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2015年7月

2015年7月31日 (金)

安倍政治は、立憲主義の否定であるどころか「法治主義」の否定

 安保法案を考える上で、今日、BLOGOSにのった「安保法を通そうとしている国会議員には立法する正統性がない。一人一票運動の升永英俊弁護士が指摘」という記事はきわめて重要だと思う。
 中枢の一節を引用すると、下記の通りである。


去年の11月に出た最高裁判決で、5人の裁判官がとても重要なことを言った。最高裁の15人の裁判官のうち、「違憲状態だけど選挙は有効」と言った、我々からすると悪い裁判官が11人いたが、そのうちの5人が非常に重要なことを言った。その5人は判決の補足意見で、「違憲状態の選挙で選ばれた国会議員は国会の活動をする正統性がない」と言い切った。これは恐ろしいほど、重要なこと。選挙で選ばれたのに、国会活動をする正統性がないと言った。


私もそう思う。しかも現在の自民党は、先回の総選挙では、比例は自民党は33パーセントの支持であるから、国民のなかでの厳密な支持率、純得票率は17、16パーセントとである。

 最高裁の裁判官の3分の一が、国会議員に正統性がないといい、支配政党は2割以下の支持率である。そういう中で憲法(解釈)を変えようというのは、いくら何でも無理が多い。しかも、その行為を、当面憲法をかえるのは無理だからというのは卑怯もいいところである。人倫の許すところではない。

 どういう立場であろうと、この安保法案を潰すことは決定的に重要だ。国の形の基本がかかっている。これを許せば、いいかげんなことをやっても自由という風潮を認めることになる。国家というものは、どういう場合でもいい加減な扱いをしてはならないものだ。

 このような国会の構成を明瞭に変化させなければならない。議員は国民への奉仕者、国民の召使いである。その僭上を許してはならない。

 歴史家としては、この法案が通った場合は、現在の支配政党はアメリカの戦争協力を拒否せず、戦争に自衛隊を派遣することが目にみえている。そのような戦争を日本の戦争史のなかでどう位置づけることが可能なのかを考えてしまう。
 
 私は、第二次大戦に突入した日本国家の体制は天皇制ファシズムであるという、歴史学の古典的な定義に賛成である。もちろん、歴史学のなかでもファシズムの定義についてはいろいろな議論があるが、私は日本ファシズムは戦争先行形ファシズムであると考えている。一般には、Creeping Fascism(徐々に迫ってくるファシズム)といわれるが、どういう風に忍び寄ってきたかといえば、「満州事変」という戦争によって、また日清・日露以来の戦争によって、兵隊が従軍し、その戦争体験を自己合理化するという過程が先行したということである。これはCreeping Fascismという考え方と背反する訳ではない。戦争先行形ファシズムを明瞭に考えることによって、Creeping Fascismの姿も明瞭になるということである。

 現在の安倍政治がファッショ的手法をとっているというと、ファシズムという言葉は大げさである。「ファシズムなんで何のこと」という反応が返ってくる。しかし、ともかく戦争をすれば、その経験をさせれば、それに慣れさせることを先行させるというのが戦争先行形ファシズムなのである。
 そして、現在の安倍政治は、立憲主義の否定であるどころか「法治主義」の否定であると私は思う。「法的安定性」よりは国家中枢の判断を信頼せよ、そうでないのは偏っているというのは、古典的な「赤攻撃」である。そして法治主義の否定がファシズムの法的な規定としてはもっとも重要なものであることはいうまでもない。

 ただ、念のために確認しておきたいことは、そのことと、安倍政治がファシズムになりうるかどうかは別問題であるということである。ファシズムというのは思想ではないとしても「思想的」雰囲気がなければやっていけないものだ。そういう思想的雰囲気を現在の支配政党が作り上げることができるとは思えないのである。
 
 安保法案に賛同を表明する人々の考え方は、思想と言うべき内容を欠いている。国家主義ではあるが、それはほとんど官僚主義と区別できない。安倍政治がもってきたのは、実際上、中枢官僚が唯々諾々といわれたことをやっているからである。

 それは国家主義ではあるが、いわゆる「反知性主義」でさえないと思う。「反知性主義」は19世紀に一種の思想運動・宗教運動としてヨーロッパでうまれたもので、神秘主義、非合理主義となってヨーロッパファシズムをささえた。しかし、現在は、そのような思想としての「反知性主義」も存在する訳ではないと思う。

 「反知性主義」は知性の支配、テクノクラートの支配に対する拒絶、世間通常の「知性」を鼻にかける人々への嫌悪という点では、十分に存在の理由があるというのが、私の考え方。そのような反知性主義が「右翼」の基盤となるのである。その意味では「右翼」にも「右翼」の存在理由があるというのが私の考え方。

 しかし、現在は、日本には「右翼」は存在しづらい。つまり、現支配政党はアメリカべったりである。安保体制そのものがそうなのである。そういう中で、右翼というものが存在しがたい。そういう不思議な思想状況に、日本はある。

 最近、鈴木邦男氏の『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)を読んだが、右翼は本当につらそうだ。私は歴史家なので、古典的な左翼である(つもりである)。しかし、こういう問題では右翼も左翼も、保守も進歩もないと思う。

 問題をごまかし、曖昧にし、人倫に反する行動は許し難い。 

 以下は、再録。吉見義明さんの『草の根のファシズム』の書評である。戦争先行形ファシズムの概念をラストで論じてある。

吉見義明『草の根のファシズム』(東京大学出版会、1987年)
 アジア太平洋戦争ののち、だいたい三〇年が経過した一九七〇年代。多数の従軍・戦闘体験の記録が刊行され始めた。本書は、それらを戦争の時代状況のなかで丁寧に読みとき、戦争体験のもつ意味を構造的に論じている。

「昭和史」論争と本書の意味
 この国の歴史学にとって重大なのは、本書が「昭和史論争」といわれた歴史認識論争に対する回答となっていることである。この論争のきっかけは、アジア太平洋戦争の時代を描いた通史、『昭和史』がベストセラーとなったことであった。戦争中も反戦の姿勢を維持していた遠山茂樹が中心となった叙述には相当の迫力があり、『昭和史』は人々が自己の戦争体験を内省する「よすが」として大きな役割を発揮したのである。

 とはいえ、研究方法や史料の量と種類の限界もあって、『昭和史』は政治史を中心とした「骨組み」が目立ち、積極的に民衆個人の意識状況に踏み込むことはできなかった。これが「人間が描けていない」という、やや「ないものねだり」な批判を招いたのである。これらの批判には、歴史教育の目的は(国や共同体のための)「自己放棄」であるというような、どうかと思うものもあったが、『昭和史』の執筆者は誠実な姿勢をとって、叙述を全面的に練り直して『昭和史(新版)』を刊行した。今、この経過を見直してみると見事なものだと思う。

 しかし、それでも『昭和史(新版)』にはさまざまな限界があった。それを明瞭に示したのは松沢弘陽の懇切な批判であって、松沢は「新版」がなお抱えている欠陥として(1)多様に分化している民衆の存在を「国民という単一の概念」でくくったこと、(2)国民の絶対多数が積極的に戦争協力の道を歩んだことの内因分析が弱いこと、(3)被害体験にくらべて加害の歴史が描かれていないことなどを指摘した。これがその後の現代史研究の最大のテーマとなった事情については、大門正克編『昭和史論争を問う』が、右の松沢論文などの関係文献を収録しつつ、詳細にあとづけている。

 この松沢の指摘に対して、冒頭にふれた多数の従軍・戦闘回想記録の精細な読み込みによって、初めて真っ正面から答えたのが、吉見の本書であるということができるだろう。つまり、吉見は(1)戦争体験にかかわる民衆内部のエスニックな差別・分裂の様相を論じ、(2)「満州」や「南洋」に対して民衆が戦争利益を求め、実現し、そしてその欲望が潰える様相を描き、さらに(3)アジア・太平洋の民衆に対する利用・虐待・陵辱・殺害などの実態についても、そのいわば見取り図とでもいうべきものを描いたのである。これらが戦争体験記を書いた個人々々の「生」に対する周到な歴史理解を前提としていることは特筆されるだろう。

ファシズムと民衆の戦争体験
 まず第一章「デモクラシーからファシズムへ」は、一九三一年の満州事変によって戦争の雰囲気が社会をおおうなかでも、一九三六年の二・二六事件に対しては人々が強く反発したことを確認している。しかし、民衆は徐々に戦争の方向に流されていった。その根底にはアジアに対する優越的な「帝国」意識と、それと裏腹の関係にあった「天皇制自由主義」というべき政治意識の色調があったことが、人々の手紙や日記などの一次史料によって明らかにされる。衝撃的なのは決定的な影響をあたえたのが、従軍者の中国での戦闘行為そのものであったことである。出征者の戦死のみでなく、出征者の行った掠奪・陵辱・殺害行為への参加それ自体が、兵士の心を呪縛し、それが家族に及ぶ。こうして一九四〇年ころまでに、数十万の兵士が帰還するなかで、人々は本気になって戦争を支えはじめた。

 第二章「草の根のファシズム」は、これを前提として、天皇制ファシズムが確立する様子を論ずる。もちろん、それはストレートに進んだのではなく、一九四〇年代初頭には、戦争経済によるインフレ・物不足に対する民衆の不満が深刻な社会不安を招いた。このときまことしやかに米騒動の再来が噂されたという。しかし、結局、「欲しがりません勝つまでは」という世論が形成され、それが新体制運動に流し込まれた。人々はむしろ「真面目に」状況を理解してしまい、地域社会の内部にファシズムに響き合う状況が作り出されていったのである。

