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2015年8月19日 (水)

大地動乱、700年周期説

Kahoku

 大地動乱、700年周期説という議論をした。河北新報2015年8月16日の記事である。

 以下は、報告のために用意した原稿。そこまでは周知のことなので、今村明恒の議論の紹介のところまで掲載する。

  日本列島を襲う大地動乱には、ある種のサイクルがあるという考え方がある。それを一番最初に述べたのは、関東大震災を予知して、警鐘をならした有名な地震学者、今村明恒である。今村は、列島における地震活動の「旺盛期」を(一)六八四年~八八七年の二〇四年間、(二)一五八六年~一七〇七年の一二二年間、そして(三)一八四七年以降の三期にわけた。現在は直近の地震活動の「旺盛期」、いわば「大地動乱の時代」が始まってからすで一五〇年以上も経過していることになる。

 この今村の見解については、現在を「大地動乱の時代」が深まった時代と考えることが適当かどうかももふくめて、以下で詳しく紹介するが、もし、そのようなサイクルがあるとすれば、それは、この列島上に棲む人びとにとってもっとも重要な知識だろう。もしこれが成立するということになれば、学校教育において重要な理系の基礎知識として伝えるべきことになるはずである。それは、この列島に居住するものの世界観や自然観、そして歴史観に深く関わってくる。

 もちろん、現在の研究段階では、「大地動乱の時代」というべき地震・噴火などの超長期的な周期・サイクルというものが、本当に存在するのかということ自体が自明ではない。なによりも、そのような議論を厳密な科学的手続きにそって組み立てるためには、過去の地震や噴火について地質データをひろく蒐集してつきあわせ、それを各地の考古学的な資料、文献史料、さらに現代の観測データと照らし合わせる大規模な作業が必要となる。しかも、列島の居住者にとって決定的な意味をもつ仕事である以上、それらの調査・研究のデータは、一件一件、正確に照合し、記録して保存し、後に検証ができる形で蓄積されねばならないはずである。

 現在の日本の国家のきわめて貧困な学術政策のなかでは、このようなどうしても必要な研究・調査においても予算・人員が圧倒的に不足している。その中でも、研究者は必死の努力をしているが、本格的な研究成果が確定するまではまだまだ長い時間がかかるだろう。

 私は、三・一一東日本大震災の後に、地震学、地質学の研究者が東日本大震災の1年以上前から、9世紀の津波の浸水域やその震源断層などに基づいて、巨大地震発生の可能性を行政に対して警告していたことを知った。また関東大震災発生を予知し社会的に警告していた地震学者、今村明恒が第二次大戦前から、超長期の周期的な大地の動きの分析や、9世紀の大地震の研究の必要性を指摘していたことを知った。私は『かぐや姫と王権神話』という本を三・一一の前年に書いて、かぐや姫は火山の女神だと論じたこともあって、地震・噴火の史料をみてはいたが、このような動きはまったく知らないままであった。

 これは私にとっては大きな衝撃で、歴史学は本気で地震や噴火についての研究をしなければならないと思いを決め、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いたが、それ以降も、地震学・火山学の成果を勉強することにつとめてきた。しかし、その中で痛感させられたことは、歴史学の内部でも時代毎で議論するだけではなく、列島の歴史の全体にかかわる通史的な問題として地震・噴火を議論しなければならないということであった。このような問題については、歴史学は、「古代・中世・近世・近代」というような形式的な時期区分を離れて、時代を超え、領域をこえた議論を組み立てることに意識的になる必要がある。地震学・火山学との学際的な議論を組み立てていくためには、どうしてもそれが必要だろうと思う。

 そういう考え方の下に、検討の枠を出来る限り日本史の全体に広げて考えるために、今村以来の地震学・火山学の研究史を確認し、それを歴史学の側で受けとめようとしたものであって、もっとも重要で中心的な部分である。

 その結論は、一言で言えば、日本列島での地震や火山活動にはだいたい七〇〇年前後という周期をもって活発になる「大地動乱」というべき時期があり、そしてそれが歴史の進行にも大きな影響をあたえたという点にある。後に詳しく述べるが、その七〇〇年周期とは、第一が紀元前後を起点とする時代、第二が七世紀末期から一〇世紀末頃までに至る時代、第三が一五世紀半ばから一八世紀末期に至る時代と区分できる。そして、現在は、二〇一一・三・一一東日本大震災の後、おそらくちょうど紀元後第四の動乱期に入った時代ではないかと想定している。

 事柄が重大であるだけに、このような仮説を歴史学の側から提出することについては厳しい批判があるかもしれない。地震学・火山学について勉強してきたとはいっても、それは、ここ二・三年のことであって、私自身、基本的な点で理解が及んでいない部分も自覚している。しかし、この七〇〇年前後という周期の設定は、冒頭にふれた今村の地震活動の「旺盛期」についての見解を最大の前提としたものであって、決して自己流でひねり出したものではない。もちろん、今村の見解は一九三六年、すでに八〇年近く前に発表されたものであって、それは、そのままでは利用できない。しかし、最近、石橋克彦は『南海トラフ巨大地震』を発表し、日本列島を襲った歴史地震についての総合的な枠組を明らかにした。これによって歴史学のような社会人文科学の側からも議論状況が理解できるようになったのである。この石橋の著書については後に詳しく説明するが、本章は、この書によって、今村から石橋につながる日本地震学の正統的な研究史をあとづけてみた作業を前提としている。

