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2015年10月

2015年10月29日 (木)

『老子』第七章。天長地久と天壌無窮。そして老子は処世法か

 老子の現代語訳のテキストをいくつか集めたが、かなわないのは一種の世俗的な処世法として老子を読もうとする本である。昨日も図書館で一冊をみたがあわてて返した。むしろ老子は徹底的に危険な思想として読む方がよい。
 以下は老子における「宇宙の生成と神話」として考えている一項。


天は永遠に長く、大地も久しく時を刻んできた(第七章)
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自らを生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ、其の身を外にして身存す。其の無私なるを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。

天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶、故能成其私。

 天は永遠に長く、大地も久しく時を刻んできた。天地がよく長く久しく続いている所以は、それが自分の発生を意識しないまま存在しているからであり、だからこそかえって、よく長生しているのである。これと同じように、神の声を聞こうとする人も自身の身体を意識しないので、後ろから進んでいくようであるが、結局、その身は先頭に立つことになる。彼らは自身の身体を意識しないので外側にはずれているようであるが、結局、真ん中にきてしまう。それは彼らが無私であるためというべきではないか。だからかえって、彼らはよく自己を成熟させていくのである。

解説
 冒頭の「天長地久」という言葉は、きわめて有名なもので、普通、天地の安定を謳歌する、おめでたい文句であるとされている。明治時代には天皇誕生日を「天長節」といったが、本来、天長節というのは、絶世の美人とされる中国の楊貴妃の夫の玄宗皇帝が自分の誕生日を祝日としたのが最初である。老子は李氏と伝承されており(司馬遷『史記』)、唐王朝(六一八〜九〇七年)の帝室も李氏であったために、天子の長寿を祈る祝日を天長節と称したのである。日本でも光仁天皇が七七五年(宝亀六)十月十三日の誕生日に天長節の儀を行なった。しかし、日本では誕生日を祝うという慣習自体が根付かず、以降、天長節の名も記録にみられない。それが復活したのは、一八六八年(明治一)のことで、しばらくして天長節祭という皇室祭祀で祭られた。なお「天長地久」というのは「天壌無窮」と同じことであって(「壌」は地の意味)、天照大神の「天壌無窮」の神勅というものが、万世一系の天皇の神聖な位置を表示するものとして「打ちてしやまん(敵を討ち滅ぼすまで止めないぞ)」というスローガンと一緒になって、戦争中に叫ばれたこともよく知られていよう。この天長節が文化の日(十一月三日)に姿を変えたのは第二次世界大戦後のことである。ここには、長期にわたる東アジアの政治文化が隠されているのである。

 しかし、「天長地久」という言葉それ自身も『老子』にあっては決して単に目出度いというものではなかった。『老子』五章には「天地は仁ならず」「聖人は仁ならず」という強烈な思想があることは少し前に紹介した通りである。天地は人間とは関わりなく存在して人間を吹き飛ばすものでもあったのである。老子は、そういう天地と歴史の現実をふまえた上で、人間は天地と同じように、「自らを生ぜざる」という覚悟をもたねばならないというのである。これは自己意識の過剰を放棄するということであろう。

 この章の解釈で、一番問題にされてきたのは、それに続く「是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ」という部分である。これは、普通、「聖人はわが身を人の後ろにおきながら、それでいて自ずから人に推されて先立つ」などと訳されるが、これでは、意識して人の後ろについて、推薦されるのを期待するということになりかねない。これでは「老子のずるい処世法」「計算された功利主義」ということになりかねない。以上を前提にすれば、右に現代語訳をかかげたように、老子は、禅の言葉でいう自己の放下を支持しているのである。それが人の後ろであれ通常をはずれた位置であれ、それは二次的な問題だというのであって、これは「曲なれば則ち全し(負けるが勝ち)」の思想と同じことである。これを「人に推されて先立つ」ことを期待できるなどというニュアンスで読んでしまうのは、前半の「天長地久」の意味が読めていなかったことを示している。

2015年10月28日 (水)

 瞑想論というテーマ。必要があって、以前書いたことの再掲載

 瞑想論というテーマ。必要があって、以前書いたことの再掲載(20120315)
 読書とネットワークということを考えると、若い人は所有するものとしての本に、魅力を感じなくなっているのだろうと思う。それは、所有というよりも、まずは本が消費の対象にもならないということかもしれない。消費はやはり一種の「虚飾」や「流行」を必要としている。現在の「流行」「虚飾」の世界の中では、自分自身の意思で、何かを買おうという場合に、本を買おうという消費意識がでてこないのはやむをえない。
 しかし、本というものは、そもそも所有しなければ話しにならない。「一冊の本、あるいは一枚の絵について、本当にはっきりした見解をもつためには、それを所有しなければならない」のである。これはリルケの『フィレンツェだより』の言い方で、リルケはそれにつづけて

「わたくしが使いなれている一冊の本は、本当に親しく自分の歴史をわたくしに語ってくれる。わたくしがその本を使用すればするほど、今度はわたくしの方がその本に自分の話を聞かせたくなり、本は聞き手に廻るのである。友だちになった本は、喜んでこの楽しい役目の交換を引きうけてくれる。そこから予見できない情況が生まれてくる。時がたつにつれて、本は実際に印刷されているものの十倍もの内容を持つようになる」

といっている。

 こういう本への対し方が大学生の中で消失しつつある。大学にいるとよくわかるが、そもそも知識人世界でも、実際上、そうなっているのだから、これはいわば必然のことである。それにもかかわらず、いわゆる「情報化社会」(あまりいい言葉ではない)にふさわしい親密な知性のあり方が生まれていないのは、おそるべきことだ。同じ『フィレンツェ日記』の言い方だと、

ああ、早く来すぎた人々の痛ましい苦悩。彼らは蝋燭に火が点けられて玩具が輝くより前に、ノエルの木の部屋に入った子供たちのようである。彼らは敷居から立ち去ろうとしながらも、この興ざめた暗闇の前に、彼らの哀れな眼がそれに馴れるまで立ちつくすのである。

 
 ということになるだろうか。情報化の圧倒的な波が形をとる前に、大きな横波にさらされている若い人たちは、本当にたいへんだと思う。彼らは小船を組み立てる前に、突風にさらわれ、薄板にすがって底知れぬ海の上を漂っている。
120315_230418

 この『フィレンツェだより』は、森有正の訳したもの。仕事の出張なので、ちくま文庫の一冊だけポケットにいれてきた。これを読むことによって『マルテ』や『ドウィノ』がリルケの立場から具体的に理解できるように思う。
子供部屋のたとえなどは『マルテ』そのものである。
 
 リルケが「所有」という言葉によって「本」を語っているのは、『ドウィノの悲歌』の「T・U・タクシス夫人の所有から」という副題の意味を明瞭に物語っている。高校生の頃に読んだ時は、この奇妙な副題の意味がわからなかった。タクシス夫人の『リルケの思い出』を読んでも、何も分からなかった。それが今頃分かるというのは、とうとう「本」を「所有」した。または所有されたということであろうか。
 小さなものの所有、しかも意識と知識と感情に直接にかかわってくる、それとして物質的な効用のないものを所有する親密な意識。リルケの『フィレンツェだより』は、19世紀末期に成立した文化的公衆というものへの批判と位置づけられるのであろうが、公衆の成立、読書の成立の中で、ぎゃくに「本の個人的な所有」、ほとんど身体的な個人的な所有という意識が鮮明になったというのが興味深い。

 私は、中井正一が好きなので、こういう問題を「委員会の論理」その他の、彼の仕事を通じて考えることになるが、中井の議論との関係では、このような「本のあり方」をどう考えるかが問題となる。以前も書いたと思うが、中井の言い方では、紀元前後以降の「経典」の誕生は、世界宗教の信仰集団の共有物として形成されたと説明することができ、それはその背後に直接に教団というネットワークをもっている。日本の宗教史でいう「聖教」というものであって、この聖教と経典の所有は寺院ないし教団の「財」であって、個人が管理するとしても、組織的な所有の対象なのである。そして、中井の言い方では、経典の共同所有に対応するものが「瞑想」であるということになる。一般に瞑想は個人的なものと考えられがちだが、実際には、瞑想のための共通する手段が与えられることで「瞑想」も可能になるというのが、中井の見解の独自なところだろ思う。「瞑想」には共同性が前提になっているというところがキーであると思う。
 中井の見解を敷衍すれば、これに対して、「近世」における中国の宋代に由来するブックの形態の一般化が、ヨーロッパでグーテンベルク革命をへて、近代社会へ向かうということになる。もちろん、ヨーロッパの職能集団、ギルドが共有のアーカイヴズをもっていたことはよく知られている。実際に、ヨーロッパのアーカイヴズは、ギルドによる組織的な文書所有からはじまっている。それは教会のアーカイヴズと共通する側面があるのだろうと思う。しかし、それらは権利にかかわる世俗文書であることが決定的に違っている。それは瞑想の手段でも対象でもない。それは、契約の文書化と技術の記述という手工業から資本主義にむかう社会的・経済的趨勢の中で蓄積される。そして専門職の中での科学技術が大量の手引き書としての本を作り出すのである。こうして知識・技術・情報の私的所有の担保としてのBooKが展開したのだと思う。すぐにそのページにたどり着くことができる「本」。瞑想・記憶・崇拝の対象ではなく、参照する対象としての「本」、小規模な外部記憶装置としての「本」である。
 リルケがいっているのは、その最終局面。19世紀における「公衆」という形での公共圏、読書というものが形成される中で起こったことなのであろう。私は、読書やリテラシーについての研究が全体としてどうなっているのかをしらない。しかし、こういう点では、私たちの世代とリルケは私たちの時代の先頭にいた先輩であって、私たちの世代がリルケの世代に属することは実感的に理解できる。
 いま「情報化」によって起きようとしていることは、こうした「経典=集団所有」というシステムから、「本=個人所有」というシステムへの転換を、ある意味で逆転させること、つまり「サーバー=集団所有」のシステムへの転換である。そこに新たな共同性を獲得することによって、「瞑想」の世界を復権する。外部脳の連携を武器として、新たな連携と連帯を構想する。それを瞑想と内省として形作ることが、必要な時代になっている。
 この場合、決定的なのは、ネットワークの向こう、コンピュータ端末のむこうでむすばれている集団への帰属意識の問題なのであろうと思う。若い人々が、その意味で、本の身体的所有からはなれ、ネットワークの向こうを注視して生きていくのは、きわめて自然なことなのであろう。その場が、その部屋がリルケのいうような、「早すぎた人々」が立ちすくむ小暗い部屋でないことを望むばかりである。そして、そこから、ときどきは戻ってきて、やはり「本」を中心とした日常世界の身体的所有の親密さを大事にしてほしいとも思うのである。

歴史学における史料の読み。

以下は、『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院)の第一部序史料の読み

趣旨
 歴史家が歴史書を読むのは当然だが、同時に何よりも史料を読むのが好きでなければ始まらない。それは研究のためだけではない。歴史家は歴史文化財の保護・保存、アーキヴィストの役割をもたねばならないから、史料を読むことが好きでなければ仕事がつらくなる。
 しかし、現代日本の学校教育では歴史学の位置が決して高くない。そもそも伝統文化の理解に必須の漢文や書道さえ隅に追いやって英語を教えようという没義道な国柄である。右翼ならばせめて伝統文化を実際に大事にしてほしいものだ。歴史家としてはそれで右翼かといいたくなることは多い。
 話がずれたが、そういうなかで、歴史学者があつかうようなナマの史料を高校までの間にみることはほとんどないだろう。それだけにハードルは高いが、史料というものがどういう感じのものかを知るためだけにも、興味のある時代の史料集はほしいところである。歴史学研究会編の『日本史史料』(古代・中世・近世・近代・現代)が手頃だが、もちろん、現在では、相当数の史料の写真やテキストをネットワークの上で読むことができる。
 しかし、史料の扱いや読みとなると、さまざまな技術的な問題が多く、大学などの授業やゼミで学べれば最高である。ただ私の場合は、母校には日本前近代史の先生はいなかったので、史料の読み方は研究書を読んでそこで引用・参照されている史料を探して自分で学んだ。そして研究会で教えてもらった。歴史史料の読みの訓練は、そういう形でもできることであり、むしろそれが基本だと居直るのも大事だと思う。
 ともかく強い興味があれば史料は読めるものである。以下の五冊をすべて読むのはたいへんだろうが、自分の興味のある時代の史料というものを考えるために、最初の経験としてお奨めである。

 この中に吉見義明氏の著書『草の根のファシズム』を入れた。先日、吉見氏が、日本維新の会所属の桜井文城衆議院議員(48)を相手取り、名誉毀損で損害賠償を請求する訴訟の東京地裁での最終弁論を傍聴した。桜井氏本人がきていて、吉見氏の本はねつ造云々という発言は政党のメンバーとして発言したもので名誉毀損などといわれるのは心外であると発言したのを聞いて驚いた。
 1月20日が判決である。この書をまだ読まれていない方は、お読みになっておくとよいと思う。見事な本である。

2015年10月27日 (火)

網野善彦さんの無主の思想と『老子』のユートピア、『老子』32

今日は、いちおう、『老子』の仕事は終わり。
これで一区切りである。仕事の計画の再調整に入らなければならない。

天地が合体して甘露をふらせれば人々は自然の恵みを均分する(第三二章)

道の恒なるは無名なり。樸は小と雖も、天下、能く臣とする莫し。侯王、もし能く之れを守れば、万物、将に自のずから賓せんとす。天地、相合して以て甘露を降す。民、之れに令する莫くして自のずから均し。始めて制られて名有り。名も亦た既に有り。夫れ亦た将に止まるを知らんとす。止まるを知れば殆うからざる所以なり。道の天下に在けるを譬うれば、猶お川谷の江海に於けるがごとし。

道恒無名。樸雖小、天下莫能臣也。侯王若能守之、万物將自賓。天地相合以降甘露、民莫之令而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海

 恒遠なる道は名義分明なものではない。自然の樹材は、小さなものでも、どれも世界のなかで誰にも属していない無主のものである。もし諸国の王が、この無主の境域を守るならば、万物は帰属するであろう。また天と地の性が合体して降る甘露のように、自然の恵みがあれば、人々は自分たち自身で均分するものだ。(そういう中で)制限と差異が生まれてくると、名義が分明になってくる。差異と名義が分明になってくると既てを所有することができるが、そこには限界があるものだ。限界で止まることを知っていれば危機をさけることができる。道が差異に満ちた豊かな世界を生み出す様子は、一つ一つの谷が水を集めて大河と大海に注いでいく様子と同じことだ。

解説
 本章も『老子』の宇宙生成論としてまとまった内容をもっている。まず前項まで注意してきた「谷」との関係で重要なのは、「天地、相合して以て甘露を降す」という部分であろう。これは「天地陰陽の二気が調和交合して美味い露を降らせるの意。男女の性のいとなみを自然界の現象に擬人化した古代人の発想」ということである(福永)。