 このなかで植民地・占領地での生活、戦争状態の下での渡航と出征が一つの自然な風景となっていく。ここに「草の根のファシズム」と「戦場からのファシズム」とが相乗して強化しあうという天皇制ファシズムの「国際的」性格があった。しかも、この状況は、沖縄県人、アイヌ、ウィルタとチャモロ人、朝鮮人、台湾人に対する差別をも自然なものとうけとめるとい、北東アジア全域におよぶ民族的差別によって支えられていたという。この部分の記述は広範囲すぎて要約しがたいが、是非、一読されるべきものだと思う。

 第三章「アジアの戦争」は「インドネシアの幻影」「ビルマの流星群」「フィリピンの山野で」「再び中国戦線にて」という構成で、各地の戦争の悲惨と悲哀にみちた風景が順次に描き出される。まず戦争の「南洋」への広がりが過不足なく概観されている。日本史の研究にとっては、どの時代においても日本を南からみる視点、島尾敏雄のいうヤポネシアの視点を確保しておくことはどうしても必要だろう。私が想起するのは、大学院時代の師の一人、ギリシャ史の大家・太田秀通先生がビルマで負傷されて片腕を切断されたことである。歴史学を学ぼうという方には、その負傷の経過を記した文章の入っている『歴史を学ぶ心』を是非御読みいただきたいと思う。「南方」における戦争は、人々に戦争の利益を夢みさせたが、日本兵の戦死の大多数は、この地域における戦争末期の餓死であったこともよく知られている。

 吉見は、それにつけ加えて、この地域における日本軍の敗走が壊滅的なものであっただけに、敗戦後の現地社会との関係も多様となり、痛切な経験と反省が日本人意識の根底に及んだ場合も多いという。大岡昇平の『俘虜記』『レイテ戦記』などを読めばわかるように、そこでは「加害」経験の意味と悲惨な結果の捉え直しが行われる場合があったのである。しかし、これと対比して、勢力圏として日本軍が死守の体制をとっていた中国においては、群体が、完全な敗北と潰走・自壊以前に降伏した場合が多かった。吉見は、それによって、東南アジアとは違って、「自衛・聖戦」の意識の枠組が最後まで崩壊することなく、そのまま戦後にもちこされることが比較的多かったという事実を摘出している。

 最終章「戦場からのデモクラシー」は戦争体験がどのように戦後の民衆意識を規定したかという見通しのもとに、天皇制ファシズムへの民衆的な支持が「ひびわれる」様相が論じられる。アジア・太平洋における戦況が有利であるかのような誇大宣伝によって民衆的な支持を調達する仕組みは、サイパン島陥落以後、本土空襲のなかでまったく機能しなくなったが、しかし、それにもかかわらず戦争の呪縛は強く、大多数の民衆の戦意は崩壊の一歩手前で持ちこたえたという。そのために人々は敗戦とともに呆然とする状況に追い込まれたのであるが、しかし、人々の終戦体験は、実際には、「内地」と「外地」の相異、さらに戦闘経験や共犯責任の深浅、負傷や飢餓などの痛苦のあり方によってきわめて多様であった。

 問題は、その空隙をぬって、人々が、しばしば戦争経験を脇においてアジアに対する優越意識、帝国意識は維持し、日本再建に貢献するという明るい気持ちに切り替えるという変わり身の早さをみせる場合が珍しくなかったことである。こうして、戦争体験の特徴に規定された戦後民主主義が大きな限界をもっていたことが冷厳に指摘されるのである。

 しかし、他方で、吉見は、敗戦がたしかに「草の根のファシズム」からの離脱をもたらしたことも確認している。そこで大きかったのは、ともかく戦争は嫌だという「戦場からのデモクラシー」であって、それによって「戦場からのファシズム」に支えられた「草の根のファシズム」は駆逐されたという訳である。このような経過は、日本国憲法の示す「平和と民主主義」が単に一国に関わるものではなく、東アジア全域における戦争の惨禍によってあがなわれたものであったことを正確に示している。


天皇制ファシズムとは何か

 最近発行された吉見の新著『焼跡からのデモクラシー』は、それに引き続く終戦経験を論じたものであるが、ここではそれを紹介するのではなく、むしろ著者の天皇制ファシズム論を確認しておきたい。そもそもファシズムとは、暴力を中核にもって議会と法治主義それ自体を否定するデマゴーグ支配である。問題は、その支配が人間のもっとも野蛮で倒錯的な欲望を大衆的に組織することを鍵とし、その中枢には政治思想というよりも虚構に虚構を重ねる「神秘」と非合理の妄想世界があったことである。そこには強い偏見と排除の論理があり、しばしば身体的な差別や肉体的暴行への嗜癖、さらには殺人などの倒錯が巣くっている。私見では、ファシズムは大衆をその明示的もしくは暗黙の共犯者として動員する体制なのである。しばしばナチスが「下からのファシズム」であるのに対して、天皇制ファシズムは「上からのファシズム」であるなどと図式的に区別されることが多いが、両者は、この本質において共通する。『草の根のファシズム』の示した天皇制ファシズムの特徴は、それが戦争先行形ファシズム、つまり戦争の加害経験を中核として形成されたファシズムであったということであろう。そもそも天皇制ファシズムを推し進めた主体の中枢は軍部と、その下に組織された在郷軍人会であったこともいうまでもない。その意味では日本ファシズムは上からも下からも直接に戦争の色の濃い軍事的ファシズムだったのである。これが太平洋戦争が、ナチスをも超える様相をもって、国民全員を動員し、合理的な引きどころもない「無謀」なものとなった最大の原因である。

 よく知られているように、吉見は、日本の戦争史料が湮滅・秘匿されている最悪の状況の下で、さらに粘り強く研究を進め、「慰安所」の設置・拡大と女性の強制的な性奴隷化の実態を史料によって明らかした(『従軍慰安婦』)。右のファシズムの定義からも明らかなように、そもそも「従軍」性奴隷は、けっして部分的な問題ではなく日本の戦争体制、ファシズム体制において本質的な問題である。著者は、その強靱な学術的論理によって、その中核を究明することに成功したのである。

参考文献
遠山茂樹ほか『昭和史』(岩波新書、旧版一九五五年、新版一九五九年)
吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、一九九五年) 
同『焼跡からのデモクラシー』(岩波書店、二〇一四年)
大門正克編『昭和史論争を問う』(日本経済評論社、二〇〇六年)
太田秀通『歴史を学ぶ心』(青木文庫、二〇〇〇年)

2015年7月28日 (火)

「安保法案 東京大学人緊急抗議集会実行委員会」に賛同

「国会前へ!安保法案東大人緊急抗議集会」というサイトが立ち上がっていて、今週金曜7月31日には、本郷・駒場から安全保障関連法案に反対する学者の会とSEALSの共同集会が開かれる砂防会館にむけて無料バスが運行されるということである。

 政府、文部科学省は昨年8月に、全国の国立大学へ、「教員養成系、人文社会科学系学部の廃止や転換」を要請した。これは、実際上、大学全体を政府にとって邪魔者だといったに等しいことで、現在の支配政党は、大学と敵対するつもりである。大学が反撃にでるのは当然のことだ。

 しかし、こういうことは世界の普通の常識では考えられないことだ。こういう言い方をせざるをえないのは哀しいことだが、それが事実。これは現代的な形をとった焚書坑儒である。私はヨーロッパとアジアを二分し、宿命的に違う社会であると考える立場は決して取らないが、国家が社会を抑圧する仕方という点では、やはり一種のアジア的な乱暴さというものはあるように思う。
  
 私も、この動きの母胎となっている「安保法案 東京大学人緊急抗議集会・アピール実行委員会」の声明に賛同して、下記の賛同意見を送った。
 
 さて、31日にはいけるかどうか。来週からの一週間の出張とまた一つおいての地震関係の学会の出張などの都合で、とても時間がとれそうにないが。

 太平洋の上、空中と海面と海中に存在する武力はすでに膨大なものとなっている。それは戦争情報システムによって一体化しており、自働戦闘機、ドローンその他によって情報が兵器と直結する体制ができている。今回の法案によって、このアメリカと日本の軍事システムが法的にも、国家間関係としても固定されようとしている。しかも、沖縄の辺野古に巨大基地を作ろうという動きと、それはシンクロしている。世界中のテロと戦闘の火花を東アジアに引き込む導火線の設置を許してはならない。
 日本の大学にとって東アジアにおける平和は、決定的な意味をもっている。それがなくては大学と学術の発展はない。そこに立ち戻って大学全体で危機に対応することが必要と思う。 保立道久(東京大学名誉教授)

2015年7月22日 (水)

ユーカラの英雄と徳川時代初期の北海道火山噴火

 東北での講演「日本の国の形と地震史・火山史」を終えた。内容が多すぎたと反省しているが、噴火と地震の通史をわかりやすく話す要点は、噴火を中心にすえることかもしれない。
 一番、反応があったのは、「有珠山の大噴火とアイヌの姿の火柱」という話題であった。千葉大の津久井先生の『有珠山噴火史料集』を読めたのが大きかった。

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写真は帰路によった会津の磐梯山。

 その趣旨は下記のようなもの。

 江戸初期の大地動乱を象徴するのは、一六六三年の北海道有珠山の大噴火であろう。噴火で全山が焼けただれたとき、火口から人の姿をした炎が天に飛び上がったという噂であろう。その部分の史料を引用しておけば「焼山の中より夷のかたち成、長ケ壱丈斗の物、天へ上り可申と仕」「山二ツに破、大地震」ということになる。つまり「夷のかたちなる、長ケが壱丈斗の炎が一挙に天にむけて噴出したというのである。ところがその人形をした炎を追うようにして光る円盤状のものが二つ飛び上がり、人形のものを引き下ろすようにみえた途端、炎がくずれて山体に突き刺さり、山が二つに破れて大地震が起きた(『殿中日記』寛文三年八月二十日条)。山体は十分の二・三まで崩壊し、噴火湾沿いの六〇~七〇キロメートル、沖合まで五キロメートルほどの広い海面が火山噴出物によって陸地のようになったという巨大な噴火であった。噴火マグニチュードは五・四とされる(津久井雅志編『有珠山噴火史料集』)二〇一三年三月)。

