『老子』45章鈴木大拙の「大拙」という号は、この章の「大巧は拙なきが若く」に由来するもの
『日本史学 基本の30冊』(人文書院)が出版される。本が届いた。これは本当に疲れたので、しばらく『老子』を読んで基礎構築に移動する。
45。満月は影があるからこそ天をめぐる
大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなもいのは拙いようにみえ、雄弁は訥々としているように聞こえる。熱さは寒さに勝つけれども、さらに静けさは熱さに勝つことができる。淸く靜かなものが天下(世界)の中心にあるのだ。
大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。
解説
二〇世紀を代表する禅学者の鈴木大拙の「大拙」という号は、この章の「大巧は拙なきが若く」に由来するものである。大正時代までの人たちは、こういう種類の漢語をよく知っていて、それを人生訓として、人生観の支えとしていた。そういう漢語のうちでは『老子』がしばしば使われていた。本章のうちでは、私は「大盈は冲しきが若く、其の用は窮まらず」というのが好きだ。これは満月にも必ず小さな影があるということだと思う。そういうように、自然を観照しながら自己自身を内省するというのが、人生というものを考えるためには、もっとも健康なやり方だろう。私は、ネットワークとコンピュータの発達は、これからの社会にとって必要なものだと思うが、しかし、コンピュータの画面をみていては人生というものを考えることは難しい。それが過渡期の時代の大変なところだ。
大正時代までは、そんなものはなく、そもそも活字文化も始まったばかりだったから、人びとは、毎日毎時、自然を観照する機会があったのである。そこでは自我の意識は自然との間で一種の溶け合いの中にあった。これを「融即」などということがあるが、たとえば夜の小川に飛ぶ蛍は自分の魂が流出したものではないかなどというのは、それなりに自然な感覚だったのである。『老子』本章の最後にでる「清静は天下の正たり」という言葉も、そういう側面から考えておかねばならない。ここでは清静なのは、直接には、この哲学詩を読んで静まっていく自分の心である。自分の心に集中したところから、周囲をみていくと、清静な心が、その世界の中心にあることを発見するというのが、「清静は天下の正たり」という言葉についての最初の了解となる。もちろん、そこで「天下」と呼ばれているものには、文字通り、「天の下」の客観的な世界という側面がある。普通の本章の解釈は、「天下の正」の「正」という語を、文字通り、王侯あるいは長、主長の意味でとって、「清静無為の道に随えば王になることができる。武力などはつかってはいけない」と解釈する。まさに「天下」は帝国・王国の意味だということになる。
しかし、上に述べたような理由からして、そこには自然や社会と融即している自分の主観世界も含まれている。『老子』の哲理の特徴は、何よりも、その内面性にあるから、「天下」という言葉は、個人から人類におよぶ内面世界の全体をも含意していることを押さえておくべきだと思う。私は、そういうように上の訓読文を解釈したい。
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