 この天地が合する場というのは「谷」ではないだろうか。これも知識の不足によって倭国神話からの推定にならざるをえないが、先にもふれたように『古事記』では、谷川の女神、瀨織津比咩と、江海から河口に横たわって口を開けている速秋津比売神が、水分の神や久比奢母智(柄杓持、北斗)神などに関わっていることは先にふれた通りである。問題は、この水分神と久比奢母智神にはおのおの「天の神」と「国の神」がいる。まさに天の神と地の神が山谷の場所であう訳である。桃太郎の桃のことを考えれば分かるように、谷川はまさに天地陰陽の二気が交合して万物が生まれ、大地に流れ出てくる場なのである。

 そう考えれば、この「天地相合」の句は、末尾の「道の天下に在けるを譬うれば、猶お川谷の江海に於けるがごとし」にうまく対応してくる。「道が差異に満ちた豊かな世界を生み出す様子は、一つ一つの谷が水を集めて大河と大海に注いでいく様子と同じことだ」と訳してみたが、『老子』は「谷」という言葉のイメージを自在に使っているように思う。

 ともかく、谷は、天と地の接するところであるというのは、そこが無主の自然の場のなかで、もっとも人間の世界に近いところであることを意味する。『老子』に頻出する「樸」とは、切り出したばかりの未加工の樹材をいうが、それは谷に横たえられ、谷をくだされて加工されて器材となっていくのである。本章では、そういう無主の自然を守ることが王権の固有の正統根拠とされており、また自然の恵みが、人々の間での自治的な均分に結びつくとしている。この部分は網野善彦の有名な『無縁・公界・楽』の論理につながるもので、『老子』の論述は見事だと思う。

 しかし、本章で解釈が難しいのは、「始制有名」以下の部分である。問題は「制」の解釈であるが、ほとんどの解釈が「制」を、(その原義にそって)「切る」と理解し、前段の「樸」にひっかけて解釈している。「樸が一たび切られると、そこに名をもつさまざまな器物が生じるが、名をもつ世界がすでに生じたからには、名をもつものの限界を弁えてゆくのだ」(福永)、「樸が切られ始めると名ができてくる。名ができたからには、やはり無欲の気持ちに止まることを知るべきであろう」(蜂谷)などというのである。しかし、これでは率直に言って意味がわからない。

 これらに対して異なるのは、まず武内の意見であって、武内は「制」を「差等」と理解したようで(『荀子』(王制)に「処国有制」とあって、注に「制、亦謂差等」とある)、全体を「無名の道から万物が生じるのを始制有名といったのである。しかし万物は千差万別であるから、人がこれに対するとき必ずそのよきを貴び悪しきを卑しんで名誉心を起こさせる」と解釈している。また長谷川は「制」を制度の意味ととっている。私訳では、これらに寄りつつ「制」を多様性、差異、制限の意にとって、「道」の無主の世界に対する「名」の有主の世界を論じたものとしてみた。「樸」という比喩は大事ではあろうが、しかし、ここは論理の筋を通して理解することが可能であると考えるのである。

日本の神道と神社を東アジアのなかで考えるために。『老子』39

 東アジアの中で神道について考えるには、道教の伊勢神道成立への影響を考えることが必要。もっとも「日本的」な神道に道教の影響が強かった。伊勢神宮は仏教から自律するために道教の思想に依拠したのである。

 これをもっともよく示すのが、以下の『老子』39章である。問題を神道史ではなく、『老子』のテキストの側から考えてみた。

谷の女神は太一を得て豊かに孕んだ(第三九章)

昔の一を得たる者、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、万物は一を得て以て生じ、侯王*1は一を得て以て天下の正*2と為る。其の之を致むるや、天は以て清きこ
と無くんば、将に裂けるを恐れんとす。
地は以て寧きこと無くんば、将に廃くを恐れんとす。神、以て霊なること無ければ、将に歇むを恐れんとす。谷、以て盈つること無ければ、将に竭くるを恐れんとす。万物、以て生ずること無ければ、将に滅ぶを恐れんとす。侯王、以て貴高なること無ければ、将に蹶くを恐れんとす。故に貴は賤を以て本と為し、高は下を以て基と為す。是を以て侯王は自ら孤寡不穀と謂う。此れ賤を以て本と為すに非ざるか。故に誉を数え致むれば*3誉れ無し。琭琭、玉の如きを欲せず、珞珞、石の如し。

昔之得一者、天得一以淸、地得一以寧、神得一以霊、谷得一以盈、万物得一以生、侯王得一以為天下正。其致之也*4、天無以淸、將恐裂。地無以寧、將恐廃*5。神無以霊、将恐歇。谷無以盈、將恐竭。万物無以生、將恐滅。侯王無以貴高、将恐蹶。故貴以賤爲本、高以下爲基。是以侯王自謂孤寡不穀。此非以賤爲本耶、非乎。故致数譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。

 本来、永遠に一であって恒常的なもの(これを太一という)が受け継いがれてきた過程は次のようなものだ。まず天は太一を得て清澄であり、地は太一を得て安寧である。そこに生じた神気は太一を得て霊威が強く、谷の女神は太一を得て豊かに孕んだ。そこから万物は太一を得て生じ、人を代表する侯王も太一を得て世界の長となった。しかしはっきりいえば、天は清澄でなければ破裂するし、地は安寧でなければ傾廃する。神に霊威が宿っていなければ心が動かなくなり、谷神が孕まなければ生命は尽きてしまう。万物が生じなければ滅亡することになり、侯王が人の代表にふさわしく貴高でなければすぐに躓いて倒れてしまう。こういう順序の中にいるのだから、侯王の身が貴であるというのは賤によって承認されたことであり、その地位が高いというのは下位者が認める限りのことなのである。そうである以上、侯王は、世界の孤児であり、寡であり、僕であるものとして存在しているのである。これこそ、賤しいものが根源となるということである。そうなのだ。だから王という誉れを数え致めていくと、それは誉れというべきものではなくなる。王の身分であるからといって美しい琭玉を欲するのは馬鹿なことだ。それは、本来、落ちている石のようなものなのだから。

解説
 『老子』の宇宙生成論はまず原初から続く恒遠なる名義のない混沌を措定し、それを強いて道と呼ぶことから始まった。そして、次に天と地が登場して欲求が生じると大地の地母神が生殖する谷間、「衆妙の門」から差異と名義をもった万物が生まれ、さらに王によって代表される人が登場するという流れをもっていた。それ故に、この世界は、道と天と地と人の四つの無限大からなっていると考えられていた。これらはすでに紹介した通りである(■■■頁)。

 本章も宇宙生成論である。本章では、宇宙生成の順序は天→地→神→谷→万物→侯王となっているが、これがほぼ同じ図式であることは明らかであろう。とくに重要なのは、天地と谷の間に神という存在があることが、若干、相違しているが、谷から万物に進むという順序は、この谷が、右に述べてきた「衆妙の門」「玄牝の門」が開く地母神の生殖の場であることを明瞭にしめしている。

 ただ、本章でのキーワードは道ではなく、「一」となっている。上記の私訳では、この「一」を「永遠に一であって恒常的なもの」と説明し、ただ、それでは長すぎるので、二度目からは「太一」と表記した。「太一」は、最近、郭店楚簡のなかに発見された「太一生水」という竹簡本による。そこでは、この「太一」が「道」に代わって宇宙の根源とされている。この竹簡本「太一生水」の冒頭にも宇宙生成論があって、それを紹介すると、「太一水を生ず。水反りて太一を輔け、是を以て天を成す。天反りて太一を輔け、是を以て地を成す。天地復た相輔け、是を以て神明を成す。神明復た相輔け、是を以て陰陽を成す」となっている。つまり「太一→水→天→地→神明→陰陽」ということになるが、陰陽とは女と男ということで「谷」における生殖に対応するから、(神明が介在していることを含めて)これは本章の図式そのものではないだろうか。郭店楚簡は湖北省郭天の楚墓から出土した竹簡で、この墓は紀元前三〇〇年頃の造営である。そのころには、いくつかの似たような宇宙論があったに違いないが、本章の「一」が、この「太一」と深い関係があったことは明らかだろう。

 実は、日本の伊勢神道でも、この太一は天御中主という伊勢神道の最高神と同一の神秘な存在とされている。これまで「太一」という言葉はそこまで古い言葉とは思われていなかったが、郭店楚簡の発見によって、『老子』の時代にさかのぼるものであったことがはっきりしたのである。伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』に「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮に一を得るを以て念と為す也」とあって、この「一を得る」は本章の「天は一を得て以て清く」によったものである。これは神道の「清浄」観念と老子の関係を示唆する少ない史料であるが、伊勢においても「太一」と「一」は同じものであったのであろう。

 さて、本章の宇宙生成論は、直接に「侯王」論、王権論に接続されているのが大きな特徴である。『老子』は王権について極めて厳しい見方をしているが、宇宙生成の順序の中で成立した本来のあるべき王権については、下位者により承認され、その代表である限りにおいて、その存在の合理性を承認する立場にあったことがよくわかる部分である。なお、最後の「致数譽無譽」という部分は読みが難しい部分である。普通は「数しば誉むるを致さば誉無し」として「しばしば名誉を求めると名誉はなくなってしまう」(蜂谷)などとするが、ここでは「王という誉れを数え致めていくと、それは誉れというべきものではなくなる」と解釈した。老子のいうのは、王個人に対する倫理的な助言というよりも、王権というものが客観的にはどういうものなのかについての説明と考えた方がよい。その方が宇宙論から展開する文脈にのりやすいだろう。

2015年10月26日 (月)

なぜ日本史研究者が老子を読むか。『老子』66

老子など変わったことを始めたものだと思うが、東アジア史にとって、老子の原型を伝える帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感している。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあり、これは厳しい議論があっても、東洋思想というものを本格的に考えるさらに大きな動きになっていくと思われる。

 特に日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったと考えていますが、津田は本質的に は東洋思想史の研究者ですから、それは日本史が東洋史の一部として始まったということである。

 しかし、津田はようするに『老子』をふくめた東洋思想(中国思想)についての評価が低く、それが津田の日本神話の読み方に影響した。『古事記』『日本書紀』は、いわゆる神仙思想の表面的な影響をうけたもので神話としての本質をもたないという津田の観点の基礎には 『老子』と神仙思想そのものに対する津田の低い評価があったという事情がわかってきたように感じている。『日本史学』(人文書院)では津田左右吉について基本的に肯定的に書いたが、津田の『シナ思想と日本』(岩波新書)が問題を孕んでいることはよく知られている。東アジア論を考え直す原点はここだと思う。


 問題は、津田的な東洋思想史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことで、帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だろう。

 ともかく、漢文を学校でならわなくなっているというのが、東アジアの文化や 歴史というものを無視する文化的な土壌になっていると、私は考えているが、歴史学・日本史研究もそういう状況を放置していてはならないと考えるに至った。先日、国際歴史学会で、中国の済南にいって、中国の歴 史や哲学というものを安定的に考える訓練ができていないという反省もした。

 しかし、私などにとってはやはり福永光司氏が道教の意義を強調しているのを知り、20年前ほどに若干はおいかけたものの、そのままにしていたことの不見識に気付いたことがショックであった。何もしらずに歴史学をやってきたのである。

 以下は、今日の仕事。疲れたので、少し運動をして、別の仕事に移る。沖縄がどうなっているかが気になる。


66 倭国の女神伊弉冉も谷の女神たちの女王である

江海の能く百谷の王たる所以の者は、其れ善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王たり。是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る。是を以て聖人は、上に処りて民重しとせず、前に処りて民害とせず。是を以て天下、推すを楽しんで厭わず。其れ争わざるをもってす。故に、天下能く與にして諍う莫し。

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭。故天下莫能与諍*1。

 大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからである。神の声を聞く人は、(同じように)人々の上席で語るときも一歩下って語り、人々の前に立つときも後見の身分であることをわきまえていた。このように、天下は聖者を推すことを楽しみ、嫌悪や争いはなかった。天下はよく與に共和していて争うようなことはなかった。

解説
 ここで江海が百谷の王であるというのは江海の神が、多くの谷々の神の王であるということであろう。私は、前項でみたように、谷の神が女神である以上、江海の神も女神であると考えておきたい。これまでの解釈では江海の神は帝王などとされて男神とされているが、それは必ずしも論証されたことではないと思う。

 そういう以上、本来は、中国の神話史料を読み解いて、江海や谷の女神について議論する必要があるが、私の知識量の関係で、ここでは倭国神話を例として試論を述べることを御許し願いたい。よく知られているように、天浮き橋から下界におりてきて、ミトの婚合をした女神伊弉那美と男神伊弉諾は、国生をして日本列島、ジャパネシアを産んだ後、神産に取りかかるが、『古事記』はそれを「既に国を生み竟へて、さらに神を生みましき」と表現している。その最初に生まれたいわば環境の神々ともいうべき神々の中で、一〇番目に生まれた「水戸」、つまり河口や湾口の女神である速秋津比売神が江海にいる巨大な女神であって、それは彼女が沫那美、頬那美、水分の神、そして久比奢母智(柄杓持、北斗)神などの母親とされていることで分かる。興味深いのは、『延喜式』の大祓祝詞によれば、この女神は、八塩道の塩の八百会に座す」神で、谷川の水を流れ出た穢と一緒に「持ちかか呑みてむ」神であるとあって、その名前の「アキ」とは、水戸口で大きな口をあけてうるという意味であるという。これに対して、谷川にいる女神は、瀨織津比咩といって彼女が大地の上で活動する人間が作り出す穢を速秋津比売神に渡すのであるという。そして、海の底には、速佐須良比咩神、つまり(『中臣祓訓解』によれば)これらの女神の祖神であるイザナキ自身がひかえていて、すべての穢を「持さすらひ失てむ」「祓ひ給ひ清め給ふ」というのが大祓祝詞のいうところである。

 こうして、谷川の瀨織津比咩の下に、水戸で口を開けている速秋津比売がおり、さらにその下に海底の伊弉那美などの女神がひかえていて、おのおの穢を引き受けていたというのが倭国神話の語ることなのであるが、これは老子が、大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからであるというのと同じことであろう。というよりも、そもそも、伊弉那美と伊弉諾は中国の神話の神、女媧と伏義を原型とする神であったから、このような水の女神たちのイメージの源流も中国にあった可能性が高いのである。

 さて、以上は本書の最初の部分の解説であって、本章の重点は、むしろ後半の「聖人」についての議論にある。聖人、つまり神の声を聞く人は、女神たちが順次に下側に控えて前のものをささえるような受容する徳をもたなければならないというのである。なお、「是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る」の部分は、「統治者となって人民の上に立ちたいと望むなら、必ず自分のことばを謙虚にして人にへりくだり、指導者となって人民の先頭に立ちたいと望むなら、必ず自分のふるまいを抑えて人の後からついてゆくことだ」(金谷)などと訳されることが多い。老子はこういう世俗的な術策を説いていないというのが私見であるが、少なくとも、ここは統治者の処世を語ってはおらず聖人について語っていることは確認しておきたい(福永・池田)。老子は地域の氏族や協同体やのレヴェルでの「聖人=神の声を聞く人」の役割については十分に尊重していたものと考えられるのである。