 噴火の火柱を「夷」のかたちと見たのは、松前藩の武士や商人などがもっていたアイヌへの怖れの表現であったのではないだろうか。徳川幕府の成立とともに、松前藩は渡島半島の南半部を「和人地」として囲い込むと同時に、アイヌとの交易を城下や特定の「商場」にかぎってアイヌの生産物をの買い叩いた。これに対して、一六六九年、日高地方、静内の首長シャクシャインが呼びかけた大規模な蜂起が起こったことはよく知られている。有珠山の噴火がアイヌの人びとに何をもたらし、またアイヌの人びとが有珠山の噴火をどう受けとめたかの詳細はわからない。しかし、この噴火はシャクシャインの大蜂起の六年前であるから、倭人ーアイヌの緊張が、一路、高まっていた時代に起きたことは無視できないだろう。

 そもそも、この時期、一七世紀末から一八世紀にかけて北海道の南部で巨大な噴火が続いた。まず一六四〇年(寛永17)に北海道駒ヶ岳(M五・四)、そして一六六三年には右にみた有珠山、続いて一六六七年に樽前山(M五・四)、一六九四年に北海道駒ヶ岳と、北海道の噴火湾周辺で噴火が連続した。シャクシャインのいた日高地方からみれば倭人による北海道侵略の拠点となった地域が神の怒りに襲われているともみえたのではないだろうか。これはユーカラの英雄、ポイヤウンペが火山の噴火を象徴する火の女神を味方にする超人的な能力をもっている人物として描かれていることと無関係ではないだろう。

 シャクシャインは緒戦では優勢な闘いをしたものの、幕府軍の到着と鉄砲による反撃によって押し返され、さらに和睦儀式でだまし討ちにあい、この反乱は無惨な結果に終わる。こうして、北海道全土が松前藩の直接支配の下におかれ、アイヌ民族は、「商場」における交易相手という立場から、事実上、漁場における下層労務者の地位に転落したのである。これは原始以来続いていた、列島における最後の無国家社会が、ほぼその息の根を止められたことを意味する。徳川国家は、これによって北海道の大地の莫大な富を手中とし、東アジア交易において「帝国」などともいわれる強力な地位を確保したということができる。

 そもそも、右の北海道駒ヶ岳、有珠山、樽前山などの噴火は、早川由紀夫氏の列島の火山の噴火データを論文「Catalog of volcanic eruptions during the past 2000 years in Japan. J. Geography」およびそのWEB版データベースによれば、どれもすぐに述べる一八世紀初頭の冨士の宝永噴火(M五・二)よりも大規模な噴火である。これまで徳川時代の火山噴火というと冨士噴火のイメージを第一としてきたのは歴史学的にはきわめて問題の多い偏見の強い考え方である。歴史的にみれば、この大地動乱の時代における最大の意味をもった噴火は一連の北海道の火山噴火であるとしなければならない。

 早川由紀夫氏のデータベースにそって、日本の各地域の地域史を見直してみるという仕事があるように思う。

2015年7月18日 (土)

多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。

多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。

 現閣僚が発する「国民の理解が進まない」「国民の理解をえて」という言い方は問題が多い。政治家は、自己の意見と違う意見を尊重し、それは違う意見なのであって決して誤解ではないということを前提として話してほしい。政治家とは、「あなたは誤解している」と言う権利をもたない職業である。

 安保法制については、反対が55パーセントほど、今国会での成立は必要ない65パーセントほど、「説明がわからない。不十分である」というのが80パーセントほどである。

 問題は、これを単純に多数意見ということはできないことである。「多数意見」とは一つの意見のことをいう。これは一つの意見という訳ではない。一つの意見という訳ではなく、おのおの違う意見が、この点では一致しているということである。現閣僚の一部さえ「説明が不十分である」といい、強行採決を主導した特別委員会の委員長の浜田氏自身が、そういっているのである。

 ぎゃくにいえば、異なる意見の一致点であるから、それは尊重されるべきなのである。多数意見がなくなっているからこそ、異なる意見が一致するところは大事にするべきだと思う。

 そもそも現在の日本社会には「多数意見」というべきものはない。それだけ一般には、問題は複雑で経過的な部分が多いということであろう。そういう中では、自分の意見は、少数意見であるという考え方・感じ方が必要なのは明らかである。それが謙譲の美徳というものだろう。
 
 先日のブログに自由民主党は国民の総選挙における純支持率からいえば2割を切っているのであって、多数政党ではなく、2割弱政党である。2割政党が意見を押し通そうとするのは問題を複雑にする。一つの異常事態だと書いた。ともかくも、2割政党というものをどう考えるかというのは、真剣に考えなければならない問題だと思う。
 
 「安保法制」反対55パーセントという世論のなかには、(1)日本国憲法違反、政府の憲法遵守義務違反という意見から、(2)戦争への不安という意見から、(3)総選挙で明瞭な公約として掲げていないものを議論に出すのはおかしい、(4)10本もの法律を一挙に出すのはおかしい、(3)改憲を議論するのが先だという意見などなど、さまざまなニュアンスの意見が含まれている。おのおのにどういうニュアンスがあるかも人によって捉え方が違うだろう。

 昨年12月の総選挙の純支持率、つまり100人の有権者のうち何人が各政党を支持したかというと、下記の通りである(四捨五入)。

 自由民主党、17人。
 公明党、   7人
 民主党   10人
 維新の党   8人
 日本共産党  6人
 次世代の党  1人
 社会民主党  1人
 生活の党   1人

 投票率は53パーセントであるから、棄権して、どの党にも投票していないという人が47人いたということになる。しかし、それも一つの態度なのである。

 100人の団地自治会で投票があったと考えたとして、上記のどの政党も多数政党とはいえない。少数政党である。100人のうち17人のグループが7人のグループを仲間にして、選挙の直接争点ではなかったことを半年後に提案する。しかも、基本法である憲法の従来の解釈をかえますといって意見を押し通そうというのは手続きとして正当ではない。17人で団地自治会の規約の解釈をかえますといえば、紛議が起こるのは当然である。国会と団地自治会は違うという意見はあるかもしれないが、数に還元してしまえば同じことだ。
 
 これに対して。安倍首相の祖父の岸信介の時代には、当時の自民党は純支持率でいって、ほぼ45パーセント、あるいは(無所属の人が選挙後に自民党に籍をえるということも多かったから)50パーセントの純支持率をもっていた(1960年の前後では得票率60パーセント、投票率が約75%)。
 
 今回の安保法制における変化と相並ぶような1960年の安保条約の強行採決を行った岸首相が、国会への多数の請願行動を前にして、当時の首相の岸信介が「声なき声の支持はある」といったのは有名な話だ。「声なき声」には支持されている。評価は事態の進行が決めるという訳である。これは、当時の自民党が、それだけの支持をえていたという状況の中では、一つの主張としては成立しえたものであるといえよう。
 
 しかし、現在、この種のサイレント・マジョリティというものは存在しない。自由民主党の純支持率は三分の一近くにまで減少している。事態は大きく異なっており、岸信介の孫にあたる現首相が「声なき声の支持はある」という祖父の言葉を援用することはできない。少なくとも、棄権した人びとを、自己を支持する「サイレント・マジョリティ」に数え上げることは許されない。政治家が、棄権者は、実は自分の支持者だなどということはできないのは明らかなことだ。

 100人に17人の支持者という少数政党であるにもかかわらず、多数の顔ができるのは、いうまでもなく小選挙区制のお陰である。しかし、小選挙区制は、支配政党が、自分の政党への支持は現実には少数であるということを常に肝に銘じているという政治倫理がなくては、政治制度としても機能できるものではない。小選挙区制の導入は日本の政治組織あるいは政治家の倫理の過大評価を隠れ蓑にして導入されたといわざるをえない。海部・宮沢・細川・羽田・村山の内閣の迷走のなかで、小選挙区制を一貫して希求してきた自由民主党と、それに反対してきた社会党が野合して成立させたものである。
 
 昨日、17日、今年度の2回目の政党助成金の交付があった。自民党42億、民主党19億、公明党7億、維新の党6億、共産党は受け取り拒否、次世代の党1億、社民党1億である。政党助成金の制度は小選挙区制と同時に導入されたものであって、政治家による国民の税金の山分けである。支持していない政党に自分の支払っている税金がまわるというのはおかしい。どの政党も支持していない人の税金分は只取りである。しかも、これは議席数で配分されている。せめて純支持率で配分するのが最低の矜持というものではないのか。これらの政党は、政党助成金をすべて東北の被災地域に寄付するべきではないのか。それが国民としての信義というものではないのか。この点は了解することはできない。

 なぜ、こういうことになっているのか。どうしてこんなことになってしまったのか。
 
 国立競技場について、安倍首相は「白紙にもどす」といっているということである。しかし、国立競技場の建設計画に大きな問題があることは、すでにちょうど二年前の八月に、牧文彦氏が日本建築家協会の機関誌で指摘し、建築家・建築学の世界では常識であったことである。本日の東京新聞によれば、牧氏は翌九月に1300億といわれているが、まともにやったらもっとかかるという声がある」と発言しており、東京新聞は、昨年10月5日に、牧氏の予測を根拠に、「総工費は、2500億?」という記事を発表しているという。
 ようするに、私たちの政府は、専門家の常識的忠告を聞こうとしなかったのである。安藤忠雄氏のような一部の建築家の意見を採用し、建築家の職能団体、学界の意見を無視したのである。
 
 自由民主党が、憲法学界のほぼ一致した意見、職能的な意見を無視しているのも同じことだ。この意味では、安保法制も国立競技場問題も根は同じである。

 自由民主党の政治家には、まず、自己の政見が、一つの少数意見の一つである。自己の政党が厳密な意味では少数政党であることの自覚がない。その上、しかるべき専門家、専門世界、学界、業界から、意見をくみ上げるシステムももっていない。こういうことでは現代国家の運営はやっていけないだろうと思う。

