著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »

2015年8月

2015年8月31日 (月)

学史の原点から地震・火山神話をさぐる

 やっと、「石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」という論文の基本部分を書き上げた。300枚を越えるものになってしまって、依頼された雑誌の間尺にあうかが心配である。あと2/3日のうちには仕上げないと次の出張のための準備ができなくなる。

 『歴史のなかの大地動乱』を書くなかで蓄積してきた原稿をつかったが、御寺の仕事をした後、実質2週間、そして国際歴史学会の地震災害分科会のために中国へいっていた1週間を使って書いたもの。まだ体力はもつようである。しかし、中国の食事が身体にあわなかったらしく、胃腸の調子がわるかった。そういう中で過剰な情報を排泄できずに頭にためているというのは、圧迫感がきわめて強かった。帰りの飛行場の待合室では、我慢できずベンチに横になって寝た。

 胃腸と神経は本当に連接しているのだ。こういう状態では腹がすわらない。文章が弱いのではないかと心配である。いまから印刷してチェックである。

 昨日は研究会があったので、それに出席してから国会の集会にでたのであるが、ともかく、こういう仕事も基礎をつちかう仕事で、この国の社会と歴史の理解の「すき間」を少しづつでも埋めていくという意味はあるのだと思う。

 昨日は14時から16時まで国会前の一定位置に立ち続けていた。12万の群集の一員として「すき間」をうめていた。歴史の仕事は、同じ「すき間」とはいっても過去の「すき間」である。それを埋めることと集会の「すき間」を埋めることに本質的な違いはない。

 以下は最初の部分。

はじめに
 一九四八年に発表された石母田正の「古代貴族の英雄時代」という著名な論文は、まだしかるべき研究史的な評価をえていない。この論文の達成と限界、そして誤りを確認することはきわめて重要である。私には、それが曖昧になっていることは、この国の「古代史」研究における戦後派歴史学の初心に関わる問題であるように思える。
 この論文のことを考えるためには、まずその時代に戻って考えてみる必要がある。そこで、最近、たまたま目に触れた、岡本太郎の証言を紹介するところから始めたい。以下は岡本の『日本再発見ー芸術風土記』の出雲の項の一節である。
先日、石母田正に会ったら、大国主命は土着の神ではないという新説をたて、いずれ発表して定説をくつがえすと言っていた。出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり、大国主命の伝説も、むしろ近畿、ハリマあたりの方が本場だというのだが。
 岡本太郎と石母田正の交友の経過は知らないが、気の合う仲間だったのであろうか。この文章がのった『芸術新潮』は一九五七年七月号だから、岡本が出雲を訪れたのは、その年の初夏らしい。だから、石母田が岡本に右のようなことを語ったのは、それ以前である。
 石母田が出雲神話を論じた第一論文「国作りの物語についての覚書」は、この年、一九五七年の四月に刊行された『古事記大成(二)』(平凡社)に載り、第二論文「古代文学成立の一過程(上・下)は、同じ四月・五月に発行された『文学』(二五-四・五)に載っている。つまり、石母田は、おそらくこれらの論文を書いている途中か、書き終えた頃に岡本と話しているのである。これは、この時期の石母田の研究関心を示す重要な情報である。
 岡本の文章の傍点部に注意されたい。「出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり」という部分である。これらの論文では、まだそこまでは踏み込んでいない。石母田はこれらの基礎となる論文を書き上げた段階で、その先の抱負を岡本に語ったのであろう。この出雲大社論が実際に論文「日本神話と歴史ーー出雲系神話の背景」に発表されたのは、二年後の一九五九年六月となった(『日本文学史三』(岩波書店)。
 しかし、これによって石母田が「定説をくつがえし」、新たな神話論の方向を示すことに成功したかといえば、私はそうはいえないと思う。なにしろ石母田は歴史学の社会的責務にかかわる運動に大きな責任を負っていて多忙であった。私のように、平安時代・鎌倉時代を専門にしているものにとっては、一九五六年というと、石母田が『古代末期政治史序説』の刊行を終えると同時に、佐藤進一との協同研究を始め、いわゆる国地頭の研究に入った年であり、その結果としての「鎌倉幕府一国地頭職の成立」の発表は一九六〇年となった。この国地頭論が、いわゆる治承寿永内乱論、鎌倉期国家論において決定的な意味をもつ論文であったことはいうまでもない。凡人の常識からすると、この時期の石母田は、研究時間のほとんどを、それに費やしていたはずである。
 そして、それを終えた段階でも、石母田は神話論に戻ることはできなかった。それはもちろん、神話論固有の難しさという問題があったろう。しかし、何よりも、石母田は、第二次大戦終了後も古代史のアカデミズムがぱっとしないのに強い危惧を感じて、ともかくも古代史研究に筋を通す仕事を急がねばならないと考えていた。よく知られているように、当時、『中世的世界の形成』の影響は大きく、直接の影響をうけた稲垣泰彦・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実などが群をなすようにして研究を進めていたから、あとは委ねてよいという判断があったといわれる。そして、この古代史研究への転進は、一九六二年の岩波講座(第一次)では「古代史概説」と「古代法」に最初の結実をみせ、一九七一年の『日本の古代国家』の刊行で完結した。
 そして、一九七三年には『日本古代国家論』の第一部と第二部が出版された。この『日本古代国家論』(第二部神話と文学)のあとがきで、石母田は折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで「古代貴族の英雄時代」を再検討する課題に立ち戻ると宣言した。ところが、石母田は、その直後一一月に発病して新たな仕事をする条件を失ってしまったのである。これはいわゆる戦後派歴史学の学史では著名な経過である。
 それ故に私たちは、第二次大戦直後の諸論文から、石母田の構想を読みとり、その概略と意義、そして限界と問題点を考えるほかないのである。そして、その中心はやはり岡本に石母田が語ったというオホナムチ=オホクニヌシ論である。その内容はさすがに見事なものであるが、しかし、現在の段階では詳細な再検討が可能となっている。本稿は、「古代貴族の英雄時代」から出発して、このオオナムチ論を点検しつつ、私説を述べることを課題としている。
Ⅰ津田神話論への石母田の批判ーーヤマトタケル論
 まず論文「古代貴族の英雄時代」の内容にそくして、石母田の神話論を紹介していくことにするが、石母田が神話論の課題としたのが何だったかは、相対的に明瞭な問題であろうと思う。つまり、日本が帝国と侵略の道を歩み、アジア太平洋戦争を引き起こすうえで、神話にもとづく国家イデオロギー(皇国史観)は決定的な意義をもっていた。それを全面的に再検討し、神話とは、日本列島に棲むものにとって何を意味するのかを論ずることが、国民の歴史意識を考える上で欠くことができない。石母田は、そう判断していたのであろう。もちろん、石母田は、それを「古代」の社会と国家の形成過程論を構想するなかで解こうとした。その姿勢は本格的で、かつ強烈なものであった。なお、第二次大戦後の石母田が、このような高い地点から出発しえたのは、『日本歴史教程』の中心であった渡辺義通を囲んでもたれていたグループの一員として、戦争体制下においても神話の研究を蓄積していたためであることはいうまでもない。
(1)津田史学の評価について
 「古代貴族の英雄時代」の「はじめに」は、古代史研究の誘惑的な魅力は「古代世界が成立してくる過程」において働いた「原始的な力といういがいにはない運動」「人間の原始的創造的な力」の発見にあるとはじまる。そしてそれを回顧する文学が「すべての歴史的な民族がその古代のある時期に制作する叙事詩(叙事文学)」であったのであり、「その文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない」とする(一~二頁、以下、頁数は断りのない場合は、『石母田正著作集』一〇巻の頁である)。もちろん、石母田が、神話を文学として検討するという姿勢をとったのは、学術的な方法論の問題であったが、そこには神話を一つの民族的な文化として受けとめるという趣旨が含まれていたことも明らかである。
 問題は、これが津田左右吉の神話論に対する批判を含んでいたことである。よく知られているように、津田の『古事記』『日本書紀』の研究はリベラルで徹底的なものであった。それが天皇制ファシズムによって問題とされ、津田は大学から辞職するところまで追い込まれた。その津田が戦争の終了後にどのような発言をするかは歴史学者全体の注視をあびたが、津田は一九四六年四月に「建国の事情と皇室の万世一系の思想の由来」(『世界』)を発表し、天皇制とその文化を擁護する立場を宣言して、いわゆるマルクス主義に対する批判を展開した。これに対して同年六月、石母田は「津田博士の日本史観」を発表して、津田の史観を「余りに浪漫的な」として、その「歴史に優位する民族の範疇」に対する原則的な批判を行った。私は、この石母田の津田批判は歴史学と社会科学の方法論からいって当然の批判であると思う。
 網野善彦が指摘するように、「戦後派」の歴史学にとって、ここに現れた津田と石母田の関係をどう考えるかは、一つの根本問題である(『網野善彦著作集』第七巻)。そこで網野は、津田に対する石母田の姿勢に「思い上がり」があったという厳しい感想を述べている。これは、当時、石母田のそばにいた網野の実感なのであろうが、ただこの網野の論評は、率直にいって、やや政治的すぎる発言となっていて、津田と石母田の間の学術的な論争の全体像をとらえていない。つまり、網野は、どういう訳か、一九四八年に発表された、この論文「古代貴族の英雄時代」における石母田の津田批判についてまったく論及していない。石母田は、この論文を起点として、神話論のレヴェルにおいて、津田左右吉との格闘を生涯の最後まで続けたのであるが、網野の視野には、この石母田・津田の根本的な関係、それ故に石母田が最後まで学問的な責任を取ろうとしていたことは入っていなかった。これは網野のような研究者にとっても、他の時代の問題となると、戦後派歴史学の学史の要部に関わる問題であろうと、それがみえていなかったことを示している。
 石母田は皇国史観との戦いを担った津田史学を評価する点では人後におちない。津田史学が国家的なイデオロギーとの戦いのなかから生まれたという見方が石母田の津田史学に対する評価の基本であった。石母田は「記紀における英雄物語をそのまま歴史的事実として、あるいは歴史的事実に根拠のあるものとして考え、記紀の作者が後代の政治組織に適合するように意識的に述作した英雄物語をそのまま民族の英雄時代であるとしいる」(八四頁)、そういう国家イデオロギーに対して、津田は果敢に戦ったという。私も、津田の文献批判的な方法と業績を知らずに、この国で歴史家であることはできないと考える。
 とくに重大なのは、この論文において、石母田は右の「津田博士の日本史観」で述べたような歴史学と社会科学の方法論に属する問題にいっさい言及することなく、むしろ津田の神話論を高く正確に評価した上で学術的な論述内容に議論をしぼっていることである。これが、石母田にとって方法論の相違以上に大事なことは明瞭なことであった。石母田は、『古事記』は、その基本的な性格としては、口承によって民衆の間に伝承されてきたような叙事詩、民衆の精神・感情・生活を体現しているような叙事詩ではないという津田の見解を承認する。そして『古事記』『日本書紀』などを古代貴族階級の精神的所産として読む津田の方法を共有すると明瞭に述べている。しかも、この段階で、石母田は、精神史の取り扱い方が、「歴史学的=唯物論的方法」において「従来あまりにも機械的俗流的であった」。その弱点を克服するためにも、津田に学ぶことが必要であるとして、津田史学の優位性が精神史的な視角にあることを認めている(四頁)。
 津田は『古事記』『日本書紀』の神話史料について厳密な批判を加え、その枠組がきわめて強い政治性をもっていることを詳細に明らかにした。津田は、『古事記』『日本書紀』の記述には、中国六朝の神秘思想、神仙思想の文学的な影響が強いとしているが、私も、それに依拠して『古事記』から『竹取物語』へは中国神仙思想の影響が筋のように貫いていると論じたことがある(『かぐや姫と王権神話』洋泉社新書二〇一〇年)。倭国においては、少なくとも六世紀までは神話時代が続いており、奈良時代は神話時代から完全に分離していたわけではなかった。『古事記』『日本書紀』は、そういう時代に、隣接の中国・朝鮮からの急激な文明化の影響の下で生まれたものである。津田のいうように奈良時代の知識人は中国朝鮮の最新の文芸動向や神仙思想を受け入れ、それを下敷きにして自国の神話を語ったのである。『古事記』『日本書紀』の叙述の見事さは、ほとんどそれによっているといってよい。そして、逆にいうと、このような稀有な歴史経過によって、『古事記』『日本書紀』は、神話史料としては、世界でも珍しいほどに政治性が強く、見事な文芸作品という外見の下に強固な国家思想を秘めたものとなったというべきであろう。
 石母田の津田批判が優れていたのは、それを認めた上で、「津田博士の方法からすれば、まさにこの点こそ稔り多き収穫が予想され」るにも関わらず、津田の記紀論が「記紀のあいだに見られる微細ではあるが重要な相違」を見のがし、「物語としての歴史的評価はほとんど果たされていない」と指摘したことにある(八五頁)。石母田が「文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない。歴史的事実であることだけが歴史の真理であるのではなく、文学的な真実もまた歴史学の事実でなければならない」(二頁)としたのは、その意味で津田への批判を含んでいたのである。たしかに石母田が「考証的学問が終わったと考えるところから実は真に学問的思惟を必要とする困難な問題がはじまるのである」と揚言していることは、考えようによっては石母田が津田の仕事を「考証的学問」と決めつける「思い上がり」のように読めるかもしれない。しかし、それは続いて「史家の文学史に対する無理解と文学史家の歴史的なものに対する無感覚は両者の協力と統一を困難なものとしてきた」(八五~六頁)と述べていることからも分かるようにむしろ歴史学と文学史・精神史の協同を呼びかけるという趣旨であると思う。石母田の津田批判は、いわゆる内在的な学術批判の節度をまもったものであったと考える。

