歴史の時間を感じる力の衰退と「保守」
千葉の家をでて京都にむかう。どこも同じ風景が続く。なんでこんな風土になってしまったのだろう。第二次大戦後と高度成長の結果である。
歴史の時間を感じる力の衰退は、風景の劣化と明らかに関係していると思う。異なる時間と異なる空間を感じる力は力として相似しているところがある。
私は40代は当時の学会が推進していた遺跡の保存運動にかかわる時間が長かったが、そのとき、何人かの重要な地位にある「保守」政治家にお世話になった。私はこのときの経験から「保守」というものは大事なものだと考えるようになった。
1990年に書いた論文で次のように述べている。
そもそも歴史学は本質的に「保守的な」学問である。歴史学は、よい意味での保守性、未来を展望する時に十全に過去に学ぼうという理性と心情なしには成立しない。そして、そのような歴史学にとって、開発にともなう文化財破壊の一つ一つは、この国の歴史学の社会的根拠の脆弱性をいやおうなく実感させる。これに対して、たとえばイギリスにおけるナショナルトラスト運動の前提となった自然保護思想の中には、そのような意味での「よき」保守主義が存在した。そこには自然史と人間の交渉に対する「保守的」・歴史的な見通しなしには、近代社会における開発は許さるべきではないという観点がある。もとより、それはいわゆる資本の原蓄期における自然破壊の経験を経て、そして何よりもアジア・アフリカ・ラテンアメリカの社会と自然の野蛮な破壊を無視して展開した保守主義であり、歴史的な限界と原罪を孕むものであったが、それにしてもこの「世界史的横領」のなかで形成されたヨーロッパ的な自然史をめぐる科学と思想が、われわれにとってもかけがえのない財産になっていることは事実である。 ところが、近代日本においては、特別な例外をのぞいては国民的・実践的基盤をもった「よき」保守主義は成立しなかった。その中で「開発」と文化的バーバリズムがしゃにむに推進されたことが、戦後における日本的な開発の論理と心理を支える歴史的条件であったのではないか。しかもそのようなバーバリズムは「文明開化」の名のもとに日本の前近代の国家と社会を貫く「開化主義」が継受されたという背景の下に、一つの国民的常識ともいえるものにまでなっているのである。私には、社会的基盤を含めて考えれば、戦後の「高度成長」なるものも、そのような歴史的経過の呪縛を刻印されていると思えるのである。(「中世の開化主義と開発」『歴史学をみつめ直す』校倉書房)
残念なことに遺跡は破壊されたが、私は、あのとき、支援してくれた自民党の政治家が、「国会への請願を通すためには、党の政調に要請する必要がある。もう夜、遅いがいまから国会へ行けば自民党政調の事務には、その旨を伝えておく」ということで、深夜、国会の奥を通って、自民党政調に向かったときのことを忘れない。議員から連絡が届いていて、事務の女性は丁重に請願書を受け取ってくれた。
もちろん、請願は通らなかったし、国会文教委員会の他の自民党の政治家は破壊を止めようとはしなかった。それが大勢である。そういう意味では戦後の支配政党が「保守党」と呼ばれるのは、日本社会論における最大の矛盾であると思う。風土と文化の破壊に責任のある政党がなぜ保守党なのか。現にいま、この政党はまったく「保守」の姿を投げ捨てている。
写真は六波羅の珍皇寺の奥、この奥に小野篁が地獄へ行き来したという井戸がある。
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