 日本社会は、つねに上層部に問題を抱えてきたが、中層・下層が、基礎を支え続けてどうにかやってきたのである。これが日本社会のもつ安全装置であったのであろうと思う。

 そして、これまで、こういう社会システムは、うまく機能してきた。問題は、現在の国家中枢の様子は、こういう安全装置で間に合うかというレヴェルになっていることである。

 多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。そして、多数意見がなくなった時代だからこそ、おのもおのもの専門と仕事を相互に尊重するような社会にしていこう。社会が、そのなかにもっている「知」や仕事の専門性を大事にし、多様な意見を尊重する謙虚さと賢さをもとう。そこに希望があるということではないだろうか。

  最近は、少し調子を悪くしていたこともあって、まったく都心にでていなkったが、やむを得ない対談があって、本当に久しぶりに都心にでた。そして竹橋で降りたのだが、すぐそばに気象庁があるのを初めて知って、入口までいって、写真をとってきた。
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 私は、この一月、どうしても必要なことがあって、火山学と噴火の勉強に集中した。そういう中で、はじめて気象庁をみた記念に写真を上げておく。噴火・地震・台風。この役所はしばらくたいへんな仕事が続くのだろう。


2015年7月15日 (水)

2割政治をどうみるか。少数意見を押し通すことは許されない。

 今日15日。衆議院の安全保障法案の特別委員会で強行採決があった。

 強行採決というと、私などは小学生のころの1960年の安保条約の採決を思い出す。安倍晋三首相の祖父の岸信介がやったことであるが、そういう意味では歴史というのは続いているものであると思う。

 しかし、まったく違うことがある。それは自由民主党の得票率である。1958年の第28回の総選挙で自民党の獲得した得票率は57.80%。ようするに6割の支持である。国民のなかでの厳密な支持率でも、投票率が76.99%であるから44.5%はあったということである。

 それでも60年の強行採決のときには、それでも石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らの自民党政治家が欠席、あるいは棄権した。

 そして60年安保成立後の第29回総選挙での自由民主党得票率は57.56%。やはり6割の支持をえている。投票率は73.51%であるから、国民のなかでの厳密な支持率でも、42.31%あったのである。

 現在の自民党は、先回の総選挙では、比例は自民党は33パーセントの支持であるから、国民のなかでの厳密な支持率、純得票率は17、16パーセントとである。

 ようするに2割政治である。正確には2割弱政治であろうか。

 6割政党が行う「強行採決」と2割(弱)政党が行う「強行採決」はまったく意味がことなる。岸信介は国会への請願行動について、「それは一部だ。声なき声がある」といった。それは請願行動の意義を低く評価するためにいったことではあるが、自民党が支持されていたことは事実である。しかし、現在は大きくことなっている。以前よくいわれていた自由民主党の長期低落傾向も極まれりということである。

 しかも、直近の総選挙は昨年12月であったが、そこでは今回の「安全保障関連法案」は争点となっている訳ではない。本来、安倍首相は「改憲」を主張していたのであり、それがうまく行かないのをみて、今回の法案を急遽提案したのである。こうして問題は「九条が好きか、どうか。改憲論者かそうでないか」とは違うレヴェルになってしまった。

 さらに世論調査によれば、「安全保障関連法案」の今国会成立については、読売でも63%の人びとが反対であり、賛成は25%にすぎない。これでも2割政党が強行姿勢を続けようとするならば、それは異常事態である。

 多数決は重要であるというように、私は考えるが、こういうやり方は多数決とはいわないだろう。少数意見を押し通すということではないか。自分たちは少数ではないと思っているのであろうか。自由民主党の議席数は自分で作った小選挙区制の反映である。自分で土俵を作っておいて、「多数」を称するのはフェアではない。

 国会で、内閣に聞いてほしいことは、「2割の支持しかない政党として、6割の国民が反対している採決をしてよいと思っているのか。それはどう理由が付けられるのか」ということである。

 これに対しては、例の「ご理解をいただけるように説明につとめるのが責任だと考えております」などという答弁がされるのであろう。

 それに対しては、「あなたの政党は2割政党であり、しかもこの法案については世論調査のうちの2割のみが今国会成立に賛成となっている。2割をクリヤーすれば、やっていいと思っているのか。6割の人が理解しない。反対であるといっているのは理解力がないだけだと思っているのか。普通、世間では、そういう感じ方は人を馬鹿にしているという」と畳みかけてほしい。

  
 宮崎駿監督の外国特派員協会での講演をブロゴスが書き起こしたものを読んだ。「歴史というものに対する感覚がひどく鈍くなっているんだと思います。いま、歴史のある場所にいるんだという感覚が鈍くなっていて、このままずっと続くんだろう、みたいな感じがこの国に蔓延しているんだと思いますね」とあった。

 訥々とした語り方に共感するところが多い。私なども学者であって、一種の職人である。政治の仕事は貴重な仕事であるとは考えてはいるが、それを仕事としている訳ではない。一人の人間として、自分の職分、ベルーフを果たすしかないだろうと思う。もちろん、いまの仕事が一しきりついたら国会周辺にも行こうとは思う。
 いまもっぱら地震・噴火論に研究をしぼっており、その関係で、原発や地震・噴火対策がいまの日本にとってもっとも重要であるという印象が強い。こんなことをやっていてよいのかと思う。いわんや2割政党である。

 そして、最後に、反省を一つ。

 私は1948年生まれだが、以上を書いてみて、もう1960年から70年頃のことを正確に思い出せなくなっているのを自覚した。歴史家としての仕事がもっと昔のことなので、最近のことは忘れてしまうのである。かくてはならじ。
 そこで、いわゆる「戦後史」の基本の本や統計も買っておくことにした。

 また、上記の得票率は娘に調べて貰ったものだが、データソースはウィキペディアなので、今度、はじめてウィキペディアにカンパすることにした。

2015年7月13日 (月)

日本の国の形と地震史・火山史

 以下、今週末の仙台での講演の最初の部分、ともかく、ここまで書いたので、あと一息である。

 むずかしいが「日本の国の形」というものを考える場合、このような問題を徹底的に追及する必要があると心をきめた。

 しかし、この間の地震学・火山学・地質学の努力はやはり相当のものであることを実感した。この国土に棲んでいる人びとは決して単一「民族」ではないが、ともかく同一の国籍をもつ権利をもつ人びととして「共同性」をもっている。それを感じ、考えるためには、彼らの研究はいわば絶対的な必要であろうと思う。ともかくそれが「諸学」の基礎であり、いまもっとも必要な「知」であることは明らかである。前回のエントリーで、「無知の体系」などという書きたくもないようなことを書いてしまったが、ともかく、これについては「無知」であることに居直ってはならない。

 以下は、その勉強の結果であるが、そもそも研究は日進月歩であろうし、私は俄勉強なので、不十分なところがあると思う。それは御寛恕を乞いたい。
 
「日本の国の形と地震史・火山史」
ーーーーー地震史・火山史の全体像を考える

「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」(「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について(建議)」)

 私は3,11の翌年末に文部科学省に設置された科学技術学術審議会、地震火山部会の次期研究計画検討委員会の専門委員をつとめました。この委員会は地震火山の観測研究計画を立て、毎年4億弱の予算の使い道を5ヶ年分について決めるという委員会でした。3,11の経験をふまえ、地震火山の観測研究計画を再検討し、決定するという趣旨の委員会です。地震については相当の予算が投入されていると思っていましたが、それは観測機器や地震の速報システムの割合が大きく、研究の予算や人員が非常に少ないというのに驚きました。

 委員会で議論したことで大きかったことは、自然現象としての「地震」は「災害誘因」に過ぎない。災害の根本的な原因、「災害素因」は社会的な脆弱性にあるという、防災学の考え方でした。災害の原因は地震という自然現象にあって不可抗力のものだという意見がいまでもあるかもしれませんが、それは本末顛倒した考え方です。自然現象としての「地震」は英語でいえばハザードで、震災、災害はディザスターで、両者は違うものだということで、地震学の人びとも、これで一致した訳です。

 科学技術審議会の委員会には人文系の研究者が委員になることは珍しいということですが、今回の場合は、過去の地震や噴火の研究について、歴史地震・歴史噴火について議論することがどうしても必要だということで歴史の分野からも委員を選ぶということで役割をつとめました。私が適任であったかは別問題で、私は『かぐや姫と王権神話』という本を3,11の前年に書いて、かぐや姫は火山の女神だと論じたこともあって、地震・噴火の史料をみてはいたのですが、災害史という観点はまったくありませんでした。

 私は、3,11の後に、地震学、地質学の研究者が東日本大震災の1年以上前から、9世紀の津波の浸水域やその震源断層などに基づいて、巨大地震発生の可能性を警告していたことを知りました。それどころか関東大震災発生を警告していた地震学者、今村明恒氏は、すでに戦前から超長期の周期的な大地の動きの分析や、9世紀の大地震の研究の必要性を指摘していたことを知りました。

 私は3・11後にこうした事実を知って衝撃を受けました。そして、歴史学は本気で地震や噴火についての研究をしなければならないということを痛感して地震学・火山学の成果を勉強してきました。まずは市民として国民としてどう考えるか、この国で「命」というものをどう考えるのか、また防災についてどう考えるか、さらに国土計画や都市計画をどうしていくか、また日本の国土についての国民的な議論や知識のあり方をどうしていくか、そのような問題に対して学術がどのような奉仕が出来るかという問題です。

 さらに、この列島の歴史は、すべてこの大地・地殻の上で展開する訳ですから、これをどう考えるかということは、歴史学にとっても決定的な問題です。そのためには、いうまでもなく学際的な議論が必要ですが、歴史学の内部でも時代毎で議論するだけではなくて、列島の歴史の全体にかかわる通史的な問題として議論しなければならないと思います。