『老子』6。玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開

 道徳というのは、『老子』で有名になった熟語である。『老子』のことを『老子道徳経』という。問題は、老子は、道を男性的なもの、徳を女性的なものとみこと。「道徳」というのは、男と女について考えることだというのである。同時期の中国に「太一生水」という竹簡本があって、ギリシャの自然哲学と同様に世界の原初を水としていた。これに対して老子の独自性は原初を「男=道」「女=徳」の二元的なものと考えたのである。

 以下『老子』6章。昨日の続き。
6 玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開く。
谷神は死せず、是れを玄牝と謂う。玄牝の門、是れを天地の根と謂う。綿々と存するが若く、用いて勤きず。
谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。綿々若存、用之不勤

 谷間の奧にいる神は死なない。それは黒々とした巨大な雌牛のような姿をしている。玄々とした女の門は、谷間の奥に開いて天地の根に通ずる。それは柔らかで細々としているが、その働きはいつまでも尽きることがない。

解説
 不死の谷神の名は玄牝といったという。この谷神とは谷間の奥の凹地に宿る神霊の意で、女性の陰部を神話的に表現したものでるという。また「玄牝」とは玄妙な牝のことであって、それゆえに、「玄牝之門」とは女性の性器を意味するというのが、どの注釈でも共通した解釈である。老子は、女性が胎内に子どもを宿し、はぐくむ力を一つの不思議として賛嘆していたといってよい。それを生命の不死と持続の象徴だというのである。重大なのは、この「玄牝之門」が「天地の根」であるとされていることである。これはまさに前項の『老子』第一章において「万物の母」がなるものが多数の妙なるものを生み出すという「衆妙の門」に重なることであろう。『老子』第一章のいう「万物の母」というものの具体的な神話イメージが、この谷神の「玄牝之門」によって担保されていると考えることができるだろう。

 これは、いうまでもなく大地の女神、いわゆる地母神の姿であろう。興味深いのは、谷間の奥に開いている「玄牝の門」が女性性器であるとすれば、地母神は、地上にその巨大な姿を横たえているということになることである。ここには有名な中国の地母神、女媧のような女神を想定してもよいのではないだろうか。そのようなイメージは、老子の時代には、まだ生き生きとした神話の物語として残っていたに相違ない。

 問題は、「玄牝」の「牝」とは、『説文』(二上)に「畜母なり」とあり、「牡」は同じく「畜父なり」とあって、獣畜をいうことである。そして『礼記』(檀弓篇下)には「牡は玄を用う」とあって、「玄牡」は祭りの犠牲の牡牛をいうから、「玄牝」は牝牛であるのではないだろうか。そして、そうだとすると「玄牝」「玄牡」の「玄」は一般にいわれるような玄妙という形容詞というよりも、「玄い」という意味であると考えた方がよい。

 こうなると「谷神、是れを玄牝と謂う」という谷間の女神は、むしろ雌牛の姿をしており、しかもその色は玄い=黒いと考えられていた可能性が高いだろう。実際、中国では牛が水神であることは多い。松村武雄『中国神話伝説集』(教養文庫)によれば中国の神異伝説には神樹の精は伐採の手がおよぶと変身して、水中に逃げ込むという物語が残っている。『捜神記』では、その牛は牝牛であったとも、黒牛であったともいい、『元中記』では青い牛であったという。これは古く殷の時代から、水中に犠牲の牛を沈めて水神を祭ることが多いのと関係するのであろうか。有名な殷の卜骨はしばしば牛の骨であり、殷の王子たちの妻たちは多婦と呼ばれる集団をつくっていたが、彼女らの重要な仕事に犠牲用の牛の肩胛骨を卜占用に整備することがあったという*1。水に投ぜられた犠牲の牛や卜骨ちょなった牛の性別は(私には)不明であるが、福永は「玄牡」が祭りの犠牲の牡牛であることは「女性が永遠の母であるのに対して男性は悲しき犠牲ということになる」としている。

 二八章には「其の雄を知り、其の雌を守れば、天下の渓と為る」、つまり人が男を知り、女性的な柔弱さを持ち続けるならば、水の集まる谷間のように人びとが集まってくるとあるが、女性と谷間と水が一連のイメージをもっていたことは明らかである。老子は、谷という言葉自体をすべてを受け入れて養う女性的な受容性を意味する比喩として使っているのである。

歴史学に入っていくためにはどうしても読書の習慣が必要である。

『日本史学』(人文書院)第一部序

Ⅰ読書の初め
趣旨。
 歴史学に入っていくためにはどうしても読書の習慣が必要である。史料はデータベースである程度は代用できるが、研究書の熟読なしに歴史学はありえない。歴史家の読書は同じ本を繰り返し読むことが必要である。私が大学時代に指導をうけたのはヨーロッパ史の大塚久雄先生であるが、その伝記『大塚久雄ーー人と学問』(石崎津義男、みすず書房)には、大塚さんが「自分の読んだ本はせいぜい100冊だろう」といったとある。たしかに専門分野の本で徹底的に読むのは、人間のキャパシティからいって100冊を越えることはできないと思う。
 ここで「読書入門」として挙げた五冊は、まずは読みやすい本という意味である。これらが100冊のうちになるかどうかは後の経過にかかるが、ともかく、歴史学に入門するためには、どうしてもそういう本が必要である。それは、やはり学者の書いたもの、歴史専門書を出版している出版社のものになっていく。そういうなかで駅の本屋などに満ちあふれている「歴史本」を自然におかしいと感じるようになるのが、歴史学の初めの一歩である。
 なお、この中には二冊、考古学の森浩一氏の自伝と『青鞜』の創刊者、平塚らいてうについての伝記的研究がふくまれている。歴史家の作業は孤独な作業なので、ときに憂鬱におそわれることもある。そういう時には自叙伝を読むのが、歴史家にとって最良の元気回復法である。とくに、複雑なことの多かった日本近代の自叙伝は気持ちを静め、深いところから我々を励ましてくれる。私の場合の特効薬は、河上肇『自叙伝』(岩波文庫)、光成秀子『戸坂潤と私――常とはなる愛と形見と』(戸坂潤の愛人の自叙伝、晩聲社)であるが、私のような年になると、先に逝った先輩や仲間の追悼文集も同じ位置をもつことになる。
 どうぞ、気に入った本を発見されますように。

2015年10月25日 (日)

『老子』6。玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開く。

 『老子』6章。。玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開く。解説は、明日に延ばす。この章を『かぐや姫と王権神話』の燕と子安貝の項を書く中ではじめてとっくんだのは、もう五年前か。やっと再論できるようになった。

6 玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開く。

谷神は死せず、是れを玄牝と謂う。玄牝の門、是れを天地の根と謂う。綿々と存するが若く、用いて勤きず。

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。綿々若存、用之不勤


 谷間の奧にいる神は死なない。それは黒々とした巨大な雌牛のような姿をしている。玄々とした女の門は、谷間の奥に開いて天地の根に通ずる。それは柔らかで細々としているが、その働きはいつまでも尽きることがない。

老子のフェミニズムと神話。老子1章、道の道たるは

 以下は『老子』でもっとも有名な第一章。「道の道とすべきは、恒の道に非ず」という章である。アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。

1  万物を産む大地母神の衆妙の門ーー母性原理の神秘
道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒なるものは欲無くして*2、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり。此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇。恒有欲、以觀曒*3。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

The way you can go
isn't the real way.
The name you can say
isn't the real name.

Heaven and earth
begin in the unnamed:
name's the mother
of the ten thousand things.

So the unwanting soul
sees what's hidden,
and the ever-wanting soul
sees only what it wants.

Two things, one origin,
but different in name,
whose identity is mystery.
Mystery of all mysteries!
The door to the hidden.

 (道徳だとか、道義だとかいわれる規範としての)いわゆる道と、ここでいう恒遠の存在としての「道」はまったく違うものだ。また、(普通、名声だとか、有名だとかいわれる評判としての)いわゆる名も、ここでいう「名」、つまり名義分明な法則、理法とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、名義分明な法則もないものだ。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地を母として万物が産まれる時に、はじめて名義分明な理法が顕現する。恒遠たるもの、「道」のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は混沌とした渺々である。その恒遠なるもののなかに欲求が生まれて、初めて名義が差異が分明(曒)に顕現するのだ。そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる「衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)」が開いている場である。


解説
 本章は『老子』の第一章であって、『老子』を読む人にとってもっとも印象的な章である。これについては、特別に原文に続けて、『ゲド戦記』『所有せざる人びと』のSF小説家、アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。意味を取ることがきわめて難しいが、まずは、漢文を暗唱し、また英訳を参照して哲学詩として読むのがよいと思う。

 極端に省略されているが、ここに前提されているのは、やはり宇宙論である。つまり「無名、万物之始。有名、万物之母」という部分、ルグィンの英訳の「Heaven and earth begin in the unnamed: name's the mother of the ten thousand things」という部分を宇宙の始めから天地の生成について論じたものと読む。たとえば「万物の始めのとき、宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。そこでは混沌が広がっていくだけで、宇宙の法則的な展開は明らかではない。しかし、ビッグバンの後、宇宙が形成され、星ができて物理法則が働き始め、地球にも天地が分かれてくると、そこに生態系が生じ、生物の繁殖にともなう雌雄と欲求の関係が生じると、万物が生まれ、それにともなって生態学的な法則が登場する」と読むのである。

 こういう宇宙論を援用するというのは、もちろん、『老子』を後知恵で読むことである。けれども、私の現代語訳に書いたように、「道」を恒遠な存在それ自体、「名」をそれをつらぬく法則=理法と考えれば、『老子』の筋道を大きく毀損することなく、話を通すことができると思う。

 そうすると、次の「故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒」の部分も万物の形成の論理を説いたものとして読めると思う。つまり、まずこの節の前半、「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり」という部分は、「無名、万物之始」ーー万物が名義分明な法則をもたない段階に対応するだろう。そこではまだ「恒なるもの」には欲求は内在しておらず、もっぱら渺々とした混沌があるというのである。それに続く「恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という後半部分は、明らかに「名有り、万物の母」という部分に対応している。つまり、通じて解釈すれば、万物の母の下で名義があるようになって、恒なるものの中に欲求が生まれ、初めて名義分明な理法が曒に顕現するのだということになる。

 もちろん、『老子』の議論をそのまま現代的な宇宙論そのものにもってこようというのではないが、以上のように読んでくれば、『老子』の本章が、恒遠な存在それ自体を意味する「道」と、それをつらぬく法則=理法を意味する「名」の両者を対応するものとして論ずるという明瞭な論理をもっていることは否定できないと思う。

 私が、以上のような解釈をする理由は、いわゆる上博楚簡のなかに発見された『恒先』という、これまで知られていなかった書物に「濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云相生じて、天地に伸盈し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず。察察たる天地は、紛紛として其の欲する所を復す。明明たる天行、惟お復のみ以て廃せられず」という一節があることを重視するためである。これは「天地の形成によって「気」が充満していき、その同じ気を発生源とする万物は、それぞれ性を異にしており、そこに欲求が生じ、その営みが繰り返される」と解釈することができるだろう。これを前提として『老子』第一章を読めば、天地の形成の後に、異なる性、つまり雌雄の関係において欲求が生まれたと解釈するのが自然であることになる。とくに重要なのは、この『恒先』という書物では宇宙の原初に存在するものが「恒」と呼ばれていることである。この点は「恒」なる存在の中に欲求が生まれるという『老子』に共通する論調であるといってよいのではないだろうか。『恒先』は『老子』とほぼ同時期に存在していたと考えてよいものであるから、それを参照として『老子』を解釈することは自然なことであると思う。

 従来、この「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という部分は、宇宙生成論として読まれることはなかった。たとえばもっとも一般的なのは「だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る」(福永一九九七)*1ということになる。これは右にかかげたルグィンの英訳も同じことである。ようするに、こういう考え方と解釈にもとづいて老子の思想は、一般に「無欲の思想」「無欲の哲学」といわれる訳である。

 率直にいって、これは老子の哲学を「無欲」をお説教するもにと矮小化することであって、その善意を疑うものではないが、老子の思想をおとしめるものではないだろうか。もちろん、それらと若干違う意見もある。それを代表するのは長谷川如是閑の「無において名づくべきもののない、絶対の境地(眇)を観、有において名づくべきもののある相対の境地をみる」などの解釈であって*2、そこでは無欲・有欲の両方が世界の認識において意味があるとされている。これらは、より冷静な見方であって、たしかに『老子』本章は、そのような人間の認識態度についての考え方を含蓄として含んでいることは否定できない。しかし、やはり、そこに還元してしまうのではなく、『老子』本章はまず宇宙生成論として読み切っておくことが必要であると考える。

 つまり、本章の解釈の最大の問題は、その最後の段「此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり」である。私見のように、本章を宇宙生成論として読み切ることによってはじめて、この部分を宇宙と天地万物の生成にかかわる神話的イメージをベースとして筋を通して解釈することができるのである。この部分の現代語訳を次に再掲する。

そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

 つまり、恒遠たる存在、混沌とした道それ自体とと、それを貫く差異を生み出す法則の世界は同根のものであって、そのような玄冥な実態と法則が重なる「衆妙の門」から万物が生み出されるというのである。これはいわば混沌したものから差異をもった万物が生まれる場、「衆妙の門」とは「万物の母」なるものの「門」であろう。この表現の背景には巨大な母なる神の神話的イメージが存在するのではないだろうか。

老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43

 東アジアと共通の言葉をもつための要点はフェミニズムを語る同じ言葉をもつことだと思う。母系制、母系神話をどう考えるかはボーボワール『第二の性』の厳しい指摘があって問題をはらむが、しかし、老子のフェミニズムは認めてもよいのではないか。


43 柔らかなエーテルが世界の構造を駆動する
天下の至柔は、天下の至堅を馳騁し、有る無きの間無きに入る。吾れ是を以て、無為の益有るを知る。不言の教、無為の益は、天下の之に及ぶこと希なり。
天下之至柔、馳騁天下之至堅、無有入於*1無間。吾是以知無爲之有益。不言之敎、無爲之益、天下希及之。
 世界で最も柔らかく弱いものが世界でもっとも強固な構造を駆動している。それは柔らかく形のないものがすべての隙間を埋めて広がっていくからである。その動きは静謐で無為なものにみえるが、我々は、それが着々と変化を益していくことを知っている。それは言葉を必要としない教えが、無為にみえながら広がっていき、天下でこれに敵うものがないのと同じことだ。
解説
 「天下の至柔」とは天下でもっとも柔弱なものということである。七八章には「天下に水より柔弱なるは莫し」とあるから、水のイメージが基礎にあることがわかるが、しかし、本章は水自体のことを述べているというよりも、より抽象的なものについて述べているとした方がよい(長谷川、池田)。そこで、ここでは前項にならってエーテルという言葉をあててみた。同じように「天下の至堅を馳騁し」という場合の「至堅」とは石や金属のイメージがあって、水が石などを崩していくということであろうが、しかし、硬いものというのはより抽象的な意味を含んでいるはずである。そうでなければ「天下の至堅を馳騁し」とはいわないだろう。馳騁とは馬を疾駆させることであるが、ここでは自由に統御するというようなことだから、硬いものとは社会のシステムなども含むはずである。
 こういう社会のシステムにも浸透して、実際上、それを馳騁して自在に扱うような柔弱なものとは何か。これについては三六章に「柔弱は剛強に勝(まさ)る」という一節があることにふれて述べたように、一種の女性原理であろうと思われる。これは『老子』でもっとも興味深いことの一つである。実際、『論語』や『孟子』などには父母・男女・夫婦・夫人などの家父長優先的な言葉があらわれるのに対して、『老子』にはそれらの言葉がまったくあらわれず、むしろ「母」という言葉の登場頻度がたかい。『老子』は母系を尊重する傾向が強いことは否定できない。ようするに、『老子』のいう「柔弱」とは女性的なもの、あるいは女性的なものを尊重する原理をベースにしているのである。
 『老子』のいう「至柔」・「柔弱」は一方の自然の側面では「水」、他方の社会の側面では「女」のイメージをもとに作られているために、どちらともいえない抽象的なものとなったものと考えてよいように思う。

