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2015年5月 3日 (日)

「徳一菩薩を仲麻呂の子と考え、さらに論じて藤原秀郷の家系に及ぶ」

千葉史学会での報告について
 千葉史学会で「徳一菩薩を仲麻呂の子と考え、さらに論じて藤原秀郷の家系に及ぶ」という講演をやることになった。
2015年5月17日(日)
場所  千葉大学大学院人文社会科学研究科棟1階
マルチメディア講義室
(千葉市稲毛区弥生町1-33千葉大学内)
 私の講演は、15:00からである。
 用意を始めた。

 変わったテーマだが、これはある大事な人から、「徳一菩薩」についてどう考えるか、正確な意見を聞きたいということだったので、とても断れず、考えてきたことである。この経過について、報告のためにかいた文章があるので、それの最初を以下に載せる。

 正直、これは困ったと思った。徳一をどう考えるかは奈良仏教から平安時代の顕密仏教への移りゆきをどう考えるかに関わっており、おそらく日本仏教史のなかでもっともむずかしい問題の一つではないかと思う。実際、何でも書いてある辻善之助の『日本仏教史』第一巻にも、たった六行の記述があるだけでまったく頼りにはならないことはそれを象徴している。

 最初に考えたのは、ともかく基礎史料となる最澄の経論を読まねばならないということであった。歴史家としてはずかしいことであるが、仏教の勉強も仏教史の勉強も本格的にしたことのないものにはたいへんな重荷である。しかし、お断りすることもできず、ちょうど定年のころであったので、そこから勉強をする積もりで御引き受けした。私はおもに社会史・経済史の研究をしてきたが、長く京都大徳寺・真珠庵・徳禪寺の文書の編纂をしていた。そのなかで徐々に禅宗への興味が高まってきたので、定年後の研究分野の一つとして仏教史に関わることも考えたいと思っていたのである。

 そういうことで、ともかくも基礎勉強であるという気持ちで、岩波書店からでている日本思想大系の一冊、『最澄』に何度か挑んだのだが、これを理解し、通読してノートを取るためには、仏教を一から学ばなければならないことを痛感した。そして、ちょうど、そのころ、私は今年二〇一五年からはじまる地震火山の災害予知の五ヶ年研究計画を立案する文部科学省の委員会の委員を依頼され、ともかく災害予知のための地震の歴史史料の蒐集・研究という問題に忙殺されることになった。委員の仕事は終わったものの、この問題が、日本の国土と歴史にとって重大な問題であることを痛感するなかで、地震や火山噴火についての研究を優先せざるをえなくなって、現在にいたっている。

 以上は、お答えが遅れたことの弁解であるが、ただ、その間にも徳一の研究が進み、とくにこれまでの研究を網羅的に検討して、新しい宗教史的視点を開いた小林崇仁の論文「菩薩としての徳一」(『蓮花寺佛教研究所紀要』第七号、二〇一四年)が発表されたことは私にとって幸いであった。小林は、徳一が最澄の『守護国界章』において「和上」と呼称され、空海の書状(『平安遺文』四四〇七)においては「菩薩」と呼ばれていることに注目し、それによって、「和上」であると同時に「菩薩」であるという徳一の位置が当時の宗教界においてきわめて独自なものであることを示唆したのである。

 つまり、小林によればまず和上号は、高僧という一般的な意味を超えて、受戒作法における戒師の意味があったのではないかという。徳一は鑑真によってもたらされた受戒の作法を引き継いだということになる。小林はこれによって会津慧日寺の北西にある噴丘状の丘が「戒壇」と呼ばれていることを位置づけた。さらに小林は徳一が菩薩と呼ばれた理由を当時の菩薩号をもった僧侶たちとの比較の中で論じ、彼らが持戒・山林修業・修学の深さなどを根拠にして治病・教化・土木工事などの力を発揮した人々であることを明らかにしている。

 小林の論文で確認できる限りではこのような僧侶は外には存在しないかのようにみえる。おそらく、このような位置こそが徳一が最澄に対してあれだけ激しく論難を加え、最澄も本気になって反論するという事態をもたらしたのではないか。

 私は、これを宗教史の問題として論ずる能力はないが、しかし、このような独自な徳一の性格にはやはり徳一の俗的な出自や社会的な地位の問題があったのではないかと思う。つまり、実は、私は、徳一の出自は藤原仲麻呂の子であるという『尊卑分脈』の記載は採用するべき余地があるのではないかと考えるにいたったのである。仲麻呂とは、いうまでもなく恵美押勝、氷上塩焼をかついで孝謙女帝に対して蜂起した当の人物であり、これは徳一の伝記研究を最初に論じた塩入亮忠「徳一法師雑考」が「差支えないと思う」という消極的な形ではあるが、ともかく真理性を認めたほかは、まったく否定されている見解である。園田香融「恵美家子女伝考」(同『日本古代の貴族と地方豪族』所収、初出一九六六年)、高橋富雄『徳一と最澄』(中公新書、一九九〇年)、岸俊男『藤原仲麻呂』(吉川弘文館、1969年)などの碩学の先行研究は、これにまったく取り合っていない。また、右にふれた小林崇仁の論文も、この点については従来の通説を受け継いでいる。

 しかし、私は上記のような「和上」にして「菩薩」という徳一の独自性の根拠を問うという観点からすると、もう一度考慮してしかるべきものと思うのである。これが、あくまでも推論に過ぎないということは認めざるをえないが、しかし、この点、およびそれに関わる論点にだけふれるということならば、どうにか考えを固めることができるかもしれないと感じ始めたのである。そういうことで、以下、調査不十分なまま推測も多いものであるが、ともかく責めを果たしたいと思う。

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