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2015年6月 5日 (金)

憲法解釈は政府の裁量の範囲内?

 6月4日、衆議院の憲法審査会で、立憲主義をテーマにして、各政党が協議して招致した参考人からの意見聴取が行われた。自民・公明が早稲田大学教授長谷部恭男、民主が慶應大学名誉教授小林節、維新が早稲田大学教授笹田栄司の諸氏を推薦したというのが人選の経過である。

 ところが、その意見陳述のなかで、全員が集団的自衛権による戦争参加の法案について違憲であると述べた。これはようするに、これが憲法学会の一般的意見であるということである。

 ところが、今日の東京新聞によれば、自民党からは、私の受け止め方でいえば、ようするに「学者とは意見が違う。気にするべきことではない」という意見が一般的である。

 引用すると下記の通りである。「憲法解釈は政府の裁量の範囲内と考え、これをもって憲法違反にはならない」(中谷元防衛相)。「憲法学者はどうしても(戦力不保持をさだめた憲法九条二項の字面に拘泥する」(高村正彦自民党副総裁)。「憲法学者には自衛隊の存在は違憲という人が多い。我々とは基本的な立論が異なる」(谷垣禎一自民党幹事長)

 こういう発言にはやはり驚く。憲法解釈は現政府の裁量の範囲内であり、現政府構成員が行うもので、憲法学者の意見には拘泥しないという訳である。

 これは現政府は学者というものが嫌いなのであるというようにまとめることができると思う。現在、現政府は、大学から人文系の学部、教員を少なくするという政策をだしているが、それは予算だとか、大学と産業界の関係のあり方だとかの問題でなく、ようするに人文社会系の学問とはそりがあわないのであろう。いかし、それをここまではっきりいうことには驚く。

 私は歴史学者なので、先日の「「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」と同じことだと思う。この声明は日本の歴史学者の普通の意見を代表している。この声明の筆頭に署名している日本歴史学協会(委員長、駒沢大学学長広瀬良弘)は、日本の歴史学を代表する学協会で、各地・各大学の学会から委員が選出され、学術会議の直下に位置する存在である。この声明は現政府の「「慰安婦」問題」についての認識と政策を批判したものであって、このような歴史学界の意見も、現政府によって、これまで「学者とは意見が違う。気にするべきことではない」という扱いをうけてきたものである。

 ようするに現政府は法学界・歴史学界とは根本的な問題でまったく意見が違うという政府なのである。これは議会制民主主義のシステムをもつ今日の世界の諸国家のなかできわめて珍奇なことであると思う。

 ここで問題になった二つの問題については、おのおの、社会には、いろいろな意見があるだろう。国民が、「学者のいうことは信用ならない」と考えることは自由である。しかし、政府がそうであるというのは、それとは違うことだ。

 もちろん、そもそも、日本では、政治家と官僚と学者は仲が悪い。相互にうまく協力したようなことはきわめて少ない。

 しかし、法学界と歴史学界は社会人文科学の中心である。そことほぼ同時に二つながら根本的な意見の相違が明らかになり、現政府が「そもそも学者とは意見が違うのだ」というのは、やはり見逃せないことである。学者の側からいうと、現政府の重要な特徴がここにあるということを知っていただきたいと思う。

 社会を維持するためには、「法」を十分に意識すること、「歴史」に対して温故知新の立場をとることがどうしても必要なことだ。それに対して「彼らがいうことは気にしない」というのは、いくらなんでも文明国家として困ったことだと思う。

 何故こういうことになったのかは、それ自体、社会人文科学にとって根本的な問題である。以下は、学者固有の問題であるが、私は、法学界に対して若干のいいたいことがある。「だからいったことじゃないか」といいたい。現在の日本の政治は、基本的に「政治改革」という名をもって行われた、1994年、いまから20年前、小選挙区制の導入の結果である。国民の25パーセントの支持で、国会の多数を握ることが、それにより可能となった。また、「政治改革」という名目が、それだけで意味があるかのような雰囲気も醸成された。その時、日本の法学者のなかでは(とくに政治学者がひっぱった側面があるが)、相当の人々が、それに賛成し、少なくとも黙認したのである。

 今回の集団的自衛権による戦争参加の法案についても学界として発言する法学会は少ない。というよりも法学会は十分な学術的コミュニティを形成していないのである。こういう構造を法学会は正確に認識してほしいと思う。法学会にとって正念場がきている。

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