2015年8月30日 (日)

国際歴史学会の地震災害についての分科会に出席。

 以下、遅くなったが載せておく。

 中国山東省の首都、済南で開かれている国際歴史学会にきている。まだ朝7時(24日)、中国済南と日本は一時間の時差があるので、いま日本は8時のはず。今日、8月26日の午後に「歴史学と自然異常(Natural Disasters、自然災害)の比較研究」というジョイント・セッションがあり、それに参加するためにきた。

 国際歴史学会(International Congress of Historical Sciences)に来たのは始めて。『歴史学研究』にのる毎年の参加記録、トピック紹介は読んでいるから、どんなものかは知っていたが、参加ははじめて。私の専攻の日本史についてなら、研究対象の本国に住んでいるので、外国の研究者は、こちらに来てくれる。そこで討論をすれば一応の知人関係もできるので、国際歴史学会に参加するという必要を実感したことはなかった。
 しかし、世界90ヶ国から2600人の歴史家が集まってきて、約170を超える分科会をもって議論をするというのはやはり壮観である。今回は22回目で、最初は1900年にパリで開かれた。戦争期間は別にして5年に一度というペースで開催されてきた。まったくの学者のヴォランティアベースと開催地の文化省などの補助そして寄附でやっているので、5年に一度やるのでも相当実務がたいへんそうである。

 こういう国際学会というのは、ようするに学問の職能に関わる世界的な専門職集団のネットワークである。高橋幸八郎、西川正雄などの西洋史の諸先生が献身的にこれまでのこれに対応する国際歴史学会国内委員会の実務を取られてきた。日本学術会議、日本歴史学協会の協力はあるが、現在の担当者の方々にうかがっても相当に大変そうである。こういう労力をともなう学会活動のことを、私たちの世代は科学運動と呼んできた。日本社会の支配政党や支配的な潮流は歴史学を冷遇するので、たとえば遺跡の保存や史料の保存などの学術的に普通のことを行うためにも行政と折衝したり、社会的に訴えたりせざるをえず、相当の手間と時間がかかる。私などは遺跡の保存運動などでともかく労力と時間は使ってきたので、こういう場には参加する余裕もなかった。国際歴史学会は実態からすると、なんといってもヨーロッパ中心の学会なので、重要な仕事であることは知っていたが勘弁である。

 ただ、今回はアジアで開かれる最初の機会で、しかも「歴史学と自然異常(Natural Disasters、自然災害)の比較研究」というテーマなので、参加ということになって、その規模の大きさに驚いている。

 これだけの規模になると、誰もその全容は把握できない。本当に様々な分科会があって、様々な方法、史料にもとづいて専門的な討議が行われている。巨象にむらがる蟻のようなもので、本当に個々人の視野は極限されたものだということを実感する。ただ、蟻の群をみたことがあるかどうか。あるいはそういうものが存在することを知っているというのは歴史家としての生き方に大きく影響するのかも知れない。私にはもう遅いが。、

 中心になっているヨーロッパの歴史家たちの風格は相当のものである。ただ風格といえばもっとも立派にみえるのはアフリカの歴史家たちである。世界史というものを感じるためには、各地域の歴史家の風貌を知るというのがもっとも手早いのかもしれない。歴史学は高度に概括的なところがあて、理論的な視野が必要なことはいうまでもないが、しかし奇妙に実感的な学問なので、アフリカの歴史家たちの風格に感動した。初日のセネガルの歴史家の「自然と歴史、アフリカ土着世界の形成」という報告の中身が、ともかくどんなことをいっているのかというのがうすうすながら解り、共感できるというのにも感動する。世界の歴史家は徐々に同じことばを持ちはじめているのかもしれないと思う。

 日本の政府や資金のある財界などのなかには、一種の反歴史主義、「過去は考えたくない。過去は自明のものであってほしい」という感じ方が強いので、おそらく国際歴史学会を日本でもつ条件はあと30年はないだろう。日本社会に諦めの感情をもつことなれている蟻の一匹として残念であるが、一寸の虫にも五分の魂であって、過去の歴史の地層から、歴史の実態をかじりとれるところは囓り取ろうと思う。

さて、日本の地震はプレートの相互運動であるから、当然に韓国・中国の地震や地殻災害の史料とあわせて分析することが必要である。地震学のなかでも、東アジア的な視野が必要だといわれることは多い。今日のセッションに韓国や中国の歴史学者がどの程度来てくれるかが期待であり、不安である。


 下記は発言しようと当日、用意したが、別のことを発言してしまい。これについては発言の機会をとらえないままになってしまったもの。記録として載せておく。

We historians in Japan, got a strong shock when the big tsunami and earthquake struck on the north-east part of Japan 4 years ago. 2011.

About Twenty thousand man had died and Atomic Plants of Fukushima were destroyed.

The great earthquake, revel magnitude 9, got struck on the border aria where the Pacific plate and Eurasian plate collide each other.

It is said that in this aria every 30 years came big tsunami along revel magnitude 7. We are acustomed thinking 30 years cycle magnitude 7. Japanese scismology has a record of earthquakes from middle of 19th century, however, there is no such a great earthquake reaching magnitude 9.

But some seismologists and geologist excavated the remains of other great Tsunami which occurred in this aria in 9th century, and by means of computer simulation they discovered that 9th century tsunami had a same strength with this recent great tsunami magnitude 9. And they foresaw the risk of such great tsunami.

And about 10 years ago a warning was made from the seismologist at the official committee that deals with the security problems on Fukushima Atomic plant. They said that great tsunami struck on same aria in 9th century, so it is not safe to run the Atomic plant in that aria with already prepared security standard. But it was neglected by Atomic plant and our government itself.

Also it was a shame that almost all historians living other aria did not know this matter and warning exactly. Of course archeologists, archivists and few historians making researches in that aria, had a knowledge of the matter and situation. But they are busy working and organizing preservation work of historical documents that damaged 10 years ago by another earthquake that struck on that aria.

But we, correctly speaking, I had not a sense of reality of so big earthquake. We failed exchanging informations and organizing discussions in our assembly.

Therefore, it has essential importance to collect all the historical documents and to form a large scale data-base opening to all researchers living various aria and having various cariar in all generation.