 『歴史のなかの大地動乱』という本を書いてから後、私はそういう考え方の下に、地震学・火山学・地質学の研究を学ぶとともに、検討の枠を出来る限り日本史の全体に広げて考えようとしてきました。その結果、日本列島での地震や火山活動はだいたい500年から700年という周期をもって活発になる「大地動乱」というべき時期があったのではないか。そしてそれが歴史の進行に大きな影響をあたえたのではないかと考えるにいたりました。報告の題を「日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・火山史の全体像を考える」としたのは、そういう理由です。なにしろ初めての分野に入りこんでの勉強の結果で、まだこなれていないところも多く、分かりにくいところがあると思いますが、御容赦いただきたいと思います。

Ⅰ地震・噴火のスーパーサイクル

地震のスーパーサイクル

 これを考えるためには、まず、地震学・火山学・地質学の側の地殻の運動の超長期的な周期、いわゆるスーパーサイクルについての議論が前提になります。もちろん、地震の周期性を科学的に考えること自身が難しいことはいうまでもありません。そのためには、過去の地震について地質データをひろく蒐集してつきあわせ、それを各地の考古学的な資料、文献史料、さらに現代の観測データと照らし合わせる大規模な作業が必要となります。その中心がプレート間地震の周期性を確定していくことであることはいうまでもありません。これは列島の居住者にとって決定的な意味をもつ仕事ですから、一件一件、正確に照合し、記録して保存し、後に検証ができる形で確認して行くことが必要となります。

 なにしろ予算も人員も圧倒的に不足していますから、それは実際上、まだ実施されていないというのが本当のところですが、いくつかの仮説がでています。まず重要なのは、三・一一のような陸奥沖の大地震ですが、これについては、地震研の佐竹建治氏が八六九年の陸奥沖地震と二〇一一年の東日本太平洋岸地震は同じ震源、同じ規模の地震であったことを明らかにし、それにもとづいてスーパーサイクルモデルを提唱しています(「どんな津波だったのか」『東日本大震災の科学』、東京大学出版会。図1参照)。
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 つまり、これまでの宮城県沖地震はおよそM七・五で、一回の地震による最大滑り量は二メートル。平均発生間隔が三七年なので、一〇〇年間にほぼ三回発生し、合計約六メートルとなります。一方、太平洋プレートの沈み込みは年間およそ八センチなので、一〇〇年間に八メートルになります。これまで、この差、一〇〇年に二メートルは地震をおこさずに沈み込んでいると解釈されてきましたが、そうではなく、これが蓄積されてきたと考えると、一〇〇年で二メートルなので七〇〇年で一四メートルです。つまり、一四メートル分のプレートがつっかえていて、これが七〇〇年に一度、一挙に解放されると、三・一一のような巨大な地震が起きる計算になります。このモデルを当てはめて考えると、九世紀の貞観地震、一五世紀に起こった一四五四年の奥州津波、二〇一一年の東日本太平洋岸地震と大体七〇〇年のスーパーサイクルで地震が起こっているのではないかということになります。

 これに対して北大の平川一臣氏が三陸沖から北海道の津波痕跡調査を行った結果が図2です(「千島海溝・日本海溝の超巨大津波履歴とその意味」『科学』2012年2月号)。上から新しい順にみていきますと、二〇一一・三・一一、一七世紀(一六一一年、慶長)、一二・一三世紀、八六九年陸奥地震、紀元前後、2500年前などの津波痕跡を想定できるといいます。これはさまざまな留保が必要な結果ではありますが、平川氏は約1000年の間隔で巨大津波が確認できそうであるとしています。この二つは異なっていますから、さらに広範な調査と付き合わせた検討が必要ですが、ようするに、七〇〇年とか一〇〇〇年の範囲でスーパーサイクルを考えることが可能かもしれないということになります。
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 次は、このスーパーサイクルが、南海トラフ地震などの他のプレート間地震においても存在するのかという問題です。石橋克彦氏によって、南海トラフ巨大地震は、だいたい100年から150年に一度起こるということが確認されています。その最新の結果が図3ですが、だいたい、そういう結果になっていると思います。ただ、私は、最近、一二四五年(寛元三)の地震が南海トラフ地震ではないかという石橋氏の示唆(『南海トラフ巨大地震』岩波書店)にしたがって史料を解読し、あくまでも状況証拠ですが、たしかにその可能性はあるという論文を書きました。それでこの一二四五年(寛元三)年地震を図に追記してあります。これによって、従来は一〇九九年から一三六一年の間が二六二年もあいていたのが、より間隔が短くなって、一四九年と一一六年という数値になりました。まだ六八四年と八八七年の間、また八八七年と一〇九九年の間は二〇〇年開いていますので問題は残っています。あるいは誤差の範囲内かもしれませんが、ともかく150年前後に一度というサイクルは確実といってよいと考えます。
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 問題は、この150年前後という通常のサイクルで来る南海トラフ地震のみでなく、南海トラフの四国から九州沖、熊野沖、東海沖の三つの領域が連動するような巨大地震が発生していることです。これについて高知大学の岡村真氏は、津波痕跡の分析によって、「津波堆積物として痕跡を残す大きめの津波を生じる南海地震は300年程度の再来周期をもっていた」としています(岡村真、松岡裕美,「津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し」,科学,82巻,P182-191,2012年)。この論文からひいた(および地震調査研究本部のHP)図4をみていただきますと、上から一七〇七年(宝永)、一三六一年(正平)、六八四年(天武)、300年前後、そして約二〇〇〇年前、つまり紀元前後がならんでいるのが分かると思います。これもきれいに三〇〇年といっている訳ではありませんが、南海トラフ大地震にも規模という点からみると、一種のスーパーサイクルがあるということはいえるということです。これは現在にとっても重大な問題で、つまり、直近の大きな規模をもった南海トラフ大地震は、一七〇三年のいわゆる宝永の大津波ですから、ちょうどだいたい300年経ったところですから、現在予想されている南海トラフ大地震は大規模なものとなる可能性があるということです。
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噴火の活発期・静穏期はあるか

 地震の周期性は、最終的には、地質学的な分析の集積とプレートの動き、そのテクトニクスの理解によって確定していくほかない問題です。しかし、もう一つの可能性として、やはりプレートの運動を基礎にして発生する火山の噴火を地殻の動きの現れとして分析していくことが可能かどうかという問題があります。つまり、火山の活発化あるいは沈静化と大地震発生のあいだに何らかの関連を措定するのは火山学・地震学の通説です。

 もしそうであるとすれば地震の周期性をもって現れる地殻の運動を噴火の時代的変化を標識として指摘していくことが可能ではないかということになります。つまり、自然史的な「大地動乱」の時期を地震と噴火の連動のあり方によって分析することができないかということです。もちろん、現在のところ、歴史地震と歴史噴火の長期分析は、ようやくおのおのの分野で進展し始めたとことで、両方を統合した分析は科学的にはむずかしい状態です。しかし、仮説を考え、それにそって歴史事象を位置づけるということは歴史学にとってどうしても必要なことではないかと思います。

 現在、このようなことを考える上で、参考になるのは、都司嘉宣氏が『富士山噴火の歴史』(築地書院)で提出した研究ではないでしょうか。これは和歌などの文学史料によって冨士の噴煙の有無を通時代的に点検したもので、都司は一三六一年、一四九八年の南海トラフ地震、一六〇五年の(伊豆・小笠原海溝)地震、一七〇七年の南海トラフ地震、一八五四年の南海トラフ地震が噴煙の増加のキッカケ、それ故に火山活動活発化のキッカケになっているという長期的な見通しを示しています。

 都司もいうように、3,11の直後、三月一五日に冨士の南西斜面の地下五~一五キロで起きたM六・四の地震が冨士の噴火につながるのではないかと火山学者の多くが覚悟したといわれています。さいわいこの地震は噴火につながりませんでしたが、3,11の後、秋田駒ケ岳、浅間山、日光白根、箱根、焼岳、富士山などで有感地震が観測され、また霧島新燃岳、小笠原の西之島の噴火、御岳の噴火、口永良部の噴火などが発生しています。それでも火山学者によると、20世紀は日本列島としては異常に火山の噴火が静かすぎただけで、現在の状況は普通に戻っただけで、火山活動の活発化とまではいえないといいます。しかし、火山活動と大地震発生のあいだに関連があることを目の前でみせられているという感は深いです。

 都司の仕事以降、富士山の噴火歴の研究は大きく進展しています。とくに重要なのは、紀元前後以降の噴火歴が明らかになったことで、「冨士火山東斜面における最新期火山噴出物の層序」(山元孝広ほか。『地質調査研究報告』62巻11/12号、二〇一一年)の記述によってそれを紹介すると、以下のようになります。「BC50年頃には南東山腹から二ツ塚スコリアが噴出しスコリア丘を形成した。AD50年頃には御殿場口登山道沿いの標高3,600~3,100メートルで割れ目噴火が起き、東山腹に雄鹿溶岩流を流下させた。AD150年頃には東山麓から須走口馬返1スコリアが噴出した。AD350年頃に須走口馬返2スコリアが噴出し、おそらく同じ頃、東山腹から幻の滝溶岩流が流出した(以下略)」これによって紀元前後以降の冨士の噴火歴が明らかなったことの意味は大きいといえます。

 冨士において進んでいるような噴火歴の調査が全国の火山で確定していけば、「大地動乱」というものを、火山噴火と地震の連動として具体的に検討できるのではないかと考えるものです。

