日記、木嶋坐天照御魂神社と六波羅
世情騒然としたところだが、今日は京都の見物と調査である。明日から京都で研究会があるので一日早く出て一日見学である。
写真は松尾月読社
前回も2ヶ月程前に同じような機会があり松尾大社・(松尾)月読神社そして木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)に行った。松尾社は30年位前に参詣したことがあったが、その南の月読社ははじめてであった。落ち着いたよい神社で感銘した。神社が好きというのはどういう感覚かというと、単純だが、素朴で自然そのものの姿が凝縮した感じがよいのだと思う。寺では禅寺の白壁が好きというのに通ずる。
木嶋は初めてであった。ずっと前にすこし西の太秦の広隆寺には行ったことがあり、少し東の安井の嘉陽門院御陵および龍翔寺跡地(南浦紹明廟所)には行ったことがあるが、木島は初めてである。やっと間がうまってこの一帯が頭におさまったようでうれしい。広隆寺もさすがによかった。
京都を考えるためにはこの木島はもっとも重要な神社ではないかと思う。日吉ー松尾は大国主系(北国、日本海系)だが木島はアマテル系である。木嶋社が京城の西の外れに近いのか、京都都城制を西側からみる。これは今まで考えたことがなかった。
今日はまったく別のところを回った。地震論との関係で平家について考える必要が生じ、平家の京都八条亭と六波羅をみて回った。八条亭は京都駅の西、梅小路公園に盛土保存されている。この八条亭保存で大きな役割をされた高橋昌明氏にはおこられそうだが、初めての見学である。京都駅から南へ貼るいて伏見神社旅所、東寺に出て北へ戻って公園に入る。非常識な私もさすがに東寺周辺は何度か来ているので、やっと平面的につながった、現地に立って東寺と近いことが実感できたのが収穫。
六波羅は六波羅蜜寺が新しくなっているのに驚く。前に見学したのは大学生の頃だから、もう45年前のことになる。本堂の新築にともない、たくさんの泥塔が出たということは知っており、その写真も見たが、新築の姿を初めて見たことになる。
薄暗い印象の寺であったが、実に綺麗な寺となっている。その時の記憶では清盛像と空也像のイメージも暗いものだった。その時の印象を残したいということでもないのだが、何となく宝物館の見学は失礼してしまう。しかし本堂で秘仏の十一面観音の前で額づく。安徳出産の時に祈祷対象となった厳島神社の神と同体という十一面観音は六波羅炎上の時に焼けている。だからこれは五条橋詰六波羅蜜寺本来の観音である。
六道の辻の西福寺、そして少し東の六道珍皇寺にも回る。六道の冥界の印象はこちらの方に強く残っている。
収穫は六波羅はやはりすこし小高くなっていることの確認であった。もうひとつは京博のところから北に大和大路を歩いたこと。大和大路に面した豊国神社方広寺から六波羅はすぐであるという平面感覚が初めて了解できた。祇園花見小路→建仁寺→六波羅→方広寺が南北に並ぶということが東国の田舎者にはよく分かっていなかったのである。
こういう平面的な位置関係は京都にいる人、関西の歴史学者には自明のことであろうが、私などには全く不足している。平面と空間の中に時間と歴史を読むということが全くできていないのである。これで今書いている平家政権から源平内戦期の地震論がすこし書きやすくなってほっとしている。
宿の深夜に目が覚めてしまって書いている。
3.11の後にはじめた歴史地震研究だが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)は8世紀~9世紀で終わってしまった。最近になって10世紀から13世紀まで平安時代の地震についてようやく全体像がつかめたように感じている。
ここまで来るのに4年。被災地とは別の空間と時間の中にいて過去に戻るための作業をしているのは不思議なことに思える。石巻の津波の猛威を丘から眺望したときの呆然とした気持ちを思い出す。すべてを流し尽くす時間と自然の力。
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