Finally I'd like to take a notice that historical documents means not only writing documents but also geological and archeological excavation data.

In Japan from this year a project centered upon the Earthquake Institute of the University of Tokyo begins.

May be 10 years ago the project which conducted Prof.Katsuhiko Isbibashi famous seismologist in Japan begins. This project made a nearly complete data-base of historical writing documents before 17th century. It was great service for researcher in this aria.

But this project of course got an governmental budget aid,
but was managed individual and volantiar base. The project began this year has an base of official agreement between the Earthquake Institute of the University of Tokyo, The Historiographical Institute of the University of Tokyo, The Center of research of natural disaster of the Niigata University and the National Archeological Research Institute in Nara.

I am looking forward to see such cooperation establishing between east-asian country, that is China, Korea, Japan.
As Prof.Ito said,we east-Asians are living in same collision aria of plates, Pacific plate, Eurasian plate and Filliping plate. As you know Pacific plate goes to west 8cm per year. And Eurasian plate or Amur plate goes to east 1cm every year. Therefore this arias the most dangerous aria in the world, espesially my country Japan .
So I will ask your warm concern to have a joint researches combining neighbor country researchers as well as different discipline scientists.
And I ask to Itarian colleges for advices. Because, I think historical researches made in Itary on the geometrical disaster may be most advanced one.
Of couse, Japanese seismology is advanced one in the world of natural science. But historical research on earthquakes and volcano eruptions are a new and rather undeveloped discipline in Japanese histriography.


2015年8月19日 (水)

大地動乱、700年周期説

Kahoku

 大地動乱、700年周期説という議論をした。河北新報2015年8月16日の記事である。

 以下は、報告のために用意した原稿。そこまでは周知のことなので、今村明恒の議論の紹介のところまで掲載する。

  日本列島を襲う大地動乱には、ある種のサイクルがあるという考え方がある。それを一番最初に述べたのは、関東大震災を予知して、警鐘をならした有名な地震学者、今村明恒である。今村は、列島における地震活動の「旺盛期」を(一)六八四年~八八七年の二〇四年間、(二)一五八六年~一七〇七年の一二二年間、そして(三)一八四七年以降の三期にわけた。現在は直近の地震活動の「旺盛期」、いわば「大地動乱の時代」が始まってからすで一五〇年以上も経過していることになる。

 この今村の見解については、現在を「大地動乱の時代」が深まった時代と考えることが適当かどうかももふくめて、以下で詳しく紹介するが、もし、そのようなサイクルがあるとすれば、それは、この列島上に棲む人びとにとってもっとも重要な知識だろう。もしこれが成立するということになれば、学校教育において重要な理系の基礎知識として伝えるべきことになるはずである。それは、この列島に居住するものの世界観や自然観、そして歴史観に深く関わってくる。

 もちろん、現在の研究段階では、「大地動乱の時代」というべき地震・噴火などの超長期的な周期・サイクルというものが、本当に存在するのかということ自体が自明ではない。なによりも、そのような議論を厳密な科学的手続きにそって組み立てるためには、過去の地震や噴火について地質データをひろく蒐集してつきあわせ、それを各地の考古学的な資料、文献史料、さらに現代の観測データと照らし合わせる大規模な作業が必要となる。しかも、列島の居住者にとって決定的な意味をもつ仕事である以上、それらの調査・研究のデータは、一件一件、正確に照合し、記録して保存し、後に検証ができる形で蓄積されねばならないはずである。

 現在の日本の国家のきわめて貧困な学術政策のなかでは、このようなどうしても必要な研究・調査においても予算・人員が圧倒的に不足している。その中でも、研究者は必死の努力をしているが、本格的な研究成果が確定するまではまだまだ長い時間がかかるだろう。

 私は、三・一一東日本大震災の後に、地震学、地質学の研究者が東日本大震災の1年以上前から、9世紀の津波の浸水域やその震源断層などに基づいて、巨大地震発生の可能性を行政に対して警告していたことを知った。また関東大震災発生を予知し社会的に警告していた地震学者、今村明恒が第二次大戦前から、超長期の周期的な大地の動きの分析や、9世紀の大地震の研究の必要性を指摘していたことを知った。私は『かぐや姫と王権神話』という本を三・一一の前年に書いて、かぐや姫は火山の女神だと論じたこともあって、地震・噴火の史料をみてはいたが、このような動きはまったく知らないままであった。

 これは私にとっては大きな衝撃で、歴史学は本気で地震や噴火についての研究をしなければならないと思いを決め、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いたが、それ以降も、地震学・火山学の成果を勉強することにつとめてきた。しかし、その中で痛感させられたことは、歴史学の内部でも時代毎で議論するだけではなく、列島の歴史の全体にかかわる通史的な問題として地震・噴火を議論しなければならないということであった。このような問題については、歴史学は、「古代・中世・近世・近代」というような形式的な時期区分を離れて、時代を超え、領域をこえた議論を組み立てることに意識的になる必要がある。地震学・火山学との学際的な議論を組み立てていくためには、どうしてもそれが必要だろうと思う。

 そういう考え方の下に、検討の枠を出来る限り日本史の全体に広げて考えるために、今村以来の地震学・火山学の研究史を確認し、それを歴史学の側で受けとめようとしたものであって、もっとも重要で中心的な部分である。

 その結論は、一言で言えば、日本列島での地震や火山活動にはだいたい七〇〇年前後という周期をもって活発になる「大地動乱」というべき時期があり、そしてそれが歴史の進行にも大きな影響をあたえたという点にある。後に詳しく述べるが、その七〇〇年周期とは、第一が紀元前後を起点とする時代、第二が七世紀末期から一〇世紀末頃までに至る時代、第三が一五世紀半ばから一八世紀末期に至る時代と区分できる。そして、現在は、二〇一一・三・一一東日本大震災の後、おそらくちょうど紀元後第四の動乱期に入った時代ではないかと想定している。

 事柄が重大であるだけに、このような仮説を歴史学の側から提出することについては厳しい批判があるかもしれない。地震学・火山学について勉強してきたとはいっても、それは、ここ二・三年のことであって、私自身、基本的な点で理解が及んでいない部分も自覚している。しかし、この七〇〇年前後という周期の設定は、冒頭にふれた今村の地震活動の「旺盛期」についての見解を最大の前提としたものであって、決して自己流でひねり出したものではない。もちろん、今村の見解は一九三六年、すでに八〇年近く前に発表されたものであって、それは、そのままでは利用できない。しかし、最近、石橋克彦は『南海トラフ巨大地震』を発表し、日本列島を襲った歴史地震についての総合的な枠組を明らかにした。これによって歴史学のような社会人文科学の側からも議論状況が理解できるようになったのである。この石橋の著書については後に詳しく説明するが、本章は、この書によって、今村から石橋につながる日本地震学の正統的な研究史をあとづけてみた作業を前提としている。

 もちろん、上記の七〇〇年仮説は、現在のところ「素人」の仮説にすぎず、そこに何らかの意味があるかどうかは、地震学・火山学などの地球科学の仕事が決定することである。しかし、歴史学としても、それらに学び、議論に積極的に参加していくべきではないだろうか。以下に述べるように、「大地動乱の時代」において自然と大地の動きは、歴史社会の動きと変化に大きな影響をあたえた。それは災害史、環境史などから経済史にいたるまでのすべてにかかわってくる。またさらに、深いレヴェルで日本の文化論の基礎にもかかわってくるだろう。大地動乱の動きに規定される歴史社会の様相が明らかになることが、大地の歴史、自然の歴史の自然科学的な分析のための一つの補助線となる可能性も否定できないように思うのである。

「大地動乱」のスーパーサイクル
今村明恒の仕事から
 さて、この節では日本列島を襲う大地動乱のサイクルという問題にかかわって地震学・火山学がどのような議論をしているか、その議論のなかにふみこんで紹介しておきたい。不慣れな分野についての紹介であるので誤りのあることをおそれるが、ともかく、このような議論が各時代の分析にとってどうしても必要であるという事情を推察していただければ幸いである。

 さて、出発点は、最初に述べたように今村明恒が日本列島において、次ぎの三つの時期を「地震活動の旺盛期」としたことである。

 Ⅰ六八四年~八八七年の二〇四年間
 Ⅱ一五八六年~一七〇七年の一二二年間
 Ⅲ一八四七年以降

 今村が、これを述べたのは、すでに八〇年前、一九三六年に発表した「日本における過去の地震活動について」という論文でのことであった。この論文で、今村は、「本邦の地震活動には次の如き3回の旺盛期のあったことが見られる」と、明瞭に上記の三期を上げたのである。

 詳しく説明していくと、まず第一期の初めとした六八四年とは、土佐で大きな津波があったことが知られる南海トラフ大地震である。終期の八八七年も南海トラフ地震で、太平洋岸全域を襲ったが、信州の八ヶ岳が大きな山崩れを起こしたことが知られ、あるいは東海地方の揺れの方が強かったのかもしれない。今村は、ようするに二回の南海トラフ地震の間の時期を地震旺盛期としたのである。

 次ぎに第二期の初めを画した一五八六年とは美濃を中心として北は越中、南は近江・伊勢におよんだ大地震で、飛騨の帰雲城が壊滅したことで知られる地震である。終期の一七〇七年は、これも南海トラフ地震であって、東海地方以西を襲った日本史上最大クラスの大地震・津波であった。この地震から四九日後に、冨士の大噴火が起きたことはよく知られている。

 第三期の初めとした一八四七年とは、長野の善光寺周辺を襲った激しい内陸地震で、善光寺に参詣していた人をふくめて、九〇〇〇人近い人が無くなったという地震である。この第三期の開始は、第二期の終期と一五〇年もあいておらず、それに対して、第一期と第二期の間は、七〇〇年の間があいている。これは、日本列島を襲った三回の地震の旺盛期というものを考えるという今村の論文の趣旨からすると、ややおかしなことであるように感じるが、今村としては統計上の結果に素直に従ったということである。

