『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる
夜、目がさめて、昨日から始めた『老子』20章を書き終えた。身につまされる章である。いま5時である。
『老子』は前からきちんと読まねばならないと感じていたが、これはやはり必要なことであるという感を深くしている。漢文を学校でならわなくなっているというのが、東アジアの文化や歴史というものを無視する文化的な土壌になっているのいではないだろうか。習字をやらなくなっているのも同じことだ。
『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる
学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人の畏れることは畏れない訳にいかない。しかし、学問をやったって茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは敏腕を振るうが、私の仕事はもたもたしている。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながらも田舎住まいを続けている。だが、私には、ここにいる小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。
学を絶てば憂い無し。唯と訶と、其の相去ること幾何ぞ。美と悪と、其の相去ること如何。人の畏るる所は亦た以て畏れざるべからず。恍として其れ未だ央さざるかな。衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我は独り泊として未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如く、累累として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺し。我は愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるも、我は独り昏たるが若し。俗人は察察たるも、我は独り悶々たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以うる有りて、我は独り頑にして以って鄙なり。我れ独り人に異なりて、食母を貴ばんと欲す。
絶学無憂。唯與訶*1、其相去幾何。美與惡、其相去如何*2。人之所畏、亦不可以不畏。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢*3、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母*4。
*1唯はハイという承認の言葉、訶は逆。
*2原文は何若
*3(太牢=牛・羊・豚の肉料理)
*4乳母のこと。『礼記』内則篇に「太夫の子、有食母」とある。
解説
最後の「食母を貴ばん」を、普通は、食母を「道」と理解して「学問を絶っても万物を育む道を母として大事にすることは変わらない」などと訳す。しかし、そういう負け惜しみのようなことをいっては詩にならない。これは夏目漱石の『坊ちゃん』にでる乳母の清と同じで、本当に乳母が大事なのだと思う。この章は老子というのが、どういう男なのかを伝えてくれる章で、私は、自分が学者だからかも知れないが、もっとも好きなところである。この章からすると、春秋戦国時代には確実に知識人の生活というものがあるようになっていて、学問をすることを一つの職分とみるようになっていたことが分かる。何よりもよいのは、学問をするものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることで、学問なぞは、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。何の役に立つものか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ、という訳である。しかし、このようにはるか過去の人間の本音を時を隔てて確かに聞き取ることができるというのは、学問の独特の愉悦であることも自覚させられる。
老子には、陶淵明の「帰去来兮辞」と同じ田園主義の最初の現れがある。「帰去來兮、田園 將に蕪れんとす、胡ぞ帰らざる、既に自ら心を以て形の役と爲す、奚ぞ惆悵して獨り悲しむ」という例の詩である。漱石の坊っちゃんには、老子や淵明の感傷が生きていたが、それ以降、日本では田園主義らしい田園主義はなくなってしまったように思う。それは文化として必要なものではないかと思うようになった。
この夏、中国の済南にいって、見るもの聞くものが多く、非常に疲れた。中国には何回かいったが、年齢のせいもあり、また重たい原稿をかかえていたせいもある。しかし、『老子』をここまで読んできて、中国の歴史や哲学というものを安定的に考える訓練ができていないという反省をしている。
それにしても、『老子』の「絶学の勧め」は身につまされる。福沢の『学問のすすめ』というのは、ようするに中国文化からの離脱志向だったのではないかと思う。津田左右吉も同じだったように思う。それはある意味で自然なことだが、しかし、脱亜論が何を結果したかは、『老子』までもどって考えるべきなのかも知れない。。
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