2015年10月24日 (土)

『老子』 73 天の網は大きくて目が粗いー人間の決断をみている

 一昨日22日、高校時代の山領先生にお願いして長谷川如是閑の『老子』を、借用に参上した。山領先生は如是閑の研究者。『転向』に如是閑論を書かれている。如是閑の『老子』は古書でもなく、窮余の一策。
 早速に役に立った。

 中学校の漢文でならった唯一の『老子』であるような気がする。漢文教育を復活した方がよいというのが私見だが、そのとき中学校では、是非、『老子』。

73 天の網は大きくて目が粗いーー人間の決断をみている理法

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利に、或いは害なるも、天の悪む所は、孰れかその故を知らん。天の道は、争わざるをして善く勝たせ、言わざるをして善く応じ、召かざるに自ら来り、坦然として善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。天之道、不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疏而不失*1。

 危機に直面したとき、行動を決断して「殺」となるか、自制を決断して「活」となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は、ただ争わないものを善く勝たせ、言上げしないものに善く応え、求めないもののところに来て、坦然としたものに善く計らうというだけである。天から地を覆って理法の道を作っている縄網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという受動的な結果、状態を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判者とする場合であって、武内義雄は「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」と訳している*2。

 他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、「殺」「活」の状態となる人間、裁判者、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。そもそも、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうかどうかである。また上記では「天の道は、争わざるをして善く勝たせ、言わざるをして善く応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは意味がおかしいし、通りにくいのではないだろうか。私は、右のように現代語訳して、むしろ老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。

 とはいっても、実は、このような解釈は、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈にかかわっている。つまり、この「天網」の「網」の字を紀綱・法と理解し、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないと解釈されている。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(福永)のことだというのである。前記の武内の見解は、実際には、これにあわせて前半部分を解釈したために生まれたものなのである。老子は悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであって、人為的な刑法の運用に賛成せず、威圧的な刑罰主義に反対する。これが法家と違うところなのだというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 老子のいう「道」はもっとかけねなく無為自然のもの、「無の思想」そのものであるように思う。前項一四章でみた道は基本的には宇宙と天地の間に広がっていくエーテルのような理法であって、基本的に自然的なものであった。それが、ここでは人間の運命や決断に何らかの形でかかわる不可視の存在として登場していると考えればすむのではないだろうか。そう考える私は、この天網は、前項一四章のいう透明な縄が絡み合ったような不可視の「希夷」なる道の広がりのことをいうのではないか、虚空に広がる道の網そのもをいうのではないかと思う。道を象徴する縄が、見えず、聞こえず、触れることもできないまま世界に偏在していくというイメージである。その意味で、この「天網恢恢」を法規主義から完全に切り離して無の思想のなかに位置づけたいと思う。この無の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。

『老子』 14 虚にして霊ありーー東洋的な無の思想

 『老子』をなぜまたいま論ずるかということであるが、これは私個人からいうと、3,11後に歴史地震論研究を始め、定年後には史料採集は困難になったので、むしろ地震神話論に進み、そのなかで中国の老荘思想の研究の必要性を痛感したことがあった。同時に、神話研究の先には神道研究が必要であることを考え、そのためには、老荘思想の研究が必須であると考えたのである。
 神道をどう考えるかは、現在のような文化思想状況のなかで大事な問題であると思う。
 21世紀の思想・社会思想においては一つの哲学で済むということはないと思う。人類がこれまで築きあげてきた思想や文化の総体を正統に受け継ぐということだと思う。そのなかで過去の様々な思想の勉強をすることが必要だと思う。どういう結果になるかはしらないが、ともかく、そういうことである。

14 希夷視聴の外、虚にして霊あり、一にして体なしーー東洋的な無の思想

之を視れども見えず、名づけて微と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。之を循れども得ず、名づけて夷と曰う。三者は、致詰すべからず、故に混じて一と為す。一なるものは、其の上は悠からず、其の下は忽からず、縄縄として名づくべからずして、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是れを惚恍と謂う。之に随いて其の後を見ず、之を迎えて其の首を見ず。今の道を執りて、以て今の有を御すは、以って古への始めを知らんや。是れを道紀と謂う。


視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希*1。循*2之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠*3、其下不忽。縄縄不可名、復帰於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今*4之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。


 目をこらしても見えない(「微」)、耳をすましても聞こえない(「希」)、循でさすっても感じない(「夷」)ような関係が、この世界にはある。つまり人間の直接の感覚では明らかに詰めることができないものが混沌として一体になっている。その一体となったあり方は、上が遠いとか、下が近いとかいうものではなく、時空に偏在している。その様子は、絡み合った縄が透明な網のように広がって、名付けることができないまま、もとの無の世界に戻っていくようだ。その運動は形状もなく、物としての現象もない。だからそれは、ぼやっとした恍惚の状態でみえるもので、後ろから追いかけても尻をみることはできないし、前から出迎えても首を見ることはできないのである。しかし、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御するためには、この時空が形成された歴史の始源の無を知ることが必要である。これが道を理解する要点(道紀)である。

解説
 老子は、自然と社会の歴史をつらぬく理法・法則とでもいうべきものを表現する用語として道という言葉を使った。この道というものは通常の五感ではとらえられないという。つまり、「「微」で目をこらしても見えず、「希」で耳をすましても聞こえず、「夷」で循でさすっても感じない」ものだというのが、老子のいうことである。そういうものが混沌として一体になって、形状もなく、物としての現象もないまま時空に偏在している。その様子は、透明な縄が絡み合っているようなというのだから、一種の網のようなものを印象しているのであろう。

 この「微・希・夷」であって、目にみえず、聞こえず、触れないという言い方は、『荘子』『列子』『韓非子』などでも引用され、中国では非常に有名なものであった。興味深いのは、これが日本の神道でもなじみ深いものであったことであろう。たとえばそれは、平安時代の末、一二世紀頃には原型が成立していたという神道五部書といわれる伊勢神道の聖典の一つ、「御鎮座縁起」にも「希夷視聴の外、氤氳気象の中にあり、虚にして霊あり、一にして体なし」という形ででてくる(『類聚神祇本源』)。氤氳というのは天地の始めから存在する気、気配のようなもののことを意味する。

 このような表現を神秘的なものと感じるのは当然であるが、しかし、より平明な言い方でいえば、ようするに、この宇宙にはエーテルのようなものが広がっているというのであろう。宇宙と自然の理法・法則をつかむためには、直接の五感では捉えることはできない不可視・不可聴・不可触のエーテルのようなものを認識しなければならない。世界を認識するためには、その目にみえる姿を超越して、その向こう側を見なければならないというのである。自然の認識のためには、実験だけでなく、五感を超越した分析や直感が必要になるのは当然のことである。『老子』の時代には具体的な個別科学は存在しないから、言い方が神秘的な表現になるのはやむをえない。老子のいう自然の理法、不可視・不可聴・不可触な道というものは、自然界にそのまま存在する「物」ではないが、宇宙の動きを左右する物質的な性格が想定されている。

 これはあまりに合理的な解釈だとみえるかもしれないが、神秘的な表現の下に、それなりに事態をとらえた直感的な認識が秘められているというのはよくあることではないだろうか。自然を認識するためには、実験だけでなく、それを詰めていって全体をみたときの直感が必要であって、それがある場合には神秘的と感じられるのは自然なことである。

 もちろん、老子がもっぱら自然哲学を語っているというのは間違いであろう。老子が、自然哲学を通じて語ろうとしたのは、いわゆる東洋的な「無の思想」である。つまり、道は、不可視・不可聴・不可触な透明な網のように広がっていくが、それは無の世界に戻っていく。それは「無状の状、無物の象物」であるというのである。いまあるものは、宇宙の巡りとともにすべて失われる。すべては無である。すべては無であるというのが、宇宙の開始をみれば明らかであって、すべては消失する。それを直感し、考えることなしには現在の世界に存在するもの「今の有」を統御することはできないというのである。その意味で、本章の最後の部分を「今の道を執りて、以て今の有を御すは、以って古への始めを知らんや」と読み、「現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御するためには、この時空が形成された歴史の始源の無を知ることが必要である」と訳した。

 これは人生論からいえば、三木清が「人間を一般的なものとして理解するためには死から理解することが必要である」(『人生論ノート』)と述べたのと同じことであって、死を知らなければ本当の意味では生を知ったとはいえないという思想である。もちろん、孔子が、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」(『論語』先進篇)といったのは、一つの正論である。しかし、死を知ることを先行させることによってしか生を知ることができなかったという人生もあるのである。東洋的な無の思想をはじめて述べた老子の思想は、そこにかかわってくる。

「権利ばかり主張して義務を忘れとる」という妄言について

権利という言葉を使い続けるかどうか。
 権利という言葉の使い方で「権利ばかり主張して義務を忘れとる」というのは、徳川時代まで「権」という字はイキオイという意味があり、それをそのまま前提にして、権利というのは勝手な主張という意味で造語された経過がある。当時の常識では「権」も「利」もあまりよいニュアンスではなかったのである。それに対して義務(正しい務め)が対置されたというのが、成沢光『政治の言葉』が明らかにしたことである。

 そもそも自然法の考え方では、個々人に本来的に存在する自然的なRightと、国家構成にともなうObligationはレベルを異にするものである。それを「権利ばかり主張して義務を忘れとる」というような形で、私人間のギブandテイク原則と混同するのは、根本的な間違いである。このような天を小学校のときに、権利という言葉の語源に踏み込んで教材化しておくことができれば、常識ある大人がふえるだろうと思う。


 さて、この成沢の仕事が講談社学術文庫で再版されたとき、私は成沢の要請で、その解説をかいた。その前提になっていたのが、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)という本で書いた下記の一節であった(この解説の一部を拙著『日本史学』での『政治の言葉』の紹介に使った)。


 成沢によれば、江戸時代まで「権」は「イキホヒ」と読まれ続けており、「権利」という言葉はこの「権(イキホヒ=個々人の恣意的な力)」と「利益」を合成した造語であり、それに対して「義務」という言葉は「正義の務め」という意味であったという。ここには権利は恣意であり、義務が権利を制約するのが当然という世俗的な考え方があらわれており、これは欧米語のRightが正しさという意味をもっているのとはまったく異なっているというのである。これがきわめて大事な指摘ではないだろうか。
 ただ、私なりに敷衍すれば、「権」の原義がハカリの錘にあるということになれば、それは正義観念とまではいえないまでも、衡平観念を含み、あまりに原理的にRightとの差を強調するのにも問題が残るように思う。「権利」という言葉を明治時代の用法から離れて、とらえ直してしまうことも可能なのかもしれない。いずれにせよ、「権」の二重の意味というのはきわめて重要な問題で、「権」の「ハカリ・ハカリゴト」の側面をだれにでもわかるように示す『竹取物語』の論述は、「日本国」において生活し、「権利」とか「義務」とかいう言葉を使わざるをえない人間にとって根本的に重要な古典としての意味をもっているということにもなるように思う。

 ここで紹介しておきたいのは、上記の引用部分の後半部である。問題は「権利」という言葉を我々の言葉として残すかどうかにかかわっている。私は、「権」という漢字には、本来は原義に「ハカリ」があることが大事だと思う。正義の女神は秤をもっているのだから、権利の権には正しいという意味もあるのだと教えることである。小学校(または中学校)で、「権利」について教えるときは、権利という言葉を使い続けることを決めた上でやるべきことと思うので。

 実は、これは『竹取物語』をどう読むかとか、黒田俊雄の「権門」体制論をどう読むかなどの歴史学固有の問題にかかわってくるのだが、それはここでは省略。上記の『日本史学』から私見はたどれる。歴史は奈良時代から現在まで関係しあっている。

2015年10月22日 (木)

『老子』のラディカリズムと赦しの思想

  『老子』のラディカリズムと赦しの思想 前項の直接の続きです。

62 道は天子と三公の罪も許す。
道は万物の奥にして、善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言は以って尊を市うべく、行は以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧を供めて以て駟馬に先だたしむること有りと雖も、坐して此れを進むるに如かず。古の此れ貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴きものとなる。

道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、美*1行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。

 道は万物の奥の幽暗な場所にあって、善人の宝であるとともに、不善の悪人もそれによって守られているものである。飾り立てた言葉でも地位を買い、飾り立てた行為で人に恩をきせるというのは世の常のことであるが、しかし、道は、その種の不善の人々をも見棄てないのだ。そもそも天子を冊立するとか、三公を任命するというのも不善な虚飾の行為そのものであって、その虚飾性は、その儀式で見事な玉を先に立てた四頭だての馬車が前駆することに示されている。そんなことをするのではなく、この道を進言して、その不善を許してあげなくてはならない。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ。

解説
 本章では、まず前項二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、道は善人のみでなく、不善の悪人をも守るという言い方で繰り返されている。そして老子は、不善の最大のものが虚飾であるという。老子は、その性格からいっても虚飾というものが蛇蝎のように嫌いだったのだろう。その上で、老子は、虚飾の最大のものとして、天子の即位や三公(大臣)任命そのものを挙げる。老子は、見事な玉を先に立てた四頭だての馬車が前駆する天子即位式や三公(大臣)任命式の儀式が嫌いであるということを越えて、天子の即位や大臣任命ということ自体が、本質的に虚飾の行為、不善の行為であるといっているのだと思う。これは五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。

 上記の現代語訳では、それにそって王侯や卿公は存在自体が虚飾で、その意味で不善人であるという直截な読みをしてみた。そうであるから、その即位・任命にあたっては道にもとづく進言こそが必要であると解釈したのである。これで、文章の通りは非常によくなるのである。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行うと解釈する。しかし老子がそんな世俗的なことをいうだろうか。ともかくそれでは「人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまうのである。

 私の現代語訳が正しいかどうかは、今後の議論にまつとしても、昔の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多い。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。張角の太平道の教典であった太平経には、天の命をうけた真人が有徳の君主に地上世界の救済を教えるという筋書きがあるが、それは『老子』の本章にいうような王侯への進言という考え方にもとづいて創出されたものではないだろうか。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。

 さて、以上を前提として本章の後半部を読むと、そこには「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とある。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったのではないかという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。

「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)

 たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似しているのではないだろうか。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。なお右の引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」(福永『老子』)のである。

