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2015年10月16日 (金)

沖縄の翁長知事の決断をどう考えるか。これは国民一人一人の問題である。

 沖縄の翁長知事の決断をどう考えるか。これは国民一人一人の問題である。

 私は、いま憲法で一番大事な条文は第14条の法の下の平等であると思う。

 つまり「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない」という上聞である。「社会的身分」という言葉は英語ではsocial statusであって、ここにはどの地域に居住しているかを入れて考えることができるというのが、災害法に関係して調べてみた法学の見解である。

 沖縄に居住することによって、あるいは拡張された岩国基地周辺に居住することによっ不利益をこうむり、さらにそれだけでなく、その不利益恢復処置を国家がとらないというのは、法の下の平等に反している。社会権的側面が当然のこととして強化されている現代民主主義法において、法の下の平等の理念の意味するものは大きい。憲法についての様々な意見はあるだろうが、「平等」「差別されない」というのは基本の基本だろう。沖縄と現状の福島における不利益は、国家として全力をあげて差別処置をとらない。「法の下の平等」をつらぬくというのが義務的な問題である。
  
 これは国民一人一人の問題であると思う。しかし、それと同時に憲法によって活動しているすべての政治家・政党にとわるべきものである。これは政党として逃げられる問題ではない。自民党は、すでに沖縄の人びとの世論を無視することにきめているが、現在、もっとも大きな問題は民主党である。民主党にとっては重たい問題であろう。つまり、民主党は沖縄問題がどれだけ深刻な問題であり、第二次大戦後の日本の体制の基本問題であるという、通常の認識さえなかったことを鳩山首相の行動によって示してしまったからである。

 しかし、そろそろいいのではないか。ぜひ民主党に沖縄県民の立場に明瞭にたつという宣言をしてほしいと思う。沖縄の衆議院議員に民主党の選出者がいないというのはきついことであろうが、それはやむをえない。沖縄県知事の決定をどう受け止めるか。そろそろいいのではないか。これは日本の国政にとって逃げられない問題で早ければ早いほどいい。
 
 もう一つはジャーナリズムである。ここで新聞がキャンペーンをはらなくてどうするのか。新聞がキャンペーンを張るかどうかが、実は決定的な意味をもっている。問題は、実に明瞭であって、ただの評論をしていることは許されない。

 少なくとも私のような歴史家は実践家でも政治家でもない。すでに60台半ばをすぎ、政治で時間を使うのは一時的なもので、効果のあるのは基本的には、投票や若干の資金提供、カンパだけである。
 
 『ソクラテスの弁明』に「ほんとうに正義のために戦おうとするものは、そして少しのあいだ、身を全うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのでして、公人として行動することはできないのです」とある。ともかく現代日本は政治的な行動をすることが命にかかわるという、ソクラテスの時代のギリシャではなく、第二次世界大戦中の状況でもなく、中近東の状況でもない・。ここでは全力をあげて行動するということは一つの選択枝である。しかし、それでもおのもおのもの持ち分の仕事と生活にもどって、その私的立場から社会の基礎をスライドさせていくためには「私人としてあることが必要である」というのは、ギリシャの時代からかわらない。

 私ができるのは、自分の「私的な」仕事に立ち戻って、歴史学者としての見解を鍛えることしかできない。ともかく沖縄問題は歴史学にとって思想的にも、方法的にも、根本的な問題なのである。おのおのの私的な立場からの意見が公共を形成するということがもっとも必要なのだと思う。

 直接に公共にかかわることで生きている政治家とジャーナリストは、たいへんな仕事だとは思うが、ここでがんばってほしい。


 以下は、今年3月の『世界』の沖縄特集号(岩波書店)に載せた「辺野古の報道しない"異様な"日本のマスコミーー歴史家の視点」という文章。まだジャーナリズムに対して、まだ有効な部分があると考えている。さらに明瞭なキャンペーンを求める。ジャーナリストが政治家の決定と明瞭な方向性を求め、政治の方向をかたるのは当然のことだ。今年3月まで異様であったのは確実で、いまでも常識的な世界標準の学術的ジャーナリズム論からいえば異様な所の方が多いのは事実だ。