 つまり、善光寺地震の一八四七年は、今村が、この論文を執筆した一九三六年の九〇年前にあたり、今村はその半分を四五年を単位として、地震の歴史記録の残る七世紀からのすべての統計をとった。おのおのの四五年の間にどの程度の強さの地震がおのおの何回ほどあったかを数え上げ、それによって、どの四五年間の地震活動度を機械的に数値化したのである。そうすると、一八四七年からの地震活動度が、それ以前と顕著に区別できるほど上がったという訳である。それ故に一八四七年以降を地震旺盛期の第三期としたのは、この時代以降になると地震記録も増えるという統計上の見かけの「旺盛期」という側面が強いことは今村も自認しているところであるから、現在では、この第三期の設定は、そのまま採用するのは適当ではないということになる。

 しかし、「Ⅰ六八四年~八八七年、Ⅱ一五八六年~一七〇七年」という二つの地震活動の旺盛期の設定は、今村も協力した大部の地震史料集、『大日本地震史料』の周到な統計処理によったものであるから、その骨子はいまだに生きているといってよいように思う。

 とくに、今村が、このように地震活動の旺盛期を措定した理由を次のように述べていることは注目されるところである。下記にその部分の全文を引用しておきたい。


「余が上記の如き見解に到達したのには別に次の如き根拠もあろ。
1)地震津浪は近海海底に於ける大規模地震の発生を意味するであろうが、この活動の旺盛期が正しく上記地震活動の旺盛期と一致している。例えば三陸太平洋沿岸に於ける大津浪中特に規模の雄大であったのは貞観一一年(西紀八六九年)、慶長一六年(一六一一年)のものであって、明治二九年(一八九六年)のもの之に次ぎ、昭和八年(一九三三年)のもの又之に次ぐであろうが、此等が何れも上記地震活動期の旺盛期のみに起こったのは特筆すべき事実と云わねばならぬ。
2)関東地方に於ける地震の大活動が等しく上記の如き傾向を示すことである。余の研究の結果によれば、著名なる地變特に三浦半島、房総半島等に於ける大隆起を伴える大規模の地震としては弘仁九年(八一八年)*3、元禄一六年(一七〇三年)及び大正一二年(一九二三年)の三個を挙げることが出来る。即ち此等何れも上記の活動旺盛期に起こったのである。
3)火山の噴火に由る勢力の消耗は地震発生に由る勢力消耗と同程度のものがある。最近に於ける有珠岳桜島等の爆発に伴った陸地變形が一の局部的破壊地震に伴う陸地變形に匹敵するものであったことは両方の現象が質に於いてのみならず、量に於いてもまた対等なものたるを示すであろう。されば地震活動の経過を追跡するに方って火山活動の進行を無視する訳には行かぬ。此の見地に於て事実を検討してみると、富士山の最も著しき爆発であった貞観6年(864年)と寶永4年(1707年)とのものがそれぞれ地震活動旺盛期の第1期と第2期とに起り、其他の時期に於けるものには何れも軽微なもののみであった」。

 ようするに、先ず1)では奥州三陸沖の大規模な津波が第一期、第二期、第三期にかならず発生していることを指摘する。これは、現代風な言い方をすれば、太平洋プレートの沈み込み日本海溝地震の発生が、各時期を標識するということであろう。そして2)の「三浦半島、房総半島等に於ける大隆起を伴える大規模の地震」というのは、やはり現代風な言い方をすれば相模トラフ地震が周期的に発生しているということを主張したものである。相模トラフの動きにともなう南関東地震は、今村のいうように元禄16年(1703年)の後、約二〇〇年後、大正12年(1923年)に発生しているが、この地震は二〇〇年周期をもつらしいというのが石橋克彦が論じているところである。さらに、3)は火山活動の進行は地震活動の旺盛期とほぼ対応するという考え方に立って、とくに冨士の大噴火が第一期・第二期の双方で起きていることに注目している。

 このように、今村は火山活動をふくめた「地下の緊迫した状況」「地下活劇の分布」を大観して、地震活動の旺盛期を設定しているのであるが、さらにその基礎には、日本列島における地震帯の系統を整理する作業があったことも注目しておきたい。その作業を示すのが、今村が、右の論文の付図として掲げた図①から③である。今村が、この図にそって指摘した地震帯を、現代の地震学の成果を勘案し、大別して再整理すると次のような区分となるであろう(なお丸数字が今村の整理番号である)。

 (1)南海トラフ地震(①南海道沖、②東海道沖)
 (2)日本海溝地震(③三陸沖)
 (3)アムールプレート東縁変動帯(⑥津軽系、⑦庄内系、⑨能登佐渡系、⑩白山系、④東横断系、⑤西横断系)
*今村のいう横断系とは本州を縦断する二系統の地震帯のことで、東横断系は佐渡→信濃川流域→関東西部→相模湾に抜け、西横断系は日本海から越前→濃尾平野→伊勢に抜ける地震帯である。いわゆるアムールプレート東縁変動帯とすべて一致する訳ではないが、相対的に類似した把握となっているように思う。

 これにつけくわえて、今村が「活動旺盛期、特に第一期・第二期は、その期間長からざるに拘わらず、地震活動がこの間に本邦における地震帯の全系統を少なくも一巡しているようにみえる。これは全く偶然の結果かも知れないが、しかし、各期における活動の原因が広く全日本に対して働きつつあった一勢力にありと見るとき、斯様な現象の起こるのもむしろ自然のように思われる。過去一三〇〇年間中、もっとも旺盛な活動をなした系統は南海道沖地震帯であろうが、第一期及び第二期活動旺盛期の何れの場合においても、活動の先駆をなしたものは、此の系統に属し、殿りをなしたのも、また此の系統のものであった」と述べているのも重要であろう。これはやや抽象的な言い方であるが、今村は、この論文に大地震の発生年代を書き込んだ列島の地図を、その措定する地震旺盛期の説明として掲載している。それを参照すると、今村が、具体的には、「六八四年~八八七年」の地震旺盛期については、六八四年の南海地震を「活動の先駆」、八八七年の南海地震をその「殿り」とし、「一五八六年~一七〇七年」の地震旺盛期については、一六〇五年の地震を「活動の先駆」をなす南海地震、そして一七〇七年の南海地震を、その「殿り」としていることがわかるのである。

桜島噴火の神はオホナムチ=オオクニヌシであること。

桜島噴火の神はオホナムチ=オオクニヌシであること。

 オホナムチ、つまりオオクニヌシという神が火山神としての性格をもっていたことは、文学史家の益田勝実によってはじめて指摘された。益田勝実の著書、『火山列島の思想』である。

 益田は、当初、このオホナムチの火山神としての実態を出雲に引きつけて考えようとした。しかし、直接の証拠としたのは、大隅国の海底火山を引き起こした神がオホナムチという名前をもっていたことであった。

 大隅のオホナムチの活動は七四二年(天平一四)の大隅国で六日間にわたって太鼓のような音が聞こえ、同時に大地が大きく震動したという事件から始まった。このとき、聖武天皇は、使者を遣わし、「神命」を聞かせようとしたという(『続日本紀』)。この事件は、爆発音がありながら、目に見える噴火はないまま大地が震動したというのだから、おそらく海底火山の噴火にともなうものだったのではないだろうか。

 というのは、それから二〇年以上も経ってからのことであるが、聖武の娘の孝謙女帝が再即位した直後、七六四年(天平宝字八)十二月に、大隅国の国境地域の信尓村の海で大噴火がおこったのである(『続日本紀』)。

 「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」といわれているように、爆発音は奈良にまでとどろいた。その被害は民家六十二区と八十余人に及び、その七日後に、煙霧が晴れると三つの火山島が出現していたという。この三嶋の位置は、信尓村=敷根郷とすれば現在の国分市の沖の沖小島などの島であることになり、あるいは桜島の東南部、一九一四年の大噴火で溶岩が噴出した辺りであったともいう(これについては火山学の小林哲夫氏に詳しい分析がある)。

 その様子はあたかも神が「冶鋳」の仕業を営むようであり、遠望すると島のつながりが神の棲む「四阿」のようにみえたという。「ここには火山に神が棲むという観念が明瞭にあらわれている。そして、しばらく後の史料に「去る神護年中、大隅国の海中に神ありて、嶋を造る。其名を大穴持神といふ」とあって、この島を造成した神がオホナムチであったことがわかるのである(『続日本紀』七七八年(宝亀九)十二月。なお「神護年中」とあるが、七六四年は天平宝字八年であって、翌年十月に神護に改元されている。ここからみると、噴火は一・二年は続いたのであろう)。

 私が興味をもったのは「冶鋳」という言葉で、これは鍛冶と鋳物の仕事を意味している。つまり、火山にはバルカン、鍛冶の神が住んでいるというのである。これについて『歴史のなかの大地動乱』ではじめて気づいたのだが、一般に火山の神は女神だが、その大地のなかで、鉄を打ち、音をだし、稲妻をだし、地震で大地をふるわせる神は男であるということではないかと思う。

 オホナムチ=大己貴神については、この神の名の語義について考える必要がある。これについては、早くから①大名持(優れた名前の持ち主、本居宣長)、②大地持(敷田年治『古事記標注』)、③最高尊貴者などの諸説があり、松村武雄が④オオクニヌシと逆推して「大きな国主」と理解する見解を提出し、石母田が⑤大きな穴=石窟という意見を追加した。益田勝実はこの石母田説に同じたが、右の桜島噴火の神の史料に注目して、「アナ」とはより具体的には火山火口を意味するとした。

 しかし、この神のもっとも一般的な呼称が「大汝」であることからすると、松村のいうように「大己貴」の訓はやはりオホナムチであろう。そして、「ナ」については敷田年治『古事記標注』が「地」の意味としたのを採用したい。

