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2015年10月 1日 (木)

『老子』14章 歴史の始源を理解する

『老子』14章 歴史の始源を理解する
 目をこらしても見えない(「微」)、耳をすましても聞こえない(「希」)、循でさすっても感じない(「夷」)ような関係が、この世界にはある。つまり人間の直接の感覚では明らかに詰めることができないものが混沌として一体になっている。その一体となったあり方は、上が遠いとか、下が近いとかいうものではなく、時空を貫通している。それは絡み合った縄が透明な網のように偏在していき、名付けることができないまま、もとの無主の世界に戻っていく。その運動は形状もなく、物としての現象もない。だから意識の抽象力、一種のトランス=恍惚の中でしか認識できない。それは後ろから追いかけても尻をみることはできないし、前から出迎えても首を見ることはできないのである。しかし、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御すれば、その中で、はじめてこの理法=道が発した歴史の始源も理解することができる。これが道を理解する要点(道紀)である。

之を視れども見えず、名づけて微と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。之を循れども得ず、名づけて夷と曰う。三者は、致詰すべからず、故に混じて一と為す。一なるものは、其の上は悠からず、其の下は忽からず、縄縄として名づくべからずして、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是れを惚恍と謂う。之に随いて其の後を見ず、之を迎えて其の首を見ず。今の道を執りて、以て今の有を御さば、もって古への始めも知らん。是れを道紀と謂う。


視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希*1。循*2之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠*3、其下不忽。縄縄不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今*4之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。

*1「希」の原義は透かし織りの布。まれ、少ないの意になる。少ない望みを希望という。
*2帛書は捪。「循」(したがう、めぐる、なづる)はその同義(『列子』など)。
*3帛書には「攸」。
*4「今」とあるのは帛書。従来の諸本は逆に「古」であった。


解説
 この章は現代的な自然科学、社会科学の考え方からいっても、きわめて分かりやすいものである。つまり、自然の世界の理法・自然法則や、社会や歴史を貫いている理法というものは、直接の五感では捉えることはできないもので、そのままではカオスにしかみえない。それ故に、その認識のためには一種の抽象力あるいは超越というものが必要となる。自然法則の認識のためには五感を超越した数式が必要になり、商品のような単純な社会的物品を認識するためにも抽象力が必要になるのである。自然を認識するためには実験だけでなく、その中での直感的発想が必要になり、商品を五感で認識できる金に置き換えるだけで満足するのでなければ、そもそも商品とは何かということを考えざるをえないのである。『老子』は、そういうことを極めて直感的にいっているのである。『老子』の時代には具体的な個別科学は存在しないから、言い方が神秘的な表現になるのはやむをえない。そもそも科学認識というのは対象と主観の融即のようなものを常に含むから、直感的で神秘的な要素が自然に生まれるものでもある。
 さらに帛書の発見によって『老子』の歴史認識がきわめて現代的なものであった可能性がでてきた。つまり、歴史というものは、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御するという実践的立場によって遡及的に(retroactive)に認識できるものだ(参照三木清『歴史哲学』)と考えていた可能性がでてきたのである。

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