辺野古の報道しない"異様な"日本のマスコミーー歴史家の視点
保立道久
 琉球新報によると、翁長知事は、一月二六日、県庁に海上保安本部と県警の責任者を呼び、辺野古で市民に負傷者がでていることについて「県民三六万人の思いが込められた抗議行動だ。大変憂慮している」と抗議したという。
 驚いたのは、これが、私のとっている新聞(東京新聞)にのっていなかったことだ。(【追記】東京新聞は、この後、ある舵を切ったと思うが)。そもそもマスコミは辺野古の巨大基地建設とそれにかかわる状況をほとんど具体的に報道しない。これは”異様”なことである。たしかに、一月から二月にかけては、ISISによる湯川遥菜氏、後藤健二氏の殺害などの「騒然とした状況」があった。そのなかでデスクの判断がゆれたということはありえるかもしれない。
 しかし実は、一月二二日の東京新聞には「緊迫する辺野古、ジャーナリズムの使命忘れた在京紙、現地メディアと温度差」という特集があった。そして、そのデスクメモには「本土復帰から四三年を経ても、沖縄のいたみは残されたまま、本土は自らのいたみとしない。むしろ両者の溝は深まっている」とある。デスクは事態の静的な認識はしているのである。
 「分かっちゃいるけどやめられない」のは何故か。読者とすれば、いまでは情報はネットワークで入手できるが、多忙な日本社会はそれを許さない。マスコミは、その隙間で、慌ただしさと、騒然とした雰囲気を「飯の種」にして生きている。その仕事は「多忙社会」の「騒然社会」化への貢献である。別の言い方をすれば、ジャーナリストは「見ることの快楽、情報の快楽」を商品にしているのである。それが一種の暴力であることを自覚しないのは無神経きわまるとしかいいようがない。
 他人の職業を批判する以上、自分の職業のことも考える。私は歴史家なので、沖縄の基地問題が重大で公共的な情報として伝えられず、しかも社会がそれを「異様」と感じないことの歴史的な意味を考える。
 つまり、一九六三年に比嘉春潮などが刊行した『沖縄』(岩波新書)は、私も大学時代に読んだ古典であるが、その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「沖縄についての常識はゼロに近い」という「本土」の「異常な」無関心を伝えるところからはじまっている。そして「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。
 これを読むと、この五〇年間、事態は変わっていないという感に打たれるが、もちろん実際には、現在の沖縄の状況をふくめ、さまざまな分野で事態は変化しているのであろうと思う。
 多少なりとも私にわかるのは歴史学の状況のみであるが、たとえば、比嘉は、右に続けて、差別意識の根拠が「琉球という一種の異民族、異質の文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」にあるとしている。しかし、近年の沖縄史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈と貝・硫黄などの特産品をもち、僻地であるどころか、東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明らかにしてきた。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、二〇〇三年)が全体の展望をあたえているように、農業生産の発展のみをモノサシとする発想も克服され、室町時代には琉球王国は、むしろ南九州の武士たちを臣従させるような繁栄をみせたという。
 特に重要なのは、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方が乗り越えられたことである。悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という固定的定義はただの空語である。「民族」とは、比嘉の言い方では「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。この公共圏=「民族」の実態はなかばアドホックで多義的なものである。田中克彦がいうように言語の近接性は民族の必然条件ではないし(『言語からみた民族と国家』)、歴史文化を民族の集団的人格であるかのようにとらえることもできない。この公共圏が民主主義的なものであることは希望ではあるが、その現実は、極度に多様であって、社会の多様・多重性に相同である。
 複雑な問題を、これ以上、短文で述べることはしないが、沖縄への「無関心」という形で現れている公共圏の破綻は、比嘉のいうように「民族」の問題であろう。現在の問題は、その破綻が日本社会の公共性の低下、マスコミ・行政・政治などの職能倫理の低下を条件としていることにある。それは、公共性を剥奪する仕組みをもった、日本の資本主義に独特な”だらしなさ”にかかわるものであると思う。しかし、いつまでそれでやっていけるものか。次の希望をもちたいものである。

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