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2015年7月18日 (土)

多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。

多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。

 現閣僚が発する「国民の理解が進まない」「国民の理解をえて」という言い方は問題が多い。政治家は、自己の意見と違う意見を尊重し、それは違う意見なのであって決して誤解ではないということを前提として話してほしい。政治家とは、「あなたは誤解している」と言う権利をもたない職業である。

 安保法制については、反対が55パーセントほど、今国会での成立は必要ない65パーセントほど、「説明がわからない。不十分である」というのが80パーセントほどである。

 問題は、これを単純に多数意見ということはできないことである。「多数意見」とは一つの意見のことをいう。これは一つの意見という訳ではない。一つの意見という訳ではなく、おのおの違う意見が、この点では一致しているということである。現閣僚の一部さえ「説明が不十分である」といい、強行採決を主導した特別委員会の委員長の浜田氏自身が、そういっているのである。

 ぎゃくにいえば、異なる意見の一致点であるから、それは尊重されるべきなのである。多数意見がなくなっているからこそ、異なる意見が一致するところは大事にするべきだと思う。

 そもそも現在の日本社会には「多数意見」というべきものはない。それだけ一般には、問題は複雑で経過的な部分が多いということであろう。そういう中では、自分の意見は、少数意見であるという考え方・感じ方が必要なのは明らかである。それが謙譲の美徳というものだろう。
 
 先日のブログに自由民主党は国民の総選挙における純支持率からいえば2割を切っているのであって、多数政党ではなく、2割弱政党である。2割政党が意見を押し通そうとするのは問題を複雑にする。一つの異常事態だと書いた。ともかくも、2割政党というものをどう考えるかというのは、真剣に考えなければならない問題だと思う。
 
 「安保法制」反対55パーセントという世論のなかには、(1)日本国憲法違反、政府の憲法遵守義務違反という意見から、(2)戦争への不安という意見から、(3)総選挙で明瞭な公約として掲げていないものを議論に出すのはおかしい、(4)10本もの法律を一挙に出すのはおかしい、(3)改憲を議論するのが先だという意見などなど、さまざまなニュアンスの意見が含まれている。おのおのにどういうニュアンスがあるかも人によって捉え方が違うだろう。

 昨年12月の総選挙の純支持率、つまり100人の有権者のうち何人が各政党を支持したかというと、下記の通りである(四捨五入)。

 自由民主党、17人。
 公明党、   7人
 民主党   10人
 維新の党   8人
 日本共産党  6人
 次世代の党  1人
 社会民主党  1人
 生活の党   1人

 投票率は53パーセントであるから、棄権して、どの党にも投票していないという人が47人いたということになる。しかし、それも一つの態度なのである。

 100人の団地自治会で投票があったと考えたとして、上記のどの政党も多数政党とはいえない。少数政党である。100人のうち17人のグループが7人のグループを仲間にして、選挙の直接争点ではなかったことを半年後に提案する。しかも、基本法である憲法の従来の解釈をかえますといって意見を押し通そうというのは手続きとして正当ではない。17人で団地自治会の規約の解釈をかえますといえば、紛議が起こるのは当然である。国会と団地自治会は違うという意見はあるかもしれないが、数に還元してしまえば同じことだ。
 
 これに対して。安倍首相の祖父の岸信介の時代には、当時の自民党は純支持率でいって、ほぼ45パーセント、あるいは(無所属の人が選挙後に自民党に籍をえるということも多かったから)50パーセントの純支持率をもっていた(1960年の前後では得票率60パーセント、投票率が約75%)。
 
 今回の安保法制における変化と相並ぶような1960年の安保条約の強行採決を行った岸首相が、国会への多数の請願行動を前にして、当時の首相の岸信介が「声なき声の支持はある」といったのは有名な話だ。「声なき声」には支持されている。評価は事態の進行が決めるという訳である。これは、当時の自民党が、それだけの支持をえていたという状況の中では、一つの主張としては成立しえたものであるといえよう。
 