 新村出によれば、その語源は、ツングース諸民族が「大地」を「ナ」naとしたことにある。それは「ウブスナ(産土)」の「土」(な)に通ずる言葉だという。新村はさらに「ナ」につけられた「ゐ」は、一種のStability、固定性を示す用語だという(新村出一九七一「天と地」同全集4)。つまり、雲の静かな状態をクモヰ(雲居)、田圃の田をタヰ(田居)といい、また敷居、屋根居などという言葉があるように、「ゐ」は、漢字でいえば「居」であって、「なゐ」とは漢字であらわせば「地居」となる。「地居震る」「地居動む」というのが「地震る」「地動む」の正確な表記なのであるが、それが忘れられて、地震自体のことも「なゐ」というようになったというのが新村の説明である。ようするに「大地=ナna」というのは、自然としての大地という意味であることになるだろう。私は「土地範疇と地頭領主権」という論文(『中世の国土高権と天皇・武家』所収)で「地」という言葉が、平安時代になっても、網野のいう自然としての大地の意味で使用されていることを論じたが、問題はそこにつらなっていく。

 オホナムチのムチとは貴人という意味であるから、「大きな大地を象徴する尊貴な神」、つまりオホナムチということになる。

 神話はこの列島に対する自然観の一部をなしている。オオクニヌシというと因幡の白兎という決まり文句から、そろそろ抜け出す必要がある。因幡の白兎の話し自身、子供たちには伝わっていないだろうが、ここからどうにかしていかねばならない。

 火山列島に棲むということが、どのような感覚をもつべきことなのか。それを文化の根っこのところから考えていき、少しでも知識を、この列島の根にまで通していくこと。それが必要なのだと思う。歴史学は基礎をつちかう仕事である。それを信頼できるような中身のものにしていき、過去を知る拠点を作っていくというのは、一つの希望の仕事である。
 
 

2015年8月18日 (火)

『中世の国土高権と天皇・武家』、あとがき、論文の紹介

『中世の国土高権と天皇・武家』あとがき

 本書は、私のはじめての研究論文集である。私は大学院修士課程で戸田芳実氏の指導をうけたが、戸田氏は晩年、「自分の学説をまとめ体系化する作業はやらない、自分にとって緊急かつ示唆的だと思われる論点を自由に追求し、新たな議論の展開は全てをあとの人に任せる」と語っていた。戸田氏が死去したとき、私はその追悼文を書いたが(戸田芳実氏と封建制成立論争」『新しい歴史学のために』二〇四号、一九九一年一一月)、その際、私も仕事を体系化するということは考えないようにしようと思い、研究論文集を出すことはしないという方針を決めた。論文とはようするに歴史家の仕事場に蓄積された事務文書であって、そのうち公開されているものは歴史学の「業界」の共有文書であるから、それは必要な人がコピーして利用すればよいという考え方であった。友人のタランチェフスキ氏に、研究論文集という出版形式は日本の歴史学界に独特のものではないか。ヨーロッパではあまり例がない。歴史家の仕事は歴史叙述あるいは主題の明確な大著を書くことであるというように聞いたことも大きかった。

 これは実際には自己合理化であったかもしれないが、ともかく自分の研究が、本書におさめた論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をきっかけとして、いわゆる社会史から政治史に変化し、研究テーマがいよいよ拡散するなかで、論文集を編むなどということは考慮の外にあったのである。

 私はこういう論文集についての考え方をかえた訳ではない。人文社会科学においても、論文をネットワークデータとして共有し、その類別・参照のシステムを作り上げるべき時期がきていると思う。そしてその基礎として、史料をネットワークで共有し、個々の史料にそくして研究の状況や進展を一望のもとにおくことが可能ではければならないと思う。私のようなものが、こういうことをいうのは空論にすぎないことは重々承知しているが、それにもかかわらず、論文集について考えるようになったのは、みっともないことであるが、ようするに発表した論文のミスや不十分な点を整えるために十分に加筆したいということである。

 いい加減で無鉄砲なところのある私は、新しい分野の研究に挑むのはよいのだが、あわただしいなかで、ミスを放置し、未整理のままにしてきた問題は多い。そういう中で、しばらく前から、既発表の論文について点検をし、あまりはずかしいことがないようにしたいという気持ちが芽生えてきた。学界というものが本当にあるとしたら、その整理済み事務文書棚においておいていただければありがたいと思う。

 校倉書房の山田氏から論文集をだすようにという懇切な要請を受けたのはもっと前のことであった。ただ、要請を受けたのは研究を始めたころにテーマとしていた交通論や漁業史論などであった。「見果てぬ夢」ではあるが、私は、これらの経済史こそが、方法的で学際的な視野を要求されるとともに実証的にもむずかしい問題であり、それゆえにこれこそ、研究者として挑むべき中心問題であるという考え方をいまだに維持している。しかし、それだけに、これはより根本的な研究を必要としており、山田さんの意向はありがたいものであったが、そのときの私には、(また今の私にも)とても具体的に考えられないというのが内心の気持ちであった。そして、研究テーマの拡散と多忙にかまけて山田氏の要請に応えないままで過ぎたのである。

 しかし、しばらく前、職場を退職し残された時間を考えざるをえなくなるなかで、山田氏から再度強い御勧めをうけた。私にも、そのご厚意の意味がよくわかるだけに、ともかく「研究論文集」なるものを出す方向に、はじめて動きだしたのである。ただ、三・一一東日本大震災をうけて開始した地震史の研究を優先するなどのこともあって、御懇請に応えるのが遅れてしまったが、そろそろ御約束をまもらねば友人としての義理が立たないということになり、この六月から本格的な編別構成の検討と必要な加筆をはじめた。

 本書に収録した論文の発表または成稿の原型と時期は次のようなものである。なお、表現などの微調整を除いて内容的な変更については、基本的には注などで【追記】と明記してある。研究が進んでいるなかで、一度発表した論文の追補・修正を【追記】ですませるのが適当でない部分があるということは承知はしている。しかし、本書におさめた論文は研究史のなかではほとんど孤立した位置にあるというのが実際であり、それに免じて御許しを願いたいと思う。

序論「都市王権と貴族範疇――平安時代の国家と領主諸権力」
 この論文は奈良女子大学「日本史の方法」研究会の編になる『日本史の方法』(創刊号、二〇〇五年三月)に発表したもので、その原形は二〇〇四年一一月に奈良女子大学史学会総会で行われたシンポジウム「平安時代論」での報告であった。本書序論として利用するにあたって国土高権論を書き加え、全面的に修正・追補を行った。削除したシンポジウムの趣旨に関わる部分については下記に引用しておく。シンポジウムの組織と議論のなかで様々な教示をいただいた小路田泰直・西谷地晴美・西村さとみ・森由紀恵の諸氏に感謝したい。

 本来は、このような(都市王権というー追記)問題を立てる場合には、都市と農村の分業と対立という視座それ自身を理論的にふかめる作業から出発しなければならない。社会的分業に関する理論的研究としては、望月清司、黒田紘一郎などのよるべき仕事があるが、しかし、私は、これまでの理論作業には、都市と農村の対立がどのように精神労働と肉体労働の対立によって媒介されていたかという視角が欠如していると考えている。これについては簡単な試論を「情報と記憶」という小文で述べているのでそれを御参照願いたいが(『アーカイヴズの科学』上)、そもそも京都あるいは首都という範疇自身が、特定の観念形態を前提としており、それを捉え直すためには都市・首都が観念形態の領域におよぶ精神的中枢性を、どのように確保しているかを問わざるをえないはずである。そういう考え方から、私は、これまで、問題の理論的な再検討こそがもっとも重要な課題なのだと考えてきたし、それに関係する基礎的な理論研究を優先し(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)、中間的な説明はできる限りさけてきた。

 しかし、このシンポジウムの組織過程で、小路田泰直氏から、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)で述べたことをもとにして、文明史の中での平安時代の位置について俯瞰的に論ぜよと要請された。右のような私の感じ方は御伝えしたが、しかし、世界史の段階などという問題について発言した以上、自己の研究範囲の全体像を他の分野の研究者にもわかるように展開するのは、研究者としての義務ではないかという小路田氏の正論には抗しがたかった。現在の社会諸科学が陥っている歴史的視座の喪失という危機的状況の中で、歴史学者も社会科学者の一員として、より明解な全体像の構築に努力すべきことは、誰もが認めざるをえないだろう。

 そこで、ともかくもこれまでの自分の仕事をつづり合わせる形で、全体像なるものに挑んでみることにした。しかし、こういう経過からいっても、本稿も理論というものを単純な定義集、あるいは実証成果を自己流に合理化したり説明したりするレトリックと等置してしまう歴史家の宿弊の内部にある。しかも、以下の説明は、世界史的な平安時代論というレヴェルは確保しておらず、シンポジウム組織者からすれば、このような中途半端な議論を要請したのではないということになるだろう。とはいえ、これが私の限度である。

第一章「平安時代の国家と庄園制」(『日本史研究』三六七号、一九九二年大会報告)
 この論文は、久野信義氏とならんで報告した一九九二年の日本史研究会の大会報告である。補論1には大会にむけての準備ペーパーの一部を「平安時代法史論と新制についてのメモ」としておさめた。これをきっかけに故川端新氏などの当時の日本史研究会の若手のメンバーとの交流の機会をもったことを鮮明に記憶している。諸氏の御意見や批判に十分に答えることができなかったことを、いまでも申し訳なく思っている。水野章二氏が大会報告批判を担当してくれたが、今回、補論2として「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」を執筆し、それに対する応答を行った。二〇年も経った今になっての応答は水野氏にはご迷惑なことと思うが、記録を残したく、御了解をいただければ幸いである。

第二章「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」(講座『日本の社会史』②,岩波書店一九八七年)
 私は、交通史と漁業史の研究から勉強をはじめたが、実証を深めないまま、その分野から撤退してしまった。この論文は、撤退にあたって、ともかく自分なりのまとめをしたというもので、そのなかで網野善彦氏のいうことを初めて理解したという記憶が強い。網野さんが保立君の書くものにはかならず僕への批判が入っているとぼやいているときいたのも、このころのことであるが、ようするに網野氏の学説に惹かれていたのだと思う。この論文の最後の部分でわかるように、この論文は静岡県磐田市にあった一の谷中世墳墓群の保存運動のなかで書いたもので、原稿の執筆期限が運動の山場と重なって現地と東京の保存運動の事務局仲間に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないことだった。

