『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。
『老子』56章。「和光同塵」の章。再度。この文章をみてくれた友人の奥様から20年ぶりに連絡があり、息子さんが『老子』をすきだということで、興味をもったということだった。そこでもう一度、考え直した。
56 光を和らげ、塵のような経験を肯う(うべなう)(人生訓1)
真理を知ったものが、それをすべて言葉にできるわけではない。また言葉にしてしまうと、それは真実ではなくなってしまうものだ。人は(まず)外界を感受する器官の穴をふさぎ、その門を閉じ(て瞑想しなければ)ならない。そして、(受け入れた)光を和らげ、塵(のように細かな経験)にまで内在し、鋭すぎるものは挫いて、こんがらがったものを解くことだ。これを玄同(奥深い合一)という。(そのように内面的なものである以上、真理の玄妙な力を)得たからといって、それで親しさがますわけでも、よそよそしくなる訳でもない。(もちろん)それは利益や損害とまったく関係がない。また自分が貴くなったと感じたり、他者を賤しめるなどということとも無縁である。貴いかどうかなどというのは世界が決めることだ。
知る者は言わず、言う者は知らず。その穴を塞ぎ、その門を閉ざし、その光を和らげ、その塵に同じ、その鋭どきを挫き、その紛を解く。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。
知者不言、言者不知。塞其穴、閉其門、和其光、同其塵*1、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。
*1この句と次句の順序は帛書本章によった。諸本は逆。
解説
この章は『老子』のなかでも、もっとも有名な章である。まず冒頭の「知者不言、言者不知」という一節は、真理を確知したと感じても必ずしも言語化できる訳ではなく、逆に言語化した途端に認識した真理が形を失って溶けてしまうという問題を告げている。『老子』は、認識論における確知と言語表現の関係を論じているのである。これを「本当に真理を理解している人はものを言わず、おしゃべりする人は実は何もわかっていない」などと解釈するのは、やや表面的な解釈で、『老子』の哲理ともいうべきものの中枢を捉えそこなっている。また、この部分を解説して、東アジアや日本の文化の特色は沈黙を美徳とすることにあるなどというのは、耳に通りはよいかも知れないが、『老子』のいっているのが、その程度のことならば、何も、わざわざ難しい漢文を読む必要はないように思う。
『老子』は、この確知と言語の隘路を「塞其穴、閉其門」によって通り抜けろ、つまり目をつぶり、感覚器官を閉じて自分の内面に入り込めといっているのである。『老子』は真理を確認するためには、それが自然に関する真理であっても、社会や歴史に関わるものであっても、一度は瞑想が必要だというのであり、有名な「和光同塵」という言葉は、そこに関わっている。つまり、瞑想のなかでみえる光というのは、すでに内面に受け入れられ、蓄積された光*1であろう。そして「塵」というのも過去の生活の中で蓄積された経験であり、塵労であろうか。『老子』はそれをいわば追体験しろといっているのである。「和光同塵」という言葉は、普通、「知の光を和らげ、世俗に同化する」「英知の光を和らげて、光を塵すものに同和する」などと解釈されるが、それは非知性主義を押しつける解釈で『老子』の本意ではないだろう。
こう考えれば『老子』のいうことは実に明瞭であって、いわば人生を内省する際の永遠の哲理である。なお、だいたい、紀元前六~四世紀にインド・ギリシャをふくめて、ユーラシア大陸全体で起きた哲学は、結局、こういう瞑想と人間の内面の発見に結果したのである。私は、その中でも『老子』の思想はもっとも玄妙なものであると思う。
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