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2015年9月27日 (日)

村井康彦氏の『出雲と大和』について


 村井康彦氏の『出雲と大和』は「古代史」学会では無視されている。ある人に感想を聞いたところ、まったく無意味、そんなことを聞かれて意外だという反応があったのが記憶に新しい。

 私は重要な仕事だと思う。もちろん、村井さんの専門は平安時代史だから、「古代史」からみて素人の仕事だという反応はありうるだろう。方法的にも、史料批判の上でも意見はありうる。しかし、「素人」が正しいことをいえるというのが、歴史学という学問の本質に属することだと思う。

 「石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」という論文の初校を終えた。そこで、村井氏の仕事は、石母田正氏の出雲神話論に直結すると書いた。その部分を下記に引用しておく。

 (1)石母田の出雲神話論
 なぜ『古事記』においてオホナムチが重要な神格として登場し、「出雲神話」がヴィヴィッドに描かれたのか。

 石母田は、『日本書紀』におくれて成立した以上、出雲神話部分の成立を七世紀半ば前後の成立と考えるという点から出発し、当時、出雲神話が強調される伏線として、第一に、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の「是歳。出雲国造<名を逸せり>に命せて、厳神の宮を修めしむ」という大修造がされたこと、第二に、壬申の乱において出雲国造の一族と考えられる出雲臣狛なる人物が活躍していること、第三に、壬申の乱においてオホナムチの子神、事代神が神武イワレヒコの陵に馬・兵器などを奉納せよという託宣を下したことなどの事情を上げた。

 石母田は、これらは大和に分布する出雲系氏族の進出を反映しているとした。とくに第三の事代主の託宣が神武陵への幣物の奉納であったことは重要で、これは神武以下三代の后が事代主神あるいは大物主神という出雲系諸神の出自をもっているという神話に反映している。またイワレヒコは熊野で体制を立て直すが、この物語の背景には熊野と出雲のあいだの深い氏族的・神話的な関係があるとした。『古事記』『日本書紀』において神武紀はもっとも成立が新しいものとされるが、そこには、このような背景があったというのである。

 さらに石母田は、「天武天皇の『意思』について」という節をもうけて、このような動きは、天武が出雲神話の位置を強調したためであろうと論じ、それによって地方社会をふくむ広汎な族長層、氏族・階層を対象とする物語としようとした。それは『古事記』が個々の氏族の神話的由来を神々の血族的体系の一部として位置づけようとしていることに関係していたという。そして『古事記』を文学的な記述としようという以上、専制者、デスポットとしての神権的な物語の位置を高めるためには、その理念とは異質の世界をそれなりに説得的なものとして展開せざるをえないのだという。「津田博士のようにそこに単純に出雲人のしわざ=作為を見出すのではなく、また松村博士のように、『天皇氏神話圏』と『出雲系氏族神話圏』とを分離することによって解決するのではなく、なぜ天武天皇は、その政治理念を『古事記』によって具体化するさいに、出雲系の異質の物語を取り入れざるをえなかったのかを、主体の矛盾として問題とすることにある」というのが石母田の観点である。

 このような石母田の見解は、すでに述べたように、オホナムチを畿内から播磨、出雲までを覆うような広い神話圏をもつ文化的英雄神ととらえたことに深く関係するものであったことはいうまでもない。そのような神であったからこそ、デスポットの神権制に対する対抗者、対抗神話として描き出す価値があったというのが石母田の言いたかったことなのである。私なりに敷衍していえば、『古事記』の出雲神話は、そのような神をいわば出雲に局限された神として祭り籠めるという過程を反映していたということになるだろう。

(2)村井康彦『出雲と大和』の観点

 このような石母田の構想は基本的に継承するべきものであろう。はるか以前に、このような見通しを示した石母田の天才はさすがであると思う。私は、まだ十分に石母田後の出雲神話論の研究史を追跡した訳ではないが、これまでそこから大きく抜け出た仕事はなかったのではないだろうか。

 しかし、最近、村井康彦『出雲と大和』は、そこに新たな分析を付けくわえることに成功した。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。

 村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発するようになったというのは有名なものがたりである。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで斉明が杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。

 この村井の議論は、石母田のいう「主体の矛盾」を見事に正確に示したものであるが、邪馬台国は出雲勢力が立てた国であったという鮮明な主張を追求するなかからでてきたものであるという意味でも興味深い。邪馬台国論は、ここでは論ずることはできないが、出雲と大和のあいだには、本来、領域的な一体性があり、オホナムチの信仰は出雲にはじまって、その全域に及んだとされるのである。私も有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程は日本海ルートで丹後を経過したものとする小路田泰直の新説*25に賛同して、『かぐや姫と王権神話』において、丹後から大和の一帯がヤマト王権膝下の広域地域であったことを論じ、そのなかに丹後奈具社から大和広瀬神社をむすぶ月神・豊受姫の信仰域をみることができると論じた。オホナムチの出雲から大和を覆う信仰域もそれに重なるものであるということになる。
(3)七世紀の地震と斉明・天智・天武の母子王朝
 私は、この村井の意見に、さらに七世紀にしばしば大和飛鳥を襲った地震の影響を付け加えることができると思う。(以下略)。

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