第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『歴史民俗博物館研究報告』第三九集、一九九二年)
 この論文の原型は一九九一年三月一三日の歴史学研究会中世史部会の平安鎌倉勉強会での報告である。田村憲美氏を初め参会の方々の御教示に感謝したい。右にふれた一の谷中世墳墓群の保存運動の関係でご一緒した新幹線のなかで、この論文の構想を、網野善彦・石井進の両氏に聞いてもらったのは、私にとって貴重な記憶である。その時に上総広常や義経について考えていたことは無理の多いものであったが、網野さんは面白がって聞いてくれ、石井さんは納得する風情がなく、それは論文発表後も同じであった。今回は曖昧なところを書き直し、記述を全面的に追加した。これならば石井さんにも少しは応答をしていただけるのではないかと感じているが、こんなに早く、お二人のご意見をきくことができないという状態になるとは考えていなかった。

第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」(新稿)
 この論文の原型は、歴史教育者協議会の要請で、その会誌『歴史地理教育』七八八号(二〇一二年四月)の特集「平清盛と六波羅幕府」に書いた「院政国家と東国における平氏権力」という小文である。同誌からは、いちど平安時代史研究についての長いインタヴューをうけたことがあり(「文化でとらえ直す平安時代の社会」『歴史地理教育』七〇一号、二〇〇六年)、その続きのようなものである。ただし、拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して完全に書き直し、大幅に追補したので実際には新稿となっていることを御断りしておきたい。
 中心論点は『曾我物語』の理解で、これも石井さんの仕事に教えられながらも納得できない点を書いたものである。私はそもそも頼朝が嫌いであり、それが頼朝の実像をしつこく追究する上で有利であったと感じている。ただ、その意図が歴史学にふさわしい形で成功しているかどうかは、御批判をいただくほかない。
 私は、歴史学の道に入り始めたとき、当時世評の高かった石井氏の『鎌倉幕府』に一一八二年の頼朝は「関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した」とし、さらに政子の安産祈祷を自身で監督したとして、「いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、鎌倉幕府の地がための時であり、政治家としての手腕をみがく時期であった」とあるのを読んで驚愕した。私にはこのようなことを述べるのが歴史学にとってふさわしいこととは思えなかったのである。その後、こういう叙述が石母田・永原にも共通するもので、これが残っているのは石井の先行研究への尊重を意味しているのかもしれないと思うようにはなった。

 しかし、私にとって、この違和感を明瞭に表明することは「鎌倉幕府」研究の重要な目的であった。『歴史学をみつめ直す』で記したように、石井氏には根本的な点で降参している身でありながら、本書は氏に対する過言をふくんでいるが、この点で、御許し願いたいと思う。ともかくも、院政期から鎌倉期におよぶ石井氏の仕事を徹底的に批判し、乗り越えることなしには、この時代の国家史・政治史の研究を刷新することはできないのである。

 なお、以下に、本書掲載にあたって削除した『歴史地理教育』掲載時の原稿の末尾を転載しておく。

 平氏政権論については、現在でも石井進の「平氏政権」(『日本歴史大系』(中世)、後に著作集三巻)が研究状況を総覧するにはもっとも適当であろう。石井の仕事は、この一〇〇年ほどをかけて日本の近代歴史学が積み上げてきた平氏研究を詳細に跡づけている。しかし、冒頭に述べたような立場からは、石井の概説をふくめ、これらが現代的な歴史意識の豊富化にはすでに対応できないものであることは自明なことであった。
 私見では、一一八〇年代内乱については、それらをすべて一度破棄する心づもりをする必要がある。鎌倉幕府中心史観という没概念な結果論、あるいは武士好きの俗論や、それを残している概説などに流されることがあってはならない。そして、この時期における王家の特殊な腐敗の状況を十分に確認した上で、社会構成論の原則論的な視野を明瞭に持ち、王家の王権と貴族階級の階級配置と地域分布がどのような関係にあったかを冷徹に究明していくことが必要である。
 ただし、私見のような社会構成論は、現在の学界においては明らかに少数意見であり、かつ上記の枠組みはまだ歴史叙述としても試されていないので、このこのような立論が歴史教育の場において本当に利用できるものかは、しばらく留保をしていただきたい。


第五章「義経・頼朝問題と国土高権」(新稿)
 この論文は拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して本書のために書き下ろしたものである。その一部はすでに「源義経・源頼朝と島津忠久」「補論、頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)として発表している。このうち付論の部分は、すべて、本論文に再編・合体したが、島津家文書の分析と島津忠久論については主題の関係で吸収していない。

第六章「鎌倉前期国家における国土分割」(『歴史評論』七〇〇号、二〇〇八年)
 国地頭論争で私も何か議論ができるかもしれないと思ったのは、それを新制論から見ていくという視角を佐藤進一氏の『日本の中世国家』における指摘と、大山喬平氏の論文「文治国地頭の停廃をめぐって」における「天下澄清」というキーワードへの言及を読んでからであった。この論文はもういちど大山説にもどって、第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」で議論し残したことを点検したものである。戸田芳実氏が亡くなるまえ、梅津の病院で、私も国地頭論に参加しようとしているということを御報告したところ、氏は、私の友人・後輩などはみな国地頭論に突き進むが、それがどういうことなのかがわからない。ほかにやることがあるだろうといわれて悲しい思いをしたが、ともかく私なりの結論をだすことができたと感じている。何がほかにやるべきことなのかは今後とも考えてみたい。

第七章「土地範疇と地頭領主権」(『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版、二〇一一年)
 この論文は、いまから三年前、職場を退職するあわただしい時期に同室の人々に迷惑をかけながら書いたものである。やはり同室の先輩であった笠松宏至氏の土地法についての仕事を受け継ごうとしたものであることに免じて御許しを願うほかない。またこの論文は、旧職場での大学院のゼミの人々と中田薫を読むということを約束しながら、結局、手間をかけるだけで終わってしまったという苦い記憶に結びついている。これも今は御許しを願うほかはない。

 論文の主題は、笠松氏の著名な論文「本券なし」に学んで、網野善彦・戸田芳実・大山喬平の三氏の仕事を乗り越えようとしたもので、私にとっては大事な位置のある論文である。笠松氏の学恩に感謝したいと考えている。
 なお、本書掲載にあたって論旨不鮮明の部分をできるかぎり書き直した。この書き直し作業は、まず大山喬平氏の「勧農論」に対する批判の部分から着手したが、その作業のなかで大山氏の学説の意味を再認識した。しかし、批判の中枢部分は維持しているつもりである。何十年も前の戸田氏との論争にいまごろ介入されるのは御不快ではないかということを恐れているが、私などの世代にとっては、戦後派歴史学をになった人々のあいだでの立論やニュアンスの相違をどう考えるかは大事な宿題であることを御理解いただければと思う。

 笠松宏至氏によれば、歴史学という学問は「抽象と論理を生命とする学問」(『中世人との対話』三頁)である。本書は抽象のみが多く、史料の徹底的蒐集と分析の上に磨かれるべき論理も甘いといわざるをえないものである。不足な点は重々承知しているつもりなので、残された時間のあいだ努力はするつもりではあるが、正直のところ、これが私の限界である。
 しかし、ともかくも努力はしなくてはならず、その方向を示すものとして、最後に網野善彦氏が亡くなられたのちに名古屋の中世史研究会で開催されたシンポジウム「中世史家・網野―原点の検証―」での報告、「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」(『年報中世史研究』三二号、二〇〇七年)を付論としておさめた。いわゆる戦後派歴史学のもった問題は、このような理論作業なしには批判することも受け継ぐこともできないというのが私見であるので、さらに抽象の度が過ぎるものであるが、目を通していただければ幸いに思う。
 二〇一四年八月四日           

中世の国土高権と天皇・武家、はじめに

Kokudo20150818

はじめにーー本書の書名について

 本書は、平安時代と鎌倉時代最初期の天皇・院と武家が、この列島の支配の根源においていた国家的権能、国土高権がどのようなものであったかを論じたものである。土地制度、山野河海領有、「地本・下地」などの土地範疇論から法史論、さらには政治史にいたるまで対象はさまざまであるが、すべて「国土高権」ということをテーマとしている。

 前提にあるのは網野善彦・戸田芳実などの学説であるが、ともかく、国土高権の対象として、未開であったり、村落の間での争いがあったりする境界領域が重大な位置をもっており、その検討は当時の社会の歴史を考える上で必須の手続きである。平安時代の王朝国家にせよ、鎌倉時代の武臣国家にせよ、それが国家である以上、このような意味での国土を領有する権能は本質的な位置をもっていたのである。その帰趨が国家史・政治史を大きく左右したことはいうまでもない。

 本書の基本は、ここ二〇年ほどの間に書きためた論文であるが、第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」、第五章「義経・頼朝問題と国土高権」は、そのような視野から、源頼朝の「日本国惣地頭」としての国制身分の理解に関わって新たに執筆したものである。

 これらはいわゆる通説とは大きく異なるもので、その成否は読者にお読みいただき評価していただくほかない問題であるが、さらに『中世の国土高権と天皇・武家』という本書の題名も常識とは違う理解にもとづいており、これについては冒頭で説明することが必要であろうと思う。

 つまり、普通、「中世」といえば「鎌倉時代=武士の時代」の開始以降を意味する。しかし、私は井上章一『日本に古代はあったのか』(角川選書、二〇〇八年)と同様、「日本には古代はなかった」と考えており、逆にいうと、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するというほかないと考えている。そもそも日本は東西軸でいえばユーラシアの東端に位置し、また南北軸でいえばインドネシアからフィリピネシア、ジャパネシアとつらなる太平洋西縁の群島世界に属する列島である。この国の歴史がそこから離れて時代区分できるというのは幻想に過ぎない。