 以上、「大地動乱の時代」というべき時期が超長期のサイクルをもって、この列島にやってくるのではないかという想定を可能にする、地震学・火山学・地質学の仕事を紹介しました。最初に結論を申し上げておくと、以上を組み合わせると、「大地動乱の時代」としては第一が、紀元前後の神話時代になります。第二が、7世紀末~10世紀、日本が本格的に文明化していく時代で、「貞観地震」として有名になった八六九年の陸奥沖地震を中心とした時代です。そして第三が15世紀半ばから18世紀の時代になります。一五世紀の一四五四年に発生した陸奥津波からはじまって徳川時代の冨士大噴火までの時代になるのではないかということです。

 これは歴史を大局的にみての歴史学者としての観察を含んでいますので、自然科学的には確定できない部分もあると思いますが、このような分析も無意味ではないだろうと考えています。

2015年7月11日 (土)

国立競技場ーー無知が先か、無責任が先か

 先日の東京新聞に、経済同友会の専務理事が「意にそわぬマスコミには企業として宣伝料をださないようにしてほしい」という自民党の議員の発言について、あまりに「無知」であるとあきれたとあった。同じ日の社会面には、国立競技場の2500億という異様な建設経費について、「無責任」という大見出しがあった。

 国家中枢部の状態について「これは無知のせいなのか、無責任のせいなのか」ということを考えさせられるというのはきついことである。

 もちろん、「無知が先か、無責任が先か」という言い方にはやや語弊がある。いうまでもなく、「知があればよい(賢ければよい)」、「責任をとっていればよい」ということではないからである。

 また、「無知が先か、無責任が先か」というのは、「鶏が先か、卵が先か」というのと同じことかもしれない。そして、こういう鶏・卵問題には通常、より根本的な問題があるということが多い。無知が中枢に侵入するというのは、いわば「無知」が社会的に浮上するという動力が働いているということである。その動力が何かということを、よく考えてみる必要があると思う。その側面からみれば、「無知」「無責任」が社会の中枢で脚光を浴びてしまうのは、同じ構造によるものだろう。

 しかし、それにしても、やはり「無知が先か、無責任が先か」というのは重要な問題だと思う。そして、どちらかといえば、これは「無知」が先なのではないか。「失敗学」という考え方があるが、「無知」というのは、そこからいえば「失敗」の初期条件だろう。
 「無責任」というのは、どちらかといえば「結果責任」に関わることで、うまくいっているうちは、「無責任」は問われないで済んでしまうことも多い。そういう局面が、これまで多かったのだろう。間違った初期条件から出発して、「責任」を取っていると、結局、「無責任」になるという訳である。

 日本の政治風土を「無責任の体系」として特徴づけたのは、よく知られているように、丸山真男であるが、ここから考えると、むしろ「無知の体系」というものが日本社会に根づいているということの方が重大な問題なのかもしれない。
 
 ともあれ、問題は日本社会の「体質」とか、社会風土、文化意識、政治意識などといわれる問題ではなく、社会のシステムや構造の問題、上の言い方では「無知」が中枢に押し上げられるような社会的動力の問題である。これをキチンと考えておかないと、国立競技場の問題で明らかなように、私たちの国家は国際的に恥をかくということになりかねない。これも日本的な「恥の文化」かも知れないが、ともかく信じられない話である。

2015年7月 7日 (火)

地震・噴火の大地動乱の時代に入ったかどうか。

 ある週刊誌から、「現在と九世紀の地震の状況は似ているのではないか。歴史学者としてどういう予測ができるか」という取材をうけた。昨年のことだが、記事はきわめて短いものになった。以下は、インタビューをテープにとったものを起こしたもの(娘に感謝)。PCの中にあるのを発見。
 長大なもので、いまは若干、考えを進めた部分もあるが、基本は変わっていない。

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 写真は東北大学の国際災害科学研究センターにいって史料レスキューのボランティアにいったとき。東北大学文学部棟の窓から海を撮影。


 私は地震学者でも火山学者でもないので、地震・火山について具体的な議論をしたり、予測をしたりすることはできません。ただ、歴史学者として強調しておきたいのは、明治以降千人を超える死者が出た震災というのは十二回あることです。つまり一八九一年(明治二四)の濃尾地震は七二七三人の死者が出ていますが、以来一二〇年ですから、大体十年に一度、千人を超える人が亡くなった地震が起きていることになります。これは驚くべきことですが、3、11の前、私はこれを正確に認識しておらず、地震学の方にいわれてはずかしい思いをしました。このことは国民、市民の中に歴史知識として十分に位置づけなければいていないのではないかと思います。

 こういう死者の数は文明や技術が進んだからといって必ずしも減少するということはなく、むしろさらに大きくなる可能性は高いわけです。高度経済成長以降、一種、金儲け優先の社会になってきていますから、国土や都市は脆弱になっていて、より多数の被害が起こる可能性を否定できません。

 それは結局のところ、国土計画や都市計画をどうしていくか、また日本の国土についての国民的な議論や知識のあり方をどうしていくか、そのような問題に対して学術がどのような奉仕が出来るか、といった問題に関わってくると思います。そういう風に考えた上で、九世紀の地震を考えることがどう役に立つかということですが、歴史学者の立場からの見方なので、自然科学的には確定していない部分もあるかと思います。ただ、歴史学者の歴史感覚と判断で考えることは無意味ではないと思ってはいます。

 まず、現在と九世紀の大地動乱との類似点についてですが、八六九年の陸奥沖地震と二〇一一年の東日本太平洋岸地震は同じ震源、同じ規模の地震であったといいます。東日本太平洋岸地震のマグニチュードは9.0です。9世紀陸奥沖地震はマグニチュード8.3とも8.6ともいわれていましたが、再評価が進んだ結果、M9.0に近い規模のものであったということになっています。九世紀には、陸奥沖地震の約10年後に南関東地震が起きています。この地震は関東大震災と同様の構造を持っており、相模トラフが動いた結果として相模、武蔵に大きな被害をもたらしたとされています。地震調査研究本部は、今後三〇年で同じような南関東地震地震が起こる確率が高いとしており、この予測結果が正しいとするならば、今後、九世紀と同様に南関東地震が発生する可能性は確かにあるのだと思います。

 九世紀と同じ周期でこの地震が起こると仮定すると、二〇一一年の次に地震が起こるのは二〇二一年となります。これは一九二三年に起こった関東大震災の、約百年後ということになります。南関東地震にどういう周期性があるのか、そもそも周期性があるのかということについては、私は何もわかりませんが、関東大震災の前に起こった同様の大きな地震は、七〇年ほど前の幕末の地震になります。これらのことから考えると、地震学的な見地から見ずとも、経験則からいって地震発生の恐れがあり、警戒する必要があるというのは当然だろうと思います。

 さらに九世紀には南海トラフ地震が陸奥沖地震の三十年後に起こっています。これは非常に巨大な地震で、八ヶ岳で山体崩壊が起こっています。この地震があった年には、信濃の国で大洪水が発生しました。石橋克彦氏が最初に歴史史料の読みから推定した訳ですが、ここ20年以上の信州の考古学界の総力をあげた調査で、この洪水は地震による山体崩壊によって出来た堰き止め湖が、その後の梅雨と台風によって破裂したことによって引き起こされたものであることが確定しています。災害の復元図も作成されています。この事実は日本の歴史学会と考古学会にとって大きな衝撃でした。この南海トラフ巨大地震は、日本全国に影響を及ぼしていたことが史料からも明らかになっていますが、この南海トラフ地震は東海地震の領域にも及んでいたことは確実です。

 もし現代に於いて、この地震が九世紀と同じように陸奥大地震の30年後に起こると仮定すると、二〇四一年に発生するということになります。これは、一九四四年に起きた東南海地震、一九四五年の三河地震、一九四六年の南海地震の三つの地震の約百年後ということになります。三十年内に南海地震が発生する確率が六十%であるという、地震調査研究本部による試算と、南海トラフの地震発生周期が大体百年に一度、ということからも南海地震がいずれ起きるということは確実です。

 仮に地震調査研究本部の予測通りに地震が起きるとすると、陸奥沖での地震(M9.0)と南海トラフ地震という大規模なプレート間地震が二、三十年内に連続して起こるという、九世紀に起こった地震のテンポと非常に似通っているということになるといわざるをえません。プレート間地震の発生の様子が、九世紀と二一世紀で、非常に似ているということは、歴史的な知識として非常に重要なものだと思います。

 さらに、最近の地震学の研究として、内陸で発生する地震にも、プレートの動きが何らかの影響を与えている可能性が高いという見解が出てきているようです。単純に活断層が単独で動くのではなく、活断層の動きと、プレート間地震の間に関連性があるのではないかということです。このことから、内陸部で発生した地震の構造についても、九世紀と二一世紀で似通っている可能性があるということになります。

 九世紀と二一世紀の地震のもう一つの共通点として、逆に、地震の静穏期の問題があります。歴史学者としては、こちらの方にむしろ関心があるといってもよいのですが、明治から現在までの約百二十年の間に起きた十二回の地震の内、大正時代の関東大震災(一九二三年)から福井地震(一九四八年)までの二十五年間に、八回もの千人以上の死者を出した地震災害が集中しており、その後は一九九五年の阪神淡路大震災まで五十年間、大きな被害地震は発生しませんでした。つまり、地震の激しかった二十五年間は戦争に向けて社会が傾斜し、敗戦というみじめな結果をもたらした時代であり、その後の五十年は、いわゆる高度経済成長の時代で、よく言われるように、偶然大地が静かな時代だったということです。

 これは、九世紀でも同じようなことが起こっています。九世紀は平安時代の最初の一世紀にあたりますが、その前の奈良時代、八世紀の前半には、大仏の建立にも影響を与えたとされる河内・大和地震を筆頭に、地震が相当多い時代でした。歴史学の立場から見ると、大仏の建立に影響を与えた河内・大和地震などは奈良時代の政治に大きな影響を及ぼしました。しかし、その後半の五十年は、相対的に地震が静かだった時代です。

 ただ、その代わりのようにして、火山噴火が続きます。七八八年の大隅国霧島岳御鉢噴火、七九六年阿蘇山神霊池異常、八〇〇年、八〇二年富士山噴火というわけです。何かいまの状態に似て来つつあるようにも感じます。