 『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていたのであるが、もし、前項の末尾で述べたように、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。ただ、これについてもあまりに本章の解説からはずれるので、最後の付論「老子と日本」で再論することとしたい。

2015年10月21日 (水)

親鸞の「善人なおもて」には老子の影響はないか。

 以下、老子二七章の解説です。
 親鸞に老子の思想の影響があるのではないかというのは、森三樹三郎氏の意見であるが、より具体的にいえば、『老子』27章の「不善人は善人の資」が「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人においておや」に響いているのではないかと考えた。
 いずれにせよ、森三樹三郎と福永光司の老荘思想研究を受け止めて、津田左右吉を乗り越えていくことが、宗教史研究のみでなく、東アジア論全般にとって重要なことと考える。

27 不善人は善人の資、「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人においておや」

善く行くものは轍迹なく、善く言うものは瑕讁なく、善く数うるものは籌策を用いず。善く閉ざすものは、関鍵なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙と謂う。


善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。


 善く道を旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある。
 
解説
 ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が性善説「性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。そもそも人間と犬・猫のあいだでも瞳を見つめあえば相互の内面を少しは見ることができるものである。それに対して、言葉をもっている人間と人間ならば、最後には相互の本質を知ることができる。人間が「類」的な存在といわれるのは、そういうことなのであるが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。
 問題は、この老子の思想が導いたのが「不善人は善人の資」というものであったことである。善が関係に宿るのだとすれば、これはいわば当然のことであろう。人が善であるのは、不善の人を資けるからであるが、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。人間がアリストテレスがいうような「政治的動物」である以上に、「類的存在」であることを強調したのはまずはフォイエルバッハであろうが、フォイエルバッハは、老子のように人間の相互関係にふみいって問題を見つめる点が弱かったように思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、むしろ親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがあるのではないだろうか。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。
 大胆なことをいうようだが、私は親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を読んでいた可能性はあると思う。しかし、この問題についてはあまりに本章の解説からはずれるので、最後の付論「老子と日本」で再論することとしたい。

2015年10月16日 (金)

沖縄の翁長知事の決断をどう考えるか。これは国民一人一人の問題である。

 沖縄の翁長知事の決断をどう考えるか。これは国民一人一人の問題である。

 私は、いま憲法で一番大事な条文は第14条の法の下の平等であると思う。

 つまり「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない」という上聞である。「社会的身分」という言葉は英語ではsocial statusであって、ここにはどの地域に居住しているかを入れて考えることができるというのが、災害法に関係して調べてみた法学の見解である。

 沖縄に居住することによって、あるいは拡張された岩国基地周辺に居住することによっ不利益をこうむり、さらにそれだけでなく、その不利益恢復処置を国家がとらないというのは、法の下の平等に反している。社会権的側面が当然のこととして強化されている現代民主主義法において、法の下の平等の理念の意味するものは大きい。憲法についての様々な意見はあるだろうが、「平等」「差別されない」というのは基本の基本だろう。沖縄と現状の福島における不利益は、国家として全力をあげて差別処置をとらない。「法の下の平等」をつらぬくというのが義務的な問題である。
  
 これは国民一人一人の問題であると思う。しかし、それと同時に憲法によって活動しているすべての政治家・政党にとわるべきものである。これは政党として逃げられる問題ではない。自民党は、すでに沖縄の人びとの世論を無視することにきめているが、現在、もっとも大きな問題は民主党である。民主党にとっては重たい問題であろう。つまり、民主党は沖縄問題がどれだけ深刻な問題であり、第二次大戦後の日本の体制の基本問題であるという、通常の認識さえなかったことを鳩山首相の行動によって示してしまったからである。

 しかし、そろそろいいのではないか。ぜひ民主党に沖縄県民の立場に明瞭にたつという宣言をしてほしいと思う。沖縄の衆議院議員に民主党の選出者がいないというのはきついことであろうが、それはやむをえない。沖縄県知事の決定をどう受け止めるか。そろそろいいのではないか。これは日本の国政にとって逃げられない問題で早ければ早いほどいい。
 
 もう一つはジャーナリズムである。ここで新聞がキャンペーンをはらなくてどうするのか。新聞がキャンペーンを張るかどうかが、実は決定的な意味をもっている。問題は、実に明瞭であって、ただの評論をしていることは許されない。

 少なくとも私のような歴史家は実践家でも政治家でもない。すでに60台半ばをすぎ、政治で時間を使うのは一時的なもので、効果のあるのは基本的には、投票や若干の資金提供、カンパだけである。
 
 『ソクラテスの弁明』に「ほんとうに正義のために戦おうとするものは、そして少しのあいだ、身を全うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのでして、公人として行動することはできないのです」とある。ともかく現代日本は政治的な行動をすることが命にかかわるという、ソクラテスの時代のギリシャではなく、第二次世界大戦中の状況でもなく、中近東の状況でもない・。ここでは全力をあげて行動するということは一つの選択枝である。しかし、それでもおのもおのもの持ち分の仕事と生活にもどって、その私的立場から社会の基礎をスライドさせていくためには「私人としてあることが必要である」というのは、ギリシャの時代からかわらない。

 私ができるのは、自分の「私的な」仕事に立ち戻って、歴史学者としての見解を鍛えることしかできない。ともかく沖縄問題は歴史学にとって思想的にも、方法的にも、根本的な問題なのである。おのおのの私的な立場からの意見が公共を形成するということがもっとも必要なのだと思う。

 直接に公共にかかわることで生きている政治家とジャーナリストは、たいへんな仕事だとは思うが、ここでがんばってほしい。


 以下は、今年3月の『世界』の沖縄特集号(岩波書店)に載せた「辺野古の報道しない"異様な"日本のマスコミーー歴史家の視点」という文章。まだジャーナリズムに対して、まだ有効な部分があると考えている。さらに明瞭なキャンペーンを求める。ジャーナリストが政治家の決定と明瞭な方向性を求め、政治の方向をかたるのは当然のことだ。今年3月まで異様であったのは確実で、いまでも常識的な世界標準の学術的ジャーナリズム論からいえば異様な所の方が多いのは事実だ。

辺野古の報道しない"異様な"日本のマスコミーー歴史家の視点
保立道久
 琉球新報によると、翁長知事は、一月二六日、県庁に海上保安本部と県警の責任者を呼び、辺野古で市民に負傷者がでていることについて「県民三六万人の思いが込められた抗議行動だ。大変憂慮している」と抗議したという。
 驚いたのは、これが、私のとっている新聞(東京新聞)にのっていなかったことだ。(【追記】東京新聞は、この後、ある舵を切ったと思うが)。そもそもマスコミは辺野古の巨大基地建設とそれにかかわる状況をほとんど具体的に報道しない。これは”異様”なことである。たしかに、一月から二月にかけては、ISISによる湯川遥菜氏、後藤健二氏の殺害などの「騒然とした状況」があった。そのなかでデスクの判断がゆれたということはありえるかもしれない。
 しかし実は、一月二二日の東京新聞には「緊迫する辺野古、ジャーナリズムの使命忘れた在京紙、現地メディアと温度差」という特集があった。そして、そのデスクメモには「本土復帰から四三年を経ても、沖縄のいたみは残されたまま、本土は自らのいたみとしない。むしろ両者の溝は深まっている」とある。デスクは事態の静的な認識はしているのである。
 「分かっちゃいるけどやめられない」のは何故か。読者とすれば、いまでは情報はネットワークで入手できるが、多忙な日本社会はそれを許さない。マスコミは、その隙間で、慌ただしさと、騒然とした雰囲気を「飯の種」にして生きている。その仕事は「多忙社会」の「騒然社会」化への貢献である。別の言い方をすれば、ジャーナリストは「見ることの快楽、情報の快楽」を商品にしているのである。それが一種の暴力であることを自覚しないのは無神経きわまるとしかいいようがない。
 他人の職業を批判する以上、自分の職業のことも考える。私は歴史家なので、沖縄の基地問題が重大で公共的な情報として伝えられず、しかも社会がそれを「異様」と感じないことの歴史的な意味を考える。
 つまり、一九六三年に比嘉春潮などが刊行した『沖縄』(岩波新書)は、私も大学時代に読んだ古典であるが、その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「沖縄についての常識はゼロに近い」という「本土」の「異常な」無関心を伝えるところからはじまっている。そして「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。
 これを読むと、この五〇年間、事態は変わっていないという感に打たれるが、もちろん実際には、現在の沖縄の状況をふくめ、さまざまな分野で事態は変化しているのであろうと思う。
 多少なりとも私にわかるのは歴史学の状況のみであるが、たとえば、比嘉は、右に続けて、差別意識の根拠が「琉球という一種の異民族、異質の文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」にあるとしている。しかし、近年の沖縄史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈と貝・硫黄などの特産品をもち、僻地であるどころか、東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明らかにしてきた。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、二〇〇三年)が全体の展望をあたえているように、農業生産の発展のみをモノサシとする発想も克服され、室町時代には琉球王国は、むしろ南九州の武士たちを臣従させるような繁栄をみせたという。
 特に重要なのは、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方が乗り越えられたことである。悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という固定的定義はただの空語である。「民族」とは、比嘉の言い方では「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。この公共圏=「民族」の実態はなかばアドホックで多義的なものである。田中克彦がいうように言語の近接性は民族の必然条件ではないし(『言語からみた民族と国家』)、歴史文化を民族の集団的人格であるかのようにとらえることもできない。この公共圏が民主主義的なものであることは希望ではあるが、その現実は、極度に多様であって、社会の多様・多重性に相同である。
 複雑な問題を、これ以上、短文で述べることはしないが、沖縄への「無関心」という形で現れている公共圏の破綻は、比嘉のいうように「民族」の問題であろう。現在の問題は、その破綻が日本社会の公共性の低下、マスコミ・行政・政治などの職能倫理の低下を条件としていることにある。それは、公共性を剥奪する仕組みをもった、日本の資本主義に独特な”だらしなさ”にかかわるものであると思う。しかし、いつまでそれでやっていけるものか。次の希望をもちたいものである。

2015年10月15日 (木)

『老子』41章。大器晩成を読んでみた。

『老子』41章。大器晩成を読んでみた。
 神話論(大国主命論)と徳一和尚についてのゲラを返したので、『老子』にもどっている。
 『老子』を読むことは、東アジアへの視点を確保するために必要なことだと考えている。湯川秀樹は「日本人は、『老子』を初めとする中国の独自の思想を今日まで公平に評価することを余り知らない」といっている。これは倭国神話と神道の再評価、現代的受け止めの問題にも関係すると思っている。


 大器は晩成し、大音は微かに聞こえる

上士は道を聞けば、勤めて之れを行う。中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し。下士、道を聞けば、大いに之れを笑う。笑わざれば、以て道と為すに足らず。故に建言に之れ有り。「明道は昧きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇れたるが若し。上徳は谷の若く、太白は辱なるが若く、広徳は足らざるが若し。建徳は偸なるが若く、質悳は渝るが若く、大方は隅無し。大器は晩成し、大音は希声、大象は形無し」、と。道は隠れて名無し。夫れ唯だ道は善く貸し且つ成す。

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑、不足以為道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、太白若辱、廣徳若不足、建徳若偸。質悳若渝、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隠無名。夫唯道善貸且成。

士で善いものは、道の理法を聞けば理解して実践につとめる。士で普通のものは半信半疑でよくわからず、士で最悪のものは馬鹿にして笑い出す。逆にいえば彼らに笑われるくらいでなければ本当の道とはいえないのかもしれない。つまり格言でいうと、道というのはこういうことになるからだ。「本当に明るい道は暗いように見え、前に進む道は退いていくように見え、夷な道は入り組んでデコボコのように見える」。(これは事実なのだが、安直に聞いてれば何のことか分からないだろう)。また「最善の徳は谷間のようであり、潔白なものは薄汚れているようであり、寛容な徳は足らないようである。確固と建てられた徳は仮初めのようであり、質実な徳は変わり身が早いようであり、広大な正四角形は尖ったところがないようである」ということになる。さらに「大きな器量をもった人物は晩成であって、巨大な音は耳にかそけく、巨大な象は、その姿形が目に入らない」(などということになると笑い出すという訳だ)。しかし、そもそも道は現象の背後に隠れていて名付けようのないものであって、こういう語り方が実際に必要なのだ。そして、それが分かってくれば、ただ道だけが、善く惜しみなく万物に力を貸し、目的を達成させることができることも分かるはずだ。

解説
 この章からは老子が「士」というものの立場に立っていることがよくわかる。老子の男の友人たちはみんな「士」であったに違いない。周の時代には周王を最高位として諸国に諸侯と呼ばれた王がおり、その家宰職ともいうべき卿太夫の家柄があった。「士」というのは、その下にいた中下級の貴族や官吏の身分をいう。しかし、春秋時代の後期に入って、前六世紀後半になると、この士の身分のものが台頭してくる。「士」は統治の責任を受け持ち、しばしば小領主あるいは地主であると同時に、文武の職能をもって奉仕する身分として確立する。これが東アジアの「士」の時代の開始であって、日本の武士もはるかに後の時代とはいえ、その一つである。

 ただ、上の現代語訳を一読すれば分かるように、老子は、この「士」の立場からも相当に自由な態度をとっている。つまり、老子は「士」というものはこういうものだというような立論をしたり、その身分的な意識や、倫理感情に訴えたりしない。これは同じように「士」の世間を活動場所としていた孔子と全く異なっている。孔子は「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といったが(『論語』里仁)、これは「士である以上は、道が分かったら死んでもいいという潔さをもて」という倫理要求である。老子は、そういうことはいわない。なによりも、「道を聞いたら死んでもいい」などという馬鹿なことはいわない。問題は「勤めて之れを行う」、つまり実践なのである。

 しかも極めつけは「大器晩成」である。上士は道を聞いたらば、すぐに実践に移すというのであるから、逆にいえば、これは善い「士」であったとしても、実践して大器であることを実証するのには時日を必要とするといっているのである。こうなると「士」は殆どの場合に道に到達することはできず、晩成であっても大器たることはできないといっているに等しい。これはすでに見たように、老子が「曲なれば則ち全く、枉なれば則ち直し」(曲折が多い方が真っ当なものになれ、横道に入らなければ正道はわからない。二二章)と言っていることに対応する。様々なものを受容して「器」を大きくすることが必要であるという訳である。

 これに対して、孔子の場合は「士」は最初から「士」なのであって、あとは素直に道を聞けばいいというのである。孔子のいうのは「直を挙げて、これを枉に錯け」(『論語』為政)という直線的な教えであって、老子のように「枉なれば則ち直し」という複眼的な視野はないのである。そもそも、『論語』は「君子は器ならず」(君子はそもそも自由なもので、虚ろな器のようにもいのごとを受け入れる必要はない)という。孔子にとっては君子は最初から君子なのであって、それは身分意識において決まっている。誇り高き君子は「受容=器」であることは必要ないという訳である。

 逆に老子は「器」に象徴される女性的な受容に大きな価値をおいていることは、すでに述べた通りである。上文にも「上徳は谷の若し」、つまり、上善の徳は水が流れ込む谷間のような包容力をもっているのだといっていることに注目されたい。

