学史の原点から地震・火山神話をさぐる
やっと、「石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」という論文の基本部分を書き上げた。300枚を越えるものになってしまって、依頼された雑誌の間尺にあうかが心配である。あと2/3日のうちには仕上げないと次の出張のための準備ができなくなる。
『歴史のなかの大地動乱』を書くなかで蓄積してきた原稿をつかったが、御寺の仕事をした後、実質2週間、そして国際歴史学会の地震災害分科会のために中国へいっていた1週間を使って書いたもの。まだ体力はもつようである。しかし、中国の食事が身体にあわなかったらしく、胃腸の調子がわるかった。そういう中で過剰な情報を排泄できずに頭にためているというのは、圧迫感がきわめて強かった。帰りの飛行場の待合室では、我慢できずベンチに横になって寝た。
胃腸と神経は本当に連接しているのだ。こういう状態では腹がすわらない。文章が弱いのではないかと心配である。いまから印刷してチェックである。
昨日は研究会があったので、それに出席してから国会の集会にでたのであるが、ともかく、こういう仕事も基礎をつちかう仕事で、この国の社会と歴史の理解の「すき間」を少しづつでも埋めていくという意味はあるのだと思う。
昨日は14時から16時まで国会前の一定位置に立ち続けていた。12万の群集の一員として「すき間」をうめていた。歴史の仕事は、同じ「すき間」とはいっても過去の「すき間」である。それを埋めることと集会の「すき間」を埋めることに本質的な違いはない。
以下は最初の部分。
はじめに
一九四八年に発表された石母田正の「古代貴族の英雄時代」という著名な論文は、まだしかるべき研究史的な評価をえていない。この論文の達成と限界、そして誤りを確認することはきわめて重要である。私には、それが曖昧になっていることは、この国の「古代史」研究における戦後派歴史学の初心に関わる問題であるように思える。
この論文のことを考えるためには、まずその時代に戻って考えてみる必要がある。そこで、最近、たまたま目に触れた、岡本太郎の証言を紹介するところから始めたい。以下は岡本の『日本再発見ー芸術風土記』の出雲の項の一節である。
先日、石母田正に会ったら、大国主命は土着の神ではないという新説をたて、いずれ発表して定説をくつがえすと言っていた。出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり、大国主命の伝説も、むしろ近畿、ハリマあたりの方が本場だというのだが。
岡本太郎と石母田正の交友の経過は知らないが、気の合う仲間だったのであろうか。この文章がのった『芸術新潮』は一九五七年七月号だから、岡本が出雲を訪れたのは、その年の初夏らしい。だから、石母田が岡本に右のようなことを語ったのは、それ以前である。
石母田が出雲神話を論じた第一論文「国作りの物語についての覚書」は、この年、一九五七年の四月に刊行された『古事記大成(二)』(平凡社)に載り、第二論文「古代文学成立の一過程(上・下)は、同じ四月・五月に発行された『文学』(二五-四・五)に載っている。つまり、石母田は、おそらくこれらの論文を書いている途中か、書き終えた頃に岡本と話しているのである。これは、この時期の石母田の研究関心を示す重要な情報である。
岡本の文章の傍点部に注意されたい。「出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり」という部分である。これらの論文では、まだそこまでは踏み込んでいない。石母田はこれらの基礎となる論文を書き上げた段階で、その先の抱負を岡本に語ったのであろう。この出雲大社論が実際に論文「日本神話と歴史ーー出雲系神話の背景」に発表されたのは、二年後の一九五九年六月となった(『日本文学史三』(岩波書店)。
しかし、これによって石母田が「定説をくつがえし」、新たな神話論の方向を示すことに成功したかといえば、私はそうはいえないと思う。なにしろ石母田は歴史学の社会的責務にかかわる運動に大きな責任を負っていて多忙であった。私のように、平安時代・鎌倉時代を専門にしているものにとっては、一九五六年というと、石母田が『古代末期政治史序説』の刊行を終えると同時に、佐藤進一との協同研究を始め、いわゆる国地頭の研究に入った年であり、その結果としての「鎌倉幕府一国地頭職の成立」の発表は一九六〇年となった。この国地頭論が、いわゆる治承寿永内乱論、鎌倉期国家論において決定的な意味をもつ論文であったことはいうまでもない。凡人の常識からすると、この時期の石母田は、研究時間のほとんどを、それに費やしていたはずである。