 こういうなかで、八一八年には北関東地震が起きます。この北関東地震が九世紀の大地動乱の最初のきっかけであったといってよいと思います。そして、827年に京都群発地震。830年に出羽秋田地震、832年に伊豆国火山噴火。837年に陸奥国鳴子火山噴火、838年に伊豆神津島大噴火。839年に出羽国鳥海山噴火。841年に信濃国地震、北伊豆地震が連発。そして、850年には出羽庄内地震、855年には東大寺大仏の仏頭が落下した地震ということで立て続けになります。863年には越中・越後地震、そして864年には富士山が噴火を起こし、同じ年、少し遅れて阿蘇山神霊池噴火。866年には豊後国鶴見岳噴火。阿蘇山噴火という様子ですから、これは相当のものです。

 この、一時静穏期があったというのが20世紀の状況と似ているように思います。考えてみると、奈良時代後期から、平安時代前期にかけての時代は、ある種の高度成長の時代であったと思います。九世紀に起きた南海トラフ地震で起こった八ヶ岳の山体崩壊によって引き起こされた大洪水の下から、条里制の遺構が確認されており、このことは八世紀の半ば頃から進んでいた国土の開発が、九世紀後半の大洪水で覆われたことを示しています。しかし、このような災害にもめげず、平安時代は活発な大開発の時代になっていくのです。

 一般的な歴史の常識として、8・9世紀は、社会が乱れ多くの災害の被害を受けるなど、一種の貧困化が進んだ時代であるというイメージがありますが、現代の歴史家の見方としては、実際にはむしろ相当な発展期であったと捉えるのが普通です。気候的には温暖化の影響で旱魃が進み、地震や噴火に見舞われたにも関わらず、これだけの発展を成し遂げたというのは驚くべきことです。この発展が成し遂げられた理由としては、温暖化の影響はありましたが、逆に灌漑施設の準備があれば田地の開墾が可能であったこと、全国的な国家が出来あがり、富の移動と開発政策がとられたこと等が挙げられます。

 このような発展の時代の後、九世紀から地震の発生が再び起こり始めた。これにはやはり、現代との類似性を感じます。こういうのは安易な感じ方だという批判はあろうかと思いますが、しかし、大地の静穏の時期と動乱の時期が繰り返され、その周期が社会に影響を与えてきたのは事実です。これは日本の歴史にとって非常に大事なことであり、日本の国土と歴史の中で、このようなことが常に起こってきた、ということを歴史の常識として持っているべきであると強く感じています。

 この後、868年に、播磨地震・京都群発地震が起こり、そして869年に陸奥沖海溝津波と肥後国地震・大和地震が連続して発生します。そして二年後の871年には出羽国鳥海山が噴火しました。この噴火は東北の地震によって、プレートのつっかえがとれた影響で引き起こされたものであるということです。これはプレートテクトニクスの考え方と、現代の地震学の見地からも、マグニチュード9.0前後の地震の直後には必ず大噴火が起こる、ということのいい例であるといえます。先にふれたように、この直前には富士山の噴火も起こっています。火山の噴火と、プレート間地震の間には何らかの関係性があるといってよいのだろうと思います。さらにこの後の874年には、薩摩開聞岳噴火が起こっています。この十年後には南関東地震、八八〇年には出雲・京都で群発地震、三十年後に南海トラフ地震とふたたび立て続けになります。

 歴史学の立場から見ると、このように九世紀の地震と現在の地震の状況が、似通っていると捉えることが出来ますが、地震学の立場からこのような地震発生の類似性が、九世紀の1200年後に起きたことに何らかの法則性があるのかどうか、これはきわめてむずかしい問題のようです。地震の活発期が起こるというのも、ある一定の時期に集中して起こりやすいとする説や、活動期と静穏期のような周期があるとする説、そうではなく、全くのランダムで起こるとする説など諸説あり、決定的なものがないのが現状です。

 つまり、陸奥沖海溝地震と東海南海地震の間に、やく1200年経っている訳ですが、この間にいわゆるスーパーサイクルはあるのかとういことです。つまり、しばしば「大地動乱の時代」といわれますが、そういうものがある程度の期間で、一定の周期をもってやってくるのか。あるいは阪神大震災の後に「大地動乱の時代」に入ったということを自然科学の立場からいえるのかどうかという問題です。これはいわゆる「地震予知」にとってももっとも根本的な問題だろうと思います。

 これについては地震研の佐竹健治氏がスーパーサイクルモデルを提唱しています。このモデルを当てはめて考えると、九世紀の貞観地震、一五世紀に起こった一四五四年の奥州津波、二〇一一年の東日本太平洋岸地震と大体七〇〇年のスーパーサイクルで地震が起こっていることが分かります。このモデルが本当に正しいのかということについて、全力を挙げて調査をするべきであると考えます。今の時代が、長い日本の自然史の中でどのような位置にあるのか、ということを把握し、七〇〇年サイクルというこのモデルが本当に正しいのか、ということを確定させることが出来れば、七〇〇年後、千年後には現在の知識を役立てることが可能になります。そのためにも今、この問題を確定させ、国民的な知識として定着させることは非常に大きな意味のあることであると思います。

 さらに、このスーパーサイクルが、南海トラフなどの他の地域においても存在するのか、ということも確認する必要があります。石橋克彦氏によると、南海トラフ巨大地震は、まず東海で起こり、その後に南海で起こる傾向にあるということです。その周期は百年単位ですが、規模は様々なようで、それが巨大になるのには一種のスーパーサイクルがあるのかもしれません。私に考えられることではありませんが、東北での地震に七〇〇年のスーパーサイクルがあると仮定した上で、 南海トラフにもスーパーサイクルがあるのかどうかというような問題です。

 なにしろ、プレート間地震の周期性を、科学的に証明する、あるいは考えること自身がなかなか難しいようです。そして、その周期性を考えるためには、現代の観測データと、過去の地震についての文献史料、各地の考古学的な資料、及び地質データについて一件一件照合を行い、確認して行く作業が必要となります。この調査研究は、日本の地震学者にしかなし得ない研究ですが、その文献史料、そして考古学的な地震痕跡の調査も同じように日本史を研究する歴史学者にしかできないことですので、少しでも役に立ちたいということです。

 さて、最後にとくに念のために申し上げたいのは、歴史学者として現在と九世紀を比較して感じることは、少なくとも当面のところは、九世紀の地震ほど、現在の動きはきつくないということです。

 九世紀の地震が現在と似ていることは事実ですが、あまりにその類似をいって危機をあおるようなことはあってはならないと思います。もし、10年後に南関東地震が起き、30年後に南海トラフ地震が起きたとしても、少なくとも現在の状況では9世紀ほど地殻の状況はシビアではないように思います。もちろん、今後、9世紀に似た状況になるというのが最悪のシナリオで、その可能性は否定すべきではないと思いますが、現在の状況と物事を正確にみてみると、九世紀ほどの厳しい状況にはなっていません。

 九世紀に起こった大地動乱の厳しさの特徴は、三つあります。第一には、噴火が激しかったことです。事実として九世紀には、富士山と九州の火山、さらに東北の火山が広い範囲で大噴火をしています。これは『歴史のなかの大地動乱』で書いたように、当時の人々にとっては大問題であり、国家的な衝撃だったと言えます。

 富士と阿蘇以外にも、火山活動は記録に残っており、九州では八七四年と八八五年に開聞岳、八四三年に霧島、八四九年と八六七年に鶴見岳等で異常が起こっています。これとは別に伊豆でも噴火が頻発しており、八三二年に伊豆のどこか、八三八年には神津島の大噴火、八八六年には新島で噴火が起きています。八五六年には安房で火山灰が降ったという記録があり、伊豆からの火山灰がそこまで届いたと考えられます。東北方面では八三七年に鳴子火山群、八三九年と八七一年に鳥海山などで噴火が記録されています。

 またこれまでに挙げた火山以外にも、赤城、日光白根、蔵王、白山、肥前国温泉岳等で異常があった可能性があるようです。『大日本地震史料』によると、これらの山の神社の位が異様な高さに到達しています。これは山々が何らかの神の力を示したために位を上げたと考えるのが合理的であろうと思います。つまり、これらの山々で噴火や火山性地震が起きていた可能性があります。

 これらをあわせてみると、九世紀には非常に多くの火山噴火が起こっていたことが分かります。もちろん、3.11後に秋田駒ケ岳、浅間山、日光白根、箱根、焼岳、富士山などで有感地震が観測されていて、ご存じのように火山活動は活発化しつつあるのですが、それでも火山学者によると、これまでが静かすぎただけで、現在の御岳の噴火を初めとする状況は、活発化とまではいえないということです。九世紀においては、火山と地震が連動して起こり続け、最終的には十和田湖において有史最大の噴火まで起こっています。この火山活動の活発さが、現代と九世紀との最大の差である、と言えます。

 現代との相違点の第二には、9世紀には、京都と近畿地方が激しくゆれたことです。現代においても阪神大震災が起こっていますが、八,九世紀には京都はきわめて有感地震が多かったことが知られます。京都の東側を通る花折断層によって引き起こされた、この群発地震は、当時の朝廷や政治に大きな影響を及ぼしました。これは十世紀まで続いており、平将門の乱の直前にも地震が発生し、当時の朝廷は将門の乱と地震の両方に、同様の危機感を持っていたと推測されています。列島の中央部が何度もゆれたということがどういう意味を持つことかはわかりませんが、日本の地殻の変動が、その時期に激しく起こったということの一つの重要な表現であり、地震学的にいっても重大なのだろうと思います。現在、京都では大きな地震は観測されておらず、これは九世紀との大きな差としてあげることが出来ると思います。

