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2015年9月28日 (月)

『老子』22 一つの熱いものだけを胸に抱く

 網野善彦さんの口癖が「負ければ勝ち」というものであったことを聞いた。『老子』でいえば「曲則全、枉則直」というものだと思う。この種の人生訓というのは、昔は漢文で、中学校の授業できいた。歴史家からは、なんといわれるかわからないが、そういうことは必要なように思う。いわゆる東洋哲学は、漢字で思考をせざるをえない、漢字で思考をする人間には必要なものだと思う。

 「聖人j」という言葉が訳しにくいが、「昔、神の声を聴いた人jとやってみた。大塚久雄さんは、旧約聖書の神は微声で語るといい、ある随筆には、きわめてきつい経験をしたとき、そういう声を聞かれたともあった。網野さんの仕事にあるように、この列島の神も微声で語った。
 


22 一つの熱いものだけを胸に抱く
 曲折が多い方が真っ当なものになれる。枉道(横道)に入らなければ正道はわからない。へっこめば満たせばよい。服はすり切れたら新しくすればよい。少ない方が有り難い。多ければ迷うのが人間だ。それだから、昔、神の声を聴いた人は一つの熱いものだけを胸に抱き、世界の謎を了解するための式を作ったのだ。力んで見ようとしないから、世界が明らかになるということがある。自分だけで判断できないと感じるから逆に明瞭になっていく。自分で闘うことをあきらめれば、かえって実を結ぶものだし、自分に自信がないところほど長所になっていく。こうして争わないと悟れば、世界は争いではない姿をみせる。「曲なれば則ち全し」というのは(日本の)古い諺だと「負けるが勝ち」ということだ。これは嘘ではない。私たちは本当に真っ当になって、世界に戻っていかねばならない。

曲なれば則ち全く、枉なれば則ち直し。窪めば則ち盈ち、敝るれば則ち新たにす。少なければ則ち得、多ければ則ち惑う。是を以て聖人は一を抱きて、天下の式と為す。自ずから見さず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰る。自ら伐たず、故に功有り。自ら矜らず、故に長し。夫れ惟だ争わず、故に天下も能く之と争う莫し。古の謂うところ、曲なれば則ち全しとは、豈に虚言ならんや。誠に全くして之に帰す。

曲則全、枉則直。窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫惟不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。

解説
 老子の人生訓については、その優柔不断な消極主義を指摘したり、逆にそれがふてぶてしい居直りや図々しさ、あるいは狡さを意味するという見方がきえない。しかし、「負けるが勝ち」というのは、愛情であり、愛惜である。ここにあるのは、ともかく人間は全力で生きているのだという観察であり、それを結果からみて、その全てを認めようという考え方である。そして、私たちは本当に真っ当になって、世界に戻っていかねばならないという呼びかけである。"Be broken to be whole," was that mistaken? Truly, to be whole is to return.

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