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2015年5月13日 (水)

ネパールの大地震と仏典の地震

 ネパールの大地震が余震もあってたいへんな様子である。
 先日、「小学校でプレートテクトニクスを教えよう。ーネパールの地震のこと」という記事を書いた。これはネパールの地震の発生機構が、インドプレートが毎年5/6センチ北上してユーラシアプレートに衝突していることを原動力とするものである以上、日本で地震が発生する条件にとっても他人事ではないというのを書いた。

 インド亜大陸、ネパールと日本は無縁の場ではないということをもっともっと考えなければならないと思う。それがグローバルということの実態のはずである。

 グローバルというと、すぐに軍事的な事柄を考えるのはやはり無知の象徴だろう。しかし、それが社会からしみ出してくるように了解されるためには、文化全体の説得力をグローバルなものにまで高めるのが必要である。

 そこでもう一つ思うのは、仏典に頻出する地震の原点は、釈迦の誕生したシャカ国が現在のインドとネパールの国境地帯のヒマラヤ山麓にあったこととは関係しないのかということである。インド亜大陸南部には大きな地震はあるのかどうかがまず問題であり、インドで地震の歴史史料がどうなっているかという問題にも関わる。これは素人がいっても仕方がないことだとは思うのだが、インド仏教史の人にきいてみたい。

 そもそも、仏典には、地震に対する言及が多いのである。たとえば、『金光明経』(巻二)に描写された「災異」は、「疾疫・彗星・大地震動・暴風・飢饉」などと描写され、この時代の様子そのものをさしているのではないかとさえ思わせる。しかも鳩摩羅什(三四四~四一三)が翻訳した『摩訶般若波羅蜜経』(巻一)には「世尊」が「獅子遊戯三昧」に入れば、その「神通力」で六種の震動を自由に起こすことができ、すべてが不定であることを教え、衆生を解脱させることができると書かれている。また『大方広仏華厳経』(巻四十六)にも、仏の「十自在法」の一つとして「六種震動」を自在にあやつる能力がみえ、『大方広仏華厳経疏』(巻八)によれば、この仏の「神力」は、第一に「諸魔」を制圧するためであり、第二に衆生を迷いから解き放つためであるという。これらは仏教がもつ災異を払いのける力を描いておりきわめて雄弁である。

 仏教の聖教を翻訳した中国大陸中心部には大きな地震は少ないから、これはインドの仏教自体のなかで、養われてきた観念ではないのかと思う。そうだとすると、やはりネパールの地震というのはシャカ以来の問題、仏教にとっても根本的な問題となるのではないか。これも小学校で語ってよいことなのではないか。少なくとも日本の仏教文化というものを考える上で重要な問題ではないのか、ということである。

 聖武天皇のたてた東大寺大仏は、上記の華厳経にもとづいて、折から発生した河内大和地震に関係して発願されたというのが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書いたことであるが、こういう問題は細かく知っていてよいことなのではないかと思う。


 すべてを根本的に考え直さなければならないのではないだろうか。

 やはりその一つの基礎はプレートテクトニクスの学説だろう。

 石橋克彦氏の『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)によれば、インドプレートの衝突によって、中国大陸が東へ押し出され、それを原動力として日本列島にむけてアムールレートが東進してくるのだという。これを考えることによって、南海トラフ大地震は、このアムールプレートの東縁部、つまり北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造線沿いに発生する地震と一連のものとして分析できるというのが、石橋の「アムールプレート東縁変動帯仮説」である。
 
 これらをふくめて、地震や噴火について、小学校・中学校・高校で、どういうように、どういう順序で教えていくかを真剣に議論すべきだと思う。私はプレートテクトニクスを早い時期からカリキュラムに入れることが決定的だと思う。

 なぜ、ジャーナリズムは、そういう問題提起をしないのであろう。日本のジャーナリズムは前進的な問題提起をすることが少ないのではないか。政治や社会のあり方について一歩、離れて議論することは大事であろうと思う。しかし、社会にとって緊要な問題というものを前進的に議論し、誰でもが賛成できることについて、しかし、それを実現するためには実際には覚悟と配慮がいるという問題について、集中してキャンペーンを張っていくということはもっとできるのではないか。


 以上については、このブログで、上記石橋克彦著書、および平朝彦の著書に関係して書いたことがあるので参照願いたい。

 また、私は一昨年、地震研究の国家プロジェクトの基本を策定する文部科学省の委員会の委員をやったが、そのときに議論して答申に入った、地震・噴火の学校教育における扱いについての文章も下記に引用しておく。ただ、この文章では抽象的すぎたかも知れない。

「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について、建議」(平成25年11月8日、科学技術・学術審議会)」
(5) 社会との共通理解の醸成と災害教育
国民や行政機関の担当者などに,防災・減災に関連する地震・火山現象の科学的知見や,現在の地震・火山の監視体制,予知や予測情報の現状を正しく認識してもらうため,関連機関が協力して,研究成果を社会に分かりやすく伝えるための取組を強化する。その基礎として学校教育や社会教育などに,地震・火山噴火についての豊富で体系的な情報を,自然科学的知識のみでなく,災害史や防災学など人文・社会科学分野の知識も含めて提供する。

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