そして、それを終えた段階でも、石母田は神話論に戻ることはできなかった。それはもちろん、神話論固有の難しさという問題があったろう。しかし、何よりも、石母田は、第二次大戦終了後も古代史のアカデミズムがぱっとしないのに強い危惧を感じて、ともかくも古代史研究に筋を通す仕事を急がねばならないと考えていた。よく知られているように、当時、『中世的世界の形成』の影響は大きく、直接の影響をうけた稲垣泰彦・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実などが群をなすようにして研究を進めていたから、あとは委ねてよいという判断があったといわれる。そして、この古代史研究への転進は、一九六二年の岩波講座(第一次)では「古代史概説」と「古代法」に最初の結実をみせ、一九七一年の『日本の古代国家』の刊行で完結した。
そして、一九七三年には『日本古代国家論』の第一部と第二部が出版された。この『日本古代国家論』(第二部神話と文学)のあとがきで、石母田は折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで「古代貴族の英雄時代」を再検討する課題に立ち戻ると宣言した。ところが、石母田は、その直後一一月に発病して新たな仕事をする条件を失ってしまったのである。これはいわゆる戦後派歴史学の学史では著名な経過である。
それ故に私たちは、第二次大戦直後の諸論文から、石母田の構想を読みとり、その概略と意義、そして限界と問題点を考えるほかないのである。そして、その中心はやはり岡本に石母田が語ったというオホナムチ=オホクニヌシ論である。その内容はさすがに見事なものであるが、しかし、現在の段階では詳細な再検討が可能となっている。本稿は、「古代貴族の英雄時代」から出発して、このオオナムチ論を点検しつつ、私説を述べることを課題としている。
Ⅰ津田神話論への石母田の批判ーーヤマトタケル論
まず論文「古代貴族の英雄時代」の内容にそくして、石母田の神話論を紹介していくことにするが、石母田が神話論の課題としたのが何だったかは、相対的に明瞭な問題であろうと思う。つまり、日本が帝国と侵略の道を歩み、アジア太平洋戦争を引き起こすうえで、神話にもとづく国家イデオロギー(皇国史観)は決定的な意義をもっていた。それを全面的に再検討し、神話とは、日本列島に棲むものにとって何を意味するのかを論ずることが、国民の歴史意識を考える上で欠くことができない。石母田は、そう判断していたのであろう。もちろん、石母田は、それを「古代」の社会と国家の形成過程論を構想するなかで解こうとした。その姿勢は本格的で、かつ強烈なものであった。なお、第二次大戦後の石母田が、このような高い地点から出発しえたのは、『日本歴史教程』の中心であった渡辺義通を囲んでもたれていたグループの一員として、戦争体制下においても神話の研究を蓄積していたためであることはいうまでもない。
(1)津田史学の評価について
「古代貴族の英雄時代」の「はじめに」は、古代史研究の誘惑的な魅力は「古代世界が成立してくる過程」において働いた「原始的な力といういがいにはない運動」「人間の原始的創造的な力」の発見にあるとはじまる。そしてそれを回顧する文学が「すべての歴史的な民族がその古代のある時期に制作する叙事詩(叙事文学)」であったのであり、「その文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない」とする(一~二頁、以下、頁数は断りのない場合は、『石母田正著作集』一〇巻の頁である)。もちろん、石母田が、神話を文学として検討するという姿勢をとったのは、学術的な方法論の問題であったが、そこには神話を一つの民族的な文化として受けとめるという趣旨が含まれていたことも明らかである。
問題は、これが津田左右吉の神話論に対する批判を含んでいたことである。よく知られているように、津田の『古事記』『日本書紀』の研究はリベラルで徹底的なものであった。それが天皇制ファシズムによって問題とされ、津田は大学から辞職するところまで追い込まれた。その津田が戦争の終了後にどのような発言をするかは歴史学者全体の注視をあびたが、津田は一九四六年四月に「建国の事情と皇室の万世一系の思想の由来」(『世界』)を発表し、天皇制とその文化を擁護する立場を宣言して、いわゆるマルクス主義に対する批判を展開した。これに対して同年六月、石母田は「津田博士の日本史観」を発表して、津田の史観を「余りに浪漫的な」として、その「歴史に優位する民族の範疇」に対する原則的な批判を行った。私は、この石母田の津田批判は歴史学と社会科学の方法論からいって当然の批判であると思う。
