BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる | トップページ | 『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。 »

2015年10月 2日 (金)

『老子』56。和光同塵の正しい(と思われる)解釈

56 受け入れた光を和らげ、塵のような気配にも内在する(人生訓)
 真実を知ったものは、それを言にすることができず、それを言にしたものは知ることができない。人はまず外界を感受する器官の穴をふさぎ、その門を閉じなければならない。そして、受け入れた光*1を和らげ、塵のように細かな気配にまで内在し、鋭すぎるものは挫いて、こんがらがったものを解くことだ。これを玄同(奥深い合一)という。そのように内面的なものである以上、この自覚は親愛の感情や疎外の感情をもたらすことはない。また利益や損害とまったく関係がないことはいうまでもない。貴くなったという訳でもなく、他者を賤しめるなどはもってのほかである。貴いかどうかなどというのは世界が決めることだ。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴を塞ぎ、その門を閉ざし、その鋭どきを挫き、その紛を解き、その光を和らげ、その塵に同ず。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。

知者不言、言者不知。塞其穴、閉其門。和其光、同其塵*2、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

*2この句と次句の順序は帛書本章によった。諸本は逆。

解説
 有名な「和光同塵」という言葉は、普通は、知の光を和らげ、世の中の人に同化するなどと解釈されている。仏教の世界では、強靱な仏法の光を和らげ、塵のような世界にも広げていくなどともいわれる。「知者不言、言者不知」というのも、知っていてもいわない、あまり言うのはおかしい。寡黙であることが品格を示すなどの趣旨で解釈される。これを東洋の美徳だとか、日本の雰囲気だとかいうのである。しかし、この二つの解釈は両方ともおかしい。後者の「知る者は言わず云々」というのは、真理を確知したと思っても、そこには表現できない部分、言語化できないところがあるということだろう。「言う者は知らず」というのは言語にした途端に真理の一部分が溶けてしまうという感覚であろう。『老子』は、認識というものはそういうものだと、いわゆる認識論を語っているのである。そして、そういう時は目を閉じて感覚と情報を遮断して、「和光同塵」の瞑想に入れというのである。この有名な章句の第一句と第二句の間には、「そういう時には」という言葉が入るのであって、「和光」の光というのは、すでに受け入れた光*1ということになる。ようするに、瞑想に入って知識と情報、雰囲気、鋭さ、混乱などを内面的に扱って、対象世界と自分の内面の玄同(奥深い合一、融即)を確保せよといっているのである。こう考えれば『老子』のいうことは実に明瞭であって、いわば人生の永遠の真理である。
 だいたい、紀元前六~四世紀にインド・ギリシャをふくめて、ユーラシア大陸全体で起きた哲学は、結局、こういう瞑想と人間の内面の発見に結果したのである。私は、その中でも『老子』の思想はもっとも玄妙なものであると思う。

« 『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる | トップページ | 『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。 »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 『老子』20 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる | トップページ | 『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。 »