 そして、現在の段階で、こういう観点から日本史の時代区分を考えるとすれば、依拠すべき先行学説としては、内藤湖南、そしてそれを引き継いだ宮崎市定・谷川道雄などの世界史の時代区分を前提とするほかないということになる。たとえば、宮崎市定によれば、中世とは、世界史的には、ほぼ紀元二・三世紀から一二・一三世紀までの約一〇〇〇年の期間をいう。宮崎は、中世の開始をほぼ二〇〇〇年ほど続いた古代の都市帝国文明が、ユーラシア規模におけるフン族、そしてゲルマン民族の大移動の中で大きく動揺し、東の漢帝国、西のローマ帝国がほぼ時を同じくして崩壊にむかう時代に求める。この時代は、ユーラシア大陸の中央部に広がったヘレニズム文明の中で、いわゆる中近東地域が世界の富と文明の中心としての地位を確保し、たとえば乗馬や製紙の技術のような基本的な技術が国際的な連関をもって発展した時代であり、また仏教・キリスト教そしてイスラム教などの世界宗教という形をとって世界的な文明連鎖が成立した時代である。

 これを適用すれば、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するといってよいことになる。邪馬台国が「中世」であるといえば大学入試では失格であろうが、邪馬台国から古代が始まり、列島の歴史は世界史とは関係なく、「古代―中世―近世―近代」と時代区分できるなどという感じ方こそ歴史知識としてまったく無意味である。

 平安時代から鎌倉最初期までを対象とした本書を『中世の国土高権と天皇・武家』としたのは、こういう事情による。しかし、問題は、そうだとすると、本書の題名は、より正確には『日本中世後期の国土高権と天皇・武家』とすべきことになる。平安時代約四〇〇年は宮崎のいう世界史上の「中世」の時代の後半にあたるからである。しかし、中世後期というと世間でも、また日本の歴史学界でもだいたい室町時代のことをいうのが一般である。平安時代を中世というだけでも誤解を呼び、理解をえられないであろう現状の中で、そのような題名を選ぶのはいたずらに混乱を呼ぶと考えた。

 それに対して平安時代を「中世」と呼ぶことには、それなりの理由があるのである。つまり第二次世界大戦後の「中世史」の研究者の中には、平安時代を鎌倉期以降の歴史と連続的にとらえようという強力な潮流が存在した。そして平安時代の社会経済史は、石母田正の提起を受け、稲垣泰彦、永原慶二、黒田俊雄、戸田芳実、河音能平、大山喬平など、本来、「中世史」の分野を専攻とし、社会構造論的な方法を主軸とする研究者によって推進されてきたのである。その中で研究をしてきた私にとっては平安時代史は「中世」なのである。

 ただ問題は、そうだとすると鎌倉時代は基本的には「近世」になるということで、さすがの私も、それを明言するのには勇気がいったが、それでよいと考えるにいたった。その前提は、私が日本の歴史的社会構成が「封建制」であったことはないという理論的立場をとっていることである。そこで、最近、『岩波講座 日本歴史』の月報で、クリフォード・ギアーツを参考に「インヴォリューション=近世化」という考え方をとって、一二・三世紀以降は日本も「近世」化に突入したと論じたのである。一一八〇年代以降、いわゆる時代区分論についての議論が退潮していくなかで、こういう問題はどうでもいいというのが歴史学界の傾向になりつつあるのも実情であるが、ともかく、私は、逆に最近、「平安時代=中世」という確信をふかめている。

 なお、ここでいう「中世」から「近世」への移行は決して「歴史の進歩」と等置できない。それを初めてのべたのが、黒田俊雄の有名な「権門体制論」であった。本書序論で述べたように、この黒田の議論は国家論としては看過しがたい欠陥を有しているが、しかし、院政期国家と鎌倉期国家の階級的本質はかわらないという、その大局観自体はあくまでも正しいのである。

 本書の全体で述べたように、院政期における国土高権の集中は、国土高権の分裂の中からの広域権力の登場と、それによる国家の軍事化と民衆支配の稠密化をもたらした。それ以前、列島社会は、河音能平が「ゲルマン的共同体」と類比し、網野善彦が原始に根をひくと評価したような「自由」な側面をもっていたが、その隙間が埋められていったのである。その主体となった「武士」は、よくいわれるように、所詮、職能的な殺し屋、一種の広域暴力団を本質としており、鎌倉幕府の成立なるものは、彼らの私戦の拡大が国家の中枢にまで及んだことを意味する。彼らは王権=「旧王」に媚びをうりつつ、「武臣」のままに自己を「覇王」として、上から下まで国家に武力を浸透させた。このような武臣国家の形成自体を「歴史の進歩」であるということはできない。それは、この時期前後から、都市的関係の成長や農村的な共同性の自立化などによる民衆的な進歩の新たな条件が形成されたこととは別問題である。

 以上が本書の書名についての説明であるが、なお、念のために申し上げておけば、「古代―中世―近世―近代」などという時代区分は所詮、一種の符丁にすぎない。こういうことをいうとすべてをひっくり返すようであるが、実際に、世界と日本の歴史が関連・融合したものとして、どのような段階とフェーズを歩んだかは、より具体的な歴史理論を再構築して考えるほかない問題であることは明らかである。その意味では本書の題名は経過的なものにすぎないことを御断りしておきたい。内容までも経過的なものであるということはこまるが、ともかく、以上のような御説明は冒頭にしておくことが必要であろうと考えた。

2015年8月16日 (日)

日本神話の基本が火山神話であることについて。

 噴火のニュースが本当に目立つようになってきた。

 珍しい冨士火山の女神の画像を載せておく。一一世紀製作、木造浅間神像。富士山と結びついた仙女像。
平成25年重要文化財指定。中央の如来と三女神像
Cci20141121

 日本神話の基本が火山神話であることについて、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の179頁を引用しておく。これに天孫降臨神話をあわせて考えることが必要だが、それについては拙著『物語の中世』の文庫版あとがきをみていただきたい。

 12月23日に十和田噴火1100年のシンポジウムがあり、それにむけて、もう一度やっている。


 日本神話における火山の神は女神イザナミである。これは神話学の古典業績の一つ、松村武雄の『日本神話の研究』が女神イザナミの国生神話の解釈によって明らかにされている。イザナキ・イザナミは「ミトの婚合」ののち日本の島々を生みだすのである。「土地の起源が人の生殖として語られたことは(世界で)他に類例がない」「無理な考え方」であるというのが津田左右吉の神話論の基本的な前提の一つであったが、松村の仕事によってそれはすでに成り立たなくなっている。

 神話学の大林太良によっても、出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布しているという。ほぼ同じ地域に「海中に火の起源を求める神話」が分布するというのも重要であろう。ポリネシアでは最初の火の持ち主は地下の冥府にの女神マフイカであり、英雄マウイは彼女を殺して火を現世にもたらした。このような女性の体内・陰部からの火の起源説話について、神話学では、イモ類・雑穀栽培に随伴する死体化生型(ハイヌヴェレ)の作物起源神話、あるいは焼畑文化との関係で論ぜられてきた。しかし私は、その分布地域がまさに環太平洋の火山地帯にあたることに注目すべきだと思う。これらは海底火山の噴火の経験の神話化と考えるべきであろう。

 そうだとすると火山列島・日本の山の神が女神であることは自然なことである。たとえば、『常陸国風土記』には、「御祖の尊」が富士と筑波の神のもとを訪れた時のエピソードがあるが、この「御祖の尊」の御祖については漠然と「尊貴な祖先の神」と理解されることが多いが、たとえば賀茂御祖社の例が示すように、「御祖」とは母親を意味する。この神は、山々の「御祖」である大地母神なのである。この母親の訪問に対して、富士の神が「今日は『新粟』の新嘗の収穫祭の夜で物忌の最中なので、申し訳ないが駄目です」といったのに対して、筑波の神は「物忌ではあるけれども、親のいうことが何よりです」といって歓迎したという訳である。彼らも女神であろう。

 このエピソードは、富士の位置からして、列島の地母神が母娘の火山の女神からなっていることを示している。もとより、筑波山は、火山ではない。しかし、御祖尊が筑波を褒めて「愛しきかも我が胤 巍きかも神宮」と謡ったことは、当時の「神宮」の用例からすると、筑波山が火山とみなされていたことを示している。筑波山は、地下で固まって噴火しなかったマグマだまりが地上に露出したものであって、今でも火山と思われることも多い。そして標高が高く、火山山頂らしい磐座の発達した方を女体山としていることも示唆的で、筑波の神が女性上位であったことは間違いないのである。

 門口で拒否された「御祖の尊」が富士を呪い、筑波を褒めたのが、二つの山の運命を分けた。そのため富士山はつねに厳しい寒さの中におかれて人々が上ることもできないのに対して、筑波山が豊かな水と草木にめぐまれて東国の人々が集まり遊ぶ山になった。『新粟』の新嘗の夜の物忌において客神を歓待するかどうかが、その原点となったというのであるが、この「粟」の新嘗という場合の「粟」は穀物一般を意味するという見解もあるが、粟の焼畑の収穫と考えて問題はない。富士の女神は火山の女神であるとともに粟焼畑の女神でもあったのである。ここには火山神話が作物起源を語る豊饒の神話に展開する事情がよく現れている。

 この点では、九世紀の伊豆神津島の海底噴火が、神津島火山の女神、阿波神が「三嶋大社の本后にして、五子を相生む」と神話化されていることも重要である。つまり、この神津島の女神の名、「阿波神」の「阿波」は「粟」に通ずる。大林太良は、国生神話でイザナミの生んだ「粟の国」が「大宜都比売」と呼ばれていることに注目し、日本における原初農業神は粟などの焼畑耕作にかかわるオオゲツヒメであるとした。「阿波神」とはオオゲツヒメのことであったに相違ない。