 さて、「本当に明るい道は暗いように見え、前に進む道は退いていくように見える」などの道の描写を、あなたはどう読むだろうか。「大器晩成」というのは、この部分が出所で、私たちにとってすでに有名な言葉だから聞いた途端に、その通りと思ってしまうが、これも相当に厳しい逆説なのである。

日本史研究の名著30冊/歴史学の勧め。『日本史学』人文書院

先日出版された『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院、ブックガイドシリーズ)に書いた「歴史学の勧め」です。


 歴史学は若く新しい学問である。歴史学らしい歴史学、つまり史料の堅実な操作にもとづいて歴史の変動の総体を考察する歴史学の成立は、人文社会科学の中でもっとも遅く、ヨーロッパでも19世紀からである。しかし、日本の歴史学はもっともっと若い。

 つまり、日本の歴史学の場合、その本格的な学術的出発は1960年代、今から約50年前のことにすぎない。私は、日本史研究の分野でそれを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズだと思う。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に愛着がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫『奈良の都』、佐藤進一『南北朝内乱』、永原慶二『下克上の時代』、そして佐々木潤之介『大名と百姓』などである。このシリーズの著者は、ほとんど、1962年に刊行が開始された岩波書店の『講座 日本歴史』(第一次)の執筆者でもあって、ようするに、この二つの企画のなかで、日本史の研究は、はじめてその学問としての成熟の歩みをみせたのである。

 こういうと、第二次大戦直後のいわゆる「戦後派歴史学」を無視するのかという反対意見がでるだろう。しかし、「戦後派歴史学」は、いわば歴史学の青春時代の輝きであったのだと思う。私が大学時代に指導をうけたのは、西洋史の大塚久雄先生だが、大塚さんのような戦後派歴史学の担い手からいえば、大正デモクラシー末期からの時代の歴史学はすでに新興の意気にもえる青春時代にあったということらしい。ただ、その青春は戦争への流れのなかで、一度、挫折したのであって、本格的な歴史学の青春は第二次大戦の敗戦をへて遅れてやってきたのである。そういう意味で、やはり「戦後派歴史学」の本質は成熟ではなく若さにあったのだと思う。歴史学における学問としての成熟というのは、なによりも着実な考証が内側から充実してきて、具体的な歴史像の叙述にまで自然に進んでいくということである。「戦後派歴史学」にはその余裕はあたえられていなかったのである。

 19世紀ヨーロッパの歴史学のことを考えてみれば分かるが、歴史学は何よりも安定した環境が必要な学問である。アカデミーとしての歴史学にとってまず必要なのは史料の共有と研究のための施設や、人員・予算である。そして、史料が公開されていてアクセスが可能で、史料批判は自由で、テキストクリティークと考証のための人手と時間が保証されていることだろう。歴史学はこういう手間のかかる学問であることを社会に認めて貰わなければやっていけないのだが、しかし、第二次大戦以前には、そういう条件はなかった。たしかに「東京帝国大学」に史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、狭い意味での国家的な史料の収集・編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。しかもその上に問題であったのは、「皇国史観」といわれた戦争のための「史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈で、学問研究の自由のために必須の思想・信条の自由は局限されていた。

 もちろん、そうだからこそ、第二次大戦直後の歴史学、いわゆる「戦後派歴史学」は輝かしい光をはなったということはいえる。私は高校生のころ、明治生まれの祖父に「神武天皇は実在しなかったんだという話しを聞くが、それは本当なのか」と真顔で聞かれて驚いたことがあるが、「皇国史観」の呪縛力は社会全体に及んでいたのである。だから、それを崩して歴史を研究し、新たな歴史像を描くという課題は、終戦直後の社会にとって必須のもので、そのなかで歴史学はもっとも目立つ学問であった。研究のための史料的な条件などは、厳しいものがあったが、彼らの歴史的な教養や、史眼・方法意識は、もちろん時代的な限界のなかにあったものの、きわめて高いものがあったのである。「戦後派歴史学」の代表者たちは、井上清氏などの本当に一部を除いて、みな大学を出ており、嫌味な言い方をすれば、家柄もよく、能力も高いトップクラスのエリートたちであった。そのような人びとが大量に歴史学の分野に流入してくる時代だったのである。彼らは第二次世界大戦前の上中流の「市民社会」の文化的・教養的な豊かさを身につけており、最初から、日本国家が戦争に流される様子に大きな違和感をいだいていた。これがいわば彼らの世代的な実力だったのであって、とくに彼らが戦前社会を経験的に知っているということは何といっても歴史家としての圧倒的な強みであったと思う。

 こうして、彼らと彼らの直接の指導をうけた人びとが、「皇国史観」の重圧から解放されるや、研究の方法論を組み立て、それを時代や専門分野をこえて交流し、学問にはげんだ。その努力のなかで1950年代の末くらいから、急速に専門的な歴史学研究の体裁が整い、1960年代に入って、その最初の成果を象徴する、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』などが出発したのである。


 しかし、それが青春時代だとすれば、それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかという意見もあるかもしれない。しかし、歴史学は長い時間を必要とし、「世代」の単位で進む学問である。私などの世代は、日本の歴史学の青春世代=「戦後派歴史学」のあとをうけた第二世代である。おかげて、歴史学の第一段階での成熟の経験を受け取ることができたが、しかし、たとえてええば、私などの世代はまだ20代だと思う。

 ともかく歴史学は時間がかかる。しかも、歴史学は過去のなかを歩く学問であるから、そこには決まった道はない。それは、人生と同じように、一歩一歩、進んでいくほかない。私たちは、過去の世界のなかに蟻のようにもぐりこみ、歩いた跡がいつかつながって広い道になり、過去が誰にでも見えるようになることを期待はしている。「宇宙の晴れ上がり」ならぬ、「過去の晴れ上がり」である。私たち歴史学者は、過去が誰にでもよく見えるようになることが、現在の人類社会と世界史にとってどうしても必要であると考えている。

 しかし、その仕事の進行となると、つねに確信をもてるというわけではない。「過去を共有し、記憶の歴史像が歪まぬようにしたい」とはいっても、法学や経済学のように現在の社会に働きかけているという訳ではなく、歴史学は直接の有用性をもたない。「過去のなかを歩く」といっても、行き着くところがあるのかは不安だらけである。歴史学という学問は、やはり変わった学問であるといわざるをえないように思う。実際、歴史学を知るようになると、「これは一体どういう学問なのか」と迷うことは多いのである。そこでここでは、そういうときに私たちの世代が参考にしてきた本を紹介してみたい。

 まず哲学の分野での定番は、三木清『歴史哲学』であった。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、第二次世界大戦の終戦から一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子であり、新カント派から出発して、ドイツに留学してハイデガーに師事し、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。「戦後派歴史学」を代表する研究者は日本史では石母田正、西洋史では大塚久雄であろうが、二人とも三木を通じて歴史学、社会科学の方法論を身につけたことが知られている。いわばご先祖さまのようなものであるから大事にしてもバチはあたらない。

 この『歴史哲学』は難解をもって知られるが、日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この本しかないといわれている。そのよいところは、歴史というものについて、「事実としての歴史」「ロゴスとしての歴史」「存在としての歴史」の三つを区別したことであろう。まず「事実としての歴史」の「事実」とは、Tatsacheというドイツ語の翻訳であって、三木は、Tatsacheとは、Tat(行為)とSache(物事)をあわせたもので、「そこでは行為と物とが二つでない」と説明している。三木は、ハイデガーがこのTatsacheという用語に「問題」「運命」という意味を読み込んだことを前提として(『存在と時間』12節)、「事実Tatsacheとしての歴史」を運命的・歴史的な実践それ自体の意味で使っている。これはイタリアの歴史哲学者、クローチェが「すべての歴史は現在史である(現在性Contemporaneitaをもつ)」というのに通ずるもので、人びとは、「現在の瞬間」に立って、その「運命」「問題」につらなる過去を手繰り寄せる。だから歴史は、ここでは本質的に遡行的に認識されるものとなる。

 このような「遡行」(retroactive)は「回顧」(retrospective)とは違う。それは現在まで連続してきた歴史の運動、「行為=物」(Tatsache)の実体を手繰り寄せて、自己の経験や記憶と具体的に付き合わせて確認することであって、むしろ「追体験」という表現がふさわしい。そしてこれが「ロゴスとしての歴史」に関わってくる。つまりこの「ロゴスとしての歴史」とは具体的には「叙述(歴史叙述)された歴史」という形をとるが、しかし、ロゴスというギリシャ語の原義は、三木においてもハイデガーと同様に「告示=知」という意味である(『存在と時間』第7節B)。それは過去の記憶と追体験を組み直し、その中から精神に対する「告示=知」を獲得する作業であり、そこに歴史叙述の本質があるというのである。

 もちろん、歴史学が分析の測錘をおろすのは過去それ自体であって、「存在としての歴史」の圧倒的な力と永遠に近い時間は、人間に自己の位置感覚を忘失させる。過去は人間の環境となり、環境と人間との物質代謝の中で逆に人間の自己変化がもたらされる。それは一つのランダムな傾向性(法則)として貫いていて、人間を押し流す。歴史は、多数の意思とその環境との多種多様な相互作用の結果であって、たしかに人間の歴史ではあるのであるが、それは人間から疎外されたもののように存在している。三木の別の言い方では「歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷属せしめる」のである。「存在」はハイデガーのいうように、現在から、外へEx投げ出された存在istenz (Existenz)として偶然的なもの、「過去=無」として重層していくということになる。

 しかし、三木の『歴史哲学』はハイデガーへの批判の書であった。三木が「過去=存在=無」という場合、それはハイデガーのように意味を了解しがたいものとしての「存在=無=不条理」であるのではなく、「存在としての歴史」は「ロゴス(告示=知)」の光に照らされて、「ロゴスとしての歴史」の意味をもっていく。そしてこれによって人びとは、過去の全体像を記憶のなかに追体験し、過去を取り戻して、その先端に立って、歴史的な実践に踏み出すということになる。三木が、ハイデガーのナチス礼賛とユダヤ人弾圧への協調をどこまで知っていたかはわからないが、決してハイデガーのような非合理主義と虚無の立場に落ち込むことはなかったと思う。そこに、三木が戦争体制のなかで獄死するということになった理由があったこともいうまでもない。

 私は、三木の仕事は歴史哲学の達成としては、今でもめざましいものだと思う。しかし、残念ながら三木の死によって『歴史哲学』は未完に終わってしまった。ハイデガーが、結局、『存在と時間』を完結することができず、それを目指すといっていた「歴史哲学」の基礎構築もできなかったのはいうまでもない。結局、こういう中で、日本の哲学界にも、そして世界の哲学界にも体系的な歴史哲学は存在しておらず、「歴史とは何か」「歴史学とはどういう仕事か」という問題については、結局、歴史家自身による論著やエッセイを参照するほかないというのが実際なのである。

 歴史家の歴史論の代表は、フランスの歴史家、マルク・ブロックの『歴史のための弁明』(岩波書店、2004年)であった。ブロックは20世紀最大の歴史家といわれるが、ナチスへのレジスタンスに参加し銃殺された。この本はブロックが、なかばそのような運命を予感しながら書いたものであり、「『パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ』と、私に近しいある少年が数年前、歴史家である父親に尋ねたことがある」と始まる。この少年がブロックの息子であることはいうまでもない。ブロックは、それに答えるという形をとって、自分の仕事がどういうものなのかを語る。ブロックは歴史家の仕事は職人に似ているといい、この書を「日々の務めに関して瞑想することを常に好んできた職人の備忘録」であるという。そこにあるのは手順にもとづいて史料を読み、考証し、組み立てる職人的な愉楽、「独自の美的な愉楽、その他のいかなる学科のそれとも異なる愉楽」であるという。それを突き動かすのは、歴史学が人間科学としてもつ人間に対する無限の興味であるというのがブロックの説明である。

 その歴史学という仕事それ自体を見つめる内省的な記述は、フランス語の微妙なニュアンスもあって、そう読みやすいという訳ではないが印象的なものである。一番有名なのは「歴史学の対象は本質的に人間である。風景や道具と機械、さらに文書や制度などの背後に歴史学がとらえようとするのは人間たちなのである。よい歴史家とは伝説の食人鬼に似ている。人の肉を嗅ぎつけるところに獲物があると知っているのである」という文章であって、これは端的に歴史学が人間の科学であることを主張している。しかし、そのほかページを繰るごとに「知ろうと望む頭脳の要請に合わせて史料がお膳立てしてくれることは決してない」「感情の強さが言語の精密さをうながすことはあまりない。歴史家たちにおいてさえ、封建制と領主制という二つの言葉は実に残念な形で混同される」「まず一つの過ちの告白から始めることは決して悪いことではない。過去を研究する人びとが自然におちいるのは起源の強迫観念である」「西欧文明は、その他のタイプの文化とは異なり、常に記憶というものに多くを求めてきた。我々の最初の師匠であるギリシア人とローマ人は歴史を書く民族であった」などなど(一部縮約した)、歴史家に内省をもたらす言葉が連ねられている。史料の考証・選択・比較と批判、歴史用語の言語学と分析概念の関係、歴史事象の分類と分野史の意味、自然科学をふくむ隣接科学による分析技術の改善、時代の連続性と区分、世代の概念などなどの話題は味読に値する。とくに前近代史に興味のある方は、よく知られたブロックの名著『封建社会』とともに必読のものである。

 ただ、『歴史のための弁明』はブロックがレジスタンスの運動に忙殺されるなかで未完に終わっており、それを補うものとして私たちの世代で読まれたのが、ギリシャ史の大家、太田秀通の『史学概論』であった。章節の題名だけを掲げると「歴史に対する懐疑」「歴史意識の発展」「実証的科学としての歴史学」「精神的生産としての歴史研究」「歴史研究の構造(研究材料・研究手段・研究主体)」「歴史研究の過程(問題提起・研究作業・叙述)」「歴史学の社会的機能(イデオロギーとしての歴史学・歴史学の存在理由・歴史学の社会的有効性)」「人間の科学としての歴史学」ということになる。

 最後の「人間の科学としての歴史学」の部分は、ブロックと同じような内省的な雰囲気がある。太田は歴史学にとっては研究主体の世界観・人生観や人生的な経験が直接の意味をもつとし、歴史学を「研究主体の人間的な苦悩を包摂する力をもつ人間的な科学である」と特徴づける。そしてその上で、「人間としての生き方の問題。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。――ひとりで開けて入れ」と、この書を閉じている。

 これは歴史学の分野に進もうとする若者への情熱的な呼びかけになっており、私たちの世代の歴史家にはよく知られていたものである。たしかに歴史学は変わった学問ではあろうが、過去を精細に総合的にみる能力は養い、人間が、その心と経験をふくめて過去を客観視するための訓練にはなる。私のような惑いの多い人間も、ともかく歴史学によって生きる力を支えられてきたと思う。
 
