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2015年5月25日 (月)

ポツダム宣言と原爆投下

 ポツダム宣言と原爆投下に関わって、武田清子『天皇観の相剋』の紹介を再掲します。秋頃までには人文書院発行予定の『日本史の30冊』に掲載される予定です。私は母校、国際キリスト教大学で、武田先生の指導をうけましたが、先生の研究が、この問題についての基本研究です。
 この問題の経過は、私のような、奈良・平安時代というはるかな昔を研究している歴史家にも周知のもの、歴史家ならば周知のことで、最近の国会での首相の発言は、歴史家のコモンセンス、常識と日本の政治家の意識が、いかに隔絶しているかということをよく示していると思います。


武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)
 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。それは第二次大戦後の国際情勢の中で作られたものであって、それ故に、現憲法における天皇の位置を歴史的に考察するためには大量の外国語史料の蒐集と分析が必要である。
キリスト者の戦争期経験
 本書は、その初めての試みである。今から40年前にこれが可能だったのは、著者が国際キリスト教大学教授に就任後、1965年から2年間、プリンストン、ハーバートの両大学で過ごす機会をもてたためであった。武田は、このとき、アメリカの対日政策の中心にいたジョセフ・バレンタイン(国務省極東部長)、ユージン・デューマン(戦前のアメリカ大使館顧問)、さらに学者ではヒュー・ボートン(近代日本史、ハーバート大学長)、さらにはエドウィン・O・ライシャワー(駐日大使、ハーバード教授)などにインタビューを重ね、しかも彼らのアドヴァイスによって、多くの史料を蒐集することができた。
 実は、私は国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、著者の自伝的メモによれば、武田は何人もの男衆をかかえた関西の古い地主の家で、生け花や琴などの生粋の日本文化のなかで育った。しかし、母の薦めで、ミッションスクール神戸女学院に入学し、大学部三年のときに受洗したことが人生の転機となった。浄土真宗の信者であった母は信仰に入る以上、一生涯それを守り抜けるかと質した上で、それを容認したという。
 受洗の前年、1937年には、キリスト者に対する圧力が強まるなかで、同志社大学総長湯浅八郎が辞職させられ、東京大学では矢内原忠雄が経済学部教授の職を追われるという時代である。そのなかで、著者は、20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事するという道を歩んだ。武田はニーバーにアメリカに残ることを進められたが、日本に戻って苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。こういう経験のなかにいた武田にとって、敗戦前後の時期、世界各国の政府、要人、学者らが、天皇制をどう扱うべきかについて考え、行動した同時代史は他人事ではなかったのである。
アメリカ国務省の知日派ーージョセフ・C・グルー
 検討の出発点は武田が身にしみて知っていたアメリカの世論である。1945年6月のワシントンポストの報じるギャラップ世論調査では、天皇の扱いについて処刑(33%)、裁判(17%)、終身刑(11%)、追放(9%)があわせて70%。回答なし(23%)を除くとほとんどが強硬処置であった。
 アメリカ政府国務省内には日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループと「知日派」とされるグループが存在した。彼らは、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動していたエリートたちであるが、前者でよく知られているのは、有名な中国研究者のオーウェン・ラティモア。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留するように提案している。後者の代表が、前駐日大使のジョセフ・C・グルーである。彼は、日米開戦によって、6ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに、宣教師などとともに送還船に乗せられ、1942年7月20日、モザンビークで、アメリカから送還された日本大使などの一行と交換という形で、ようやくアメリカにたどり着く。武田は、後者の日本大使などと一緒だったから、グルーとすれ違っていることになる。
 帰国したグルーは、アメリカ全土で日本の戦争体制の暴圧と狂気を講演してまわったが、日本の敗戦が決定的になった時点で、アメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、天皇制の廃止はさけるべきであるという主張を展開した。グルーは天皇制自体をどう扱うかは日本国民の選択に属する問題であるとし、その上で、天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であり、その権威を利用して日本の降伏と占領を、これ以上のアメリカ軍人の犠牲がないように進めるべきであると主張したのである。このようなグルーの主張は、グルーが1944年5月に国務省極東局長、年末には国務次官になって明瞭に打ち出され、以降の対日占領政策を規定することになった。
