史学」の末尾を、以下、長くなるが引用しておきたい。

「人間と生まれてだれしも悔いのないうちこめる生き方をしたいと思う。ひたむきに生命をうちこめる生き方をしたいと思う。誠実に恋を成就し、愛情と仕事とを二つながら完成したいと思う。美を愛し真理を尚び、できれば静かで平凡な幸福の中でひとすじ道を進めたいと思う。苦難にあっても自ら運命を切り開いて進もうと思う。豊かな心をもって醜いままのこの人間を愛し、人間性を最後まで信じようと思う。人生に光を求めて苦悩した人々を理解し、現実ときびしく対決して人類の教師となった人々を尊敬し、虚偽と戦い、ヒューマニズムに生きようと思う。絶望の中で生きる力をあたえる智恵と愛情がほしいと思う。学問以前の問題は、ぼくは(あるいはわたしは)いかに生くべきか、という具体的で切実な問題に集中してくる。これに対して、学問は、歴史学は、あるいは哲学は、どんな助言をすることができるであろうか。現実に対してどういう姿勢をとるか、ということと深くつながっている生き方の問題は、もとより学問の内容と関連してくる。だが、生き方の選択は、めいめいの自由意志に基づく決断によるほかない。学問以前の問題は歴史学と深くつながっているとはいえ、歴史学は、学問以前の問題に対しては、無力ではないまでも、決定的な力をもってはいない。
 生にとっては、歴史学が明らかにした歴史認識の総体が、かえって邪魔になることさえあろう。歴史を知らぬ人の幸福な生き方は、万巻の史書を恥じしめるであろう。歴史学は人の知らぬうちにその意識を規定している必然性を示すかもしれない。だがその必然性を知らないことほど、愛にも憎しみにも純度を高める作用をするものはあるまい。無知はある意味で生の美徳でさえあるではないか。分別くさい歴史知識は、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ! 地球をわがものにしたからとて、この魂を、この生を失ってはどうにもなるまい。すべての歴史を知ったとて、それで魂が高められ、それで生が高められたなどといえるほどの精神なら、何も生き方について悩んだり、光ほしさに泣いたりするにも及ぶまい。歴史知識の一切を放下して、はじめて現実に動かされぬ自己の立場を明確にすることができる。現実に対し常に異邦人としてさらりと関係しうるのには、歴史から超越した一者との秘密の関係に立って、これをのみ怖れと戦きをもって愛さなければならないのではないか、という考えもあるであろう。この思想を歴史学的に批判し、その社会的根源を示すことは困難ではない。しかし生にとって、そのような批判の何と空しいことか。
 人間は社会的存在であり、未来への扉はみんなで開けて入らなければならないことは当然である。しかし人間は、社会的生産が個人の労働から出発することが示すように、何よりもまず個体である。個体であるとは、それが一つの全体であり、小宇宙であるということである。そのようなものとして、同じような汝と区別されるところに、個体であることの意味がある。人は最愛の恋人の手の傷の痛みを、どれだけ愛していたからといって、わが身に感じることができない。それは愛情にとって我慢のならぬことである。だがそれが個体としてのさだめであり、それだからこそまた愛情は人間を高める不滅の星となることができる。
 この個体である人間の、悔いを知らない、報いられなくとも満足できる、そのようなひたむきな生き方、そのような生き方を可能にするところの生命の燃焼、それを’何’のためにということが、個体としての人間の小宇宙を賭した生き方の問題の核心である。しかしこの’何’は、どのように高貴な’何’であっても、たとえば人間にとって最高の存在である人間の歴史の発展にそった解放ということであっても、外から示されただけでは、個体の生命を燃やす’何’とはならない。ここで問題なのは、’何’の質ではなくて、その’何’が何であれ、そのために力をつくし思いをつくし、そのために生命をすて、そのために生涯をささげて悔いないということではないか。騒がしい饒舌の知識は去れ。小宇宙の静かな星雲がひとりで形をとるのを待て。人は自らの苦悩を自ら征服しなければならないのだ。
 これが人間としての生き方の問題である。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。
 ――ひとりで開けて入れ。」

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