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2015年8月12日 (水)

荘園をどう教えるか4(班田収受との関係)。

 やっと拙著『中世の国土高権と天皇・武家』という研究論集が出版jされた。

 そこで書いたことだが、「荘園をどう教えるか」という場合、それが班田収受制を壊して生まれるというのが決定的な間違いで、これがすべてを分かりにくくしているというのが私見である。

 だいたい、いわゆる大化前代のミヤケなどが、すべて無くなった訳ではなく、それは初期荘園に流入していったというのが、現在の学会のスタンダードな意見である。

 宮原武夫氏の先駆的な論文「班田収受制の成立」(『日本古代の国家と農民』、法政大学出版会)にあるように、そもそも班田とは「たまいだ」と読む場合があって、支配貴族に地方の田地をあたえたり、公認したりする側面があった。これによってミヤケ的な土地所有が律令制王国の国家的土地所有のなかに入りこんできたのは見やすい道理である。藤間生大氏の昔からいわれているように、初期荘園制と班田収受制は決して矛盾するものではなく、表裏一体であったというのが古典的な考え方である。荘園というのは系譜としてはミヤケから続くものである。7世紀から9世紀、10世紀にかけての土地制度は連続的にみなければならなqい。

 問題は、田地を民衆に割り付ける部分であるが、これは班田の「あがち田」的側面であるというのが宮原武夫さんの意見。「たまい田」と「あがち田」を班田収受制の二側面とするというのが宮原理論である。この「あがつ」というのは分配するというような意味である。これも平安時代に連続性をもって継受されたのであって、散田とか負名体制とかいわれるものがそれである。

 つまり私は、『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であると思う(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。

 土地所有の国家的な形式、つまり国衙が田地を割り付けるという形式自身は連続しているのである。

 普通は、ミヤケがあって、班田収受制で厳密な国有にかわったが、荘園がでてきてそうではなくなったというように話しがつなげられる。ところが国衙というものが残っているという説明になって、ここら辺で子供たちは何がなんだかわからなくなる。

 そこで言葉を覚えるだけということになり、それがわからないまま、室町時代まで荘園がでてきて、何がなんだかわからなくなるということになっている。これは最初からボタンを懸け間違ったためだと思う。これは「古代史学会」と「中世史学会」がほとんど議論をしないという日本の歴史学会の奇妙な風習のためにこうなっているのだと思う。

 以下、上記拙著の一部である。

日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載した。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

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