老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43
東アジアと共通の言葉をもつための要点はフェミニズムを語る同じ言葉をもつことだと思う。母系制、母系神話をどう考えるかはボーボワール『第二の性』の厳しい指摘があって問題をはらむが、しかし、老子のフェミニズムは認めてもよいのではないか。
43 柔らかなエーテルが世界の構造を駆動する
天下の至柔は、天下の至堅を馳騁し、有る無きの間無きに入る。吾れ是を以て、無為の益有るを知る。不言の教、無為の益は、天下の之に及ぶこと希なり。
天下之至柔、馳騁天下之至堅、無有入於*1無間。吾是以知無爲之有益。不言之敎、無爲之益、天下希及之。
世界で最も柔らかく弱いものが世界でもっとも強固な構造を駆動している。それは柔らかく形のないものがすべての隙間を埋めて広がっていくからである。その動きは静謐で無為なものにみえるが、我々は、それが着々と変化を益していくことを知っている。それは言葉を必要としない教えが、無為にみえながら広がっていき、天下でこれに敵うものがないのと同じことだ。
解説
「天下の至柔」とは天下でもっとも柔弱なものということである。七八章には「天下に水より柔弱なるは莫し」とあるから、水のイメージが基礎にあることがわかるが、しかし、本章は水自体のことを述べているというよりも、より抽象的なものについて述べているとした方がよい(長谷川、池田)。そこで、ここでは前項にならってエーテルという言葉をあててみた。同じように「天下の至堅を馳騁し」という場合の「至堅」とは石や金属のイメージがあって、水が石などを崩していくということであろうが、しかし、硬いものというのはより抽象的な意味を含んでいるはずである。そうでなければ「天下の至堅を馳騁し」とはいわないだろう。馳騁とは馬を疾駆させることであるが、ここでは自由に統御するというようなことだから、硬いものとは社会のシステムなども含むはずである。
こういう社会のシステムにも浸透して、実際上、それを馳騁して自在に扱うような柔弱なものとは何か。これについては三六章に「柔弱は剛強に勝(まさ)る」という一節があることにふれて述べたように、一種の女性原理であろうと思われる。これは『老子』でもっとも興味深いことの一つである。実際、『論語』や『孟子』などには父母・男女・夫婦・夫人などの家父長優先的な言葉があらわれるのに対して、『老子』にはそれらの言葉がまったくあらわれず、むしろ「母」という言葉の登場頻度がたかい。『老子』は母系を尊重する傾向が強いことは否定できない。ようするに、『老子』のいう「柔弱」とは女性的なもの、あるいは女性的なものを尊重する原理をベースにしているのである。
『老子』のいう「至柔」・「柔弱」は一方の自然の側面では「水」、他方の社会の側面では「女」のイメージをもとに作られているために、どちらともいえない抽象的なものとなったものと考えてよいように思う。
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