 もちろん、上記の七〇〇年仮説は、現在のところ「素人」の仮説にすぎず、そこに何らかの意味があるかどうかは、地震学・火山学などの地球科学の仕事が決定することである。しかし、歴史学としても、それらに学び、議論に積極的に参加していくべきではないだろうか。以下に述べるように、「大地動乱の時代」において自然と大地の動きは、歴史社会の動きと変化に大きな影響をあたえた。それは災害史、環境史などから経済史にいたるまでのすべてにかかわってくる。またさらに、深いレヴェルで日本の文化論の基礎にもかかわってくるだろう。大地動乱の動きに規定される歴史社会の様相が明らかになることが、大地の歴史、自然の歴史の自然科学的な分析のための一つの補助線となる可能性も否定できないように思うのである。

「大地動乱」のスーパーサイクル
今村明恒の仕事から
 さて、この節では日本列島を襲う大地動乱のサイクルという問題にかかわって地震学・火山学がどのような議論をしているか、その議論のなかにふみこんで紹介しておきたい。不慣れな分野についての紹介であるので誤りのあることをおそれるが、ともかく、このような議論が各時代の分析にとってどうしても必要であるという事情を推察していただければ幸いである。

 さて、出発点は、最初に述べたように今村明恒が日本列島において、次ぎの三つの時期を「地震活動の旺盛期」としたことである。

 Ⅰ六八四年~八八七年の二〇四年間
 Ⅱ一五八六年~一七〇七年の一二二年間
 Ⅲ一八四七年以降

 今村が、これを述べたのは、すでに八〇年前、一九三六年に発表した「日本における過去の地震活動について」という論文でのことであった。この論文で、今村は、「本邦の地震活動には次の如き3回の旺盛期のあったことが見られる」と、明瞭に上記の三期を上げたのである。

 詳しく説明していくと、まず第一期の初めとした六八四年とは、土佐で大きな津波があったことが知られる南海トラフ大地震である。終期の八八七年も南海トラフ地震で、太平洋岸全域を襲ったが、信州の八ヶ岳が大きな山崩れを起こしたことが知られ、あるいは東海地方の揺れの方が強かったのかもしれない。今村は、ようするに二回の南海トラフ地震の間の時期を地震旺盛期としたのである。

 次ぎに第二期の初めを画した一五八六年とは美濃を中心として北は越中、南は近江・伊勢におよんだ大地震で、飛騨の帰雲城が壊滅したことで知られる地震である。終期の一七〇七年は、これも南海トラフ地震であって、東海地方以西を襲った日本史上最大クラスの大地震・津波であった。この地震から四九日後に、冨士の大噴火が起きたことはよく知られている。

 第三期の初めとした一八四七年とは、長野の善光寺周辺を襲った激しい内陸地震で、善光寺に参詣していた人をふくめて、九〇〇〇人近い人が無くなったという地震である。この第三期の開始は、第二期の終期と一五〇年もあいておらず、それに対して、第一期と第二期の間は、七〇〇年の間があいている。これは、日本列島を襲った三回の地震の旺盛期というものを考えるという今村の論文の趣旨からすると、ややおかしなことであるように感じるが、今村としては統計上の結果に素直に従ったということである。

 つまり、善光寺地震の一八四七年は、今村が、この論文を執筆した一九三六年の九〇年前にあたり、今村はその半分を四五年を単位として、地震の歴史記録の残る七世紀からのすべての統計をとった。おのおのの四五年の間にどの程度の強さの地震がおのおの何回ほどあったかを数え上げ、それによって、どの四五年間の地震活動度を機械的に数値化したのである。そうすると、一八四七年からの地震活動度が、それ以前と顕著に区別できるほど上がったという訳である。それ故に一八四七年以降を地震旺盛期の第三期としたのは、この時代以降になると地震記録も増えるという統計上の見かけの「旺盛期」という側面が強いことは今村も自認しているところであるから、現在では、この第三期の設定は、そのまま採用するのは適当ではないということになる。

 しかし、「Ⅰ六八四年~八八七年、Ⅱ一五八六年~一七〇七年」という二つの地震活動の旺盛期の設定は、今村も協力した大部の地震史料集、『大日本地震史料』の周到な統計処理によったものであるから、その骨子はいまだに生きているといってよいように思う。

 とくに、今村が、このように地震活動の旺盛期を措定した理由を次のように述べていることは注目されるところである。下記にその部分の全文を引用しておきたい。


「余が上記の如き見解に到達したのには別に次の如き根拠もあろ。
1)地震津浪は近海海底に於ける大規模地震の発生を意味するであろうが、この活動の旺盛期が正しく上記地震活動の旺盛期と一致している。例えば三陸太平洋沿岸に於ける大津浪中特に規模の雄大であったのは貞観一一年(西紀八六九年)、慶長一六年(一六一一年)のものであって、明治二九年(一八九六年)のもの之に次ぎ、昭和八年(一九三三年)のもの又之に次ぐであろうが、此等が何れも上記地震活動期の旺盛期のみに起こったのは特筆すべき事実と云わねばならぬ。
2)関東地方に於ける地震の大活動が等しく上記の如き傾向を示すことである。余の研究の結果によれば、著名なる地變特に三浦半島、房総半島等に於ける大隆起を伴える大規模の地震としては弘仁九年(八一八年)*3、元禄一六年(一七〇三年)及び大正一二年(一九二三年)の三個を挙げることが出来る。即ち此等何れも上記の活動旺盛期に起こったのである。
3)火山の噴火に由る勢力の消耗は地震発生に由る勢力消耗と同程度のものがある。最近に於ける有珠岳桜島等の爆発に伴った陸地變形が一の局部的破壊地震に伴う陸地變形に匹敵するものであったことは両方の現象が質に於いてのみならず、量に於いてもまた対等なものたるを示すであろう。されば地震活動の経過を追跡するに方って火山活動の進行を無視する訳には行かぬ。此の見地に於て事実を検討してみると、富士山の最も著しき爆発であった貞観6年(864年)と寶永4年(1707年)とのものがそれぞれ地震活動旺盛期の第1期と第2期とに起り、其他の時期に於けるものには何れも軽微なもののみであった」。

 ようするに、先ず1)では奥州三陸沖の大規模な津波が第一期、第二期、第三期にかならず発生していることを指摘する。これは、現代風な言い方をすれば、太平洋プレートの沈み込み日本海溝地震の発生が、各時期を標識するということであろう。そして2)の「三浦半島、房総半島等に於ける大隆起を伴える大規模の地震」というのは、やはり現代風な言い方をすれば相模トラフ地震が周期的に発生しているということを主張したものである。相模トラフの動きにともなう南関東地震は、今村のいうように元禄16年(1703年)の後、約二〇〇年後、大正12年(1923年)に発生しているが、この地震は二〇〇年周期をもつらしいというのが石橋克彦が論じているところである。さらに、3)は火山活動の進行は地震活動の旺盛期とほぼ対応するという考え方に立って、とくに冨士の大噴火が第一期・第二期の双方で起きていることに注目している。

 このように、今村は火山活動をふくめた「地下の緊迫した状況」「地下活劇の分布」を大観して、地震活動の旺盛期を設定しているのであるが、さらにその基礎には、日本列島における地震帯の系統を整理する作業があったことも注目しておきたい。その作業を示すのが、今村が、右の論文の付図として掲げた図①から③である。今村が、この図にそって指摘した地震帯を、現代の地震学の成果を勘案し、大別して再整理すると次のような区分となるであろう(なお丸数字が今村の整理番号である)。

 (1)南海トラフ地震(①南海道沖、②東海道沖)
 (2)日本海溝地震(③三陸沖)
 (3)アムールプレート東縁変動帯(⑥津軽系、⑦庄内系、⑨能登佐渡系、⑩白山系、④東横断系、⑤西横断系)
*今村のいう横断系とは本州を縦断する二系統の地震帯のことで、東横断系は佐渡→信濃川流域→関東西部→相模湾に抜け、西横断系は日本海から越前→濃尾平野→伊勢に抜ける地震帯である。いわゆるアムールプレート東縁変動帯とすべて一致する訳ではないが、相対的に類似した把握となっているように思う。

 これにつけくわえて、今村が「活動旺盛期、特に第一期・第二期は、その期間長からざるに拘わらず、地震活動がこの間に本邦における地震帯の全系統を少なくも一巡しているようにみえる。これは全く偶然の結果かも知れないが、しかし、各期における活動の原因が広く全日本に対して働きつつあった一勢力にありと見るとき、斯様な現象の起こるのもむしろ自然のように思われる。過去一三〇〇年間中、もっとも旺盛な活動をなした系統は南海道沖地震帯であろうが、第一期及び第二期活動旺盛期の何れの場合においても、活動の先駆をなしたものは、此の系統に属し、殿りをなしたのも、また此の系統のものであった」と述べているのも重要であろう。これはやや抽象的な言い方であるが、今村は、この論文に大地震の発生年代を書き込んだ列島の地図を、その措定する地震旺盛期の説明として掲載している。それを参照すると、今村が、具体的には、「六八四年~八八七年」の地震旺盛期については、六八四年の南海地震を「活動の先駆」、八八七年の南海地震をその「殿り」とし、「一五八六年~一七〇七年」の地震旺盛期については、一六〇五年の地震を「活動の先駆」をなす南海地震、そして一七〇七年の南海地震を、その「殿り」としていることがわかるのである。

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