 さて、ともかく、歴史学はまだ若い学問であり、やるべき仕事は数限りなくあり、覚悟を決めた人手はいくらあってもたりない。本書は、それをわかっていただくために書いた。何歳から始めても、中年になっても、定年後になっても、いま始めれば、人生の時間はたっぷりである。歴史学の研究はやり方になれれば、そう金もかからず、また特定の分野の考証にしぼれば、史料の公開やデータベース化が進展した現在、誰でも一級の仕事ができる。その仕事場をのぞいていただくために、以下、30冊の本を選んで、(1)「読書の初め」、(2)「史料の読み」、(3)「学際からの視野」、(4)「研究書の世界」、(5)「研究基礎ー歴史理論」という順序に分類して紹介していくことにしたい。

参考文献
三木清『歴史哲学』(『三木清全集』第六巻、初出1932年)
マルク・ブロック『歴史のための弁明』
        『封建社会』
太田秀通『史学概論』(学生社、1965年)

2015年10月14日 (水)

沖縄史についての基礎的な事実を確認してほしい。

 沖縄の翁長知事が、仲井真前知事が知事選挙での公約に違反して行った辺野古新基地の埋め立て承認を取り消した。

 歴史家としては、多くの人びとが、この機会に沖縄史についての基礎的な事実を、少なくとも10世紀くらいから第二次世界大戦末期の惨酷な結果となった沖縄戦まで確認しておいてほしいと思う。同じ列島に住むことによって、いわゆる本土と沖縄が、どのような歴史的な関係をもってきたのかということである。それを常識にした上で問題を考えるべきだと思う。昨日のブログでふれたように、手頃なのは、豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』ー「日本史」を揺るがす琉球史(吉川弘文館、2003年)である。これは小学校から教えるべきことである。

 政府は訴訟を起こすということだが、行政審査不服法は、国が自治体の行政的決断について国が訴訟をするということを予定した法律ではない。国が訴訟を起こすということは国が私人としての資格で行動することを意味する。国家が私人として行動することは現代法ではありえないことである。

 法治主義の第一の基本は選挙結果に行政はしたがうことである。名護市長選・県知事選・衆議院選挙などで沖縄県民の総意は何重にも確認されている。世論調査でも県内移設反対が8割に達している。県知事選はいわば住民投票である。住民投票による住民自治に従うというのは民主主義国では普通のことである。それを越えるような国家判断なるものをすることは許されない。

 菅官房長官は、一度決まったことだ。行政の継続性だと県知事を批判したというが、ようするに選挙結果にしたがう気持ちはないということである。こういうことは法治主義の大原則に反する。とくに安部自民党は自党の国会議員の公約を変更させ、さらに仲井真前知事に公約を変更させた当事者である。選挙で確認された公約を変更させるというのがまず不当な行為である。不当な行為をしておいて、それが行政の継続性だというのは、やった方が勝ちという論理である。自身で踏みにじっておいて、それに抗議があると、もう決めたことだというような発言は許されない。これは、ようするに「俺が決めたことだから守ってもらう」「俺が法だ」ということである。これをジャーナリズムは全力を挙げてたたくべきである。そうでなければ、これでは社会はもたない。こういう状態で、行政不服審査を訴えるということは、ようするに国家よりも私党を上におくということである。
 
 こういうことが起こるのは、現在の「安倍自民党内閣」に特徴的なことで、ヨーロッパ・アメリカでは考えられないことである。United Statesアメリカの一州の決定をアメリカ政府が行政不服審査でひっくり返せる訳がない。相似しているのは、ご近所だと現在の中国の体制であろうか。広くみれば、ここには政治と社会の関係の「東アジア的」な特質があるということであろう。国家と中央都市が意思決定において優先するというのは東アジアの政治意思決定のシステムである。しかし、日本の「本土」であれば、住民投票は決定的な意味をもつにもかかわらず、「基地」「沖縄」となるとそうはならないというのは、東アジア的な特質一般では理解できないことである。これはようするに、アメリカ従属であり、沖縄差別である。アメリカでは考えられないシステムによってアメリカに奉仕しようというのが何ともいえないところである。

 第二次大戦後のアメリカへの国家従属は、沖縄に基地をおくことによって支えられてきた。沖縄県民は第二次大戦末期の沖縄戦で県民の四分の一を殺された上に、アメリカ軍占領下で土地を収用され、基地を押しつけられた。沖縄戦の惨状を国民のうちどれだけの人がどれだけの精度と実感をもって知っているだろうか。それなしに議論は不毛である。この事実は小学校で教えるべきことである。

 今の事態は、その歴史的な結果が、問い直されているということである。それを問い直さないまま、安部自民党「国家」は、沖縄県と事を構えようとしている。

 私は、今年3月に、ブログに「国と自治体の行政は、主権者の意思を尊重し、それにできる限り従うことを前提として、同じ国家の行政組織として相互に調整するというのが普通のことである。しかし、このままで行くと、国(というよりも自民党内閣)と県庁の全面的な対立に発展する可能性がある。こういうことは明治維新以降の日本現代史の上ではじめてのことである。自由民権運動のときは地域社会と藩閥政府の対立という実態はあったが行政行為において、こういうレヴェルの対立はなかった」と書いた。第二次大戦前の県知事は中央の決定であるから、こういうことは起こりえなかったことはいうまでもないから、行政の相互が行政行為それ自身で対抗しあうというのは、日本国家史上ではじめてのことであると思う。歴史家としてはそういうことを目撃しているという感じで事態をみている。

 さいごに、右の豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』ー「日本史」を揺るがす琉球史(吉川弘文館、2003年)についての拙著『日本史学』(人文書院)での紹介をもう少し長く引用しておく。

「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」

 1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。

 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。(中略)しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。

 沖縄の動きは目を離せない。

沖縄史についての基礎的な事実を確認してほしい。

2015年10月13日 (火)

翁長さんの記者会見をみて

翁長さんの記者会見をみて、最近出した『日本史学』(読書案内)に自分で書いた文章を思い出した。全テキストは出版契約によって載せられないが、「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」というものを本当に考えなければならないと思う。

豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』ー「日本史」を揺るがす琉球史(吉川弘文館、2003年)
「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」
琉球王国の歴史
「日本人」という言葉のワナ
 1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。

2015年10月 4日 (日)

『老子』45章鈴木大拙の「大拙」という号は、この章の「大巧は拙なきが若く」に由来するもの

 『日本史学 基本の30冊』(人文書院)が出版される。本が届いた。これは本当に疲れたので、しばらく『老子』を読んで基礎構築に移動する。

45。満月は影があるからこそ天をめぐる

 大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなもいのは拙いようにみえ、雄弁は訥々としているように聞こえる。熱さは寒さに勝つけれども、さらに静けさは熱さに勝つことができる。淸く靜かなものが天下(世界)の中心にあるのだ。

大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。

大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。

解説
 二〇世紀を代表する禅学者の鈴木大拙の「大拙」という号は、この章の「大巧は拙なきが若く」に由来するものである。大正時代までの人たちは、こういう種類の漢語をよく知っていて、それを人生訓として、人生観の支えとしていた。そういう漢語のうちでは『老子』がしばしば使われていた。本章のうちでは、私は「大盈は冲しきが若く、其の用は窮まらず」というのが好きだ。これは満月にも必ず小さな影があるということだと思う。そういうように、自然を観照しながら自己自身を内省するというのが、人生というものを考えるためには、もっとも健康なやり方だろう。私は、ネットワークとコンピュータの発達は、これからの社会にとって必要なものだと思うが、しかし、コンピュータの画面をみていては人生というものを考えることは難しい。それが過渡期の時代の大変なところだ。

 大正時代までは、そんなものはなく、そもそも活字文化も始まったばかりだったから、人びとは、毎日毎時、自然を観照する機会があったのである。そこでは自我の意識は自然との間で一種の溶け合いの中にあった。これを「融即」などということがあるが、たとえば夜の小川に飛ぶ蛍は自分の魂が流出したものではないかなどというのは、それなりに自然な感覚だったのである。『老子』本章の最後にでる「清静は天下の正たり」という言葉も、そういう側面から考えておかねばならない。ここでは清静なのは、直接には、この哲学詩を読んで静まっていく自分の心である。自分の心に集中したところから、周囲をみていくと、清静な心が、その世界の中心にあることを発見するというのが、「清静は天下の正たり」という言葉についての最初の了解となる。もちろん、そこで「天下」と呼ばれているものには、文字通り、「天の下」の客観的な世界という側面がある。普通の本章の解釈は、「天下の正」の「正」という語を、文字通り、王侯あるいは長、主長の意味でとって、「清静無為の道に随えば王になることができる。武力などはつかってはいけない」と解釈する。まさに「天下」は帝国・王国の意味だということになる。

 しかし、上に述べたような理由からして、そこには自然や社会と融即している自分の主観世界も含まれている。『老子』の哲理の特徴は、何よりも、その内面性にあるから、「天下」という言葉は、個人から人類におよぶ内面世界の全体をも含意していることを押さえておくべきだと思う。私は、そういうように上の訓読文を解釈したい。

2015年10月 3日 (土)

『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。

『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。この文章をみてくれた友人の奥様から20年ぶりに連絡があり、息子さんが『老子』をすきだということで、興味をもったということだった。そこでもう一度、考え直した。

56 光を和らげ、塵のような経験を肯う(うべなう)(人生訓1)
 真理を知ったものが、それをすべて言葉にできるわけではない。また言葉にしてしまうと、それは真実ではなくなってしまうものだ。人は(まず)外界を感受する器官の穴をふさぎ、その門を閉じ(て瞑想しなければ)ならない。そして、(受け入れた)光を和らげ、塵(のように細かな経験)にまで内在し、鋭すぎるものは挫いて、こんがらがったものを解くことだ。これを玄同(奥深い合一)という。(そのように内面的なものである以上、真理の玄妙な力を)得たからといって、それで親しさがますわけでも、よそよそしくなる訳でもない。(もちろん)それは利益や損害とまったく関係がない。また自分が貴くなったと感じたり、他者を賤しめるなどということとも無縁である。貴いかどうかなどというのは世界が決めることだ。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴を塞ぎ、その門を閉ざし、その光を和らげ、その塵に同じ、その鋭どきを挫き、その紛を解く。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。

知者不言、言者不知。塞其穴、閉其門、和其光、同其塵*1、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

*1この句と次句の順序は帛書本章によった。諸本は逆。

解説
 この章は『老子』のなかでも、もっとも有名な章である。まず冒頭の「知者不言、言者不知」という一節は、真理を確知したと感じても必ずしも言語化できる訳ではなく、逆に言語化した途端に認識した真理が形を失って溶けてしまうという問題を告げている。『老子』は、認識論における確知と言語表現の関係を論じているのである。これを「本当に真理を理解している人はものを言わず、おしゃべりする人は実は何もわかっていない」などと解釈するのは、やや表面的な解釈で、『老子』の哲理ともいうべきものの中枢を捉えそこなっている。また、この部分を解説して、東アジアや日本の文化の特色は沈黙を美徳とすることにあるなどというのは、耳に通りはよいかも知れないが、『老子』のいっているのが、その程度のことならば、何も、わざわざ難しい漢文を読む必要はないように思う。
 『老子』は、この確知と言語の隘路を「塞其穴、閉其門」によって通り抜けろ、つまり目をつぶり、感覚器官を閉じて自分の内面に入り込めといっているのである。『老子』は真理を確認するためには、それが自然に関する真理であっても、社会や歴史に関わるものであっても、一度は瞑想が必要だというのであり、有名な「和光同塵」という言葉は、そこに関わっている。つまり、瞑想のなかでみえる光というのは、すでに内面に受け入れられ、蓄積された光*1であろう。そして「塵」というのも過去の生活の中で蓄積された経験であり、塵労であろうか。『老子』はそれをいわば追体験しろといっているのである。「和光同塵」という言葉は、普通、「知の光を和らげ、世俗に同化する」「英知の光を和らげて、光を塵すものに同和する」などと解釈されるが、それは非知性主義を押しつける解釈で『老子』の本意ではないだろう。
 こう考えれば『老子』のいうことは実に明瞭であって、いわば人生を内省する際の永遠の哲理である。なお、だいたい、紀元前六~四世紀にインド・ギリシャをふくめて、ユーラシア大陸全体で起きた哲学は、結局、こういう瞑想と人間の内面の発見に結果したのである。私は、その中でも『老子』の思想はもっとも玄妙なものであると思う。

2015年10月 2日 (金)

『老子』56。和光同塵の正しい(と思われる)解釈

56 受け入れた光を和らげ、塵のような気配にも内在する(人生訓)
 真実を知ったものは、それを言にすることができず、それを言にしたものは知ることができない。人はまず外界を感受する器官の穴をふさぎ、その門を閉じなければならない。そして、受け入れた光*1を和らげ、塵のように細かな気配にまで内在し、鋭すぎるものは挫いて、こんがらがったものを解くことだ。これを玄同(奥深い合一)という。そのように内面的なものである以上、この自覚は親愛の感情や疎外の感情をもたらすことはない。また利益や損害とまったく関係がないことはいうまでもない。貴くなったという訳でもなく、他者を賤しめるなどはもってのほかである。貴いかどうかなどというのは世界が決めることだ。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴を塞ぎ、その門を閉ざし、その鋭どきを挫き、その紛を解き、その光を和らげ、その塵に同ず。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。

知者不言、言者不知。塞其穴、閉其門。和其光、同其塵*2、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

*2この句と次句の順序は帛書本章によった。諸本は逆。

解説
 有名な「和光同塵」という言葉は、普通は、知の光を和らげ、世の中の人に同化するなどと解釈されている。仏教の世界では、強靱な仏法の光を和らげ、塵のような世界にも広げていくなどともいわれる。「知者不言、言者不知」というのも、知っていてもいわない、あまり言うのはおかしい。寡黙であることが品格を示すなどの趣旨で解釈される。これを東洋の美徳だとか、日本の雰囲気だとかいうのである。しかし、この二つの解釈は両方ともおかしい。後者の「知る者は言わず云々」というのは、真理を確知したと思っても、そこには表現できない部分、言語化できないところがあるということだろう。「言う者は知らず」というのは言語にした途端に真理の一部分が溶けてしまうという感覚であろう。『老子』は、認識というものはそういうものだと、いわゆる認識論を語っているのである。そして、そういう時は目を閉じて感覚と情報を遮断して、「和光同塵」の瞑想に入れというのである。この有名な章句の第一句と第二句の間には、「そういう時には」という言葉が入るのであって、「和光」の光というのは、すでに受け入れた光*1ということになる。ようするに、瞑想に入って知識と情報、雰囲気、鋭さ、混乱などを内面的に扱って、対象世界と自分の内面の玄同(奥深い合一、融即)を確保せよといっているのである。こう考えれば『老子』のいうことは実に明瞭であって、いわば人生の永遠の真理である。
 だいたい、紀元前六~四世紀にインド・ギリシャをふくめて、ユーラシア大陸全体で起きた哲学は、結局、こういう瞑想と人間の内面の発見に結果したのである。私は、その中でも『老子』の思想はもっとも玄妙なものであると思う。

『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる

 夜、目がさめて、昨日から始めた『老子』20章を書き終えた。身につまされる章である。いま5時である。

 『老子』は前からきちんと読まねばならないと感じていたが、これはやはり必要なことであるという感を深くしている。漢文を学校でならわなくなっているというのが、東アジアの文化や歴史というものを無視する文化的な土壌になっているのいではないだろうか。習字をやらなくなっているのも同じことだ。
 