 第三の差異としては、九世紀には朝鮮半島まで揺れていたことがあります。貞観地震において東北が揺れ、その後に大和、肥前においても地震が発生し、その直後に朝鮮半島で地震が発生しています。朝鮮半島には地震史料として残っているものは非常に少ないため、詳しくは分かりませんが、これはユーラシアプレート全体が貞観地震の影響を受けていると言えると思います。同様の事象は、その後の一五世紀の地震においてより明確に起こっています。一四五四年の一二月に起きた奥州津波の約一月後に、朝鮮南部で大地震が起こり、多数の圧死者が出ているという記録があり、この一五世紀の地震は、九世紀よりも明確に日本列島と朝鮮半島で連動して起こっていたことが分かります。地震学の研究者によって一五世紀から一七世紀までは、東北アジアにおける地震の広域的活動期とされていますが、九世紀も同じような活動期であったことが予想されます。また、一,二世紀にも同様の地震と津波が起こっていたとする研究者もおり、ちょうど七〇〇年ごとのスーパーサイクルで地震が起こっているともいえます。このスーパーサイクルが本当に存在するものか、ということは定かではありませんが、この一連の活動期の中で、朝鮮半島もその影響を受けて地震に見舞われていたことは明らかであり、少なくとも現代において、朝鮮半島での地震が観測されておらず、現状は九世紀と比較するとそこまで厳しいものではない、と言えると思います。

 9世紀は、いまのところ、日本の歴史上でも最大の大地動乱期であったと言えると思います。内陸での地震発生状況などからみても、現在の状況より激しい状態であったのではないでしょうか。当時の人口が現在と比較して非常に少なかったこともあり、九世紀のような状況でも、地震による死者の数は少なかったため史料の表現も違ってきますので、単純な比較は出来ません。ただ、現在までに明らかになっている自然の動きは、九世紀ほど厳しいものではないことは確かです。

 もちろん、九世紀と現在では国土のあり方が変遷しており、九世紀ほどの規模でなくても、与える影響は大きいということはいえる訳です。そもそも九世紀の陸奥地震では一〇〇〇人の死者といわれている訳ですが、今回の3,11ははるかにそれを越え、さらに原発の被害は予断を許さない訳ですから、九世紀と現代の比較というのは問題の設定自体がむずかしいといえるのかもしれません。ただ、いわゆる「大地動乱の時代」のとば口に入ったことは事実としても、それはまだ本格的なものではなく、また9世紀ほどの激しいものではない可能性があると考えてよいのではないかというのが、歴史家としての意見です。


 これは希望的な観測にすぎないかもしれませんが、ともかく火山・地震列島に棲む私たちは、まだまだ事態を予知し、備えをする十分な時間があるのは事実と思います。

2015年7月 6日 (月)

日記、木嶋坐天照御魂神社と六波羅

 世情騒然としたところだが、今日は京都の見物と調査である。明日から京都で研究会があるので一日早く出て一日見学である。

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 写真は松尾月読社

 前回も2ヶ月程前に同じような機会があり松尾大社・(松尾)月読神社そして木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)に行った。松尾社は30年位前に参詣したことがあったが、その南の月読社ははじめてであった。落ち着いたよい神社で感銘した。神社が好きというのはどういう感覚かというと、単純だが、素朴で自然そのものの姿が凝縮した感じがよいのだと思う。寺では禅寺の白壁が好きというのに通ずる。

 木嶋は初めてであった。ずっと前にすこし西の太秦の広隆寺には行ったことがあり、少し東の安井の嘉陽門院御陵および龍翔寺跡地(南浦紹明廟所)には行ったことがあるが、木島は初めてである。やっと間がうまってこの一帯が頭におさまったようでうれしい。広隆寺もさすがによかった。

 京都を考えるためにはこの木島はもっとも重要な神社ではないかと思う。日吉ー松尾は大国主系(北国、日本海系)だが木島はアマテル系である。木嶋社が京城の西の外れに近いのか、京都都城制を西側からみる。これは今まで考えたことがなかった。

 
 今日はまったく別のところを回った。地震論との関係で平家について考える必要が生じ、平家の京都八条亭と六波羅をみて回った。八条亭は京都駅の西、梅小路公園に盛土保存されている。この八条亭保存で大きな役割をされた高橋昌明氏にはおこられそうだが、初めての見学である。京都駅から南へ貼るいて伏見神社旅所、東寺に出て北へ戻って公園に入る。非常識な私もさすがに東寺周辺は何度か来ているので、やっと平面的につながった、現地に立って東寺と近いことが実感できたのが収穫。

 六波羅は六波羅蜜寺が新しくなっているのに驚く。前に見学したのは大学生の頃だから、もう45年前のことになる。本堂の新築にともない、たくさんの泥塔が出たということは知っており、その写真も見たが、新築の姿を初めて見たことになる。

 薄暗い印象の寺であったが、実に綺麗な寺となっている。その時の記憶では清盛像と空也像のイメージも暗いものだった。その時の印象を残したいということでもないのだが、何となく宝物館の見学は失礼してしまう。しかし本堂で秘仏の十一面観音の前で額づく。安徳出産の時に祈祷対象となった厳島神社の神と同体という十一面観音は六波羅炎上の時に焼けている。だからこれは五条橋詰六波羅蜜寺本来の観音である。

 六道の辻の西福寺、そして少し東の六道珍皇寺にも回る。六道の冥界の印象はこちらの方に強く残っている。

 収穫は六波羅はやはりすこし小高くなっていることの確認であった。もうひとつは京博のところから北に大和大路を歩いたこと。大和大路に面した豊国神社方広寺から六波羅はすぐであるという平面感覚が初めて了解できた。祇園花見小路→建仁寺→六波羅→方広寺が南北に並ぶということが東国の田舎者にはよく分かっていなかったのである。

 こういう平面的な位置関係は京都にいる人、関西の歴史学者には自明のことであろうが、私などには全く不足している。平面と空間の中に時間と歴史を読むということが全くできていないのである。これで今書いている平家政権から源平内戦期の地震論がすこし書きやすくなってほっとしている。
 宿の深夜に目が覚めてしまって書いている。
 
 3.11の後にはじめた歴史地震研究だが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)は8世紀~9世紀で終わってしまった。最近になって10世紀から13世紀まで平安時代の地震についてようやく全体像がつかめたように感じている。

 ここまで来るのに4年。被災地とは別の空間と時間の中にいて過去に戻るための作業をしているのは不思議なことに思える。石巻の津波の猛威を丘から眺望したときの呆然とした気持ちを思い出す。すべてを流し尽くす時間と自然の力。

歴史の時間を感じる力の衰退と「保守」

 千葉の家をでて京都にむかう。どこも同じ風景が続く。なんでこんな風土になってしまったのだろう。第二次大戦後と高度成長の結果である。
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 歴史の時間を感じる力の衰退は、風景の劣化と明らかに関係していると思う。異なる時間と異なる空間を感じる力は力として相似しているところがある。

 私は40代は当時の学会が推進していた遺跡の保存運動にかかわる時間が長かったが、そのとき、何人かの重要な地位にある「保守」政治家にお世話になった。私はこのときの経験から「保守」というものは大事なものだと考えるようになった。

 1990年に書いた論文で次のように述べている。

 そもそも歴史学は本質的に「保守的な」学問である。歴史学は、よい意味での保守性、未来を展望する時に十全に過去に学ぼうという理性と心情なしには成立しない。そして、そのような歴史学にとって、開発にともなう文化財破壊の一つ一つは、この国の歴史学の社会的根拠の脆弱性をいやおうなく実感させる。これに対して、たとえばイギリスにおけるナショナルトラスト運動の前提となった自然保護思想の中には、そのような意味での「よき」保守主義が存在した。そこには自然史と人間の交渉に対する「保守的」・歴史的な見通しなしには、近代社会における開発は許さるべきではないという観点がある。もとより、それはいわゆる資本の原蓄期における自然破壊の経験を経て、そして何よりもアジア・アフリカ・ラテンアメリカの社会と自然の野蛮な破壊を無視して展開した保守主義であり、歴史的な限界と原罪を孕むものであったが、それにしてもこの「世界史的横領」のなかで形成されたヨーロッパ的な自然史をめぐる科学と思想が、われわれにとってもかけがえのない財産になっていることは事実である。  ところが、近代日本においては、特別な例外をのぞいては国民的・実践的基盤をもった「よき」保守主義は成立しなかった。その中で「開発」と文化的バーバリズムがしゃにむに推進されたことが、戦後における日本的な開発の論理と心理を支える歴史的条件であったのではないか。しかもそのようなバーバリズムは「文明開化」の名のもとに日本の前近代の国家と社会を貫く「開化主義」が継受されたという背景の下に、一つの国民的常識ともいえるものにまでなっているのである。私には、社会的基盤を含めて考えれば、戦後の「高度成長」なるものも、そのような歴史的経過の呪縛を刻印されていると思えるのである。(「中世の開化主義と開発」『歴史学をみつめ直す』校倉書房)

 残念なことに遺跡は破壊されたが、私は、あのとき、支援してくれた自民党の政治家が、「国会への請願を通すためには、党の政調に要請する必要がある。もう夜、遅いがいまから国会へ行けば自民党政調の事務には、その旨を伝えておく」ということで、深夜、国会の奥を通って、自民党政調に向かったときのことを忘れない。議員から連絡が届いていて、事務の女性は丁重に請願書を受け取ってくれた。

 もちろん、請願は通らなかったし、国会文教委員会の他の自民党の政治家は破壊を止めようとはしなかった。それが大勢である。そういう意味では戦後の支配政党が「保守党」と呼ばれるのは、日本社会論における最大の矛盾であると思う。風土と文化の破壊に責任のある政党がなぜ保守党なのか。現にいま、この政党はまったく「保守」の姿を投げ捨てている。

 写真は六波羅の珍皇寺の奥、この奥に小野篁が地獄へ行き来したという井戸がある。

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