 重要なのは、グルーと原爆投下問題との関わりである。つまり、1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は、君主国であることを否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくするという説得であって、トルーマンは、一時それに賛成し、グルーの提案は、ポツダム宣言の草案にも「(日本が)再び侵略を意図せざることを世界が納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする(This may include a constitutional monarchy under the present dynasty)」と記入された。
 しかし、アメリカ軍部は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいた。彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったに違いない。グルーの提案は、結局、原爆の投下を優先する国務長官バーンズと軍部、そしてトルーマンの意思によって潰えたのである。とはいえ、グルーは必死に行動し、最後は7月17日のポツダム会談に出席するために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにその所信を述べたメモを突っこむという「執拗なまでの熱心さは異常なほど」であったという。しかし、ポツダム会談の前日、7月16日、ニューメキシコにおける原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。上記の宣言草案の一節は正文には反映しなかったのである。
 当時の天皇制政府が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものを何よりも優先していたことはよく知られている。そのため、降伏しか道がないことを知りながら、政府は無意味な躊躇によって時日を空費し、ポツダム宣言の受諾は原爆投下後にずれ込んだ。この間、沖縄では壮絶な地上戦が展開され、県民の4人に一人が死去するという惨禍をもたらしたことは忘れてはならないことである。
 陸軍長官スティムソンは、翌年、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、もし最初のトルーマンの判断が維持され、もう少し早い時期に、降伏後も日本の君主制は保持されうると発表していたならば、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」という忌まわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。
終戦の経過を正確に認識する意味
 この経過は、本書の「天皇か原爆か 日本の無条件降伏の鍵」という章で初めて明らかにされたのであるが、これを正確に認識しておくことは、いまでも当事国にとっては必須のことであろう。とくに私が注意しておきたいのは、これが政治史だけの問題ではないことである。つまり、本書のあとがきで、武田は「青年期の思想的苦悩と深い関係をもつ問題であったがゆえに、近代日本における天皇制の問題に切実な関心をもってきた一学徒として、’敗戦と天皇制’の問題をめぐってあとづけたこの小著を、今日、青年期にある息子と、そして同じ世代の、戦後に生まれ育った若い人々に対して、私どもの世代から伝達しておきたい一つの記録としておくりたいと思う」と述べている。武田が本書を執筆した背景には、キリスト者としての戦争期体験をふまえ、天皇制をめぐる日本「土着」の価値観というものをどのように読み解くかという内発的欲求があったのである。
 武田はそういう立場から、「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場として、相当の頁数を使って、日本で過ごし、この国を愛した欧米人の日本観を紹介している。たとえば、日本で生まれ育ち、朝鮮で医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストラリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。武田はこれらを専攻の近代日本思想史に位置づけているが、そのほかにも本書は多くの示唆をふくんでいる。
 もちろん、本書はすでに40年前のものであり、参考文献にかかげたような新しい研究を参照しなければならない。また本書でもっとも欠けているのは中国・朝鮮・ベトナムなどのアジアからの視座であろう。著者も認めているように、それは当時の世界政治のなかで大きな位置をもっていた「社会主義」の動きをどう評価するかという問題にも関わってくる。現在、日本のコミュニズムの側からも、この時期の国際政治におけるスターリンの異様にして巨大な罪悪が史料にもとづいて明瞭に描かれるようになっているが、私が国際キリスト教大学で武田の指導をうけていたころ、すでに武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが「20世紀社会主義」の全体主義的性格を強く批判していたことは記憶に新しい。こういう問題においては、時は過ぎ去らないものだと思う。
 歴史学においても、20世紀の歴史のすべてをあらためて見直すべき時期が来ていることは確実である。

参考文献
荒井信一『原爆投下への道』(東京大学出版会 、1985年)
中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』(岩波新書、1989年)
藤村信『ヤルター戦後史の起点』(岩波書店、1985年)
不破哲三『スターリン秘史』(新日本出版社、2014年)

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