『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる

 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人の畏れることは畏れない訳にいかない。しかし、学問をやったって茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは敏腕を振るうが、私の仕事はもたもたしている。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながらも田舎住まいを続けている。だが、私には、ここにいる小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。

学を絶てば憂い無し。唯と訶と、其の相去ること幾何ぞ。美と悪と、其の相去ること如何。人の畏るる所は亦た以て畏れざるべからず。恍として其れ未だ央さざるかな。衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我は独り泊として未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如く、累累として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺し。我は愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるも、我は独り昏たるが若し。俗人は察察たるも、我は独り悶々たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以うる有りて、我は独り頑にして以って鄙なり。我れ独り人に異なりて、食母を貴ばんと欲す。


絶学無憂。唯與訶*1、其相去幾何。美與惡、其相去如何*2。人之所畏、亦不可以不畏。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢*3、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母*4。

*1唯はハイという承認の言葉、訶は逆。
*2原文は何若
*3(太牢=牛・羊・豚の肉料理)
*4乳母のこと。『礼記』内則篇に「太夫の子、有食母」とある。

解説
 最後の「食母を貴ばん」を、普通は、食母を「道」と理解して「学問を絶っても万物を育む道を母として大事にすることは変わらない」などと訳す。しかし、そういう負け惜しみのようなことをいっては詩にならない。これは夏目漱石の『坊ちゃん』にでる乳母の清と同じで、本当に乳母が大事なのだと思う。この章は老子というのが、どういう男なのかを伝えてくれる章で、私は、自分が学者だからかも知れないが、もっとも好きなところである。この章からすると、春秋戦国時代には確実に知識人の生活というものがあるようになっていて、学問をすることを一つの職分とみるようになっていたことが分かる。何よりもよいのは、学問をするものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることで、学問なぞは、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。何の役に立つものか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ、という訳である。しかし、このようにはるか過去の人間の本音を時を隔てて確かに聞き取ることができるというのは、学問の独特の愉悦であることも自覚させられる。
 老子には、陶淵明の「帰去来兮辞」と同じ田園主義の最初の現れがある。「帰去來兮、田園 將に蕪れんとす、胡ぞ帰らざる、既に自ら心を以て形の役と爲す、奚ぞ惆悵して獨り悲しむ」という例の詩である。漱石の坊っちゃんには、老子や淵明の感傷が生きていたが、それ以降、日本では田園主義らしい田園主義はなくなってしまったように思う。それは文化として必要なものではないかと思うようになった。
 この夏、中国の済南にいって、見るもの聞くものが多く、非常に疲れた。中国には何回かいったが、年齢のせいもあり、また重たい原稿をかかえていたせいもある。しかし、『老子』をここまで読んできて、中国の歴史や哲学というものを安定的に考える訓練ができていないという反省をしている。

 それにしても、『老子』の「絶学の勧め」は身につまされる。福沢の『学問のすすめ』というのは、ようするに中国文化からの離脱志向だったのではないかと思う。津田左右吉も同じだったように思う。それはある意味で自然なことだが、しかし、脱亜論が何を結果したかは、『老子』までもどって考えるべきなのかも知れない。。

2015年10月 1日 (木)

『老子』14章 歴史の始源を理解する

『老子』14章 歴史の始源を理解する
 目をこらしても見えない(「微」)、耳をすましても聞こえない(「希」)、循でさすっても感じない(「夷」)ような関係が、この世界にはある。つまり人間の直接の感覚では明らかに詰めることができないものが混沌として一体になっている。その一体となったあり方は、上が遠いとか、下が近いとかいうものではなく、時空を貫通している。それは絡み合った縄が透明な網のように偏在していき、名付けることができないまま、もとの無主の世界に戻っていく。その運動は形状もなく、物としての現象もない。だから意識の抽象力、一種のトランス=恍惚の中でしか認識できない。それは後ろから追いかけても尻をみることはできないし、前から出迎えても首を見ることはできないのである。しかし、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御すれば、その中で、はじめてこの理法=道が発した歴史の始源も理解することができる。これが道を理解する要点(道紀)である。

之を視れども見えず、名づけて微と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。之を循れども得ず、名づけて夷と曰う。三者は、致詰すべからず、故に混じて一と為す。一なるものは、其の上は悠からず、其の下は忽からず、縄縄として名づくべからずして、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是れを惚恍と謂う。之に随いて其の後を見ず、之を迎えて其の首を見ず。今の道を執りて、以て今の有を御さば、もって古への始めも知らん。是れを道紀と謂う。


視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希*1。循*2之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠*3、其下不忽。縄縄不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今*4之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。

*1「希」の原義は透かし織りの布。まれ、少ないの意になる。少ない望みを希望という。
*2帛書は捪。「循」(したがう、めぐる、なづる)はその同義(『列子』など)。
*3帛書には「攸」。
*4「今」とあるのは帛書。従来の諸本は逆に「古」であった。


解説
 この章は現代的な自然科学、社会科学の考え方からいっても、きわめて分かりやすいものである。つまり、自然の世界の理法・自然法則や、社会や歴史を貫いている理法というものは、直接の五感では捉えることはできないもので、そのままではカオスにしかみえない。それ故に、その認識のためには一種の抽象力あるいは超越というものが必要となる。自然法則の認識のためには五感を超越した数式が必要になり、商品のような単純な社会的物品を認識するためにも抽象力が必要になるのである。自然を認識するためには実験だけでなく、その中での直感的発想が必要になり、商品を五感で認識できる金に置き換えるだけで満足するのでなければ、そもそも商品とは何かということを考えざるをえないのである。『老子』は、そういうことを極めて直感的にいっているのである。『老子』の時代には具体的な個別科学は存在しないから、言い方が神秘的な表現になるのはやむをえない。そもそも科学認識というのは対象と主観の融即のようなものを常に含むから、直感的で神秘的な要素が自然に生まれるものでもある。
 さらに帛書の発見によって『老子』の歴史認識がきわめて現代的なものであった可能性がでてきた。つまり、歴史というものは、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御するという実践的立場によって遡及的に(retroactive)に認識できるものだ(参照三木清『歴史哲学』)と考えていた可能性がでてきたのである。

『老子』第一章。道。大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる

 『老子』第一章の「道」についてのもっとも有名な一節について、いちおうの釈読が終わった。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあるが、私は日本史の研究者なので、研究成果に学んで楽しんで読むということで許していただく。

 しかし、帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感する。日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったというのが、私などの意見である。それは津田左右吉がむしろ本質的には東洋思想史の研究者であった以上、東洋史の一部として始まったということである。問題は、津田的な東洋史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことである。帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だと思う。
 
 うかつなことに、私は神話論の分野に入ることによって、その状況を初めて知った。
 
 これを知った以上、神話論をやるのも、いちおうの教養を身につけてからでないとできない。
 ショックだったのは、津田は『老子』が嫌いなのだということを初めて知ったことである。津田の中国論の基本にそれがあったのだ。そして、津田は日本神話のテキストのなかに道教を発見し、それを摘出して日本的なものをもとめてタマネギの皮むきをやったのだということも分かってきたような気がする。

 いろいろ弁解をするが、ともかく、以下は、『老子』を、一種の哲学詩あるいは神話詩と理解して、読みやすく釈読したものなので、勘弁である。


1  大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる
 普通、道徳だとか、道義だとかいわれる道と、ここでいう永遠(恒常)の理法という意味での道はまったく違うものだ。また、普通、名声だとか、有名だとかいわれる名も、ここでいう理法を認識するという意味での名(概念)とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、道は混沌としていて名づけようのないものだ。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地の神の身体に道が通っていって、母神となり、そこから万物が産まれる時に、はじめて万物に名前をつけることができるようになる。だから、永遠の存在のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は渺々としている。その存在のなかに欲求が生まれて初めて、名前が明らかになってくるのだ。そして、道と、それに対応する認識の両者は、名は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、玄と玄が重なっている場所には、世界万物がうまれる衆妙の門が開いている。

道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒の無欲*1にして、以て其の眇を観、恒の有欲にして、以て其の曒なるを観る。此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

解説
 永遠なる定常宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。ビッグバンからしばらく立って物理法則が働き始め、天地が分かれて星ができ、そこに陰陽、雌雄が生じて、欲求が生じた後に、「道=理法」に対する「命名=認識」が始まるということになる。普通、老子は「無欲」の哲学といわれる。しかし、老子の神話的宇宙論では、「道」は実在的なものであるから、それに対応して欲求の存在を認め、それを見つめるところから出発しているはずである。「恒の無欲・有欲」とは、いわば定常宇宙に動きが生まれ、それが欲という拡張システムになっていくというイメージであろう。老子の宇宙論は『恒先』その他の同時期の道家思想の宇宙論を前提にして、それを詩化しているから、言葉を補って読むほかない。この章を詩的に理解する鍵は、道と名の重なる場、自然の理法と意識活動が重なる場を「玄の又玄」として、地母神・谷神たちの「衆妙の門」に結びつけることである。


*1『恒先』に「(万物は)同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず」とある。

日本共産党の選挙協力の提案について

 日本共産党が立憲主義を守り、戦争法案を廃棄する一点で選挙協力を呼びかけた。戦争法強行通過が9月19日未明。日本共産党が、この提案を出したのは、その昼であった。 

 私は同じ日の朝、早く目がさめたので、これを廃案にするためにどういうことが必要かということを考えた。私は政治家ではなく、自分の仕事のことは別にして、その場にならないと先のことは考えない方である。しかし、この安保戦争法案については、強行された以上、次をどう考えるべきかと考えた。

 その結論は「これ自体は、誰でもわかる非常に単純なことだと思う。つまり、国会前の集会に参加していた政党が平等な立場で政策協定をむすび、選挙協力をすればよいのだと思う」ということだった。そしてそれをブログに書いた。私は、国会前の集会で小沢一郎氏が、私はこういう場所にでたことはないが、この法案だけはつぶさねばならぬと思ってでてきたと発言するのを聞いた。強行の翌日に思い出したのは、それであって、安保法制に反対した野党が政策協定をして、選挙協力をするべきことは、これらの政党の全体の義務であるというのが、自然な考えだった。多くの人がそう考えたのではないかと思う。

 ブログに何度も書いたように、昨年一二月の総選挙では、自民党は比例区で国民の17パーセントの支持しか得ていない。しかも直前の最高裁判決は現行の投票権の不平等について「違憲状態だが選挙は有効」としたが、判事15人のうち、4人は選挙の有効性をみとめず、その他でも5人の裁判官が補足意見で、「違憲状態の選挙で選ばれた国会議員は国会の活動をする正統性がない」と言い切った。ようするに昨年の総選挙で選出は、最高裁の半数以上が、現国会の正当性を認めていないのである。現在の国会の多数派は小選挙区制という偏った人為的な選挙制度による虚構の多数であることが三権分立の一方から宣言されているのである。

 しかも、河野自衛隊統幕長が総選挙直後に訪米し、米軍幹部に「現在、ガイドラインや安保法制について取り組んでいると思うが、予定通りに進んでいるのか」と問われ、「与党の勝利により来年夏までに終了と考える」と発言したことが明らかになった(統合幕僚監部の文書「統幕長訪米時の(ママ)おける会談の結果概要について」)。総選挙前から、自民党はアメリカに戦争法案強行の約束をしていたのである。それにも関わらず、自民党は、このアメリカとの約束を隠して、総選挙を行った。

 こういう状態の中でどの世論調査でも6割の反対があり、今国会で通すべきではないという意見はさらに多数に上っていたにもかかわらず、自民党は違憲の法案を強行「通過」させた。こういうことは社会的に許されることではない。

 そういうことを考えてブログを書いていたのだが、ちょうど同じ頃、日本共産党は中央委員会を開いていたのだろうか。人間が同じ時間帯に同じようなことを考えている(あるいは別のことを考えている)というのがネットワークの世界で瞬時にみえるというのは面白いことだと思う。私のブログが「ブロゴス」(というWeb Site)に転載されるのとほぼ同時に日本共産党の提案が載って、それを読んだ。 

 日本共産党の提案のよいのは、提案が暫定政府の提案であることである。つまり、この提案は、政府をつくって、戦争法案を廃棄し、集団的自衛権は合憲であるという昨年7月の閣議決定を取り消した後は、解散・総選挙に入るという単純な提案になっている。暫定政府で一点を解決した後は、その解決を前提として次にどうするかは再び選挙をやるというのは、話が単純でよい。解散総選挙というのは、国家としては予算も使い、主権者としてもてまだが、それだけのことはするべき問題だと思う。政治を単純にするというのが、政治に筋を通し、政治を取り戻すということだ。

 こういう手順が進むのには、2・3年は掛かるだろうが、私は、そのなかで、2011年3月11日の東日本太平洋岸地震と原発事故をどう考えるかの議論が進むことを願う。また沖縄の辺野古基地新建設をどう考えるかの議論が進むことを願う。

 問題の中心は、どれも日本とアメリカとの関係をどうするのかを本格的に考えることである。安保戦争法案は、アメリカの下で中近東・アフリカまで自衛隊が行くという問題である。原発も、アメリカの下でアメリカの技術提供をうけて自民党政府が導入した政策であり、いまでも日本の脱原発にはアメリカが反対している。そして沖縄のことはいうまでもない。これこそ誰がみても、またアメリカとの関係でみれば中心的な問題である。

 私は、私のブログには「四野党は安保、辺野古、原発ですぐに政策協定の作業をはじめてほしい」と書いた。暫定政府を作るなかで、そこまで問題を詰めていってほしいと思うが、ともかく入り口は早くはっきりさせてほしい。

  安部首相の国連演説が聴衆がいないガラガラの会議場で行われていたという情報が写真付きでまわっている。Not a full househttp://www.japantoday.com/category/picture-of-the-day/view/not-a-full-house。これだけ国内を騒がせて、国際社会のために軍事参加しますといっている首相がミエを切っているのに、ガラガラの聴衆しか集められないというのは、本当に困った話だ。それを正確に報道しないというのも困った話だ。しかし、ネットワークの世界は事実を瞬時に赤裸々に明らかにしてしまう。

 『老子』は有名な73章。「天網恢恢、疏而不失」を読む。天の網は大きくて目が粗い。

 危機に直面したとき、行動を決断して殺されるか、自制を決断して活きるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由はなにか。それは、誰にも分かることではなく、神の声が聞こえる人という人にも判断しがたいことである。天の道は、ただ争わないものを善く勝たせ、言上げしないものに善く応え、求めないもののところに来て、坦然としたものに善く計らうというだけである。天の網は大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、そのような人の決断を無意味とすることはない。

 この邦が一つの危機に直面していることは確実であろうと思う。
 
 普通「天網恢恢、疏而不失」は、天は何でも知っていて処断するという意味とされるように思うが、上記のように読んでみた。人の決断が無意味となることはないと読んでみた。


敢えてするに勇なれば則ち殺し、敢えてせざるに勇なれば則ち活す。此の両者は、或いは利或いは害。天の悪む所は、孰ぞその故を知らん。是を以て聖人は、猶お之を難しとす。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召かずして自ら来り、□然として善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。

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