 しかし、現在、この種のサイレント・マジョリティというものは存在しない。自由民主党の純支持率は三分の一近くにまで減少している。事態は大きく異なっており、岸信介の孫にあたる現首相が「声なき声の支持はある」という祖父の言葉を援用することはできない。少なくとも、棄権した人びとを、自己を支持する「サイレント・マジョリティ」に数え上げることは許されない。政治家が、棄権者は、実は自分の支持者だなどということはできないのは明らかなことだ。

 100人に17人の支持者という少数政党であるにもかかわらず、多数の顔ができるのは、いうまでもなく小選挙区制のお陰である。しかし、小選挙区制は、支配政党が、自分の政党への支持は現実には少数であるということを常に肝に銘じているという政治倫理がなくては、政治制度としても機能できるものではない。小選挙区制の導入は日本の政治組織あるいは政治家の倫理の過大評価を隠れ蓑にして導入されたといわざるをえない。海部・宮沢・細川・羽田・村山の内閣の迷走のなかで、小選挙区制を一貫して希求してきた自由民主党と、それに反対してきた社会党が野合して成立させたものである。
 
 昨日、17日、今年度の2回目の政党助成金の交付があった。自民党42億、民主党19億、公明党7億、維新の党6億、共産党は受け取り拒否、次世代の党1億、社民党1億である。政党助成金の制度は小選挙区制と同時に導入されたものであって、政治家による国民の税金の山分けである。支持していない政党に自分の支払っている税金がまわるというのはおかしい。どの政党も支持していない人の税金分は只取りである。しかも、これは議席数で配分されている。せめて純支持率で配分するのが最低の矜持というものではないのか。これらの政党は、政党助成金をすべて東北の被災地域に寄付するべきではないのか。それが国民としての信義というものではないのか。この点は了解することはできない。

 なぜ、こういうことになっているのか。どうしてこんなことになってしまったのか。
 
 国立競技場について、安倍首相は「白紙にもどす」といっているということである。しかし、国立競技場の建設計画に大きな問題があることは、すでにちょうど二年前の八月に、牧文彦氏が日本建築家協会の機関誌で指摘し、建築家・建築学の世界では常識であったことである。本日の東京新聞によれば、牧氏は翌九月に1300億といわれているが、まともにやったらもっとかかるという声がある」と発言しており、東京新聞は、昨年10月5日に、牧氏の予測を根拠に、「総工費は、2500億?」という記事を発表しているという。
 ようするに、私たちの政府は、専門家の常識的忠告を聞こうとしなかったのである。安藤忠雄氏のような一部の建築家の意見を採用し、建築家の職能団体、学界の意見を無視したのである。
 
 自由民主党が、憲法学界のほぼ一致した意見、職能的な意見を無視しているのも同じことだ。この意味では、安保法制も国立競技場問題も根は同じである。

 自由民主党の政治家には、まず、自己の政見が、一つの少数意見の一つである。自己の政党が厳密な意味では少数政党であることの自覚がない。その上、しかるべき専門家、専門世界、学界、業界から、意見をくみ上げるシステムももっていない。こういうことでは現代国家の運営はやっていけないだろうと思う。

 日本社会は、つねに上層部に問題を抱えてきたが、中層・下層が、基礎を支え続けてどうにかやってきたのである。これが日本社会のもつ安全装置であったのであろうと思う。

 そして、これまで、こういう社会システムは、うまく機能してきた。問題は、現在の国家中枢の様子は、こういう安全装置で間に合うかというレヴェルになっていることである。

 多数意見がなくなった時代だからこそ一致点を大事にしよう。そして、多数意見がなくなった時代だからこそ、おのもおのもの専門と仕事を相互に尊重するような社会にしていこう。社会が、そのなかにもっている「知」や仕事の専門性を大事にし、多様な意見を尊重する謙虚さと賢さをもとう。そこに希望があるということではないだろうか。

  最近は、少し調子を悪くしていたこともあって、まったく都心にでていなkったが、やむを得ない対談があって、本当に久しぶりに都心にでた。そして竹橋で降りたのだが、すぐそばに気象庁があるのを初めて知って、入口までいって、写真をとってきた。
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 私は、この一月、どうしても必要なことがあって、火山学と噴火の勉強に集中した。そういう中で、はじめて気象庁をみた記念に写真を上げておく。噴火・地震・台風。この役所はしばらくたいへんな仕事が続くのだろう。


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