網野善彦が指摘するように、「戦後派」の歴史学にとって、ここに現れた津田と石母田の関係をどう考えるかは、一つの根本問題である(『網野善彦著作集』第七巻)。そこで網野は、津田に対する石母田の姿勢に「思い上がり」があったという厳しい感想を述べている。これは、当時、石母田のそばにいた網野の実感なのであろうが、ただこの網野の論評は、率直にいって、やや政治的すぎる発言となっていて、津田と石母田の間の学術的な論争の全体像をとらえていない。つまり、網野は、どういう訳か、一九四八年に発表された、この論文「古代貴族の英雄時代」における石母田の津田批判についてまったく論及していない。石母田は、この論文を起点として、神話論のレヴェルにおいて、津田左右吉との格闘を生涯の最後まで続けたのであるが、網野の視野には、この石母田・津田の根本的な関係、それ故に石母田が最後まで学問的な責任を取ろうとしていたことは入っていなかった。これは網野のような研究者にとっても、他の時代の問題となると、戦後派歴史学の学史の要部に関わる問題であろうと、それがみえていなかったことを示している。
石母田は皇国史観との戦いを担った津田史学を評価する点では人後におちない。津田史学が国家的なイデオロギーとの戦いのなかから生まれたという見方が石母田の津田史学に対する評価の基本であった。石母田は「記紀における英雄物語をそのまま歴史的事実として、あるいは歴史的事実に根拠のあるものとして考え、記紀の作者が後代の政治組織に適合するように意識的に述作した英雄物語をそのまま民族の英雄時代であるとしいる」(八四頁)、そういう国家イデオロギーに対して、津田は果敢に戦ったという。私も、津田の文献批判的な方法と業績を知らずに、この国で歴史家であることはできないと考える。
とくに重大なのは、この論文において、石母田は右の「津田博士の日本史観」で述べたような歴史学と社会科学の方法論に属する問題にいっさい言及することなく、むしろ津田の神話論を高く正確に評価した上で学術的な論述内容に議論をしぼっていることである。これが、石母田にとって方法論の相違以上に大事なことは明瞭なことであった。石母田は、『古事記』は、その基本的な性格としては、口承によって民衆の間に伝承されてきたような叙事詩、民衆の精神・感情・生活を体現しているような叙事詩ではないという津田の見解を承認する。そして『古事記』『日本書紀』などを古代貴族階級の精神的所産として読む津田の方法を共有すると明瞭に述べている。しかも、この段階で、石母田は、精神史の取り扱い方が、「歴史学的=唯物論的方法」において「従来あまりにも機械的俗流的であった」。その弱点を克服するためにも、津田に学ぶことが必要であるとして、津田史学の優位性が精神史的な視角にあることを認めている(四頁)。
津田は『古事記』『日本書紀』の神話史料について厳密な批判を加え、その枠組がきわめて強い政治性をもっていることを詳細に明らかにした。津田は、『古事記』『日本書紀』の記述には、中国六朝の神秘思想、神仙思想の文学的な影響が強いとしているが、私も、それに依拠して『古事記』から『竹取物語』へは中国神仙思想の影響が筋のように貫いていると論じたことがある(『かぐや姫と王権神話』洋泉社新書二〇一〇年)。倭国においては、少なくとも六世紀までは神話時代が続いており、奈良時代は神話時代から完全に分離していたわけではなかった。『古事記』『日本書紀』は、そういう時代に、隣接の中国・朝鮮からの急激な文明化の影響の下で生まれたものである。津田のいうように奈良時代の知識人は中国朝鮮の最新の文芸動向や神仙思想を受け入れ、それを下敷きにして自国の神話を語ったのである。『古事記』『日本書紀』の叙述の見事さは、ほとんどそれによっているといってよい。そして、逆にいうと、このような稀有な歴史経過によって、『古事記』『日本書紀』は、神話史料としては、世界でも珍しいほどに政治性が強く、見事な文芸作品という外見の下に強固な国家思想を秘めたものとなったというべきであろう。
石母田の津田批判が優れていたのは、それを認めた上で、「津田博士の方法からすれば、まさにこの点こそ稔り多き収穫が予想され」るにも関わらず、津田の記紀論が「記紀のあいだに見られる微細ではあるが重要な相違」を見のがし、「物語としての歴史的評価はほとんど果たされていない」と指摘したことにある(八五頁)。石母田が「文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない。歴史的事実であることだけが歴史の真理であるのではなく、文学的な真実もまた歴史学の事実でなければならない」(二頁)としたのは、その意味で津田への批判を含んでいたのである。たしかに石母田が「考証的学問が終わったと考えるところから実は真に学問的思惟を必要とする困難な問題がはじまるのである」と揚言していることは、考えようによっては石母田が津田の仕事を「考証的学問」と決めつける「思い上がり」のように読めるかもしれない。しかし、それは続いて「史家の文学史に対する無理解と文学史家の歴史的なものに対する無感覚は両者の協力と統一を困難なものとしてきた」(八五~六頁)と述べていることからも分かるようにむしろ歴史学と文学史・精神史の協同を呼びかけるという趣旨であると思う。石母田の津田批判は、いわゆる内在的な学術批判の節度をまもったものであったと考える。
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