 オオゲツヒメについては、『日本書紀』『古事記』に語られた農業起源神話の一つに、天から放逐されたスサノヲが、地上を経巡っていた時に妹のオオゲツヒメにであったというエピソードがある。オオゲツヒメは、スサノヲに同情して、鼻や口また尻から「味物」を取り出して、スサノヲを歓待しようとした。スサノヲが、それを汚いと怒って彼女を殺害したところ、オオゲツヒメの頭には「蚕」がなり、目には稲種がなり、耳には粟がなり、鼻には小豆がなり、陰部には麦がなり、尻には大豆がなったという訳である。地震神、スサノオという観念が九世紀の地震史料の中に確認された以上、東国の火山噴火の中に、スサノオと対をなす神話的な女神の観念が生きていたというのは自然なことといえよう。

 地震神が男神であるのに対して、火山神の肉体は女体であったということになるが、これが九世紀にも信じられていたことは、『延喜式』に残された次の「鎮火祭祝詞」の一節に明らかである。
神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命の妹妋の二柱、嫁し継ぎ給ひて、国の八十国・島の八十島を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、まな弟子に、火結神を生み給て、美保止焼かれて石隠れ座して

 つまり、イザナミは「八十国、八十島を生み給い」、その後に「火結神」(火熱の神)を生んで「美保止=ミホト」(陰部)を焼いて死去したというのである。松村によれば、このミホトの原義は「ほとぼり」(熱)の「火処」であって、女性の性器や、噴火口や鍛冶の火床などを表現する。ホトには山間の窪地という意味もあるが、クボも「中央の窪んだところ」という意味から女性性器を意味する。巨大な地母神・イザナミが豊饒の神であったのは、焼畑という農業生産のあり方に根づいたものであると同時に、彼女がエロスの神であったことにも深く関わることであったといわねばならない。


 

2015年8月12日 (水)

荘園をどう教えるか4(班田収受との関係)。

 やっと拙著『中世の国土高権と天皇・武家』という研究論集が出版jされた。

 そこで書いたことだが、「荘園をどう教えるか」という場合、それが班田収受制を壊して生まれるというのが決定的な間違いで、これがすべてを分かりにくくしているというのが私見である。

 だいたい、いわゆる大化前代のミヤケなどが、すべて無くなった訳ではなく、それは初期荘園に流入していったというのが、現在の学会のスタンダードな意見である。

 宮原武夫氏の先駆的な論文「班田収受制の成立」(『日本古代の国家と農民』、法政大学出版会)にあるように、そもそも班田とは「たまいだ」と読む場合があって、支配貴族に地方の田地をあたえたり、公認したりする側面があった。これによってミヤケ的な土地所有が律令制王国の国家的土地所有のなかに入りこんできたのは見やすい道理である。藤間生大氏の昔からいわれているように、初期荘園制と班田収受制は決して矛盾するものではなく、表裏一体であったというのが古典的な考え方である。荘園というのは系譜としてはミヤケから続くものである。7世紀から9世紀、10世紀にかけての土地制度は連続的にみなければならなqい。

 問題は、田地を民衆に割り付ける部分であるが、これは班田の「あがち田」的側面であるというのが宮原武夫さんの意見。「たまい田」と「あがち田」を班田収受制の二側面とするというのが宮原理論である。この「あがつ」というのは分配するというような意味である。これも平安時代に連続性をもって継受されたのであって、散田とか負名体制とかいわれるものがそれである。

 つまり私は、『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であると思う(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。

 土地所有の国家的な形式、つまり国衙が田地を割り付けるという形式自身は連続しているのである。

 普通は、ミヤケがあって、班田収受制で厳密な国有にかわったが、荘園がでてきてそうではなくなったというように話しがつなげられる。ところが国衙というものが残っているという説明になって、ここら辺で子供たちは何がなんだかわからなくなる。

 そこで言葉を覚えるだけということになり、それがわからないまま、室町時代まで荘園がでてきて、何がなんだかわからなくなるということになっている。これは最初からボタンを懸け間違ったためだと思う。これは「古代史学会」と「中世史学会」がほとんど議論をしないという日本の歴史学会の奇妙な風習のためにこうなっているのだと思う。

 以下、上記拙著の一部である。

日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載した。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

2015年8月11日 (火)

列島の風景の劣化と「省エネ法」ーージブリの『熱風』

Satake20150811


 京都は暑かった。
 毎日、夕方は銭湯に出かけて風呂に入る。一日目の風呂はいつも行くところだったが、二日目行ったら、そこは休み。そばの町屋の前にいたおばあさんに、近くの銭湯を聞くと、少し北へ歩けばあると教えてくれた。

 京都は、まだまだ銭湯が歩いてすぐのところに何軒もあるのがいい。夕方、仕事を終えて、汗になった身体をたっぷりの湯に沈めるというのは、暑い日本の夏の愉楽であろうが、そういう生活をほとんど忘れている。

 私は、大田区の馬込、正確には馬込の南の桐里というところで育った。さらに南が池上、蒲田である。山王から馬込のあたりは九十九谷ともいわれる坂の多いところだが、その馬込の谷から南へ坂を上っていく、その登りっぱなのところに家があった。

 家からは馬込の一番南端の谷戸をくだって流れていく川すじの道が一望できた。銭湯は、その川にそって下っていったところにあった。家風呂を焚くときもあったが、焚かないときは、夕方、川のそばの道を行った。川の向こうには一・二軒の家しかなく、こちらがわもほぼ畠で風呂屋の向こうにもまだ畠があった。

 今思い出すと、馬込の丘の方にも銭湯があって、そっちにも行ったが、平らな池ぞいの道を行ったことの方が多かったように思う。叔母に連れられていくときは叔母は団扇をもち、帰りには氷をおごってくれた。

 今の大田区では考えられないかもしれないが、これは農村、田舎、村の風景である。柳田国男は、どこかで、私たちの民族あるいは民俗の原風景には、家居と田畠と道の夕暮れの景色があるといっていたように思う。そういうものは、私には、自然のなかで安息する感情の支えであったと思う。
 
 いま、京都での仕事のあと、新幹線で、京都は暑かったと書きだしてみて、風呂のことを思い出し、そして小さな頃の風呂のことを思い出し、新幹線の窓から風景をみていると、この列島の風景が、この五〇年にこうむった巨大な変化を思う。

 その富の蓄積と変化それ自体を否定しようというのではない。しかし、風景は、外側の自然においても内側の心の自然においても壊れた。それは何らかの形で修復されなければならない。
 
 それを否定するのではない。それとどういうように向き合ってきたか。あるいは、そもそもそのような原風景からの連続のなかで、自分の心象風景を維持してきたかといえば忸怩たるものがある。その悔いが先に立つ。
 
 さて、この一週間、ネットワークからも離れ、新聞も食事のときに入った食堂で、一回、夕刊をみただけという生活をしてきて、いまから東京に戻る。いま帰りの新幹線のなか。安保法案はどうなるのであろうか。八月後半には国際歴史学会の出張があるので(於、中国、「東アジア地震」の分科会に出席)、半ばまでには、一度国会前にいかねばならない。

 一昨日、帰宅。ジブリから『熱風』8月号が届いている。
 『特集、サツキとメイの家』を読む。

 2020年には「省エネ法」が個人住宅にも適用され、普通の木造の家を立てられなくなるという大問題である。「2020年は日本の家がなくなる日」(古川保)によれば「省エネ法」とは「縁側もふくめて部屋のすべての室温を20°Cにキープできる家にしなさい」ということで、住宅の断熱・気密化を法的に強制しようという法案であり、法自体の施行は決まっているということである。

 すでに新築の場合は、列島の何処に行っても似た工法になり、建築基準法によって、伝統的な(普通の)木造建築はきわめて立てにくい建築制度となっている。その上に、この法が施行されると、「サツキとメイの家」のような家は法的にまったく建てられなくなっていくという問題である。これは住宅産業の要求を支配政党が丸呑みしたためであるということである。亡国の政党である。

 これが、この列島の風景を劣化させてきた根本にある。これは本当に冗談ではない問題のように思う。国の形に文字通りに関わる大問題である。こういうことをやっている政党が一生懸命になっている法律、安保法制がいいわけはない。安保法制は氷山の一角である。この氷塊を沈めても、ほかにまだまだあるということだろう。

 その全体の構造が問題だが、先日のブロゴスに、平野貞夫氏の安保法制についての発言があった。下記のように明瞭なもの。


「安倍首相の思考回路が非常に不安定で、病的なものがあるとすれば、それを利用している日米双方の「安保コングロマリット」の操り人形になっているのでは、と見ています。弱肉強食の資本主義を推し進める資本家を背景に、日米の官僚、官僚出身の政治家たちがコントロールしている。私も自分の政治経験の中で、かつてその一部の人たちと議論したり、仲間だったことがありますから、よく見えるんですが、安倍首相はきちんとした哲学や思想、理念があってやっているわけではなく、そういう人たちに踊らされています。アベノミクスもその構造の一つですが、競争中心の弱肉強食型の資本家たちは、軍事や軍備拡大によって経済成長を図ろうとしています。過去、軍備拡張がどれほど人類を不幸にしたかといったことは、彼らはどうでもいい。そういう背景を私は感じます」。


 「競争中心の弱肉強食型の資本家たち」というのは、その通りなのであろうと思う。これを正確に認識して、勝手なことをさせないための包囲網が必要なことは明らかである。平野さんも、ここまで言った上で政治家としてどう行動されるのかが注目である。資本主義批判を正確にする政党が日本共催党しか存在しないというのは困ることである。資本主義批判、しかもアメリカと日本という世界資本主義の中心に存在する日本の資本主義を批判することなしには、やっていけない時代である。資本主義自体の問題とともに、日本資本主義の国民経済を壊し、伝統を尊重しない独特の性格をどうするかという問題である。
 

 中村政則さんがなくなった。『日本史学の30冊』の一冊に中村さんの『労働者と農民』をえらび、行きの新幹線で初校ゲラを読んでいたので、自宅からの連絡にショックであった。今日、お通夜。

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »