老子74
アーシュラ・K・ルグィンの「Lao Tzu Tao Te Ching」、老子の英訳を読んでいる。
眠れぬまま、老子74を訳してみた。これまでの訳は、ルグウィンのものもふくめて、老子を政治的に読み過ぎているように思う。
人が死に近づいていく定めを怖れなければ
死は禍々しい姿をみせない。
禍々しい死への怖れが人に常に取り付いてしまうのは
どこかに悪の親玉が生まれているからである。
彼を捜し、おのもおのもの力を集めて殺さねばならない。
それを首切役に委ねてはならない。
首切役は自分の役目を大工が木を切るのと同じだと考える。
人の首を木のように切る大工の手は癒えない傷をうけ、そこから腐敗がはじまる。
ある友人に教わって加島祥造「タオ」を頼んだら今日、届いた。しかし、これもどうかと思う。老子のいうことはもっと個人的なことのような気がする。友人は老子のずるさ俗的に賢いところがきらいだといっていたが、そこまではまだみえない。倭国神話のことをやり始めて、荘子を読むことはどうしても必要になり、その延長のようにして読んでいるが、面白いうものだ。
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